Share

第98話

Author: 雨の若君
素羽はぼんやりと目を開けた。自分がどこにいるのか、まるで分からない。記憶はまだ、清人に家まで送ってもらうところで途切れていた。

「先輩、家まで送ってくれてありがとう」

素羽の口調はどこかねっとりしていて、呂律も怪しい。しかし、その甘ったるい声音は、司野にはまるで清人に甘えているように聞こえた。

「先輩、もう帰って。司野に見られたら、また余計なこと言われるから……」

その言葉を聞いた瞬間、司野の瞳が一層冷たくなる。

「俺が余計なこと言う理由なんてあるか?」

突然響いた声に、素羽のぼんやりしていた意識が少しだけ覚めた。あたりを見回してみると、自分が主寝室のベッドに横たわっていることにようやく気づく。

ふらふらと頭を振り、素羽は言った。「私、お酒臭いから……今夜は隣の部屋で寝る」

意識が朦朧としているのに、彼が自分の体から酒の匂いを嗅ぐのを嫌がることだけは、しっかり覚えていた。

いつもそうだった。飲み会や付き合いで酔って帰るときは、司野に嫌われたくなくて、必ず部屋を分けて寝ていたのだ。

ベッドから降りようとした瞬間、司野に肩を掴まれ、力任せにベッドへ押し倒された。

元々
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 流産の日、夫は愛人の元へ   第684話

    その可能性を考えただけで、司野は全身から力が抜けるような感覚に襲われた。煮えたぎっていた血が一瞬にして凍りつき、背筋に冷たいものが走る。素羽が他の男と結婚し、子どもまで産むだと?そんなこと、絶対に許されるはずがない!---素羽が死んでおらず、今も生きているという知らせは、須藤家にとっても、そして何より幸雄にとって、まさに青天の霹靂とも言える衝撃だった。だが、素羽が生きていたこと以上に、彼女がサットン一族のトップに嫁いだという事実のほうが、幸雄には到底受け入れがたいものだった。彼にとって素羽とは、翼をもがれ、反抗する力など微塵も残されていない檻の中の獣だった。自分の思い通りに扱い、必要がなくなれば切り捨てるだけの存在でしかなかったのだ。そんな、取るに足らない存在だと見下していた人間が、今や自分の頭上にまで這い上がってくるなど、誰が想像できただろうか。どうやら、自分は素羽の力量を大きく見誤っていたらしい。まさか、ここまで強大な後ろ盾を見つけてくるとは。「四時前には会社を出たそうじゃが、一体何をしておった」幸雄は、屋敷に戻ってきてから一言も口を開かない司野を、鋭い目で睨みつけた。司野は執事が淹れた茶を口に含んだ。強烈な渋みが一瞬で口いっぱいに広がり、その苦い味をそのまま喉の奥へ流し込む。「この茶、古すぎるんじゃないのか。ひどく苦い」「茶が苦いんじゃあるまい。お前の腹の中が苦いんじゃろうが」幸雄は鼻で笑った。司野は湯呑みを置き、祖父の嫌味には付き合わず、単刀直入に本題へ入った。「俺を呼び出して、何の用ですか」幸雄も遠回しな言い方はせず、率直に切り出した。「西嶋が須藤家に牙を剥いておるのは、素羽への腹いせじゃろうて」それくらいのことは、二人ともとっくに気づいていた。「あの西嶋の小僧も、相当頭が悪いようじゃな。たかが女一人にいいように操られおって」幸雄は吐き捨てるように言い、その瞳の奥には隠しきれない嘲りが浮かんでいた。女の気を引くためなら、大金でも湯水のように使う男だと思っているのだろう。その言葉を聞いた瞬間、司野の伏せた瞼の奥に暗い感情が一瞬だけ揺らめいた。しかし、それをすぐに押し隠した。幸雄は向かいに座る司野を見つめ直し、手元の数珠を転がしながら低い声で告げた。「暦の上

