LOGIN非常用ボートは、ほぼ定員に達していた。
中にいる機関長が、切迫した声で叫んだ。
「ロープを外さないと! 船が倒れてきたら、こちらも巻き込まれます!」
船は右に20度以上傾いていた。甲板を流れる雨水が足首を覆っていく。
白石澪は手すりにつかまり、鷹宮怜司を見下ろした。
彼は一ノ瀬莉香を抱き寄せ、ボートの真ん中に座っていた。さっきまで濡れた乗客をなだめていた乗組員さえ、澪から目をそらした。
「残った場所に、私が乗ることはできませんか?」
澪は尋ねた。
機関長が、けがをした腕を上げて見せた。
「最後の一人は、操縦資格のある者でないと。私も、この腕では難しいんです」
怜司が口を挟んだ。
「ぐずぐずしていたら船の下敷きになる。操縦できる人を先に乗せてくれ」
澪はボートの中を見渡した。最後の一人分は操縦者のために必要だ。その人がいなければ、乗っている全員が漂流しかねない。
甲板に残った若い甲板員が、腰に救命索を巻きながら言った。
「僕が残ります。機関長が操縦して、常務が乗ってください」
澪は首を振った。
「けがをした腕で、この波の中を操縦するのは無理です。あなたが乗って」
「でも、常務は……」
「エンジンが止まったら、あの人たち全員が漂流します」
甲板員は歯を食いしばり、最後の空いた場所へ下りた。
ボートから下りても運航に支障がないのは、怜司だけだった。澪の目に、船首側に巻かれた救助ロープと救命浮環が入った。沈む船から安全な距離を取ってロープを投げれば、定員を超えずに自分を引いていける。
「先に船から離れて。速度を落としてロープを投げてくれれば、私がつかむ」
乗組員が動こうとすると、怜司がまた止めた。
「船が倒れてくるんだぞ。エンジンは止められない。だめだ」
怜司は、ほかの救助方法をことごとく危険だと言って退けた。それでも、自分が席を譲ろうとはしなかった。
「私が泳げるから、大丈夫だと言うなら」
澪は一度、息を整えた。
脇腹の痛みが、声にまで食い込んでくる。
「だったら、あなたが残って」
怜司の顔から表情が消えた。
「は?」
「莉香さんは救命胴衣を着てる。救助訓練を受けた乗組員もいる。あなたが残れば、私が乗れる」
「俺は事故の対応をしなきゃいけない」
「どこで?」
澪はボートの底に視線を落とした。
「そのボートの中で?」
「俺は鷹宮海運の社長だ」
「だったら、なおさら残るべきじゃないの?」
怜司は船尾と澪を交互に見た。それでも腰を上げなかった。両足はボートの底に張りついたまま、莉香を抱く腕にだけ力がこもった。
会社のことも、莉香のパニックも、結局は同じ結論に行き着く。自分はこのボートから下りない。
莉香が彼の袖を引いた。
「怜司、もっと傾いてきた」
ボートの中で子どもが泣きだした。機関長がナイフを持ち、船とボートをつなぐ前のロープを切った。後ろの一本だけになると、ボートは波に押されて大きく揺れた。
澪は最後に甲板を見回した。
残っているのは、自分だけだった。
大野船長は、ほかの負傷者とともにすでにボートの底に横たわっていた。乗客は生き延びようと互いにつかまっている。今、このボートから下りられる人などいない。それは澪にもわかっていた。
けれど、怜司は違う。
彼には選べた。
そして、もう選んでいた。
「後ろのロープ、外します!」
乗組員が叫んだ。
澪は濡れた手すりを越え、船尾のステップへ下りた。船がもう一度かしぎ、足場が水面に沈んだ。ボートとの間が、1メートル近く開く。
「常務、飛んで!」
誰かが手を差し出した。
澪は歯を食いしばり、身を投げた。
指先が、ボート側面のロープをかすめた。波が体を下へ引きずる。どうにか右手でゴムの縁をつかんだが、傷ついた脇腹が裂けそうに引っ張られた。
「つかまえて!」
乗組員が前へ出ようとすると、ボートが傾いた。人々が悲鳴を上げた。
怜司が身をかがめた。
澪は、その手が自分を助けようと伸びてきたのだと思った。
けれど怜司が見ていたのは、彼女の顔ではなかった。
ボートの縁を握りしめた、その指だった。
