Share

第9話

Author: 雨の若君
美宜の一見庇うような言葉も、素羽にとっては単なる挑発にしか聞こえなかった。まるで自分がどれだけ寛大で、思いやりがあるかを見せつけているようだ。

当事者である素羽が何も言わないうちに、代わりに楓華がその言い回しにうんざりしていた。

「ちょっと……」と口を開きかけたが、素羽に袖を引かれた。

「翁坂さん、人に気を使う前に、もう少し自分のことを考えた方がいいんじゃない?」

素羽の言葉に美宜はぽかんとした顔で返す。「それってどういう意味ですか?」

「自分の立場をちゃんと分かっていないと、後で困るのは自分だよ」

その言葉の裏に含まれた冷ややかな皮肉に、周囲はすぐに気づいた。

美宜はわざとらしく困った顔を作る。「素羽さん、私に何か不満でもあるんですか?」

素羽は逆に問い返す。「私があなたに不満を持つ理由なんてある?」

美宜は答えず、代わりに司野に視線を向ける。

「司野さん、素羽さん、私のこと誤解してるみたい……」

司野は眉間にシワを寄せて、「素羽、いい加減にしろよ」と冷たく言い放つ。

おかしいわね。

実は、彼が自分の名前を呼ぶのが好きだった。彼の口から出た「素羽」の二文字には、特別な愛おしさを感じていたのに、今はもう、ただの威圧としか響かない。

自分だけが思い上がっていた。彼の優しさも、今思えば自分の都合のいい幻想だったのだ。

司野の警告の眼差しに、素羽はどうしようもない無力感を覚えた。皮肉を言ったところで、結局は虚勢にしかならず、美宜に笑いものにされるだけだ。

胸の痛みを隠して、素羽は話題を変えた。「大事な話があるから、今夜は早く帰ってきて」

今の自分には、もう彼を引き止める力なんてない。これ以上、みじめな姿を見せたくもない。

そう言い残し、素羽は楓華の腕を取ってその場を離れた。

立ち去る素羽の背中を見送りながら、美宜の目にはほのかな勝ち誇りが浮かぶ。そして、またもや弱々しい女の仮面。

「司野さん、素羽さんが大事な話があるみたいだから、先に帰ってあげて。私は一人で姉の所に行けるし」

「姉」という言葉に司野が少し反応し、目を瞬かせてから、「一緒に行く」と口にする。

その言葉に、美宜はこっそり口元を歪めた。

病院を出て、楓華の車に乗り込む。

道中ずっと我慢していた楓華が、ついに爆発した。

「ったく、あの女、見てるだけでイライラする!あんな芝居がかった態度、吐き気がするって!私の我慢がなかったら、絶対にぶちまけてたわ!

昼ごはん食べてなかったから良かったけど、食べてたら食事代請求してたわ!まったく、カメムシが仮面かぶってるみたいな奴!司野も目が節穴だし、同類じゃないの、臭い者同士……」

楓華の口はまるで機関銃のように止まらない。

罵倒の途中で、ふいに黙り込んで素羽に目を向けた。「でも司野も全部が全部クソってわけじゃ、ない……よね?」

だって、司野は素羽の男だし。もし司野がクソなら、素羽は何なんだ?

以前の素羽なら彼を庇っただろう。でも今は違う。「楓華の言った通りだよ」

司野はクソ。もう自分はそのクソに尻尾を振る犬ではいたくない。

楓華は一瞬絶句した。

素羽は「離婚協議書をもう一部、印刷して」と頼んだ。

楓華は理由も聞かず、ただ「分かった」と頷いた。

二人で弁護士事務所に行き、新しい離婚協議書を持って帰宅する。

病院にいた時、司野を呼び戻すことはできないのは分かっていた。だから少しは猶予を与えたつもりだったのに、司野は一切の情けも見せなかった。

朝から晩まで、体調も悪いのに必死で待ち続けた。でも、彼は帰ってこなかった。

それどころか、司野が美宜を優しく抱きしめる写真が送られてきた。送信者は美宜だ。

美宜は赤く泣き腫らした目で司野の胸にもたれ、どこか司野の目元も湿っているように見えた。

写真に写る二人を見て、素羽の胸がぎゅっと締めつけられる。喉が詰まり、呼吸すら苦しい。

そんなに彼女が大事なの?

