LOGIN「知っているわ。それが何だと言うの?」「なんだと……?」宏一は息を呑んだ。「たとえあの人が他の誰かを選んだとしても、私が彼を愛し続けるという事実に、何の変わりもないわ。私はただ…京司さんを死なせたくない…それだけよ」決意を湛えた鈴華の視線が、真っ直ぐに宏一を捉える。その刺すような眼差しに曝された瞬間、宏一は己の胸の奥が、鋭く、そして決定的に撃ち抜かれたのを知った。「お前……本気であの男の事を……」鈴華の腕を捕らえる彼の指から、確かな体温と、それとは裏腹の脆い震えが伝わる。こぼれ落ちそうになる執着を繋ぎ止めるように、彼はもう一度、強くその腕を握り直した。「駄目だ、行かせねぇ! お前はここにいろ。俺がいて、早緑がいて、オヤジがいる……この場所こそが、お前の世界のすべてでいい。それが、お前にとっての一番の幸福なんだ!」「お兄ぃ……」鈴華の唇から零れ落ちたその響きは、静謐な刃のようだった。見据える瞳の奥、静かに燃え盛る決意の焔は、いかなる嵐を以てしても揺るがし得ない。その透徹した眼差しに、宏一は底知れぬ怖気を覚えていた。彼女の存在が、自分の両手から砂のようにサラサラと零れ落ち、遠くへ離れていってしまう――その容赦のない予感が、彼の身体を内側から激しく震わせる。「……嫌だ。行くな、鈴華!」千切れるような悲鳴が、二人の間に横たわる冷徹な沈黙を切り裂いた。伸ばされた宏一の無遠慮な手を、唐突に現れた別の剛腕が揺るぎなく阻む。「早緑さん……」驚愕に震える宏一の声。振り返った彼の視線の先、影をまとうようにして立っていたのは、若頭補佐の早緑その人であった。「お嬢、早よ行きな!」早緑の言葉が引き金だった。鈴華を縛っていた金縛りは解け、彼女は弾かれたように車のシートへ飛び込む。スターターが回り、硬質な金属音が夜の静寂を切り裂いた。「待て、鈴華!――藤四郎、貴様ァ!」遮られた宏一の怒りは頂点に達し、彼の放つ猛烈な威圧が早緑の全身を打った。万象を震撼させるほどの圧を前にしながらも、藤四郎こと早緑の心胆を寒からしめられることはない。その眼差しは、ただ冷徹に、毅然として眼前の嵐を拒絶していた。 容赦なく遠ざかるテールランプを見送るしかなかった。鈴華の車が去った地下駐車場には、ただ虚しくエンジン音の残響が鳴り響いてい
「京司さん‼」ぶつりと切れた通話の向こう側へ、鈴華の悲鳴が虚しく吸い込まれていく。指が勝手にリダイヤルを繰り返すが、電波の海は二人の距離を無慈悲に隔てたまま京司の声を引き合わせることはない。 気がつけば、彼女は走り出していた。夜の闇を切り裂くように、ただひたすらに京都へ。愛しい人が待つ、その場所の引力に引かれるように。愛車である漆黒のセダンへと、滑り込むように急ぎ足で向かう鈴華。しかし、その焦燥を断ち切るように、容赦のない強靭な握力が彼女の細い腕を捕らえた。「お兄ぃ……!」ハッと息を呑み、鈴華が振り返る。そこに立っていたのは、彫刻のように険しい表情を浮かべ、彼女を真っ直ぐに見据える兄・宏一の姿だった。「どうした? その尋常ではない慌てぶりは。……一体、何があったんだ」静かだが重みのある声が、張り詰めた空気の中に響き渡った。宏一の瞳に映る己の動揺を見つめるうちに、鈴華の胸を騒がせていた激情は、凪いだ水面のように冷えていった。そっと、自らの腕を掴む彼の指を解く。その手から伝わる体温を拒むように、けれど名残惜しむように、静かにその束縛を身体から離した。「お兄ぃ……私、行かなくてはならないの」「……どこへ行くつもりだ」鈴華のまなざしに宿る、氷のように硬質な決意。それを見た宏一の胸に、ぬるりと不吉な予感が這い上がってくる。「……京都。京司さんのもとへ」その地名が、二人の間に決定的な夜の深さをもたらしていた。宏一の目に宿った狂おしい光が、鈴華の細い肩を捉えて離さなかった。衣服の向こうの骨が軋むほどの力に、彼の切迫した魂が透けて見える。「……京都だと? 鈴華……お前はまだ、あの男の呪縛に囚われたままなのか!」だが、鈴華の瞳に宿る熱は、すでに別の夜を向いていた。彼女はただ、静謐な微笑すら湛えて告げる。「夢なら、もうとっくに醒めてるわ。これは私の意志よ。たとえ地獄の底であろうと、私は京司さんのもとに行くわ」鈴華の華奢な肩を掴む宏一の腕は、怒りと恐怖の狭間で激しく震えていた。「俺やオヤジを……六穣会を捨てるつもりか、お前は!」怒号とともに見開かれた彼の瞳から、しだいに理性の光が失われ、昏い狂気の淵へと沈んでゆく。「そんなつもりはないわ!」鈴華は悲痛な叫びで、彼の狂気を撥ね退けようとした。剥き出しの感情を瞳
