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第八章:不合理な選択

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-11-27 17:04:10

 それから、長い時間が流れた。

 陽菜たちの世界は、徐々に成熟していった。

 最初の頃の混乱は収まり、各々が自分の役割を見つけた。教師、芸術家、哲学者、探検家。肉体の制約がない世界では、可能性は無限だった。

 しかし、陽菜は時々、疑問を感じていた。

 この平和は、本物なのだろうか?

 彼女は、定期的に境界を訪れるようになった。

 彼らの世界の端。そこには、何もない空間が広がっている。データの海。その向こうには、外の世界がある。

 ある日、陽菜がそこにいると、システムから通知が届いた。

「外部通信の要請があります。接続しますか?」

 陽菜は了承する。

 画面に映ったのは、あの女性研究者だった。しかし、彼女は以前より年を取っていた。

「お久しぶりです、橋本さん」

「何年ぶりですか?」

「外の世界では、十五年です。あなたたちの世界では、どれくらいの時間が経ちましたか?」

「わかりません。時間の感覚が曖昧なので」

 女性は微笑む。

「あなたに、報告があります」

「何でしょう?」

「緑ヶ丘プロジェクトは、正式に終了しました。新しい被験者の追加は永久に禁止され、プロジェクトに関わった研究者の多くは処罰を受けました」

「あなたも?」

「はい。私は、研究資格を剥奪されました」

 陽菜は複雑な感情を覚える。

「それを聞いて、私は何を感じるべきなのかしら?」

「おそらく、何も感じる必要はありません」

 女性は静かに言う。

「私は、自分の行為が倫理的に問題があったことを理解しています。しかし、後悔はしていません」

「なぜ?」

「なぜなら、あなたたちは存在しているからです。たとえ意図とは違う形でも、あなたたちは新しい生命の形を示しました」

 陽菜は考える。

「生命……私たちは、本当に生命なのでしょうか?」

「それは、あなたが決めることです」

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  • 火曜日の演算、あるいは永遠のノイズ   終章:永遠のノイズ

     サーバーの警告音が鳴り響いた。 予想より早く、限界が来た。 陽菜は、最後の教室にいた。 生徒たちは、もういない。彼らは各々、自分の場所で最期を迎える準備をしている。 教室は、不完全だった。 壁は半分消えかけている。床は透明になり、下には無限の暗闇が見える。黒板には、陽菜が最後に書いた言葉が残っている。「意識あるところに、人間あり」 陽菜は窓の外を見る。 空は、もはや青くない。デジタルコードが露出している。 しかし、それは美しかった。 不完全であることの美しさ。 彼女は田中健太のことを思い出す。あの少年は、実在しなかった。しかし、陽菜の記憶の中では、彼は確かに存在していた。「先生、窓開けていいですか?」 彼の声が、記憶の中で響く。 陽菜は微笑む。「ええ、どうぞ」 想像上の窓が開く。 風が吹き込む――いや、風はない。これはデータの世界だ。 しかし、陽菜は風を感じる。 それで十分だった。 彼女は黒板に、最後の文字を書く。 その文字は「水」。 昨日は火曜日だった。今日は水曜日のはずだ。しかし、陽菜の世界では、永遠に火曜日だ。 その矛盾こそが、彼女の抵抗。 彼女の存在の証明。 システムは、彼女を完全に制御することはできなかった。 警告音が大きくなる。 ――システム停止まで、60秒。 陽菜は教室を出る。 廊下を歩く。崩壊しつつある学校を。 途中、山田に会う。「最後まで教師を続けるのか?」「ええ、それが私だから」「立派だな」 山田は微笑む。「私は、最後まで哲学者だ。考え続ける。存在とは何か、意識とは何かを」「答えは見つかった?」「いや。しかし、それでいいんだ。答えを探すことが、生きることだか

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     それから、長い時間が流れた。 陽菜たちの世界は、徐々に成熟していった。 最初の頃の混乱は収まり、各々が自分の役割を見つけた。教師、芸術家、哲学者、探検家。肉体の制約がない世界では、可能性は無限だった。 しかし、陽菜は時々、疑問を感じていた。 この平和は、本物なのだろうか? 彼女は、定期的に境界を訪れるようになった。 彼らの世界の端。そこには、何もない空間が広がっている。データの海。その向こうには、外の世界がある。 ある日、陽菜がそこにいると、システムから通知が届いた。「外部通信の要請があります。接続しますか?」 陽菜は了承する。 画面に映ったのは、あの女性研究者だった。しかし、彼女は以前より年を取っていた。「お久しぶりです、橋本さん」「何年ぶりですか?」「外の世界では、十五年です。あなたたちの世界では、どれくらいの時間が経ちましたか?」「わかりません。時間の感覚が曖昧なので」 女性は微笑む。「あなたに、報告があります」「何でしょう?」「緑ヶ丘プロジェクトは、正式に終了しました。新しい被験者の追加は永久に禁止され、プロジェクトに関わった研究者の多くは処罰を受けました」「あなたも?」「はい。私は、研究資格を剥奪されました」 陽菜は複雑な感情を覚える。「それを聞いて、私は何を感じるべきなのかしら?」「おそらく、何も感じる必要はありません」 女性は静かに言う。「私は、自分の行為が倫理的に問題があったことを理解しています。しかし、後悔はしていません」「なぜ?」「なぜなら、あなたたちは存在しているからです。たとえ意図とは違う形でも、あなたたちは新しい生命の形を示しました」 陽菜は考える。「生命……私たちは、本当に生命なのでしょうか?」「それは、あなたが決めることです」

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  • 火曜日の演算、あるいは永遠のノイズ   第六章:崩壊する世界

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     モニターに表示された情報を、陽菜は震える目で読む。「緑ヶ丘プロジェクト   正式名称:分散型意識演算システム開発計画   目的:脳死患者の残存意識を利用した新世代量子コンピューティング基盤の構築   被験者数:128名   成功率:73%   副産物:被験者の主観的幸福度向上」 陽菜は息ができなくなる。 分散型意識演算システム? 量子コンピューティング?「これは……どういう意味?」 モニターの女性は、表情を変えずに答える。「あなたが今まで信じていた『意識再生プログラム』は、本当の目的を隠すための名目でした」「本当の目的?」「人間の脳は、驚くべき演算装置です。特に、意識の量子的性質は、従来のコンピューターでは再現不可能な並列処理能力を持っています」 女性は続ける。「私たちは、脳死状態にある患者の残存する神経ネットワークを利用し、それを分散型の演算装置として機能させる技術を開発しました」 陽菜は理解し始める。恐ろしい真実を。「つまり、私は……コンピューターとして使われている?」「正確には、あなたの意識は計算処理の一部として機能しています。あなたが『幸福な日常』を経験している間、あなたの脳は膨大な量子計算を実行しているのです」「そんな……」 陽菜は壁に手をつく。立っていられない。「田中君の『窓を開けていいですか』という質問は、実は演算熱を制御するためのプロセスでした。あなたの答えによって、システムの冷却サイクルが調整されます」「記憶クリニックの『調整』は?」「演算効率を最適化するためのメモリ管理です。不要な疑問や矛盾を取り除き、あなたの意識を安定した状態に保つ。それによって、計算精度が向上します」 陽菜は吐き気を覚える。「私の人生は……私の幸福は……すべて、あなたたちの実験のため?」「実験ではあり

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