LOGIN芳枝はそっと彼女の頭を撫でた。「……苦労したわね」素羽は唇を噛みしめ、声を上げて泣き出してしまいそうになるのを必死にこらえた。「苦労なんてしていません」とは、とても言えなかった。実際、心はすっかりボロボロになっていたからだ。絶え間ない精神的苦痛の中で、彼女の毎日は文字どおり削り取られるような苦労の連続だった。肩にのしかかり、息をすることさえ困難にしていたあの重圧が、今、ようやく消え去った。ついに、自由を手に入れたのだ。素羽は祖母の胸に顔を埋め、静かに感情を吐き出した。芳枝は何も言わず、ただ優しく寄り添い続ける。そこには言葉を超えた理解と、穏やかで温かな時間が流れていた。祖母のもとで心の安らぎを取り戻した素羽は、名残惜しさを覚えながらも病室を後にした。病院を出た直後、松信から電話がかかってきた。着信画面を一瞥した素羽は、出ることなくそのまま拒否する。出なくても、彼が何を言いたいのかは手に取るように分かっていた。どうせ「なぜ離婚したんだ」と怒鳴り散らすに決まっている。一度切っても、松信はしつこくかけてきた。かけては切り、かけては切りを繰り返した末、素羽はついにその番号をブラックリストに叩き込んだ。せっかくのおめでたい日だ。この晴れやかな気分を、ぶち壊されたくはなかった。病院の入り口に立ち、素羽は深く息を吸い込んだ。空はあいにくの曇天だったが、素羽の目には、どんな秋晴れの日よりも輝いて見えた。——記者会見が終わるまで、美宜は幸雄の手の者によって拘束されていた。会見場を離れた司野は、美宜を迎えに向かった。そこには、美宜の両親である寛と淳子の姿もあった。司野の姿を見るなり、美宜は両親の前にいた時よりも激しく感情を爆発させた。「司野さん……!」美宜はそのまま彼の胸へ飛び込み、声を震わせて泣きじゃくった。この怯えは演技ではなく、本物だった。昨夜、本当に自分は殺されるのだと思ったのだ。あの老いぼれが、あれほど冷酷だとは思いもしなかった。まさか実の孫との間に亀裂が入ることさえ厭わず、自分を始末しようとするとは。美宜は司野の腕の中で、さめざめと涙を流した。「司野さん、もう二度と会えないと思った……死ぬかと思ったわ……」娘の無残な姿に、美宜の両親も胸を締めつけられる思いだっ
素羽はその声に足を止めたが、振り返りはしなかった。「役所を出た瞬間に、あなたと私の縁は切れた。他人が何をしようと、興味はないわ」言い終えると、彼女は迷いのない足取りでその場を去っていった。記者会見は生中継で行われており、終了直後から世論は新たな局面を迎えていた。素羽の名演技は見事に人々を欺き、司野のイメージは「汚名返上」を果たした。瞬く間にクズ男から良き夫へと評価が逆転したのだ。男に甘い世の中とは、こういうものだ。体裁さえ整えていれば、自ら金を払って身を清めるまでもなく、ネット上では自然と擁護の声が相次ぎ、好意的な方向へと世論が流れていく。素羽による「浄化」のおかげで、司野だけでなく瑞基の企業イメージも回復し、株価の下落もようやく止まった。車に乗り込むと、楓華がふと尋ねた。「悔しくないの?」泥を食わされたようなものなのに、それを美味しかったと言わされる――そんな胸糞の悪い話ではないか。素羽は静かに答えた。「ううん、全然」離婚できたのだから、これくらい何でもない。むしろ、自分に切り札を与えてくれた司野と美宜に、感謝したいくらいだった。彼らの「犠牲」がなければ、ここまで望み通りには運ばなかっただろう。素羽は楓華に頼み、病院まで送ってもらった。司野と離婚したことを、自分の口から芳枝に伝えたかったのだ。他人の口から聞かされて、余計な心配をかけたくはなかった。病院へ向かう途中、清人から電話がかかってきた。余計な言葉はなく、ただ一言だけだった。「おめでとう」清人の真摯な祝辞に、素羽もまた誠実に応えた。「ありがとう」清人は続けて尋ねた。「これからは、どうするつもりだ?」素羽は答えた。「まずは、しばらくおばあちゃんに付き添うわ。他のことは、それから考える」短い言葉のやり取りの中に、互いの想いはすべて込められていた。清人はそれ以上、話を引き延ばそうとはしなかった。素羽には、まだ自分自身の問題を整理する時間が必要だと分かっていたからだ。二人は簡単に別れの挨拶を交わし、電話を切った。運転していた楓華が、不意に口を開いた。「清人って、いい男だと思うけどな」その言葉の意図を察し、素羽は静かに相槌を打った。「ええ、本当にいい人よ。でも、私たちは合わないわ」「どこが合わない