事故から1年後。白石澪は、セーフオーシャンの代表取締役社長に就任した。就任式は、セーフオーシャンが主導したアジア海難救助協力組織の発足式と同時に行われた。澪が求めていたのは新しい肩書よりも、複数の企業が共に守る引き返しの基準だった。その間に鷹宮怜司は、殺人未遂、安全資料の改ざん、金融機関への虚偽資料提出などで、一審で8年の実刑判決を受け、法廷で身柄を拘束された。一ノ瀬莉香も、事故直後に撮影映像の削除を指示し、虚偽資料を配布した罪で有罪判決を受けた。二人は最後まで、より重い責任を相手に押しつけ合った。澪は法務を通して判決文を受け取ったが、関連記事を探しはしなかった。法廷で自分が見たこと、されたことを話したあとは、捜査機関と裁判所に任せた。彼らの刑の重さに、自分がどれほど回復したかを決めさせたくなかった。鷹宮海運は債権団の共同管理のもと、不採算航路を整理し、鷹宮一族は経営権を失った。セーフオーシャンには、債権の回収以上の変化が残った。この1年で、澪はすべての救助船の非常装備の配置を見直した。船長には、社長の指示を拒否して独立して引き返せる権限を与えた。危険を知らせる報告が削除、または軽く書き換えられれば、役員の承認を通さず監査委員会へ転送される仕組みも導入した。マリーナで崩れた手順を、一つずつ立て直した結果だった。就任式が開かれた神戸海洋コンベンションセンターの背後には、港が広がっていた。壇の下には、事故で救助された乗客、ボートから手を伸ばした乗組員、原本の報告書を持ってきた宮田航平が座っていた。澪は鷹宮海運の名を出さなかった。「安全とは、事故がなかったという結果ではありません。誰かが危険を口にしたとき、止められる権限です。そして、一番最後に脱出する人まで確認する手順です」拍手が続いた。そのとき、黒瀬隼人の携帯が短く鳴った。メッセージを見ると、すぐ壇の脇へ近づいてきた。「社長、緊急事態です」東シナ海を航行中の大型貨物船で、機関室の爆発が起きていた。火災が広がり、船員18人のうち5人の位置が確認できない。最も近くにいる救助船は、セーフオーシャンの『ガーディアン3号』だった。役員が言った。「就任記者懇談会は、こちらで進めます。社長はお残りになっても」澪は椅子にかけていたジャケットを取った。「人が、海にいるんです」「現場には黒瀬本部長と
事故から、7か月がたった日だった。白石澪は、海上保安庁による現場検証を終え、洲本港の桟橋を出ようとしたところで、鷹宮怜司を見つけた。彼は立入規制線の外にいた。最初の身柄拘束の請求は退けられたが、追加の証拠が見つかったあと、殺人未遂や安全資料の改ざん、金融機関への虚偽資料提出などで、在宅のまま起訴されていた。社長の地位と経営権を失って数か月。スーツはだぶつき、顎には無精ひげが伸びていた。送られてくる謝罪文は、そのたびに違った。「やむを得ない判断」「莉香のパニック」「会社のための選択」。文章が変わるたび、責任を取るべき相手も変わった。澪は一度も返信しなかった。検証用のブイは、澪が落ちた場所を示していた。夜ごと巨大に迫ってきたあの場所は、昼に見ると、ただの水面だった。人が一人消えても、何の痕跡もなく元に戻る海。怜司は、そのブイを背に待っていた。澪が先に見たのは、彼の惨めな表情ではなく、捜査官が張った規制線の前で止まった足だった。黒瀬隼人が、澪の前に出た。「車を呼びます」「少しだけでいいです」澪が足を止めると、怜司が近づいてきた。最初は何を言うつもりだったか忘れたように、唇だけを動かしていた。「澪」「弁護士を通して連絡して、と言ったはずだけど」「今日を逃したら、もう会えない気がして」彼は周りを見た。記者も、家族もいない。澪が自分だけを見ているのを確かめると、突然ひざまずいた。「あの日は、どうかしてた」澪は表情を変えずに見下ろした。「あんなに危険な状態だとは思わなかった。救助隊はすぐ来ると思ったし、おまえなら持ちこたえられると信じてた」「だから、私の指を外した?」「ボートが揺れたんだ。莉香は叫ぶし、みんな早く行けと言うし……俺だって、まともじゃなかった」「そのあとの記者会見は?」怜司がうつむいた。「怖かった。会社も、おまえも失うのが」「私はもう、海に置いてきたでしょう」彼の肩が震えた。「一度だけ、やり直す機会をくれ。望むことは何でもする。鷹宮海運の株も手放すし、公の場で謝る。一生かけて償うから」「今、あなたにどれだけ株が残ってるの?」怜司は口を閉じた。謝罪文の最後には、いつも示談の申し入れがついていた。今も、自分には差し出せないものを差し出して、取引をしようとしている。「許したら、示談書に署名してほしい。そういう話ね?」