「少し……考えさせていただいてもよろしいでしょうか?」かろうじて紡がれた京司の言葉は、ひどく頼りなく空気に消えた。「もちろんかまわないよ。こちらはいつでも君を歓迎するから」慈悲深いその返答とは裏腹に、部屋を満たす空気は凍てつき、 京司の肩に重くのしかかる。「……うちの山城の件、ありがとうございました。 どうか……山城をよろしくお願いいたします」退出の間際、京司は踵を返し、入り口の冷たい床に正座した。 極道の若頭という肩書きをすべて削ぎ落としたかのような、 あまりにも無防備で、深い一礼。 「山城補佐の心配は無用だよ。 宇治宮組長がどれだけ血眼になって探そうと、あそこへは辿り着けない。 法の網の目からも、組織の目からも外れた、 とびきり静かな場所で静養させている」京司の目に安堵の色が滲んだ。「しかし、君のところの補佐は、まるで手負いの猪だな。 組長の邸宅へ直談判に押し入り、凄まじい気魄でクスリの取引を撥ね退けたと聞いたぞ」京司の唇に、自嘲めいた微かな笑みが浮かぶ。「ええ……不器用で、あれしか生き方を知らない男ですから」ようやく幕を閉じた会食。 しかし、美味であったはずの料理の味はとうに失せ、 ただ底なしの沼に足を取られていたかのような、 悍ましい疲弊だけが彼の手元に残されていた。 京都へ帰る帰路、京司は車内に紫煙を燻らせ、ただとり留めのない思考の海に沈んでいた。 窓外を流れる景色とともに、槇村の放った言葉がいつまでも脳裏にこびりついて離れない。 ――『看板だけで飯が食えた時代はもう終わったんだよ』 「……そうかもしれへんな」 吐き出した煙のゆくえを追うように、京司は小さく自嘲の笑みを漏らした。その呟きは、変わりゆく時代に取り残されゆく己への、静かな諦観だった。 鈴華は大阪の街を一人歩いていた。 静寂を切り裂くように、鈴華のスマートフォンが不意に、 高らかな電子音を響かせる。 恐る恐る画面に視線を落とし、そこに浮かび上がった番号を目にした瞬間、 彼女の指先が白くなるほどに端末を握りしめる。 心臓の鼓動が、痛いほどの早鐘を打っていた。「……京司さん」零れ出たのは、祈りとも、あるいは怯えともつかない呟き。 世界からすべての音が消え去ったかのような沈黙のなかで、 鈴華は震える指で通話ボタンを滑らせ、耳
「少し……考えさせていただいてもよろしいでしょうか?」かろうじて紡がれた京司の言葉は、ひどく頼りなく空気に消えた。「もちろんかまわないよ。こちらはいつでも君を歓迎するから」慈悲深いその返答とは裏腹に、部屋を満たす空気は凍てつき、 京司の肩に重くのしかかる。「……うちの山城の件、ありがとうございました。 どうか……山城をよろしくお願いいたします」退出の間際、京司は踵を返し、入り口の冷たい床に正座した。 極道の若頭という肩書きをすべて削ぎ落としたかのような、 あまりにも無防備で、深い一礼。 「山城補佐の心配は無用だよ。 宇治宮組長がどれだけ血眼になって探そうと、あそこへは辿り着けない。 法の網の目からも、組織の目からも外れた、 とびきり静かな場所で静養させている」京司の目に安堵の色が滲んだ。「しかし、君のところの補佐は、まるで手負いの猪だな。 組長の邸宅へ直談判に押し入り、凄まじい気魄でクスリの取引を撥ね退けたと聞いたぞ」京司の唇に、自嘲めいた微かな笑みが浮かぶ。「ええ……不器用で、あれしか生き方を知らない男ですから」ようやく幕を閉じた会食。 しかし、美味であったはずの料理の味はとうに失せ、 ただ底なしの沼に足を取られていたかのような、 悍ましい疲弊だけが彼の手元に残されていた。 京都へ帰る帰路、京司は車内に紫煙を燻らせ、ただとり留めのない思考の海に沈んでいた。 