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第5話

Auteur: 三原 笑
綾羽は、ふらふらとした足取りで、洗面所を後にした。

壊れたスマホの状況を確認しに向かった。

なぜなら彼女には新しい携帯を買う余裕などないからだ。

額から流れた血が目元を覆い、視界がぼやけ、足元がふらつき、倒れかけたその瞬間――

背後から、優しくも力強い腕が彼女を支えた。

振り返ると、そこには汐恩の伯父が立っていた。

彼はちょうど、病院へ定期検査に来ていたところだった。

「綾羽......なんて姿だ。一体どうしたんだ?」

その表情は、あまりに痛ましかった。

彼の目に映る綾羽は、全身ずぶ濡れで、顔に傷まで負い、悲惨な状態だった。

綾羽は驚き、恥ずかしさで思わず目を伏せた。

だがその行動が、かえって伯父の胸を締めつけた。

彼女の身に起きたすべては、説明なくとも全て理解できた。

そう、こんな傷を負わせたのは他ならぬ、自分の甥なのだと。

「あのバカが......!」

これほど誠実な娘を、火の中へ突き落とすようなことをしてしまった。

縁を取り持ったつもりが、地獄へ導いていたとは。

伯父は、すぐさま綾羽を救急治療室へ連れて行き、医者に治療をお願いした後、別れ際に一言だけ残した。

「......心配するな。あとは、俺がなんとかする」

唐突で意味深な言葉に、綾羽は戸惑いを隠せなかった。

ぼんやりと壊れたスマホを見つめていた。

スクリーンは粉々に砕け、画面は光さえしなかった。

そのとき――

「ここにいたのね。探すの大変だったんだから」

声が聞こえ、振り返ると、そこには美玲が立っていた。

ずぶ濡れの綾羽を眺めながら、口元に薄い笑みを浮かべている。

その目は勝ち誇りに満ちていた。

「さっきの汐恩、見たでしょ?私にどれだけ優しかったか。あなた少しぐらい空気読んだら?自分から身を引きなよ。そうじゃないと、捨てられるのは時間の問題よ」

その言葉に、綾羽は唇を引き結んだ。

彼女は元から出ていくつもりだった。

なのに、それを美玲の口から聞くと、なぜこんなにも屈辱的なのか。

綾羽は無視するようにスマホをそっとしまい、その場を離れようとしたが、苛立った美玲が彼女の腕を掴み、引き留めた。

「ちょっと......何その態度?私のこと見下してるの?」

一瞬、苛立ちを見せた美玲だったが、すぐに表情を戻し、見下ろすように言った。

「まあいいわ。口のきけない人とはケンカも成り立たないし。てかさ、あなたみたいな口のきけない人って、仕事見つけるの大変でしょ?はい、これ受け取って。私って優しいでしょ?」

そう言って、美玲は一枚の小切手を綾羽の手に押しつけた。

金額は、数百万程度。

彼女にとっては些細な額だったが、綾羽にとっては大金だった。

戸惑う綾羽を見て、美玲は嘲るように笑い、「なに?少ないって言いたいの?この半年で伊丹家から十分なほど、お金貰ってきたでしょ?欲張らないで、身を引きなよ」と言った。

綾羽は口を開きかけ、手を振った。

自分が汐恩からほとんど何も受け取っていないこと、そして妹の医療費の援助してもらえるだけでありがたく思っていたことを、どうしても伝えたかった。

けれど、説明する手段がなかった。

言葉を発せない自分は、誤解されても反論すらできない。

小切手を突き返そうとしたそのとき――

綾羽の中に、ある現実的な考えがよぎった。

家を出れば、すぐに生活費が必要になる。

その上、彼女のお腹には、新しい命が宿っている。

どうしても、出費は避けられない。

もし、美玲が自分のことを「金で追い払う」つもりなら――

利用できるうちに、利用してしまえばいい。

彼女は幼い頃から、「他人の物に手を出してはいけない」と教えられて育ったので、この選択は少し心苦しい選択だった。

だが今は状況が違う、お腹の子の命がかかっている。

迷いながらも、綾羽は小切手をそっと受け取り、丁寧に折りたたんで衣服のポケットへしまった。

心の中で、誓った

「いつか、必ずこのお金は返す」

まだしばらく美玲は入院が必要なはず。

そうすると、汐恩も病院で彼女に付き添うことになるだろう。

その隙に、小切手を換金しに行くのが得策だった。

まずは、風邪を引く前に家に戻って、びしょ濡れの服を着替える必要がある。

自分が病気になるのは構わないが、腹の子には影響させたくない。

伊丹家の屋敷は広く、主寝室の他に複数のゲストルームがある。

表向きには「伊丹夫人」という肩書きを持つ綾羽だったが、彼女に与えられたのは客間だった。

汐恩が欲望をぶつけたいときだけ、主寝室に呼ばれる。

そして、それが終わればすぐに追い出される。

濡れた服を脱ぎ、タオルで体を拭いた綾羽は、無意識にお腹に手を当てた。

お腹はまだそれほど膨らんでいないが、そこには確かに命がある。

そう思うと、不思議な感覚が胸に湧いた。

......この子が、私の世界を変えてくれるのだろうか。

喜びと不安が、同時に押し寄せる。

自分は母親になれるのか――

その問いは、心の奥深くで揺れ続けていた。

新しい服を手に取り、着替えようとしたその時、突然客間のドアが開いた。

振り向いた綾羽の目に飛び込んできたのは、帰宅したばかりの汐恩だった。

彼の目に、裸の綾羽が映った。

一瞬、目を細め確認した後、綾羽は慌てて、ベッドの上の布団を体に巻きつけた。

白い肌、華奢な骨格、そして驚きと羞恥に染まった頬――

その姿は、まるで怯える小動物のようだった。

汐恩の喉が、かすかに鳴った。

だが、彼はその欲望を巧妙に隠し、何事もなかったかのように声を発した。

「美玲の手、かなりひどい状態だった。お前にも責任がある」

「お前がまともに看病できるとは思えないから、今日から家で飯を作れ。それを俺が病院に届ける。わかったか?」

綾羽は何度も頷き、体を縮こませながら布団をぎゅっと抱えた。

その顔は真っ赤に染まり、言葉にならない羞恥と恐怖を胸に秘めていた。

汐恩は彼女の露わになった肌を数秒間見つめ、指を折って襟元を緩め、立ち去ろうとしたその時。

ふと床に落ちた濡れた衣服の中から、ちらりと覗く小切手の端に目が留まった。

不審に思って拾い上げると、たちまち顔色が曇った。

「おい、お前美玲に金をせびったのか?」

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