素羽は司野に感謝の眼差しを向けると、改めて壇下のメディア関係者たちへ向き直った。「皆様、ご多忙の折、本日の記者会見にお集まりいただきありがとうございます。本日この場にお越しいただいたのは、この機会をお借りして――私、江原素羽と元夫・須藤司野の関係についてご説明するためです」この言葉が投げかけられた瞬間、記者席の一角から声が上がった。「それはどういう意味ですか?元夫とは?以前、須藤さんに同伴して宴席に出席されていたはずですが」素羽は静かに口を開いた。「私と司野は、三ヶ月も前にすでに離婚しております。本来であれば、これは私たちのプライベートな問題であり、公表する必要はないと考えておりました。しかし、須藤さんが誤解されているのを見て、皆様にけじめをつけるべくお話しすることに決めたのです。私たちの離婚は第三者の介入によるものではなく、円満な別れでした。離婚に至った決定的な理由は私にあります。私には、子供を授かる能力がなかったからです。この五年の婚姻期間中、須藤さんは私にとてもよくしてくれました。彼は立派な夫であり、私生活でも至れり尽くせりに世話を焼いてくれました。仕事においても、誠心誠意尽くす素晴らしいリーダーです」司野は思わず、隣に立つ素羽へと目を向けた。彼女の顔に浮かぶ、あまりにも真実味を帯びた表情を見ていると、ふと、かつて自分だけを見つめていたあの頃の素羽が戻ってきたかのような錯覚に陥る。以前、仕事で疲れ果てて帰宅したとき、素羽はいつも心を痛め、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。彼がそれまで見て見ぬふりをしてきたその献身が、今になって鮮やかに脳裏へ蘇る。一体いつから、心の行き違いが始まってしまったのだろう。視線を感じた素羽も、絶妙なタイミングで彼を見返した。司野の瞳に宿る深い情愛を目の当たりにし、彼女は一瞬ぎょっとする。やっぱり、演技が上手いわ。この手の芝居なんて、私よりずっと上だわ。素羽は気を引き締め、完璧な調子のまま締めくくった。「これほど素晴らしい人なのですから、皆様には須藤さんの私生活を執拗に追い回したり、彼や瑞基に対して悪意ある邪推を向けたりしないでいただきたいのです。それらは事実無根の誹謗中傷にほかなりません。この場を借りて、皆様にはこの騒動をここで終結させていただき、これ以
流石は翔太、須藤の姓を名乗るだけのことはある。須藤家という一族は、どいつもこいつも一筋縄ではいかない連中ばかりだ。一族の内輪揉めに首を突っ込む気など、素羽にはさらさらなかった。楓華を連れて車に乗り込み、その場を後にした。車内に入るや否や、楓華が力いっぱい素羽を抱きしめた。素羽はその背中をぽんぽんと叩き、冗談めかして言う。「これ以上抱きしめられたら、絞め殺されちゃうわよ」楓華はすぐに応えた。「死なないでよ。数えきれないほどのイケメンたちが、あなたの寵愛を待ってるんだから。いい暮らしはこれからよ」素羽はくすりと笑う。「変なこと吹き込まないで。今は男なんてこりごりだわ」「男が嫌いなら、それでもいいわよ。私が素敵な世界へ連れて行ってあげる。これからは、二人で広い世界を見に行きましょう」幸雄との約束を違えるわけにはいかない。素羽はアクセルを踏み込み、車を記者会見の会場へと走らせた。一方、司野のそばでは、まだ翔太が口を動かしていた。「僕の可愛い甥っ子はいつ生まれるんだ?その時は叔父さんに教えろよ。不義の子とはいえ、須藤家の血を引いているんだ。お祝いの一つくらい包んでやるからさ」司野の表情が険しくなる。「失せろ……」翔太は唇を尖らせ、皮肉たっぷりに言い返した。「兄貴を振ったのは僕じゃないだろ。