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2.人々の噂話

Author: 杵島 灯
last update Last Updated: 2025-09-02 20:20:55

 その、およそ六年前。

 グリージア王国は、王太子の婚約に沸き立っていた。

 各方面からかけられる「おめでとうございます」との声を、十五歳の王太子ハロルドは小さくうなずいて受け取る。

 その陰で人々は集まり、密やかに声をかわしていた。

「ハロルド殿下の御婚約者は遠くから来るのですって?」

「海を渡った向こうの大陸にある、シーブルームという国の王女らしい」

「海だと? あの塩辛い水があるという場所か。なんでも独特の匂いもあるらしいな。そんな国から来る王女は、独特の匂いがするかもしれん」

 誰かがそう言って小馬鹿にした調子で笑い、周囲からも忍び笑いがもれた。中のひとりが「そういえば」と口を開く。

「確かに婚約者の王女様は、私たちと違う肌の色をしていたわね」

「知ってるのか?」

「ええ」

 うなずく彼女は、王太子の母である王妃と親しい。

「殿下の元に送られてきた肖像画を見たの。シーブルームの王女は、蜜色の肌をしていたわ」

 周りからは一斉に驚きの声があがった。

 グリージアの人々の肌は白い。たまに遠方から蜜色の肌の人が来ることはあったが、一年で五人見かけるかどうかといった程度でしかない。ほとんどの人が蜜色の肌の人など見たことがなかった。

「そんな遠方からどうしてこのグリージアへ来るのだろう?」

「きっと私たちに憧れているのよ。でなければこのグリージア自体に憧れているんだわ」

 一人がつんと澄まして言う。

「だって私たちも、私たちの国も、特別に美しいでしょう?」

 その意見を聞いて、皆が一斉にうなずいた。

 グリージアは緑の山と青い湖に囲まれた国で、風光明媚な景色を多く擁することで名高い。各国の富裕な人々や貴族がこぞって観光や保養に訪れては、

「こんなに美しい国は他にはない!」

 と、その美しさを称える。

 形の良い山々が青い湖に映る景色も、清々しい森も、咲き乱れる多くの花も、ほかの国よりもずっと鮮やかで瑞々しく見えるそうだ。

 しかもグリージアの人は見目もよく、音楽の才能も秀でている。

 美しい人々が住み、常に美しい曲が流れている、この大陸でもっとも美しい国。

 グリージアはそう称えられていた。

 その評判は海を越えて大陸の向こうまで伝わったのだろう。そうして未開の地に住む粗野な国――シーブルームの王はなんとしても娘を“美しいグリージア”に嫁がせたいと考え、熱心に申し出たに違いない。グリージアの国王はその心に絆され、王太子の妃としてシーブルームから王女を迎えることにしたのだ。

「でしたら私たちも、哀れな泥臭い王女をきちんと一人前にして差し上げるべきだわ」

「そうだな。王女が野卑な振る舞いもなさっても、許してあげよう」

 そう言って人々は密やかな笑いをかわす。

 この五年後、王女の美しさや洗練された振る舞いに、目を見張るとは想像もせずに。

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