じゃあ、妻である自分は一体何だったの?

その時、またスマホが鳴った。美宜からのメッセージ。

【泥棒猫!恥を知れ、さっさと司野さんと離婚しなさい!】

「泥棒猫」の三文字が、素羽の心に突き刺さる。

この五年の結婚生活、自分が「盗んだ」ものだったことは痛いほど分かっていた。

もしあの日、偶然がなければ、遥か遠い存在の司野と結婚できるはずがなかった。最初から、住む世界が違ったのだ。

すべてが夢だった。そろそろ夢から覚めるときが来たのかもしれない。

時は静かに過ぎていく。素羽はリビングで何度も時計を見つめたが、司野の車が帰ってくる音は聞こえなかった。体はとうに痺れている。

テーブルの上の離婚協議書を見て、ついに電話を手に取る。

何度もコールしたが、なかなか出ない。やっと繋がった時、素羽は口を開いた。「あとどれくらいで……」

「帰る」という言葉が喉につかえた。その時、電話越しに女の艶めかしい声が聞こえてきた。

「司野さん、痛い……」

その声に続いて、司野の優しい声。「我慢して、すぐ終わるから……」

頭が真っ白になった。耳鳴りがして、全身の血が凍りつく。

深夜、男女二人きり。そして司野が普段どんなに情熱的か、素羽には痛いほど分かっている。

「我慢して……」

その言葉が、呪いのように耳元で繰り返された。目頭が熱くなり、涙がひとしずく、闇に消えた。

もう覚悟はできていたはずだった。それなのに、やっぱり自分の心を見くびっていた。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 流産の日、夫は愛人の元へ   第656話

    司野がなぜ自分を騙したのか、亘を問い詰めようとする間もなかった。個室にいた楓華もまた、廊下に立つ司野の存在に気づいたのだ。彼女は反射的に向かいの席へと視線を向け、胸の奥がざわつくのを感じると、すぐさま立ち上がって個室を出た。そして、背中越しに扉をピシャリと閉め、司野の視線を完全に遮った。「あんた、ここで何してるの」楓華は司野の顔を見るなり、まるで縄張りを荒らされた闘鶏のように、いきなり噛みついてきた。「せっかく外でご飯を食べてるっていうのに、本当に厄介なものに出くわすわね。私がどれだけあんたのことを嫌ってるのか、いい加減自覚したらどうなの?さっさと消えて」亘は気まずそうに眉を寄せた。「楓華……」少しは言葉を選べ、と彼女をたしなめようとする。だが、彼が言い終えるより早く、楓華は鋭い視線を向けた。「何?あんたもこいつと一緒に消えたいっていうの?」亘はその言葉を聞いた瞬間、ぶんぶんと首を横に振った。消えるつもりなど、これっぽっちもない。転がるならベッドの上だけで十分だった。次の瞬間、楓華の視線は司野の肩越しに、その少し後ろに立っていた千尋へと向けられた。彼女の顔には満面の嘲笑が浮かび、鼻で笑うように吐き捨てる。「やっぱり『クズにはクズがお似合い』ってことね。本当に、クズ同士、死ぬまで一緒にいればいいんじゃない?」何年も経っているというのに、いまだに反吐が出るほど仲睦まじいことだ。千尋はその場に立ち尽くしたまま、一歩も前へ出ようとはしなかった。楓華から浴びせられる罵声にも、言い返そうとはしない。どうせここ数年、顔を合わせるたびに嫌味の一つや二つはぶつけられてきたのだ。もうすっかり慣れていた。楓華はこれ以上、彼らと関わるつもりなど微塵もなかった。「さっさと入りなさいよ」それは亘に向けた言葉だった。言われた本人も察しがよく、素直に従う。「はいはい」個室へ入る直前、彼は司野に視線だけで合図を送るのが精一杯だった。――悪く思うなよ。俺にも立場ってものがあるんだ。お前も早く行け。これ以上ここで罵られるなよ。楓華はもう言葉を交わすことすら面倒になり、亘の尻を足で軽く蹴飛ばした。「グズグズしてないで、さっさと入りなさい!じゃなきゃ外に消えなさい」亘はすぐさま尻尾を巻くように