窓外を流れる景色とともに、槇村の放った言葉がいつまでも脳裏にこびりついて離れない。 ――『看板だけで飯が食えた時代はもう終わったんだよ』 「……そうかもしれへんな」 吐き出した煙のゆくえを追うように、京司は小さく自嘲の笑みを漏らした。その呟きは、変わりゆく時代に取り残されゆく己への、静かな諦観だった。 鈴華は大阪の街を一人歩いていた。 静寂を切り裂くように、鈴華のスマートフォンが不意に、 高らかな電子音を響かせる。 恐る恐る画面に視線を落とし、そこに浮かび上がった番号を目にした瞬間、 彼女の指先が白くなるほどに端末を握りしめる。 心臓の鼓動が、痛いほどの早鐘を打っていた。「……京司さん」零れ出たのは、祈りとも、あるいは怯えともつかない呟き。 世界からすべての音が消え去ったかのような沈黙のなかで
「あの老い損ないめ、どこまで恥の上塗りを…」京司の五指は掌に深く食い込み、怒りのあまりその輪郭を震わせていた。対する槇村の視線には、いっそのこと残酷なほどの静寂が宿っている。まるで、檻の中の猛獣を観察するかのような、絶対的な俯瞰。「……六穣会は今後、大阪港を九条組には一歩たりとも踏ませない。これが意味する断絶を、君が理解できないはずはないよね。実際六穣会にはそれが可能だ。うちは大阪港湾の利権の全てを掌握している。だからこれからの大阪港に九条組の影すら落とさせない。あの老害が別の流通ルートをゼロから開拓するなんて技、可能だとは到底思えないけどね」大阪湾の利権は、六穣会の絶対的な不可侵領域だ。九条組という老舗のブランド力をもってしても、そこに割り込む隙間など一ミリも残されてはいなかった。「薬なんぞ売らんでも、九条組は……死んじゃいません!」京司の絞り出すような怒号は、槇村の耳には、壊れたスピーカーのノイズ程度にしか響かなかった。「暴対法で首が回らないのは、君だってわかってるはずだ。看板だけで飯が食えた時代はもう終わったんだよ。九条組のようなオールドタイプの組織は、その毒(薬物)で命を繋ぎ止めねば、あとはただ枯れ果てるのみだ」京司の足元で、彼を支えていた世界が地鳴りを立てて崩れてゆく。仁義という名の虚飾、任侠という名の幻想、血の盃という名の呪縛。かつては彼の魂のすべてを形作っていたはずの絶対が、今や、祭りのあとに捨て置かれた安物の飾り物のように、惨めに、冷え冷えと転がっていた。「六穣会かて…同じ穴のムジナじゃないんですか!」京司の語尾は激しく波立ち、荒ぶる感情を隠そうともしなかった。対照的に、槇村の表情は氷のように凝固したままである。「うちは薬物には手を出さない方針でね。そんな不確かなリスクを背負う理由がないんだよ、六穣会は」槇村は皿の料理を綺麗に片付けると、ごく自然な動作で次の小鉢へと手を伸ばした。その平然とした捕食者のごとき佇まいが、京司の焦燥をいっそう深く削り取っていくようだった。「うちの命脈は、地下のカジノと、海の向こうで動く莫大な不動産取引にある。古臭い縄張りのあがりや、みかじめ料なんていう端金が、この巨大な組織をどう養うというんだい?」槇村の紡ぐ正論は、京司の守ってきた古い世界を容赦なく
「……俺に、九条組を裏切れと?」京司の射抜くような眼光が、まっすぐに槇村を捉えた。刃めいたその視線を浴びながらも、槇村のなかの静寂が揺らぐことはない。傾けられたグラスから、琥珀にも似たオレンジ色の甘い液体が滑り落ち、彼の喉を艶やかに潤していく。「裏切る、か……」槇村は低く、どこか楽しげにその言葉をなぞった。「誤解しないでほしいな。俺はなにも、九条の金や利権を、手土産に持ってこいと言っているわけじゃない。俺が渇望しているのは、君という存在そのものだよ。――それでも君は、それを『裏切り』という安直な言葉で片付けるのかい?」「それが……盃で結ばれた血の結束でしょう」槇村の放った言葉が、じわじわと己の深層へと染み込んでいくのを京司は感じていた。ありえない――自分が九条組を裏切るなど、天地が覆ろうとも。その絶対の矜持によって形作られている自らの輪郭が、足元から音を立てて崩れ去るような、底寒い恐怖が彼の胸奥を支配し始めていた。