なんで僕に八つ当たりするんだよ。自分の下半身も管理できねえくせに、偉そうに腹立ててるのか?須藤家の面汚しもいいところだぜ」まったく、おじいちゃんも焼きが回ったものだ。あんな司野より自分の方が劣っているなんて。僕に言わせれば、自分の方がよほど優秀だ。少なくとも、元カノの妹との関係でへまをぶっこくようなバカじゃない。翔太は会見の野次馬に行くつもりで、司野との口喧嘩にこれ以上付き合う気はなかった。「僕は素羽の応援に行くんだ。ついでだ、乗せてってやろうか?」司野はそれを無視し、別の方向へと歩き出した。翔太は鼻で笑う。なるほど、これほど器が小さいんじゃ離婚されて当然だ。彼は愛車のスーパーカーに乗り込み、傲慢にエンジンを吹かして走り去っていった。岩治は車の中から、この一連の茶番を冷静に眺めていた。漏れる言葉といえば、ため息くらいのものだった。実のところ、素羽が来る前から司野と岩治はすでに到着してい
二人の視線がぶつかり合った。司野の眼差しは深く沈み、その奥には読み取ることのできない複雑な感情が渦巻いている。だが、素羽にはそれを読み解こうとする興味など微塵もなかった。今の彼女の胸にあるのは、ただ一つの願い――「離婚」だけだ。司野は机の上のペンを取り上げ、素羽の名前の下に自らの署名を書き込んだ。離婚届に受理印が押されたその瞬間、素羽がずっと握りしめていた拳は、ようやく静かにほどけた。出来たばかりの離婚届受理証明書を手にした途端、抑えきれない笑みが自然と口元に浮かぶ。その一挙手一投足のすべてが、司野の目に焼き付いた。――これほどまでに、嬉しいのか。素羽は両手で証明書を受け取ると、先に立ち上がり、微笑みを浮かべて言った。「須藤さん、翁坂さんと一生お幸せに」証明書をバッグにしまうと、そのまま外へと歩き出す。足取りは驚くほど軽く、まるで身体が宙に浮いているかのようだった。あまりにも現実味がなく、思わず自分の腕をつねってみる。痛い。夢ではない――紛れもない現実だ。司野が後を追ってきた。「車がないんだ。記者会見の会場まで乗せていってくれ」素羽はにべもなく断った。「嫌よ。タクシーでも拾いなさいな」彼が車で来ているかどうかなど、今の彼女には知ったことではない。区役所から出たその瞬間、素羽の頭上でクラッカーが弾けた。同時に、あらかじめ録音されていた音楽が鳴り響く。「離婚おめでとう、幸せを祈るよ。素羽さんならもっと素敵な人が見つかる……」派手な格好に身を包み、まるで結婚式以上にめでたい雰囲気を醸し出している張本人――翔太の姿を見て、素羽の表情が引きつった。区役所の外には、翔太が手配したスタンド花までずらりと並べられている。「僕からのプレゼントだ。見てくれよ」【祝・絶世の美女、素羽。クズ男を蹴り飛ばして新たな人生へ。若いツバメを九人十人と囲って、尽くされる快感を味わえ】素羽は言葉を失った。これが祝福なのか、それともかつて「尽くす側」だった自分への皮肉なのか、判断に迷う。大騒ぎで駆けつけた翔太は、親友である楓華でさえ隅に追いやってしまっていた。花束だけを持って現れた楓華でさえ、翔太のこの気合いに比べれば霞んで見えるほどだ。素羽は呆れたような目で翔太を一瞥し、思わず言いそ
素羽は床に座り、荷造りを終えたスーツケースを見つめながら、ぼんやりと思いに沈んでいた。「ニャー」猫の鳴き声が、彼女の意識を現実へと引き戻す。だんごは素羽の膝へとよじ登り、心地よい場所を見つけると、仰向けになって丸々とした腹をさらした。素羽は、撫でてほしそうにしているだんごを見下ろした。今回は拒まず、そっと手を伸ばして撫でてやると、小さな生き物は気持ちよさそうに喉を鳴らした。この猫に対する感情は、素羽にとってどこか複雑だった。この子の存在そのものが、花を捨てた罪を償おうとする司野の証のようなものだからだ。だんごに罪はない。だが、買い主が買い主である。この子を見るたびに、素羽の脳裏には、あの幼い猫が今もどこかで生きているのだろうかという思いがよぎる。「もう二度と会うことはないわね。お腹が空いたら森山さんを頼るのよ。あの不届きな買い主じゃなくてね。