Masuk京都へ向かう高速を降りてからも、私の焦りは収まらなかった。無意識に右足へ力が入り、メーターの針が跳ね上がる。信号待ちの多い市街地に入り、苛立ちまぎれにフロントガラスの向こうへ目を向けた、その時だった。どこにでもある駅前の、どこにでもいる退屈な人混みのなかに、視線が吸い寄せられる。――見間違えるはずがなかった。そこにいたのは、病院で療養しているはずの山城だった。山城は一歩一歩、まるで自らの影を引き摺るかのように重い足取りで駅へと向かっていた。胸に刻まれた痛みに耐えるその姿は、今にも崩れ落ちそうな危うさを孕んでいる。「山城さん⁉」静寂を切り裂くような金属音が響き、一台の車が彼の傍らで激しく身をよじらせて停車した。勢いよく開いたドアから飛び出してきたのは、鈴華だった。彼女の瞳には、明らかな焦燥と狼狽が浮かんでいる。「何やってるの⁉ そんな身体で……!」その悲痛な叫びに、山城は弾かれたように顔を上げた。虚空を彷徨っていた彼の視線が、ゆっくりと鈴華を捉える。「鈴華さん……」掠れた声とは裏腹に、その瞳の奥には、消えることのない炎が宿っていた。山城は真っ直ぐに鈴華を見据え、彼女の心を射貫くような強い眼差しで言葉を紡ぐ。「止めないでくれ。俺は、京都へ……カシラのもとへ戻る」それは悲壮でありながらも、決して揺らぐことのない鉄の意志だった。彼の背負う宿命の重さと、言葉に込められた絶対の決意が、冷たい夜気を通じて鈴華の肌を刺す。彼女は言葉を失い、ただ山城を見つめた。しかし、彼の瞳に宿る不退転の覚悟に触れたとき、鈴華の胸中にもまた、静かな、けれど激しい決意の火が灯る。鈴華は何も言わず、ただ無言のまま後部座席のドアを強く引き開けた。「……私も今から京都に向かうところです」鈴華の毅然とした、しかしどこか震える声に、山城は息を呑んだ。にわかには信じがたいその行動に、彼の思考は急速に乱れていく。「君が? どうして……」狼狽を隠せない山城を見つめ返し、鈴華は重い口を開いた。「……京司さんが危険かもしれないの」刹那、山城の表情が凍りついた。突きつけられた最悪の予感が、彼の肌をあわただしく蒼白に染めていく。重苦しい静寂を切り裂くように、フロントガラスの向こうで第二京阪道路の無機質な灯りが京都へと流れていく。車内に満ちる
拘束されていた早緑の胸元に、ようやくかすかな呼吸が戻る。彼は自らを縛りつける宏一の剛腕を、蜘蛛の巣を払うように静かに、しかし断固として押し戻した。「俺がお嬢に言ったんや」その一言が、部屋の空気を凍らせる。「……何だと?」低く震える宏一の声。「もっと我儘に生きてええんやって」挑発するように紡がれた早緑の言葉が、宏一のまなざしを瞬時にして烈火のごとき怒りへと変え、二人の間に決定的な亀裂を走らせた。「我儘……?」宏一はオウム返しに呟いた。早緑の言葉が脳の表面で滑り、中まで入ってこない。考えることを、身体が本能的に拒否している。「あの男を追いかけることが、鈴華の幸せだって言うのかよ、藤四郎」絞り出した声の震えを、宏一は隠せなかった。藤四郎はまっすぐ宏一を見つめ返し、低く、静かに言った。「幸せになるか不幸になるかなんて、誰にもわからん。……けどな宏一さん、お嬢は今、それを望んでる。それだけがすべてや」早緑が珍しく、彼の名を「宏一」と呼んだ。それは若頭補佐という鉄の仮面を外し、対等な一人の友人として、魂の奥底を晒すときの合図だった。「お嬢はな、日本に来てからというもの、ご自身の望みを何一つ口にされんかった。反抗もせず、我が儘も言わず、ただ無欲な人形のように佇んでる。……あの子が背負ってきた苛烈な過去を考えれば、ここが夢のような楽園に見えるのは道理や。けどな、宏一さん。ただ息をして、死んでへんというだけで、人間は本当に生きてるって言えるんか?」早緑の容赦のない言葉が、宏一の胸に沈殿していく。彼が描いていた「鈴華の幸せ」という絵図は、現実の前にとっくに破綻していた。「……鈴華が、ここじゃあ息もできないとでも言いたいのか」宏一の低い声に、早緑は鼻で笑うような、だが泣き出しそうな歪んだ笑みを返した。「そないな極端な話やない。ただ、今が幸せやったら、これ以上手を伸ばしたら罪になるんか? 贅沢や言うて、諦めなあかんの?」宏一の理知は、早緑の紡ぐ言葉を違わず受け止めていた。しかし、彼の心にある剥き出しの感情が、どうしてもそれを拒絶してしまう。地下の駐車場に立ち込める、凍てつくような沈黙。それを鮮やかに切り裂くように、早緑はあえて快活な声を響かせた。「さあ、宏一さん。僕らもあのお嬢も、とうとう巣立ちの時が来たん