「そうか。では九条組が解散すれば少しは考えてくれるかな?」「……は?」槇村の口から零れ落ちた一言は、京司の足元の世界を根底から融解させるほどに重いものだった。それなのに、彼の口調はどこまでも乾いていて、軽い。そのあまりに無邪気な軽快さこそが、京司の胸の奥底へ、底なし沼のような不安をじわじわと広げていくのだった。(なんなんや、この人は……。一体何を言うてんねん。九条組が解散? ありえへん、そんなこと……)京司の脳裏を支配した怯えを、槇村は冷酷に射抜いていた。紡がれる言葉は、甘い幻想を容赦なく打ち砕く、剥き出しの現実。その圧倒的な冷たさに、京司はただ息を呑むしかなかった。「九条組が捌いてるクスリのルート、あれ全部、大阪湾の六穣会のシマ(港湾)を通ってるんだよ。俺が首を横に振った時点で、九条組の取引は完全にストップする。……その顔を見る限り、本当に何も知らされてなかったみたいだな」その言葉は、京司の脳をダイレクトに殴りつけた。あまりに唐突で、あまりに致命的な真実。自分がこれまで信じていた世界の前提が、足元から音を立てて崩壊していく。頭が真っ白になり、京司は喉の奥がカラカラに乾いていくのを自覚した。槇村の顔から、営業用の笑みが綺麗に消えた。「うちの組織は、香港の三合会と利権の深いところ
彼女がそこに立っているだけで、路地の空気は凍てつき、時間はその歩みを止めたかのようであった。古びた街灯の届かぬ暗がりに、彼女の細身の影が溶け込む。まるで時の流れから切り離されたかのように、一切の躍動感を排していた。風が、彼女の長い黒髪を静かに持ち上げ、ゆっくりと元の位置へと戻す。彼女の透徹した白い肌は夜闇に仄白く浮かび上がり、オニキスの様な漆黒の瞳は瞬き一つせず、微動だにしなかった。そして、その視線が、路地の先に立つ男へと向けられる。そこには、問いも、驚きも、あるいは期待や絶望といった感情のひとかけらもない。ただ、深淵の底から見上げるような、一切の感情を剥ぎ取られた視線が、
石畳を踏むたび、昼間の喧騒がすっと解けていき、まるで時間そのものが薄い霧となって漂い始める。狭い路地では、灯は風に吹かれ古びた壁に映り淡い光を揺らす。人影はないのに、どこかで誰かが騒いているような、そんな気配だけが確かに残っている。 繁華街の路地裏。表通りの華やかさが背中に遠のくと、京都の夜はまるで別の顔を見せ始める。光と影がせめぎ合う細い峡谷の様子を見せ、ネオンのにじむ光がアスファルトに落ち、その上を、酔客の笑い声がふわりと漂っていく。店の暖簾が風に揺れるたび、中から漏れる湯気と出汁の香りが、 夜の空気に小さな温度を灯す。壁に貼られた古びたポスター、閉店したままのス
彼女は呼吸ひとつ分の沈黙を経て、『はい』とだけ告げた。彼女の沈黙という深淵に、どのような想像が沈んでいるのか。彼は一瞬その淵を覗き込もうとしたが、すぐにそれを止めた。ただ静かに言葉を紡ぎ、その静寂を破る。「そういうたら、まだ名前をきいてへんかったなぁ。君なんて名前?」「鈴華、、、槇村鈴華です」「鈴華、、、ええ名前やな。、、、で、君何者やの?カタギの娘が血生臭い九条組の『顔』に辿り着くはずがあらへん」「私はしがない小娘にすぎません。ただ、父が六穣会という場所に身を置いておりますので、普通の方なら知り得ないようなことが、自然と耳に届いてしまうのです」「六穣会の槇村やと⁉」溢
車内に乗り込んだ彼女を確認し、ほっとした表情を一瞬浮かべ、エンジンをかける。静かに走り出した窓越しの街灯が彼女の長い黒髪を柔らかく照らしている。 「君みたいなお嬢さんが一人歩きするのは、やっぱり心配やからな」 「九条のシマで問題は起こしません」※シマ…組の縄張り。管理地域。 煙草の煙を指先で弄りながら薄くほほ笑む。車内の照明が彼の彫り込まれた眉間に影を作る。 「そうやろうなぁ。こないな綺麗な娘さんが問題を起こすとは思えへんけど、用心に越したことはあらへん」 会話の途切れ目だった。ふいに、彼女が車のシートから身を乗り出し、囁くような声とともに、彼女の顔が彼の口元へと寄せられた