  • 流産の日、夫は愛人の元へ   第683話

    司野の視線は三人の間をさまよい、やがて誠矢の顔に釘付けになった。彼はその子供をじっと観察し、顔立ちのどこかに見覚えのある面影を探しているようだった。子供の眉や目元には、素羽の面影があるように感じられた。あの愛らしくあどけない雰囲気は、かつて素羽にも確かにあったものだ。三人の追いかけっこはすぐに終わり、車は行き交う車の流れに紛れ、幼稚園の門前から消えていった。車内に、司野の低く掠れた声が響く。「調査はどうだ」岩治はまだ、死んだはずの人間が生きていたという衝撃から完全には立ち直れていなかった。素羽が死んでいなかったと分かってはいても、まるで白昼堂々幽霊に遭遇したようなものだ。心臓が縮み上がるような感覚は、なかなか消えてくれなかった。突然聞こえてきた司野の声に、岩治はビクッと肩を震わせた。しかし、すぐに我に返ると、求められていた調査結果を一つひとつ報告し始めた。「西嶋は素羽さんの個人情報を徹底的に隠しており、この数年間の彼女の経歴については、ほとんど何も掴めませんでした。ただ、周囲の人間の話によると、二人の夫婦仲は非常に良好で、彼は妻と子供を溺愛する良き夫、良き父親として知られているようです」そう報告しながら、岩治はバックミラー越しに、こっそり後部座席の司野の様子を窺った。その表情は深い闇に覆われているようで、そこから感情を読み取ることはできない。だが、何度も指先を擦り合わせる仕草が、彼の苛立ちをはっきりと物語っていた。それはまるで、愛する人を他人に奪われたような、どうしようもない不快感だった。「素羽さんの経歴が掴めない一方で、西嶋の過去についてはかなり詳しく判明しています」素羽が彼の前に現れるまで、奏は有名なプレイボーイだった。服を着替えるよりも早いと言われるほど、次々と女性関係を変えていたのだ。対外的な印象は、何もせず酒と遊びに明け暮れる放蕩息子そのものだった。しかし、その偽りの姿があまりにも完璧だったからこそ、かつてサットン家で内紛が起きた際、彼のようなドラ息子がまんまとトップの座に就くことができたのだ。彼が作り上げた偽りの姿は、それほどまでに周囲へ深く浸透していた。司野の声が再び響いた。「子供はいくつだ」岩治は正確な数字を答えた。「四歳八ヶ月です」司野は瞳を暗く沈ませ、

  • 流産の日、夫は愛人の元へ   第682話

    奏はバックミラー越しに、まるで主の帰りを待ち続ける忠犬のように、いつまでもその場に立ち尽くしている清人の姿を見て、唇を尖らせた。「君のあの先輩、どこかおかしいんじゃないの?」素羽は言った。「どうしてそんなこと言うのよ」奏は答えた。「おかしくないなら、どうして他人の奥さんをあんなに見つめるんだよ?見た目は普通そうだけど、どこか悪い病気でも抱えてるんじゃないの?」素羽は彼を軽く睨んだ。「誠矢があなたを嫌うのには、ちゃんと理由があるわね。本当に可愛げのないことばかり言うんだから。先輩は私の親友よ。適当なことを言わないで」奏は口を尖らせた。同じ男として、清人がどんな目をして素羽を見ていたのかくらい、彼にははっきり分かっていた。「君の友達は、俺の友達でもあるさ。君がそう言うなら、これ以上は何も言わないよ」幼稚園の門の前で、素羽は先生から誠矢を受け取った。誠矢は、親鳥の元へ飛び込んでいく雛鳥のように、素羽の胸へ勢いよく駆け寄った。「ママ、離れている間、ずっとずっと会いたかったよ。ママも僕に会いたかった?」素羽はその柔らかな小さな頬を撫でた。「ええ、会いたかったわ」無垢な存在と一緒にいると、人の心まで洗われていくような気がした。誠矢は手招きをして、素羽に顔を近づけるよう促した。「ママ、こっち来て。僕からプレゼントがあるんだもん」素羽が腰をかがめた瞬間、温かくて湿ったキスが彼女の頬に落ち、チュッという可愛らしい音を立てた。誠矢はまん丸な目を細め、嬉しそうに笑った。「ママ、僕のプレゼント好き?」素羽は目元を和ませた。「ええ、好きよ」その様子を見ていた奏は、傍らにいたぽっちゃりとした小さな体をひょいと抱き上げた。「俺みたいな大人の男がここにいるのに、お前の目は節穴なのか?男女の区別はちゃんとつけろって教えただろ。お前はもう立派な男なんだから、ママにキスするなんて許さないからな。そういうのをセクハラって言うんだよ。分かってるのか?」誠矢は抱えられたまま、豚のようにフンフンと鼻を鳴らしながら体をよじった。「僕は大人の男じゃないもん。まだ子どもだもん。パパのほうが変態おじさんだよ。いつも夜中にこっそりママの部屋に忍び込んでるじゃないか。この変態おじさん」素羽はそれを聞くと、横目で奏

