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第9話

Author: 容奏
朝の最初の日差しが地面を照らした頃、時哉が扉を開けて入ってきた。

彼は床にいる梨央を冷ややかに見下ろし、その何の感情も映さない凍てついた瞳で言った。「過ちは認めたか?」

梨央の声はとても軽かった。「ええ、認めるわ」

彼女は本当に自分の過ちを認めた。

時哉を愛したことから、彼と結婚すると強情を張った時から、すべてが間違いだったのだ。

時哉の表情が少し和らぎ、先に外に出た。「行こう。家まで送る」

帰り道、会話はなかった。時哉は梨央を家の前で降ろした。

車を降りる時、時哉が不意に口を開いた。「もう、こんな無意味なことはするな。梨央、君にした約束は永遠に変わらない。君が良き妻、良き母でありさえすれば、誰も君の地位を脅かすことはない」

「わかったわ」

梨央の声は淡々としていた。彼女はまっすぐ家の中に入っていった。

悠樹と拓海の部屋を通りかかった時、中から声が聞こえてきた。

「結衣さん、僕たちの計画、うまくいくかな?ママ、本当に家から出て行って、もう僕たちにあれこれ口出ししなくなるかな?」

「結衣さん、ママがいなくなったら、僕もう宿題しない!お菓子もいっぱい食べて、テレビもずーっと見るんだ」

梨央の足は一瞬だけ止まった。だが、すぐに唇の端を上げてかすかに微笑むと、自分の部屋に戻った。

彼女は荷物を手に取ると実家に戻り、両親にすべての事情を話し、別れを告げた。

これから市役所へ離婚届受理証明書を受け取りに行き、そのまま空港へ向かう。

日差しが心地よい。梨央は緑道をゆっくりと歩いていた。

時哉の車が彼女の隣に停まった。窓が下ろされ、助手席には結衣が座り、花束を抱えて、挑発するように梨央を見ていた。

時哉が命じた。「乗れ」

梨央は動かなかった。

時哉は車を降りて梨央の隣に立つと、眉をひそめて彼女の手からスーツケースを受け取った。

「荷物を持って、どこへ行くつもりだ?」

スーツケースが車に乗せられるのを見て、梨央は後部座席に乗り込むしかなかった。

「実家に数日、泊まってくるわ」

時哉は数秒間黙っていたが、車を発進させた。「それもいいだろう。実家でしっかり反省し、頭を冷やしてこい」

滑稽なことに、時哉は梨央が実家とは逆方向に進んでいることに気づいてさえいなかった。

梨央は沈黙していた。適当な口実を見つけて、降ろしてもらおうと考えていた。

車が走り出して間もなく、対向車線のタクシーが突然コントロールを失い、こちらに向かって突っ込んできた。

プップーッ!

甲高いクラクションが鳴り響き、時哉が激しくハンドルを切った。車はタクシーに衝突され、突き飛ばされた。

ガラスの割れる音が響き、梨央の腕と額に激痛が走った。そして熱い血が噴き出した。

意識が朦朧とする中、梨央は時哉が慌てて車を降り、助手席側に回り込んで、結衣を抱きかかえて降ろすのを見た。

彼の声は震えていて恐怖を帯びていた。「結衣、大丈夫か?」

「平気よ」結衣は時哉を安心させるように笑った。「ガラスで切ったみたいだけど、ほんのちょっと。たいした怪我じゃないわ」

梨央は時哉が目を真っ赤にして結衣を抱きしめ、まるでその体を自分の中に埋め込むかのように、力を込めているのを見た。「無事で良かった……結衣、僕はもう二度と君を失うことはできない……

病院へ送る。車は誰かに処理させるから」

時哉の唇が結衣の額に落ちた。そして、結衣を抱きかかえながら去っていった。

最初から最後まで、時哉が梨央を振り返ることは一度もなかった。

おそらく、彼はもう梨央のことなど忘れてしまったのだろう。

……

梨央がふと気がつくと、そこは病院の病床の上だった。

額と腕には包帯が巻かれ、スーツケースがそばに置かれていた。

彼女は安堵のため息をついた。看護師から、加害者であるタクシーの運転手が彼女を病院に運んでくれたと聞いた。

梨央はスーツケースを手に取ると、制止する医療スタッフを振り切り、退院手続きをした。

急いで市役所に向かい、閉庁時間ぎりぎりで、離婚届受理証明書を手に入れた。

梨央は自分の分だけを受け取ると、時哉の分の証明書と彼の研究所の電話番号を職員に渡した。「お手数ですが、お時間のある時に、彼に受け取りに来るようご連絡をお願いできますでしょうか」

市役所から出ると、夕陽は街の外れに傾き、道行く人々の影が長く伸びていた。

梨央は入り口にしばらく立ち尽くしていた。ちょうど仕事帰りらしい若い夫婦がランドセルを背負った二人の子供を連れて、楽しそうに家路へたどっていた。その弾むような笑い声が遠くへと響いては、消えていくのが聞こえた。

張り詰めていた糸がぷつんと切れた。梨央はその場にうずくまると、もう声を抑えることもできず、ただ泣きじゃくった。

……

深夜、南へ向かう飛行機がゆっくりと空に昇っていった。

窓際に座った梨央は夜の闇に沈む漆黒の街を見下ろし、そっと息を吐き出した。

六十年もの間、彼女を縛りつけてきたあの呪縛がついにこの瞬間、完全に解け、跡形もなく消え去った。

この人生は、ただ、自分自身のために生きる。

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