「知っているわ。それが何だと言うの?」「なんだと……?」宏一は息を呑んだ。「たとえあの人が他の誰かを選んだとしても、私が彼を愛し続けるという事実に、何の変わりもないわ。私はただ…京司さんを死なせたくない…それだけよ」決意を湛えた鈴華の視線が、真っ直ぐに宏一を捉える。その刺すような眼差しに曝された瞬間、宏一は己の胸の奥が、鋭く、そして決定的に撃ち抜かれたのを知った。「お前……本気であの男の事を……」鈴華の腕を捕らえる彼の指から、確かな体温と、それとは裏腹の脆い震えが伝わる。こぼれ落ちそうになる執着を繋ぎ止めるように、彼はもう一度、強くその腕を握り直した。「駄目だ、行かせねぇ! お前はここにいろ。俺がいて、早緑がいて、オヤジがいる……この場所こそが、お前の世界のすべてでいい。それが、お前にとっての一番の幸福なんだ!」「お兄ぃ……」鈴華の唇から零れ落ちたその響きは、静謐な刃のようだった。見据える瞳の奥、静かに燃え盛る決意の焔は、いかなる嵐を以てしても揺るがし得ない。その透徹した眼差しに、宏一は底知れぬ怖気を覚えていた。彼女の存在が、自分の両手から砂のようにサラサラと零れ落ち、遠くへ離れていってしまう――その容赦のない予感が、彼の身体を内側から激しく震わせる。「……嫌だ。行くな、鈴華!」千切れるような悲鳴が、二人の間に横たわる冷徹な沈黙を切り裂いた。伸ばされた宏一の無遠慮な手を、唐突に現れた別の剛腕が揺るぎなく阻む。「早緑さん……」驚愕に震える宏一の声。振り返った彼の視線の先、影をまとうようにして立っていたのは、若頭補佐の早緑その人であった。「お嬢、早よ行きな!」早緑の言葉が引き金だった。鈴華を縛っていた金縛りは解け、彼女は弾かれたように車のシートへ飛び込む。スターターが回り、硬質な金属音が夜の静寂を切り裂いた。「待て、鈴華!――藤四郎、貴様ァ!」遮られた宏一の怒りは頂点に達し、彼の放つ猛烈な威圧が早緑の全身を打った。万象を震撼させるほどの圧を前にしながらも、藤四郎こと早緑の心胆を寒からしめられることはない。その眼差しは、ただ冷徹に、毅然として眼前の嵐を拒絶していた。 容赦なく遠ざかるテールランプを見送るしかなかった。鈴華の車が去った地下駐車場には、ただ虚しくエンジン音の残響が鳴り響いてい
「京司さん‼」ぶつりと切れた通話の向こう側へ、鈴華の悲鳴が虚しく吸い込まれていく。指が勝手にリダイヤルを繰り返すが、電波の海は二人の距離を無慈悲に隔てたまま京司の声を引き合わせることはない。 気がつけば、彼女は走り出していた。夜の闇を切り裂くように、ただひたすらに京都へ。愛しい人が待つ、その場所の引力に引かれるように。愛車である漆黒のセダンへと、滑り込むように急ぎ足で向かう鈴華。しかし、その焦燥を断ち切るように、容赦のない強靭な握力が彼女の細い腕を捕らえた。「お兄ぃ……!」ハッと息を呑み、鈴華が振り返る。そこに立っていたのは、彫刻のように険しい表情を浮かべ、彼女を真っ直ぐに見据える兄・宏一の姿だった。「どうした? その尋常ではない慌てぶりは。……一体、何があったんだ」静かだが重みのある声が、張り詰めた空気の中に響き渡った。宏一の瞳に映る己の動揺を見つめるうちに、鈴華の胸を騒がせていた激情は、凪いだ水面のように冷えていった。そっと、自らの腕を掴む彼の指を解く。その手から伝わる体温を拒むように、けれど名残惜しむように、静かにその束縛を身体から離した。「お兄ぃ……私、行かなくてはならないの」「……どこへ行くつもりだ」鈴華のまなざしに宿る、氷のように硬質な決意。それを見た宏一の胸に、ぬるりと不吉な予感が這い上がってくる。「……京都。