鷹宮海運は、結局、船を3隻売り、二つの航路を整理した。人員削減の名簿には、事故に何の関係もない社員の名前まであった。白石澪は、債権者として協議できる範囲で、船員の賃金と退職金の支払いを優先条件に入れた。債権団の合意で、差し押さえた船の売却代金の一部を別口座に分け、運航要員の3か月分の賃金を確保した。協力会社の少額債権も、優先して精算することになった。回収額は多少減るかもしれなかったが、澪は決裁を変えなかった。「復讐のために50億円を回収したと言われています」藤沢が慎重に言った。「その一方で、回収率を下げてまで社員を守れば、株主から問題にされるかもしれません」「契約違反の責任は、決定権のあった人に問うべきです。何も決められなかった人から先に切り捨てたら、鷹宮海運と同じになります」澪は今回の事故を機に、海洋安全に関する公益通報者の支援基金も設けた。宮田航平のような実務担当者が、危険を報告したあとに解雇や訴訟を恐れずに済むよう、法律費用と生活費を支援する仕組みだった。「事故を防いだ報告書は、利益を生まないという理由で、いつも過小評価されます」最初の運営会議で、澪は言った。「これからは、止めるべきだと言った人に、その判断の費用を一人で背負わせません」怜司の転落よりも、同じ事故を防ぐ仕組みを残すほうを、澪は選んだ。「なぜ、ここまで気を配るんですか?」藤沢直樹が尋ねた。「鷹宮海運が憎くても、社員たちが私を捨てたわけではありませんから」社長の座を追われた怜司は、それでも最後まで、責任を分け合う相手を探した。報道機関に、声明を出した。【事故当時、一ノ瀬莉香氏の極度のパニックと再三の催促が判断に影響した。安全報告書の修正は実務担当者による通常の文書整理であり、代表が危険の隠蔽を命じた事実はない】莉香は、すぐに反撃した。澪が生きて戻らなかった場合を想定し、報道対応案を作れと怜司が命じたメッセージ。虚偽の説明を続ければ広告契約を保証すると約束した録音。それらを公開した。「私一人だけ、破滅するなんてごめんよ」取材陣の前で、莉香は言った。鷹宮海運の元技術管理室長は、怜司の指示を伝えただけだと主張した。怜司は、現場が文言を削りすぎたのだと反論した。征一郎会長は、すべての責任を息子と実務担当者に押しつけた。役員たちは、最終決定者は自分ではなく相手だと
映像公開から6週間で、鷹宮海運の売上見通しは半分近くに落ち込んだ。大口荷主4社が新規契約を見送り、既存契約2件は安全管理義務違反を理由に解除された。保険会社はマリーナの保険金支払いを止め、虚偽資料提出に関する求償を検討していた。担保となっていたタカミヤ・フロンティアは、ついに裁判所の管理下で売却手続きに入った。メインバンクは、ほかの船2隻についても追加担保を求めた。鷹宮海運の取締役会は、日曜の朝に緊急招集された。本社1階では、船員の家族と協力会社の社員が、未払いを心配しながら待っていた。船に燃料を供給していた業者は現金払いを求め、港の荷役会社は、未収金が片づくまで作業量を減らすと通告した。会社の危機は数字で始まった。だが真っ先に不安にさらされたのは、意思決定に関わったことのない現場の人たちだった。会議が始まる前、債権団から三つの条件が届いた。怜司の即時解任。征一郎会長の経営一線からの退任。創業家の持ち株を担保とする新規資金の投入。一つでも拒めば、共同管理の交渉を打ち切るという内容だった。征一郎は息子に、自ら辞任するよう求めた。「おまえが出ていかなければ、会社は救えない」「父さんだって、映像が出るまでは、俺に何とかしろと言っていたじゃないですか」「そのときは、ここまで壊していたとは知らなかった」怜司は笑った。父は息子の判断を一度も止めなかった。それなのに今は、すべてを怜司一人の逸脱として片づけようとしていた。裁判所は、住居が定まっており、主要な証拠もすでに確保されているとして、最初の身柄拘束の請求を退けていた。怜司はその決定のあとも、社長の席に座った。会議室の外には、記者が詰めかけていた。「私が退けば、会社はさらに揺らぎます」取締役たちを見回して言った。「今必要なのは責任者の交代ではなく、債権団との交渉です。セーフオーシャンとは、私が直接話をつけられます」社外取締役の一人が尋ねた。「白石常務は、あなたからの電話に出たことがあるんですか?」怜司の顔がこわばった。「個人的な感情が落ち着けば、話し合いに応じるでしょう」「その個人的な感情の理由が、全国に公開されたんです」別の取締役が、書類を置いた。「社長は出航禁止の報告を軽く書き換え、金融機関に虚偽の資料を出しました。事故のあとは、被害者に責任を押しつけました。そのすべてが、会社の