  • 流産の日、夫は愛人の元へ   第681話

    旧友との再会ともなれば、話に花が咲いて時間を忘れてしまうのも無理はない。気心の知れた人のそばにいると、素羽もようやく自分の居場所を見つけたような気持ちになれた。先生を安心させ、喜ばせるために、素羽は持てる力をすべて振り絞った。そして、ようやく彼の心の中に残っていた不安を落ち着かせることができた。先生のことで頭がいっぱいだったため、当然ながら奏からの着信には気づかなかった。改めてスマホを手に取ると、十件以上もの不在着信が残されていた。彼からのこうした連続着信には、素羽もすっかり慣れたものだった。清人と先生に一言声をかけてから、素羽は折り返しの電話をするため病室を出た。その十件以上の不在着信は、清人の目にも入っていた。もちろん、他人のプライバシーを覗こうとしたわけではない。ただ、偶然視界の端に映り込んだだけだった。画面に表示された登録名に気づいた瞬間、清人はわずかに目を伏せ、その瞳の奥に暗い影を落とした。廊下に出た素羽は、すぐに電話をかけ直した。コール音が一度鳴っただけで、すぐに通話が繋がる。次の瞬間、電話の向こうから奏の声が聞こえてきた。「忙しいの?」不満そうで、少し拗ねたような声。それでも感情を必死に抑えているのが伝わってきて、素羽は思わず口元を緩めた。「どうして電話に出なかったのって、素直に聞けばいいじゃない」奏はすぐに言い返した。「君が聞けって言ったから聞いてるだけだからね。俺が無理やり問い詰めたわけじゃないんだから、後になってまた俺が横暴だとか理不尽だとか言わないでよ」素羽は答えた。「はいはい、言わないよ」奏は素直な子どものように、すぐに次の質問をした。「じゃあ、さっきまで何して忙しかったのさ。あんなに何度も電話したのに、全然出ないんだもん」素羽は目を細め、少しいたずらっぽく言った。「教えない」電話の向こうから、奏がギリッと歯を食いしばるような音が聞こえた。「……俺のこと、からかってる?」素羽は笑いながら答えた。「よく分かったね」奏はふんと鼻を鳴らし、不満げに言った。「なんだよ、それ。傷つくじゃないか。言っておくけど、俺が傷ついた時に機嫌を直すのって、すごく大変なんだからね」素羽は軽い調子で返した。「じゃあ、慰めるのはやめておくね」奏は、自分