京司さんのもとへ」その地名が、二人の間に決定的な夜の深さをもたらしていた。宏一の目に宿った狂おしい光が、鈴華の細い肩を捉えて離さなかった。衣服の向こうの骨が軋むほどの力に、彼の切迫した魂が透けて見える。「……京都だと? 鈴華……お前はまだ、あの男の呪縛に囚われたままなのか!」だが、鈴華の瞳に宿る熱は、すでに別の夜を向いていた。彼女はただ、静謐な微笑すら湛えて告げる。「夢なら、もうとっくに醒めてるわ。これは私の意志よ。たとえ地獄の底であろうと、私は京司さんのもとに行くわ」鈴華の華奢な肩を掴む宏一の腕は、怒りと恐怖の狭間で激しく震えていた。「俺やオヤジを……六穣会を捨てるつもりか、お前は!」怒号とともに見開かれた彼の瞳から、しだいに理性の光が失われ、昏い狂気の淵へと沈んでゆく。「そんなつもりはないわ!」鈴華は悲痛な叫びで、彼の狂気を撥ね退けようとした。剥き出しの感情を瞳
「少し……考えさせていただいてもよろしいでしょうか?」かろうじて紡がれた京司の言葉は、ひどく頼りなく空気に消えた。「もちろんかまわないよ。こちらはいつでも君を歓迎するから」慈悲深いその返答とは裏腹に、部屋を満たす空気は凍てつき、 京司の肩に重くのしかかる。「……うちの山城の件、ありがとうございました。 どうか……山城をよろしくお願いいたします」退出の間際、京司は踵を返し、入り口の冷たい床に正座した。 極道の若頭という肩書きをすべて削ぎ落としたかのような、 あまりにも無防備で、深い一礼。 「山城補佐の心配は無用だよ。 宇治宮組長がどれだけ血眼になって探そうと、あそこへは辿り着けない。 法の網の目からも、組織の目からも外れた、 とびきり静かな場所で静養させている」京司の目に安堵の色が滲んだ。「しかし、君のところの補佐は、まるで手負いの猪だな。 組長の邸宅へ直談判に押し入り、凄まじい気魄でクスリの取引を撥ね退けたと聞いたぞ」京司の唇に、自嘲めいた微かな笑みが浮かぶ。「ええ……不器用で、あれしか生き方を知らない男ですから」ようやく幕を閉じた会食。 しかし、美味であったはずの料理の味はとうに失せ、 ただ底なしの沼に足を取られていたかのような、 悍ましい疲弊だけが彼の手元に残されていた。 京都へ帰る帰路、京司は車内に紫煙を燻らせ、ただとり留めのない思考の海に沈んでいた。 窓外を流れる景色とともに、槇村の放った言葉がいつまでも脳裏にこびりついて離れない。 ――『看板だけで飯が食えた時代はもう終わったんだよ』 「……そうかもしれへんな」 吐き出した煙のゆくえを追うように、京司は小さく自嘲の笑みを漏らした。その呟きは、変わりゆく時代に取り残されゆく己への、静かな諦観だった。 鈴華は大阪の街を一人歩いていた。 静寂を切り裂くように、鈴華のスマートフォンが不意に、 高らかな電子音を響かせる。 恐る恐る画面に視線を落とし、そこに浮かび上がった番号を目にした瞬間、 彼女の指先が白くなるほどに端末を握りしめる。 心臓の鼓動が、痛いほどの早鐘を打っていた。「……京司さん」零れ出たのは、祈りとも、あるいは怯えともつかない呟き。 世界からすべての音が消え去ったかのような沈黙のなかで、 鈴華は震える指で通話ボタンを滑らせ、耳
「少し……考えさせていただいてもよろしいでしょうか?」かろうじて紡がれた京司の言葉は、ひどく頼りなく空気に消えた。「もちろんかまわないよ。こちらはいつでも君を歓迎するから」慈悲深いその返答とは裏腹に、部屋を満たす空気は凍てつき、 京司の肩に重くのしかかる。「……うちの山城の件、ありがとうございました。 どうか……山城をよろしくお願いいたします」退出の間際、京司は踵を返し、入り口の冷たい床に正座した。 極道の若頭という肩書きをすべて削ぎ落としたかのような、 あまりにも無防備で、深い一礼。 「山城補佐の心配は無用だよ。 宇治宮組長がどれだけ血眼になって探そうと、あそこへは辿り着けない。 法の網の目からも、組織の目からも外れた、 とびきり静かな場所で静養させている」京司の目に安堵の色が滲んだ。「しかし、君のところの補佐は、まるで手負いの猪だな。 