一ノ瀬莉香は、取調室に入るなり泣きだした。莉香は怜司にとって、大学時代の初恋の相手だった。別れて長く連絡を絶っていたが、鷹宮海運のクルーズ事業の広報ディレクターとして戻ってきた。怜司は婚約後も、社長室への入室権限と社用車を彼女に与えていた。彼は、澪との結婚は会社のために必要な契約にすぎないと言っていた。最後の救命胴衣が自分に渡ったとき、莉香は、結局怜司は自分を選んだのだと信じた。押収された携帯からは、事故当日の夜、広報担当者にイベントの撮影映像とクラウドのバックアップを削除させるメッセージも見つかった。莉香は、怜司の指示を伝えただけだと主張した。「私は、水を見るだけで息ができなくなるんです。あの日も、何が何だかわからなくて」パニック状態で、救命胴衣を誰に着せてもらったのかさえ覚えていないと言った。澪がボートにしがみついていた姿も見ておらず、「もう行って」は、沈む船から離れようという意味だったのだと。捜査官は黙って、音声分析の結果を再生した。公開版よりもさらに雑音を取り除いた、全体の音声だった。澪がボートにしがみつく場面で、莉香の声が鮮明になった。――怜司、早く行って。――こんなことをしたら、私、死ぬ。――もう行って。莉香の泣き声が止まった。「パニック状態だったという割に、状況をかなり正確に見ていますね」「私は……怜司さんが、ちゃんと助けると思っていたんです」「白石澪さんが落ちたあとも、ロープを投げようとは言っていません」「私が決めたことじゃないでしょう。手を放したのは怜司さんです」その言葉は、ほどなく怜司の弁護人へ伝わった。怜司は別の聴取で、莉香がパニックになり、ボートを出すようせかしたと供述していた。「私は澪を引き上げようとしました。でも莉香が、ボートがひっくり返ると叫んだんです。ほかの人たちも、早く行こうと」「映像には、あなたが乗組員を止める姿が映っています」「莉香が私の腕をつかんだんです」「その力のせいで、指を一本ずつ外したと?」怜司は答えられなかった。二人は事故以来初めて、同じ取調室で向き合った。共同での対応を話し合っていた弁護士たちは、すでに別々の側についていた。莉香の弁護人は、彼女が直接指を外したわけではなく、救助の指揮権もなかったことを強調した。怜司側は、莉香が何度もせかしたため判断を誤ったと反論した。
捜索は9時間に及んだ。捜査官たちは、鷹宮怜司の社用携帯とノートパソコン、技術管理室のサーバー、事故対応会議の録音を押収した。最初に明らかになったのは、事故直後に作られた「公式説明」だった。【白石澪常務は、装備点検のため自発的に船に残った】【鷹宮怜司社長は、乗客全員の乗艇後、最後に船を離れた】【一ノ瀬莉香ディレクターはパニック状態にあり、当時の記憶はない】草案の作成時刻は、救助隊が澪を発見する4時間前。そのとき鷹宮海運は、澪が生きているかさえ知らなかった。それでも文書には、すでに彼女が自分から残ったと書かれていた。怜司は取調室で、同じ言葉を繰り返した。「ボートがひっくり返ると思ったんです。より多くの命を守るための選択でした」捜査官が浮力分析表を差し出した。「定員11人。当時の乗艇者も11人。あなたが下りて被害者が乗れば、人数は変わらず、許容重量も超えません」「波がひどかったんです。数字どおりにいく状況ではありませんでした」「では、あなたが下りればよかったのでは?」怜司は口を閉じた。録音機は回り続けた。捜査官は、同じ質問を繰り返さなかった。「被害者はそう求めていますね。『だったら、あなたが残って』と。なぜ断ったんですか?」「私は会社の社長です。事故に対応しなければならなかった」「ボートの中で、何に対応したんですか?」怜司は目をそらした。捜査機関は、単なる救助の優先順位と、積極的に危害を加えた行為を分けていた。誰かを先に乗せたというだけで、すぐ犯罪になるわけではない。だが、すでにボートにつかまっている人の指を一本ずつ外し、救助ロープも投げなかった行為は別だった。現場の再現では、怜司が下りて入れ替わる方法と、救助ロープを使う方法の双方が検証された。どちらも危険がゼロではなかった。それでも、澪の指を外して海へ落とすことだけが、唯一の選択ではなかった。捜査官は再現映像を、一場面ずつ止めた。「被害者の手を外したあと、救助ロープはあなたの足元にありました。なぜ投げなかったんです?」「気が動転していました」「それなのに、広報室にはすぐ電話していますね」「会社の社長ですから」「被害者を捜してもらう通報より、会社の対応を優先したということですか?」何を答えても、同じ結論へ戻る。怜司はそれに気づいた。自分は社長だったという主張は、救助の







