午前9時。
勤務先である竹浦総合病院の救急病棟。「樹里先生。顔色悪いですよ」
仲良しの看護師、真衣ちゃんが顔を覗き込む。 「へへへ。ちょっと風邪気味でね」 何て笑って誤魔化した。私、竹浦樹里亜(タケウラ ジュリア)は駆け出しの救命医。
東京の私立大学医学部を卒業後、研修医時代から数えてこの病院の勤務は3年目。「本当に大丈夫ですか?」
師長まで、心配そうな顔をする。まあ、それもそのはず。
今日は私がドクターヘリの担当なのだ。 呼び出しがあればすぐに行かなくてはならないし、飛び立ってしまえば自分の体調不良なんて言っている暇はない。その時、
『ドクターヘリ。エンジンスタート』 無線機から声が響いた。まずは屋上ヘリポートへ猛ダッシュ。
すると多少の頭痛も走っているうちに気にならなくなる。あっという間に、フライトナースと私を乗せたヘリは飛び立った。
すでに装備のチェックはすませているから、患者の状況を確認しながら処置の準備をする。出動要請は交通事故による外傷。
山道の国道で車同士の正面衝突。 周辺にヘリの降りられそうなところはなく、最寄りの小学校校庭に着陸して現場まで救急車が私達を運ぶ。今回の事故では重傷者1名。軽症者3名。
あっという間に現場に到着し、とりあえず応急処置をしてから、軽症者は救急車で近くの病院へ搬送。ヘリには重傷者を乗せて帰ることとなった。
次々に入ってくる現場からの情報を確認していくと、どうやら頭部を強く打っている様子だ。
『頭部の外傷があるようです。CTの用意と脳外科にコールをお願いします』
救急外来へ無線連絡をして、私達を乗せたヘリは病院に向かった。***
30分ほどでほぼ県内を横断し、ヘリは病院へ到着。
「お疲れ様」
脳外科医である私の兄、大樹が待っていてくれた。「どお?」
「うーん。CT撮ってみないと分からないけれど、オペになりそうだな」 やっぱり。「ところで、樹里亜。お前、顔色が悪いぞ」
「そ、そんなことないわよ」
誤魔化そうとしたけれど、大樹には通用しそうにない。
困ったな。と思っていると、
ん? 急に額に手を当てられた。 咄嗟に逃げようとしたけれど、捕まってしまい、 「熱があるな。今日のヘリは交代しろ」 有無を言わせない強い口調。「イヤよ。余計な事言わないで」
もちろんふてくされながら言い返したが、きっと無駄だろう。「おいおい兄弟喧嘩か?」
通りすがりの救急部長がからかうけれど、元を正せば全く酒が飲めず少しのアルコールでも過剰反応してしまう私に、昨日の夜お酒を飲ませたのはあなたです。
本当に恨めしい。「もしもし、脳外の竹浦ですけど」
PHSで大樹が電話をかけている。その相手が救命の先輩ドクターだとすぐに分かった。
慌て手を伸ばしPHSを奪おうとしたけれど、身長180センチ越の大樹と150そこそこの私では結果は見えていた。「交代が来るから。今日は病棟で勤務しろ」
「イヤよ」大体、何で脳外科のドクターにそこまで言われなくてはならないんだろう。
おかしいわよ。「絶対にイヤ」
強気で言い切ったけれど、 「このまま実家に連れて帰ろうか?」 冷たい表情で言われ、私は黙り込んだ。これ以上言えば、本当に実家に送り帰されてしまう。
仕方なく、私は救急外来を後にして病棟へ向かった。***
竹浦大樹は、私の4歳年上の兄。
そして、ここ竹浦総合病院の跡取り息子。 脳外科医としての腕もさることながらその優しい物腰から王子と呼ばれていて、女性にもかなりモテるらしい。 しかし先ほどの流れからも分かるように、私にとっては超過保護な兄。 ただ優しいだけではなくて、一旦言い出したら聞かないところが、面倒くさいことこの上ない。 勤務途中で戻されたことに、「何でこんな目に遭わなくちゃいけないのよ」とブツブツ言いながら、私は病棟センターに入った。「樹里先生。大丈夫ですか?」
1年後輩の千帆先生が寄ってくる。「ちょっと風邪気味で・・・本当に、ごめんね」