組長の邸宅へ直談判に押し入り、凄まじい気魄でクスリの取引を撥ね退けたと聞いたぞ」京司の唇に、自嘲めいた微かな笑みが浮かぶ。「ええ……不器用で、あれしか生き方を知らない男ですから」ようやく幕を閉じた会食。 しかし、美味であったはずの料理の味はとうに失せ、 ただ底なしの沼に足を取られていたかのような、 悍ましい疲弊だけが彼の手元に残されていた。 京都へ帰る帰路、京司は車内に紫煙を燻らせ、ただとり留めのない思考の海に沈んでいた。 窓外を流れる景色とともに、槇村の放った言葉がいつまでも脳裏にこびりついて離れない。 ――『看板だけで飯が食えた時代はもう終わったんだよ』 「……そうかもしれへんな」 吐き出した煙のゆくえを追うように、京司は小さく自嘲の笑みを漏らした。その呟きは、変わりゆく時代に取り残されゆく己への、静かな諦観だった。 鈴華は大阪の街を一人歩いていた。 静寂を切り裂くように、鈴華のスマートフォンが不意に、 高らかな電子音を響かせる。 恐る恐る画面に視線を落とし、そこに浮かび上がった番号を目にした瞬間、 彼女の指先が白くなるほどに端末を握りしめる。 心臓の鼓動が、痛いほどの早鐘を打っていた。「……京司さん」零れ出たのは、祈りとも、あるいは怯えともつかない呟き。 世界からすべての音が消え去ったかのような沈黙のなかで
「東九条の近くに在日に顔が利くおっさんが住んでるさかいそいつに聞いてみよう思てます」重厚な革の香りに包まれた車内で、男は指先の白むほどにステアリングを握りしめていた。喉の奥で震える声をどうにか絞り出し、後部座席に鎮座する「彼」へと投げかける。彼は一言の返辞も与えない。ただ、深い沈黙のなかで、隣に座る彼女の顔色をさぐるよう、薄氷を踏むような視線をわずかに流した。彼女もまた、言葉を重ねることを選ばなかった。視線の先にあるはずの京の街並みも、今の彼女にとっては、ただ通り過ぎるだけの無機質な背景に過ぎないのかもしれない。「あんたが探してる娘…君とはどないな関係や?それぐらいは教え
翌朝彼女がロビーへ降りると、真っ先に目に飛び込んできたのは、窓辺でコーヒーを味わう彼の端正な姿だった。朝の柔らかな光を吸い込むような漆黒のスーツ。肩のラインは体にぴたりと沿い、余計なたるみのないジャケットは、前を一つだけ軽く留めて端正なシルエットをつくっている。シャツの襟はまっすぐに立ち、白の生地は皺ひとつなく清潔感が漂う。ネクタイは結び目が左右対称に整えられ、胸元で静かに存在感を放ち、袖口からはシャツのカフスがきちんと一センチほど覗き、腕の動きに合わせて上品に揺れる。ただそこに座っているだけだというのに、彼の周囲だけは別の時間が流れているかのような錯覚に陥る。その落
彼女がそこに立っているだけで、路地の空気は凍てつき、時間はその歩みを止めたかのようであった。古びた街灯の届かぬ暗がりに、彼女の細身の影が溶け込む。まるで時の流れから切り離されたかのように、一切の躍動感を排していた。風が、彼女の長い黒髪を静かに持ち上げ、ゆっくりと元の位置へと戻す。彼女の透徹した白い肌は夜闇に仄白く浮かび上がり、オニキスの様な漆黒の瞳は瞬き一つせず、微動だにしなかった。そして、その視線が、路地の先に立つ男へと向けられる。そこには、問いも、驚きも、あるいは期待や絶望といった感情のひとかけらもない。ただ、深淵の底から見上げるような、一切の感情を剥ぎ取られた視線が、
石畳を踏むたび、昼間の喧騒がすっと解けていき、まるで時間そのものが薄い霧となって漂い始める。狭い路地では、灯は風に吹かれ古びた壁に映り淡い光を揺らす。人影はないのに、どこかで誰かが騒いているような、そんな気配だけが確かに残っている。 繁華街の路地裏。表通りの華やかさが背中に遠のくと、京都の夜はまるで別の顔を見せ始める。光と影がせめぎ合う細い峡谷の様子を見せ、ネオンのにじむ光がアスファルトに落ち、その上を、酔客の笑い声がふわりと漂っていく。店の暖簾が風に揺れるたび、中から漏れる湯気と出汁の香りが、 夜の空気に小さな温度を灯す。壁に貼られた古びたポスター、閉店したままのス