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第 9 話

Author: 成功必至
キューブ。

静ヶ原で有名なプライベートクラブだ。富裕層たちの楽園であり、そこにいる男性を適当に捕まえれば、静ヶ原で名の知れた人物であることは間違いない。

澪にとって、ここを訪れるのは初めてだった。彼女の質素な装いは、このきらびやかな空間にはあまりにそぐわず、まるで場違いな存在のように見えた。

個室には多くの人が集まり、その中には凛の姿もあった。

彼女はのんきに両手を頭の後ろに組んで座っていて、ここにいる男性の中でもかなりだらしない姿勢だった。

「兄さん、私を呼んだのは、小池社長に問い詰められるため?」

凛は軽く笑みを浮かべながら、京司と、その隣に座る沙夏をちらりと見た。

京司は無表情のまま、ソファにもたれ、足を組んでいる。暗いライトが彼の胸元だけをぼんやりと照らし、顔は影に包まれていた。そのため、彼の表情は読めず、ただただ得体の知れない存在感を放っていた。

宮司玲央(みやじれお)は眉をひそめて低い声で言った。「橘さんに謝ってくれれば、この件はそれで終わりにできるだろう」

しかし、凛は冷笑を浮かべた。「彼女はどんな立場なの?なぜ私が彼女に謝らなければならないの?」

「凛、いい加減にしろ!」

誰もが知っている。橘沙夏は小池京司にとって特別な存在だ。そんな彼女を侮辱するなんて、凛はまさに命知らずだ。まるで虎の尾を踏むようなものだった。

「正気だよ。ただ彼女が気に入らなかったから、少し叩いただけ。それにさ、兄さん。泥棒猫を追い出すときに、猫に謝る人なんている?」

凛の無遠慮な言葉が室内に響いた瞬間、沙夏の顔が青ざめた。彼女は勢いよく立ち上がろうとしたが、足の痛みのせいで再び座り込んでしまった。

「ふざけないで!私が京司と一緒だった時、京司とあの女はまだ結婚してなかったんだから!」

凛は沙夏を横目で見てから、急に背筋を伸ばし、口元に冷笑を浮かべた。「それなら、あの二人は十数年も一緒に生活してるけど、あなたはその間どこにいたの?」

「そんなの同じだって言えるわけないじゃない!彼女はただの孤児よ、小池家がかわいそうに思って拾って……」

「ガシャン——」

沙夏の言葉が終わらないうちに、京司の手から酒杯がテーブルに叩きつけられた。力の入れ方があまりに強すぎて、ガラスの酒杯は粉々に割れ、中に入っていた酒がテーブルに広がり、さらに周囲へと流れ出した。

京司は体を前に傾け、ライトの下にその冷たい表情が浮かび上がった。その顔はどす黒い怒りに満ちていて、彼はゆっくりと凛に視線を向けた。「謝れ」

凛は眉をひそめ、涼しげに言葉を吐き出した。「嫌だ」

隼人は気まずそうに間に入るような口調で言った。「京司さん、そんなに怒らなくてもいいだろ?みんな、こんなに長い間付き合ってきた友達じゃないか」

「たかが女のことで」と続けるのは怖くて言えなかった。

京司が一瞥を向けると、隼人は気まずそうに口を閉じ、自分の隅へと引っ込んだ。

玲央は眉を寄せて深いため息をつき、言葉を選びながら言った。「俺が代わりに謝るよ。凛の性格はお前だって知ってるだろう?凛に謝らせるなんて、凛を殺すよりも難しいんだ」

京司は無言のまま、テーブルから数枚のティッシュを取り出して後ろに体をもたせかけ、再び影の中へと戻った。ゆっくりと手を拭きながら、漫然とした口調で言い放った。「代わりに謝る?いいだろう。その代わり、テーブルの酒、全部飲み干せ」

玲央は一瞬驚いた。テーブルの上の酒はすべて洋酒で、その数は少なくとも20本以上あった。

沙夏は横で一言も口を挟めなかった。ただ凛を恥をかかせたかっただけなのに、京司が玲央に対して追及をやめない姿を見て、彼が本当に自分のために怒っているのか、それともただ自分の感情をぶつけているだけなのか、疑問を抱かざるを得なかった。

玲央は短い沈黙の後、軽くうなずき、「分かった」とだけ答えた。

その瞬間、凛が勢いよく立ち上がった。「兄さん、正気なの?こんな女に謝る必要がある?彼女にそれだけの価値があるっていうの?」

「黙れ!」玲央は彼女を睨みつけ、目で「これ以上余計なことを言うな」と警告した。その後、テーブルの上にあった酒瓶を一つ手に取った。

しかし凛は素早く動き、彼の手から酒瓶を奪い取ると、勢いよく床に叩きつけた。ガラスの割れる鋭い音が耳を刺し、室内に響き渡った。

「飲まないで!この女を叩いたのは私!兄さんには関係ないでしょ?やれるもんなら私に直接挑んでみなさい!京司、その実力とやらを見せてもらおうじゃないの!今日、本気でやるつもりなら殺してみろ!」

彼女の叫びが終わるや否や、個室のドアが勢いよく開き、外から数人の屈強なボディーガードたちが乱入した。彼らは瞬く間に室内を埋め尽くし、空間を完全に封鎖した。

玲央の顔色が一変した。彼が何かを言おうとした瞬間、凛がその手首を掴んで引き留めた。

凛は京司を鋭い目つきで睨みつけ、嘲るように言った。「いいよ、小池社長。さすがだね。自分の妻は放っておいて、こんな女を宝物みたいに大事にするなんて。そんなあんたを、私は心底見下してるよ」

京司は彼女の言葉に何の反応も見せず、ただ静かに、冷淡な視線を彼女に向け続けていた。

「京司、お前……正気か?」玲央は何か言おうとしたが、何を言えばいいのか分からず、ただ口ごもった。

どうやら、京司は本気で沙夏を愛しているらしい。彼女のためなら、これまでの友情すら顧みないつもりなのだろう。

もう、彼は狂っているのかもしれない。

凛も、彼が本気であることを悟った。彼女は自分の兄の困った表情を見つめ、兄が京司と対立したくないこと、そして自分に辛い思いをさせたくないことを理解していた。しかし最終的に、苦しみを引き受けるのは兄自身なのだろう。

それに、目の前のこの訓練されたボディーガードたちには、到底かなうはずがない。

凛は指先を軽くつまみ、深く息を吸い込むと、腰をかがめてテーブルの上の酒瓶を掴んだ。

「分かったわ、謝ればいいんでしょ。小池社長が手を出す必要なんてないわよ。私はあの女を一発叩いた。じゃあ、今度は倍返しして、橘さんの気分を晴らさせてもらうわ」

その言葉が終わると同時に、凛は酒瓶をしっかりと握りしめ、自分の頭へと振り下ろした。
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