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第7話

Author: 白団子
人々の視線が集まる中、ついに結婚式が始まった。

式場は海辺。

涼音は海が大好きだった。

成人の日、おじさんに「もし将来お嫁に行くなら、海辺で式を挙げたい」と話したことを覚えている。

バラの花びらが道を彩り、海面にはピンク色の灯籠が浮かび、豪華なクルーズ船で、真っ昼間に打ち上がる花火……

そんな夢を語った。

そして、おじさんは、その全てを叶えてくれた。

ただ、残念なことに、その結婚式の主役は、自分ではなかった。

涼音はシンプルな白いロングドレスに着替え、ブライズメイドとして式に立つ。

海風が吹き抜けるたび、スカートの裾が舞い、まるで精霊のように軽やかだった。

一方、月綺は豪奢なウェディングドレスに身を包む。その気品と重厚さは、涼音の儚さと対照的だ。

西洲は黒のオーダースーツに身を包み、月綺の隣に立つ。その姿は、どこか冷たく威厳に満ち、まるで古の帝王のようだった。

「おじさん……」涼音は、そっと声をかけた。「抱きしめて、もらってもいい?」

不思議だった。ついこの前まで、毎日血を吐き、言葉もろくに話せないほど弱っていたのに、今日はなぜか、最後の輝きのように意識が冴えて、体も心も軽い。痛くも苦しくもない。

「涼音、式の最中に俺に喧嘩を売るな」西洲は低く、怒りを抑えた声で答えた。

彼は、彼女がまたわがままを言っているのだと思っていた。まさか、これが彼女の命が尽きる前、最後の願いだとは知らずに。

「おじさん……式が終わったら、私、もういなくなるの」涼音の声はか細く、必死だった。「これが、最後の願いなの。本当に、叶えてくれないの?」

その瞳はあまりにも哀しげで、西洲の心が微かに揺らぐ。

けれど、彼はあえて冷たく言い放つ。「出て行きたいなら、今すぐ出て行け。俺を脅すな」

彼は、彼女が自分を置いて去るはずがないと信じていた。

涼音も、未練がなかったわけじゃない。けれど、もはや自分の意志でどうにかできる状態ではなかった。

今日は、特効薬を飲み続けて七日目。もう、とっくに命の火は燃え尽きていた……

案の定、西洲が離れた直後、涼音は喉から鮮血を吐いた。

白いドレスは血で真っ赤に染まり、意識も遠のいていく。

何が起きているの?

周囲は騒がしいのに、声が遠い。何を言っているのか、全然分からない。

涼音は頭を叩こうと手を伸ばし、ふと気付く。手が、血まみれだ。

手だけじゃない。体も、足元の地面も、血の海。

まずい、ドレスを汚しちゃった。おじさんが怒る。

いや、もうおじさんは怒っている。追い出されたんだ、今すぐ出て行けと。

そう思って、涼音はくるりと背を向け、海辺を離れて歩き出す。

「お嬢さん、大丈夫?血を吐いてるよ?救急車呼ぼうか?」誰かに声をかけられたが、どこにそんな力があったのか、彼女はその人の手を振り払って歩き続けた。

早く、ここから離れないと。おじさんの結婚式を、台無しにできない。

裸足のまま、柔らかな砂を踏みしめ、やがて固いコンクリートへ。道路沿いを、ひたすら歩き続ける。

どこへ行けばいい?この世界は広い。みんなには帰る家があるのに、自分には何もない。

父も母も死に、おじさんにも捨てられた。

行き交う人は多いけど、誰一人知った顔はいない。自分がどこから来て、どこへ行くのかも分からない。

ただ、歩き続けるしかなかった。止まったら、誰かに見つかってしまう。誰の幸せも壊さないように、遠く遠くへ。

背後では白昼の花火が上がり、結婚式の歓声が響く。

その時、涼音はまた血を吐いた。

通りすがりの人々が驚き、誰かが心配して声をかける。

けれど、涼音は首を振り、また歩き出す。

彼女の後ろには血の跡が続き、前には未来が見えなかった。

最後はふらふらと、裸足のまま、気付けば彼女は、またあの精神病院の前に立っていた。

自分がどこにいるか理解した瞬間、涼音はふと笑う。笑いながら、また血を吐いた。

悲しいね。自分が帰れる唯一の場所が、自分を狂わせたこの場所だなんて。

ずっと逃げたかったこの場所が、今や唯一戻れる場所なんて。

最後の命の灯が、静かに消えていく。涼音はその場に崩れ落ち、冷たい床に倒れ込む。

「もう、来ないよ……」彼女は呟き、目尻から一滴の涙がこぼれた。「この人生だけで、もう十分。次は、もう来ない」

おじさん、さようなら。

あなたがもう私を見たくないなら、もうあなたの人生を邪魔しない。

天の果てでも、地の底でも、生まれ変わっても、もう、二度と会わない……

ちょうどその頃、結婚式会場で、西洲は涼音がいないことに気付く。

「また何をやらかした?どこ行ったんだ?」

気にしたくないと思いながら、気になって仕方がない。結局、部下に涼音の行方を探すよう命じる。

だが、部下が戻る前に、騒然とした声が彼の耳に届く。

「なあ聞いたか?あの精神病院で誰か死んだらしいぞ」

「ネットで大騒ぎになってる。白いドレスの女の子が全身血まみれで、裸足で病院に歩いていって、そこで倒れたって」

「その動画見たけど……あれ、うちのブライズメイドのドレスにそっくりじゃないか?」

「いや、あれ絶対うちのブライズメイドだよ!さっき血を吐いてたし、病院行こうかって声かけたけど、全然聞いてくれなくてさ」

西洲は呼吸が止まりそうになり、まるで何かを悟ったかのように、震える手でスマホを取り出す。

動画はすぐに見つかった。画面の向こう、西洲が大切に育てたバラのような少女が、裸足で、血まみれで歩いている。

その一歩一歩に、血の跡が残る。

あれは、涼音だ!

彼の、涼音だ!

涼音は、どこへ行ってしまったんだ?
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