きっと私のヘリ担当を変わってくれることになる彼女に、手を合わせてしまった。「いいえ、大丈夫ですよ。今日は私がヘリに乗りますから、気にしないでゆっくり休んでください」
元気に笑ってくれる後輩に、「ごめん」としか言葉が出ない。申し訳ないと思う気持ちで一杯なのに頭痛も相変わらずで、熱っぽさまで感じだした。
本来なら風邪薬でも飲みたいところだけど、私は簡単には飲めない。 薬やアルコールに過剰に反応する体質が、それをさせてくれない。 ああ、面倒くさいな。昼になっても、体調は悪化するばかり。
ご飯は食べられないし、急に立ち上がると目眩までする。 「樹里先生。本当に悪そうだよ」 先輩ドクター達まで声をかける。 でも、大丈夫。 このくらいの体調不良なら学生の頃から何度も経験している。 しかし、こんな日に限って病棟の急変が続いて、ナースコールも鳴り止むことがなかった。はあー。
思わずため息を着いたとき、 「樹里先生、お願いします」 慌てた様子の看護師に呼ばれ、私は駆け出した。しかし次の瞬間。
ガチャンッ。 近くのカートにつまずき、床に膝をついた。「本当に大丈夫ですか?」
看護師達が駆け寄り、みんなの視線が集中する。「竹浦先生。具合が悪いなら帰ってください。仕事を増やされても困るんだ」
飛んできた冷たい言葉に、その場にいたみんなが黙り込んだ。
声の主は、高橋渚(タカハシ ナギサ)。
研修医時代からの同期で、私と同い年の26歳。 綺麗な名前や端整な顔立ちとは対照的に、誰にでも冷静で冷たい態度からアイスマンと呼ばれている。 噂では、アイスマンに睨まれると凍りついてしまうとか・・・馬鹿らしい。しかし、今日のアイスマンはかなりご機嫌が悪いようで、
「もういいから、帰って」 そう言うと、私が手に持っていた点滴キット入りのトレイを奪った。立ち尽くす私。
「樹里先生、今日はもういいから。帰りなさい」
とうとう部長まで出てきた。結局、私は早退することになった。
遠く方から、先輩ドクター達の冷ややかな視線を感じいたたまれなかった。 いくら院長の娘でも、先輩達は怖い。 ただでさえ注目されているのに、これでまた噂の的になることだろう。 はあー。 大きく息を吐いて肩を落とした私は、白衣を脱ぎ病棟を後にした。目が覚めると、アパートのベットに眠っていた。 「うぅーん」 頭が割れるように痛い。 あれ?私は昨日どうやって帰ってきたんだろう。 えっと・・・ バーでカクテルを飲んで、迎えを呼んだらって言われて、大樹先生に電話を あー。 もしかして・・・ 恐る恐る後ろを振り返る。 マ、マズイ。 そこには大樹先生がいた。 「起きたのか?」 「は、はい」 恥ずかしくて直視できない。 「呼んだのはお前だからな」 「え、ええーと、確か電話は切ったはずでは、」 「好きな女から着信があれば普通かけ直すだろうが」 はー、確かに。 って、好きな女? 「いきなりマスターが電話に出て驚いたぞ」 「すみません」 「大体、何で記憶がなくなるまで飲むんだよ」 「ごめんなさい」 もう、大樹先生には恥ずかしいところばかり見せている。 「で、結衣ちゃんは?」 どうやらアパートに結衣がいないのが気になるらしい。 「昨日は父親の実家に泊まりに行ったの。月に1度の約束だから」 「へー、どんな人?」 「え?」 「結衣ちゃんのお父さん」 「えーっと、高校時代の先輩で普通の商社マン」 「好きだったんだよな」 どこか探るように聞く。 「大樹先生、誤解しないでください。彼は結衣の父親だけど認知もしてないし、結婚を考えられる相手ではなかったの。初恋の人には違いないけれど、それだけ。結衣が泊まりに行くのも彼の両親の立っての希望で。もちろん、私が結婚するまでって約束だけど」 「ふーん」 まるで興味がない風に返事をして、大樹先生はベットを出