  • 流産の日、夫は愛人の元へ   第655話

    千尋はただ穏やかに微笑み、余計なことは何も言わなかった。それでも、気の利いた振る舞いだけは決して忘れない。美玲はそんな二人を横目に、面白がるように口を挟んだ。「お兄ちゃん、見てよ。千尋さん、今でもお兄ちゃんにすごく優しいじゃない。何年経っても、お兄ちゃんの好みをちゃんと覚えてるんだから。私の記憶が間違ってなければ、その料理って千尋さんの好物だったはずよ。だったら、お兄ちゃんも取ってあげれば?」そう言いながら、美玲は料理の一品を指差し、司野を使おうとする。司野は美玲を横目で睨みつけた。その瞳は凍るように冷たく、何も言葉にはしなかったが、そこに込められた警告は誰の目にも明らかだった。それに気づいた千尋の瞳の奥に、一瞬だけ暗い影が落ちる。だが、表面上は変わらず気遣うような笑みを浮かべ、静かに口を開いた。「自分の分は自分で取れるから、お兄さんを煩わせなくても大丈夫よ」美玲はすぐさま言い返した。「千尋さん、今のあなたはちょっと良妻賢母すぎるわ。もっとお兄ちゃんをこき使っていいのよ。昔はあんなに千尋さんの世話を焼きたがってたじゃない。むしろ、世話を焼かせてあげないと、お兄ちゃんの方が不機嫌になってたくらいなのに。男なんて甘やかしちゃ駄目よ。甘やかせば甘やかすほど、つけ上がるんだから。ねえ、お兄ちゃん。昔、千尋さんをお嫁さんにするって言ってたじゃない。二人はいつ結婚するつもりなの?その時は私がちゃんとブライズメイドをやってあげるから」千尋は唇を噛み締め、そっと司野へ視線を向けた。その瞳の奥には、かすかな期待の光さえ宿っていた。司野はわずかに眉をひそめる。「飯を食っていても、その口は止まらないのか」美玲も負けじと言い返した。「口は食べるためだけについてるわけじゃないもの」司野は容赦なく言い放つ。「お前が黙っていても、誰も困らない」千尋はさらに強く唇を噛み締めた。胸の奥に、言葉にできないほどの失望が広がっていく。自分は一体、何を期待していたのだろう。もう五年も経ったのだ。司野の心がすでに自分から離れていることを悟るには、この五年という時間ではまだ足りなかったとでもいうのか。千尋の視線は、自然と向かいに座る菜穂子へと向かった。その瞳の奥には、思わず羨望の色が浮かぶ。

  • 流産の日、夫は愛人の元へ   第654話

    しかし、司野が身を翻そうとした時には、すでに琴子に腕をしっかりと掴まれていた。逃げようと思った時には、もう後の祭りだった。個室の中。司野は一人、片側の席に座り、残る四人の女性たちは二人ずつ向かい合っている。まるで三者面談でも始まるかのような異様な配置に、司野の眉間にはさらに深い皺が刻まれた。一体これは誕生日の食事会なのか、それとも何か別の目的があるのか。司野には他意などなく、ただ早く食事を終えて、この場から離れたいだけだった。だが、世の中そう都合よくはいかない。「女三人寄れば姦しい」とはよく言ったものだが、四人も集まれば、その騒がしさはさらに拍車がかかる。琴子が口を開いた。「司野、菜穂子さんは北町に来るのが初めてで、何も分からないのよ。お母さんの代わりに、あなたがしっかり面倒を見てあげなさい」当事者である司野が返事をするより先に、隣にいた美玲が割り込んだ。「もう二十歳を過ぎた大人なんだから、口くらいついてるでしょう。分からないことがあるなら、自分から聞けばいいじゃない。私だって十代で海外に行った時は、自分のことは全部自分で何とかしたわ。彼女にできないことなんて、そうそうないでしょう」そう言いながら、美玲は横目で菜穂子を見やり、冷ややかな笑みを浮かべた。「それとも、菜穂子さんは成長が遅れていて、自分のことすら一人でできないの?もしそうなら、私の知り合いのお医者さんを紹介してあげてもいいけど」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、琴子が鋭い声を上げた。「美玲、いい加減にしなさい」この子は本当に礼儀というものを知らない。どうして口にする前に少し考えられないのか。「菜穂子さん、この子の言うことなんて気にしないでね。まだ子供だから、言葉遣いが分かっていないのよ」菜穂子は表情を変えることなく、静かに首を横に振った。「大丈夫です。分かっていますから」その返事を聞いた琴子の笑顔は、さらに本物のものへと変わった。「本当にいい子ね」なんて素直で、できた女性なのだろう。家柄も申し分なく、容姿も美しい。それだけではなく、性格まで穏やかだ。この縁談に、琴子はこれ以上ないほど満足していた。一方、美玲は口を尖らせ、作ったような笑顔を浮かべる菜穂子を横目で見ながら、心の中で吐き捨てた。