あいつには、あんたへの本物の愛情なんてないんだから」司野が本当に猫を好きなのかどうか、素羽にははっきり見えていた。すべては表面的なパフォーマンスに過ぎない。彼らの婚姻関係と同じだ。かつては偽りの調和を装っていたが、ひと突きすれば脆く崩れ去る。だが、それもようやく終わろうとしていた。心に期するものがあったからだろうか。その夜、素羽の眠りは浅かった。体内時計が鳴る前に、彼女は目を覚ました。一度目が覚めてしまうと、もう眠る気にはなれない。彼女は起き上がり、静かに身支度を整え始めた。朝。森山は、いつになく活気に満ちた素羽の様子を見て、不思議そうに尋ねた。「奥様、今日は何かいいことでも?ずいぶん嬉しそうですね」森山はあまりニュースを見ないため、昨夜起きたスキャンダルのことなど露ほども知らなかった。素羽は穏やかに答える。「もうすぐ自由になれるの」森山には、自由と喜びがどう結びつくのか理解できなかった。それでも、素羽が嬉しそうにしているのを見ると、自分まで嬉しくなる。そこで、彼女は素羽が喜びそうな話をひとつ持ち出した。「そういえば、美宜さんのご両親なんですが、昨日どういうわけか慌てて出て行かれて、それきり戻ってらっしゃらないんですよ」素羽には、彼らが去った理由がはっきりと分かっていた。景苑別荘で最後となる朝食を済ませると、彼女は車を走らせて区役
素羽自身も気付いていなかったが、彼女の口元にはずっと淡い微笑みが浮かんでいた。そのせいか、周囲の人々も彼女がとても機嫌がいいのだと分かった。亜綺はその笑顔を見るたび、まるで胸を刺されるような気分になる。「ねえ、清人さんとどんな関係なの?」亜綺の敵意を感じ取った素羽だったが、学会の場で揉め事を起こして雅史に迷惑をかけたくなかったので、穏やかに答えた。「私たち、大学の同期よ」亜綺の視線がふいに素羽の鎖骨あたりにある赤い痕に向けられ、目を細めて険しい声で問いただす。「昨夜、どこに泊まったの?」昨日、自分を置いて先に帰った清人のことを思い出し、亜綺は不安が胸によぎる。まさか二人
素羽は口元を引きつらせ、なんとか笑顔を作る。「大丈夫よ」清人が言う。「何かあったなら相談してよ。もしかしたら力になれるかもしれないし」素羽は唇をぎゅっと結び、意を決して尋ねた。「知り合いの弁護士、いる?」清人は首をかしげる。「弁護士?なんで?」素羽は真っ直ぐに答えた。「離婚したいの」他人に頼っても、結局自分の人生は進まない。美玲や美宜に期待しても、離婚話は一歩も進まなかった。できれば穏便に別れたい。でも、司野が承諾しないなら、裁判にだって持ち込む覚悟はある。須藤家は世間体を気にする家だ。泥沼にはしたくないはず。そうなれば、話し合いの余地もあるだろう。清人の瞳がき
素羽の胸の奥に重くのしかかっていた気持ちは、そのひと言で少し笑いに変わった。彼女は冗談めかして言う。「先生は絶対に死んでも離婚しないタイプかと思ってましたけど、案外お考えが柔らかいんですね」雅史は彼女を睨みつけながらも、「わしを何だと思っとる。時代遅れの頑固爺さんか?そもそも結婚は死刑宣告じゃない。死刑ですら執行猶予があるんだぞ」と返した。「離婚しないって、もしかしてあの贅沢な暮らしが惜しいから?」素羽は冗談を続ける。「正直言うと、惜しいかも。こんなお金持ちの世界、なかなか見られませんから」雅史は一瞬、顔を真っ赤にして怒る。素羽は慌ててお茶を差し出し、ぺこりと頭を下げて
「先生、私の結婚相手のこと、ご存じですか?」雅史は、牛のように鼻を鳴らして、またもや不機嫌そうに唸った。素羽は、ますます胸が痛んだ。まさか、雅史がまだ自分のことを気にかけてくれているとは思わなかった。てっきり、もう完全に見放されているのだとばかり……申し訳なさで胸がいっぱいになり、唇を引き結び、鼻の奥がツンとし、目頭も熱くなってくる。雅史は、そんな素羽をうとましそうに睨んだ。「泣きそうな顔して、情けない。まるで年寄りが若いもんをいじめてるみたいじゃないか、やめてくれ」「……」泣く勇気も失せて、素羽は必死に涙をこらえた。そんな空気を和ませようと、清人が口を開く。