大樹先生がアパートに泊ってから2ヶ月。 あの時はっきり断ったから、声をかけてくることはなくなった。 病院でも、何もなかったように普通に接してくれる。 それが寂しい気がするのは、私のエゴね、きっと。 「杉本さん、今日は日勤だったでしょ?」 勤務時間を過ぎても帰る様子を見せない私に、師長が声をかけた。 最近は労務管理がやかましくて、師長も残業にはピリピリしている。 「すみません。もう、帰ります」 「そう、お疲れ様」 追い立てられるように病棟を後にした私。 かといって、アパートに帰る気にはなれない。 その理由は、今日は結衣がいない日だから。 はー、寂しいな。 今まで子育てに忙しくて、1人がこんなに寂しいなんて思ったことがなかった。 このまま買い物にでも行こうかな。 良さそうな店があれば1人で飲んでもいいし。 こんな時に大樹先生がいたらいいのになあ。 バカバカ、自分が拒絶したんだった。 何考えているんだろう私。 結局足が向かったのは、以前大樹先生に連れられて行った駅前のバー。 「何かお作りしましょうか?」 マスターに声をかけられ、 「ええ、オススメのカクテルをお願いします」 注文してしまった。 「おいでになるのは2度目ですね」 「覚えているんですか?」 「はい。随分酔っていらっしゃいましたから」 はあ、そういうこと。 顔が赤くなってしまった。 「今日はお一人ですか?」 「ええ」 「どうぞ」 と出されたのは、薄いブルーの液体。 「うん、美味しい」 今日、結衣は父親の実家に行っている。
まだ桃子とデートもしたことがないのに、1日結衣ちゃんと過ごした。 行きたかったというパーラーでフルーツパフェを食べ、本屋や洋服屋を周り、スーパーに寄った。 「夕食、何にしようか?」 「うーん」 俺も結衣ちゃんもそんなに料理が得意なわけではない。 できれば、桃子が帰ったときには食事の用意ができているようにしたい。 なおかつ、俺も桃子も結衣ちゃんも好きなメニュー。 結構ハードルの高い難題に、頭を悩ませた。 「そうだ、お鍋にしようか?」 考えてみれば、今は冬ではない。 でも、いいじゃないか。 冷房を効かせてでも、今夜は鍋が食べたい 桃子は鶏肉が好きらしいし、結衣ちゃんの希望はソーセージ。 俺は・・・魚貝が食べたい。 豆腐、白菜、キノコに、〆のうどん。 そういえば寄せ鍋ってどうやって作るんだ? 「結衣ちゃん寄せ鍋作ったことある?」 「えー、大樹先生はないの?」 「うーん、ないなあ」 家は母さんが台所を仕切っていたし、父さんや俺が台所に入ることなんてないし。 「大丈夫、スマフォで検索すればすぐにわかるから」 はあー、今時の子だなあ。 アパートに帰り、桃子の帰宅に会わせて準備を始めた。 結衣ちゃんはとっても手際が良くて、どちらかというと俺の方が使われている気がする。 「もうすぐ帰って来るね」 「ああ。食器と箸持って行った?」 「うん。ゆず胡椒もね」 ゆず胡椒? 「随分大人な物が好きなんだな」 「違う、ママが使うの。結衣は辛いの食べられないから」 「フーン」 子供がいればそうなるのか。 「ただいまー」 「「お帰り」」
10時を回ってようやく結衣ちゃんが部屋から出てきた。 「おはよう」 「・・・」 「ママ、心配そうにお仕事に出かけたぞ」 「・・・」 「ご飯食べる?」 「・・・」 返事はしないつもりらしい。 それでも、結衣ちゃんのために味噌汁は温め、ご飯もよそった。 「結衣ちゃん、ご飯食べちゃって」 「・・・」 やはり返事はせず、不機嫌そうに席に着いた。 「いただきます」 「はい」 どんなに怒っていても、きちんと「いただきます」が言えるのは桃子の躾のお陰かもしれない。 なんだかんだ言って、結衣ちゃんはいい子だ。 「ママに告げ口したの?」 「え?」 「だって」 ああ、俺が桃子に話したことを怒っている訳か。 「本当は結衣ちゃんから話してもらうつもりだったんだ。