  • 流産の日、夫は愛人の元へ   第653話

    琴子は言葉を失った。どうして私は、こんなにも身内より他人をかばう娘を育ててしまったのだろう!千尋は気まずそうに口を開いた。「美玲ちゃん、私、実はちょっと用事があって……」だが、美玲は容赦なくその言葉を遮る。「用事なんてないことくらい分かってるわよ。お母さんの言うことなんて気にしないで。この人、すぐ人に突っかかるんだから。ほら、早く座って」そんな張り詰めた空気の中、菜穂子がプレゼントを手に姿を現した。「琴子さん、お誕生日おめでとうございます」ついさっきまで不機嫌そのものだった琴子は、菜穂子の顔を見た途端、表情を一変させた。曇っていた顔は嘘のように晴れ渡り、満面の笑みで彼女を迎える。「菜穂子さん、よく来てくれたわね。さあ、早く座って」琴子の菜穂子と千尋に対する態度は、まさに雲泥の差だった。その露骨な扱いの違いに、千尋の瞳は静かに曇る。「美玲さん、初めまして。こちら、私からのご挨拶です」菜穂子は人当たりのいい笑みを浮かべ、手にしていたプレゼントを美玲の前へ差し出した。琴子は終始にこやかな笑顔を浮かべ、菜穂子をすっかり気に入っている様子だった。「あら、来てくれるだけで十分なのに。こんなに気を遣わなくてもよかったのよ」しかし、琴子が満足そうな一方で、美玲は面白くなかった。美玲は遠慮なく菜穂子を頭の先からつま先までじろじろと眺め、その探るような視線を隠そうともしない。最後にプレゼントの箱へ目を落としたものの、手を伸ばすことすらせず、無礼な口調で言った。「見たところ、私とそんなに歳も変わらないみたいだけど。どういう物好きで、うちの兄なんかを気に入ったの?わざわざバツイチの男を選ぶなんて、何?うちの財産でも狙ってるの?」琴子は顔色を変え、きつくたしなめた。「美玲!」なんて口の利き方をする子なの。だが、母親に叱られても、美玲は唇を尖らせるだけで、まるで意に介していなかった。自分は何か間違ったことを言っただろうか。二十代そこそこの女性が、もうすぐ四十歳になるバツイチのおじさんを選ぶのだ。お金目当てでもなければ、まさか本気で惚れたとでも言うつもりなのか。よほど物好きとしか思えない。しかし、菜穂子は怒るどころか表情ひとつ変えず、穏やかな微笑みを浮かべたまま静かに答えた。「美玲