  • 流産の日、夫は愛人の元へ   第680話

    素羽が自ら世間の前から姿を消した理由は、それしか考えられなかった。清人は尋ねた。「誰なんだ」ここまで気づかれてしまった以上、隠し通す意味もない。素羽は静かに口を開いた。「幸雄だよ」その名前を聞いた瞬間、清人の表情が引き締まった。意外ではあった。だが、同時に納得できる話でもあった。須藤家の人間がそんなことを企てたとしても、決して不思議ではない。幸雄がなぜ自分にそんなことをしたのか、素羽には驚きもなかった。その理由も、十分に想像できていた。一つは、司野がこれ以上自分に付きまとい、須藤家をかき乱すことを防ぐため。もう一つは、素羽を身代わりとして差し出し、その命で別の命を償わせるため。だからこそ、素羽を死なせることが最も効果的で、被害を最小限に抑えられる方法だった。……いや、須藤家にとっては何一つ失うもののない、都合のいい方法だったのだ。素羽さえ消えれば、須藤家にとってすべては元通りになる。そんな偽りの平穏を守るための選択肢を、彼らが利用しないはずがなかった。素羽はこれ以上過去に囚われたくなくて、自ら話題を変えた。「先生は、いつ脳卒中で倒れたの?」雅史は毎年欠かさず健康診断を受けていた。身体機能も実年齢よりずっと若く、医師からも「年齢を感じさせないほど元気だ」と太鼓判を押されていたほどだった。そんな人が、たった五年の間にここまで変わってしまうなんて。素羽はどうしても胸が締めつけられるような思いになった。その問いに、清人は一瞬言葉を詰まらせ、わずかに視線を伏せた。そして、核心を避けるように答えた。「歳を取れば、そういうこともあるよ」素羽はすぐには返事をしなかった。ただ黙って、じっと彼を見つめる。数秒後、彼女は静かに口を開いた。「私は五年間姿を消していただけで、五年分の頭まで置いてきたわけじゃないよ」清人が自分の誤魔化しに気づいたように、自分も彼の隠し事に気づかないはずがない。素羽は続けた。「教えて。一体、何があったの?」互いに勘が鋭い。簡単に誤魔化せる相手ではなかった。清人は観念したように息を吐き、口を開いた。「君が交通事故に遭ったと知って、先生は大きなショックを受けて倒れたんだ。それが原因で、今の状態になった。でも、心配しなくていい。医

  • 流産の日、夫は愛人の元へ   第679話

    個室病室。雅史はベッドに横たわり、筋肉の萎縮を防ぐため、看護師による全身マッサージを受けていた。記憶の中にある、あれほど活力に満ちた小柄な老人の面影は、今ではすっかり消え失せ、見る影もないほど痩せ細っていた。「曾根先生……」素羽の声は小さく、まるで相手を驚かせることを恐れているかのようだった。その声を聞いた雅史は、ゆっくりと、力なく首を巡らせた。視線が重なった瞬間、濁った水のように生気を失っていた瞳がピタリと止まり、やがて瞬きすら忘れたように彼女を見つめ続けた。素羽は微笑みを浮かべた。「先生、ただいま戻りましたよ」その言葉が落ちても、病室には静寂が広がったままだった。壁掛け時計の針が刻む、カチカチという音さえはっきり聞こえるほどの静けさだった。数十秒が過ぎた頃、雅史はようやく反応を見せた。瞳の奥に光が揺らめき、まるで静まり返った水面に突然波が広がるように、激しい感情がゆっくりと込み上げてくる。彼は目を大きく見開き、それと同時に感情も激しく揺さぶられていった。「ううっ……君、君は……」雅史はすっかり薄くなった唇を震わせ、顔の筋肉を引きつらせた。だが、まともな言葉を一つ口にすることすらできなかった。素羽は歩み寄り、雅史が必死に持ち上げようとしていた腕を、両手でそっと握りしめた。「先生、ごめんなさい。帰ってくるのが遅くなってしまって」雅史の喉からは、ゼーゼーと苦しそうな息遣いが漏れた。いつもは枯れ井戸のように乾いていた瞳には、今、ありとあらゆる感情が溢れ返っていた。驚き、喜び、そして責めるような思い。どんな言葉を並べても、今の彼の心情を正確に表すことなどできなかった。二人が久しぶりの再会を果たしていると、病室の入り口から慌ただしい足音が響いた。勢いよくドアが開かれる音に気づき、素羽は反射的に顔を向けた。視界に飛び込んできたのは、息を切らした清人の姿だった。彼は入り口に立ったまま、ドアノブを強く握りしめている。「素羽……?」清人は喉仏を上下させ、まだ現実を受け入れられないような表情を浮かべていた。看護師から電話があり、「素羽」という名前の人物が療養施設を訪れたと聞いた時、彼は最初、聞き間違いだと思った。だが、雅史がその訪問者の姿を見て、興奮のあまり涙を流し

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status