でも、昨日の夜家に結衣ちゃんがいなくてママがすごく心配したから、黙っていられなかった」 「嘘」 「え?」 「ママは結衣よりお仕事が大事なのに」 はあ? 「そんなことないよ。ママは結衣ちゃんが何よりも大事なんだ。昨日の夜、ちゃんと話しただろう?」 「でも、又お仕事に行ったじゃない。今日は映画に行く約束だったのに。ママなんて・・・嫌い」 「結衣ちゃんっ」 思わず語気を強めた。 結衣ちゃんだって、ママが仕事を頑張っているのはわかってくれたはずだ。 きっと、楽しみにしていた映画がダメになって機嫌が悪いだけ。 こうしてわがままを言ってくれるのは、打ち解けた証拠。 理解はしているんだが・・・ カチャカチャと音をたて、玉子で遊びだした結衣ちゃん。 あまり食欲がないようだ。
翌朝。 いつもより早く目が覚めてしまった。 リビングのフローリングは思いの外堅くて、昨夜はなかなか寝付けなかった。 午前6時。 彼女、イヤもういいだろう。 こうしてアパートに泊めるくらいに心を許しているんだ、桃子って呼んでも問題ないはずだ。 桃子も結衣ちゃんもまだ目覚める様子はない。 昨日の夜は遅くまで起きていたんだから仕方ないか。 そういえば、今日仕事になったって言っていたな。 結衣ちゃんに話すって言っていたのに、きっと話せてないだろう。 昨日の晩は色々あったから。 さて、コーヒーでももらおうか。 うぅーん。と伸びをして立ち上がると、肩と腰が重い。 まいったなあ。 こんな事なら、狭くてもソファーで眠るんだった。 「痛て」 キッチンへ向かいながらつい口をついてでた。 まるでじじいだな。 アパートらしくコンパクトにまとめられたキッチン。 広くはないが良く整理されている。 昨日も遅かったはずなのに、鍋も食器も綺麗に片づけられていて、予約タイマーがセットされていた炊飯器が湯気を出している。 いかにも、手を抜かない桃子らしい。 その時、 「先生?」 背後から声がした。 「おはよう」 「おはようございます。姿が見えないから、帰ったのかと思いました」 普段病院で見せるより少しだけ穏やかな表情。 「目が覚めたから、コーヒーでももらおうかと思って」 「いれましょうか?」 パジャマ姿でスッピンのまま、キッチンに入ってくる。 「いいよ。今日は仕事
ガチャ。 玄関を開け、まず俺が先に入った。 結衣ちゃんは、ドアの前を動こうとはしない。 「ほら、入って」 少し強引に、手を引いた。 ここまで連れてくるのに、結構苦労した。 「ママに会えない」と泣き出す結衣ちゃんを「このまま逃げても何の解決にもならないよ。僕が一緒に行くから、帰ろう」となだめすかしながら連れ帰ってきた。 「結衣っ」 玄関まで駆けよった彼女が、強い口調で名前を呼んだ。 それでも、結衣ちゃんは動かない。 靴も履くことなく、俺を押しのけて部屋の外に出た彼女は 「いつまでそんな所にいるの。早く入りなさいっ」 ギュッと腕を引っ張って、結衣ちゃんを部屋の中に入れた。 「今何時だと思ってるの。小学生が出歩く時間じゃないでしょう」 いつもの冷静な彼女からは想像できない取り乱しようだ。 「結衣はいつからそんなに悪い子になったの」 「そんなに一方的に言うなって」 つい口を挟んでしまった。 「先生は黙っていて。結衣をこんな子にしたのは私の責任なんだから」 「こんな子って、結衣ちゃんはいい子だよ」 「小学生のくせに夜中まで遊び歩いて、どこがいい子なのよ」 話している間に興奮してきたのか、彼女が結衣ちゃんに手を振り上げた。 「オイ、やめろ」 とっさに振り上げられた手をつかむ。 「いい加減にしろ。さっき言っただろう。まずは結衣ちゃんの話を聞け。その上で違うところがあれば言えばいいだろう。お前みたいに一方的にまくし立てたんじゃあ会話にならないじゃないか。冷静になれ」 叱りつけてしまった。 うわぁー。 泣き出す結衣ちゃん。 座り込む彼女。 俺もその場に立ち尽くした。