  • 流産の日、夫は愛人の元へ   第652話

    琴子の誕生日は、外で祝うことになった。盛大なパーティーを開くわけでもなく、招待客を呼ぶわけでもない。ただ家族三人で食事をするだけ――いや、正確には三人だけではなかった。琴子と美玲が、それぞれ別の人を呼んでいたのだ。琴子が招いたのは菜穂子、美玲が招いたのは千尋。その意図は、誰の目にも明らかだった。琴子は千尋の姿を目にした瞬間、あからさまに眉をひそめた。何の相談もなく千尋を呼んだ美玲への不満と、空気も読まずにやって来た千尋への不快感を隠そうともしない。つい数日前まで自分と言い争っていた美玲が、ようやく機嫌を直してくれたばかりだ。ここで彼女を責めて面目を潰し、また騒ぎになるのだけは避けたかった。せっかくの祝いの日に、自分から水を差すような真似はしたくない。だから琴子は、矛先を千尋へ向けるしかなかった。「千尋さん、お祝いの言葉をありがとう。そのお気持ちだけ、ありがたく受け取らせてもらうわ。でも今夜は家族だけの食事なの。あなたまでおもてなしするのは少し都合が悪くて。また改めて私からお誘いするから、それでいいかしら」そう言いながらも、千尋が差し出したプレゼントに手を伸ばそうとすらしなかった。今の琴子は、息子がこれ以上千尋と関わることを少しも望んでいなかった。この五年間、二人の関係がそれ以上進展する気配はなかった。その様子を見て、息子には千尋とやり直すつもりなどないのだと確信していた。司野が過去に区切りをつけ、未練を断ち切ったというのなら、母親である自分も覚悟を決めなければならない。千尋と親しく付き合うなど、もってのほかだった。それに今の息子には、新しい相手の候補もいる。菜穂子と千尋、どちらを選ぶべきかなど、まともな判断力があれば誰にでも分かることだった。千尋も当然、琴子の拒絶を感じ取っていた。瞳の奥に、一瞬だけ気まずさと焦りがよぎる。招かれてもいないのに押しかけるのが良くないことくらい、彼女自身も分かっていた。それでも、もう長い間、こうした場で司野の顔を見ていなかった。ただ一目、彼に会いたかったのだ。だが、彼女が口を開くより先に、隣にいた美玲が動いた。まるで実の母親の顔を潰すように言い放つ。「お母さん、何言ってるの?誕生日なんだから、賑やかなほうがいいじゃない。千尋さんは私がわざわざ呼んだのよ。このまま帰らせるなん

  • 流産の日、夫は愛人の元へ   第651話

    誠矢はくりくりとした大きな目をくるりと動かすと、慌てて最強の味方である素羽の胸へ飛び込んだ。「ママ、パパがおかしくなっちゃったよ。怖いよ。おばあちゃんが言ってたもん、頭のおかしいのはうつるんだって。早く逃げよう……」ティラノサウルスのように凶暴な父親と、か弱い子羊を演じる息子。その二人を見比べた素羽は、思わず笑みをこぼし、誠矢を抱き上げた。「ええ、早く逃げましょう」誠矢は白い歯を見せてにっこり笑うと、小さな顔いっぱいに得意げな表情を浮かべ、奏へ思いきり挑発的な視線を送った。「俺が抱くよ」奏は大股で数歩進んで母子に追いつくと、素羽の腕の中から誠矢をひょいと抱き上げた。「だから言っただろ。こいつ重いんだから、抱っこしてたら体に負担がかかるって」「ママ、僕、パパの抱っこなんか嫌だよ。パパにぶたれちゃうもん」誠矢は子豚のように体を丸め、素羽のほうへ身を乗り出して、必死に魔の手から逃れようともがく。奏はそのぷくっとしたお尻を、ぺしんと軽く叩いた。「これ以上騒ぐなら、このまま道端に置いていくぞ。パパはママと二人でご飯を食べに行くからな」誠矢は奏の首にぎゅっとしがみついた。「ふん、ママは僕を置いていったりしないもん」奏は意地悪そうに歯を見せた。「パパがおかしくなったって言ったのはお前だろ。だったら、ちゃんとおかしくならないと割に合わないじゃないか」誠矢は実に世渡り上手な子だった。奏の頬にちゅっと大きなキスをすると、透き通るような瞳を一瞬でキラキラと輝かせた。「パパ、僕、本当にパパのこと大好きだよ。どうして僕のパパってこんなに最高なの?僕、世界で一番幸せな子どもだよ」しかし奏は、その甘い言葉の連続攻撃にもまったく屈せず、ふんと鼻を鳴らした。「もう遅いね。今さらご機嫌取りをしても無駄だよ」誠矢は無邪気な笑顔で言った。「もう外は真っ暗だもんね。じゃあ、また明日の昼間にご機嫌取ってあげるね」「……」この大馬鹿野郎が。これのどこが賢いっていうんだよ。素羽は口元に穏やかな笑みを浮かべ、その眉間にはこれ以上ないほど柔らかな表情が宿っていた。今夜の月は、丸く、そしてひときわ明るかった。---奏の身辺調査は、岩治の手によって驚くほど迅速に進められた。わずか一日ほどで、彼の経歴

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status