LOGIN飛行機が着陸する頃には、もう夕方になっていた。雲が低く垂れ込み、海風が潮の香りとひんやりとした湿気を運んできた。見慣れない文字、聞き慣れない言語、空気の中に漂う匂いさえも、普段とは違っていた。真衣たち三人が空港の到着口を出ると、担当者が迎えに来ていた。担当者は地味な服装で、精悍な面持ちをしており、軽く頷いて合図をした。彼は三人の手荷物を受け取ると、すぐ脇に停めてある黒い車に案内した。ドアが閉まると、車内は空港の喧騒から離れ、静寂に包まれた。街並みにネオンが灯り、行き交う人の肌の色も様々で、三人ははっきりと意識した――ここは遠い異国の地なのだと。「今日はホテルでお休み下さい。明朝、実験室までの送迎車を手配してありますので」担当者は続けた。「この辺りは、状況が複雑なので、夜間の外出は極力控えて下さい。何かあれば、直接私までご連絡を」三人は頷いた。その後、道中の車内で会話は交わされず、車は比較的静かな地区に入り、警備が極めて厳重なホテルの前に停まった。ロビーはシンプルな造りで、旅行客の姿はなく、その雰囲気から、外交関係者専用の宿泊所であることが伺えた。担当者がルームキーを手渡した。「すみません、実は部屋数が足りず、二部屋しかご用意できなかったんです」彼は安浩と沙夜を見て言った。「お二人はご夫婦だと伺っていたので、一部屋はダブルルームをご用意しています……」担当者は、申し訳なさそうに言った。沙夜は、表情を変えなかった。偽装結婚ではあるが、彼女と安浩は対外的に正式な夫婦として振る舞っていた。ましてや、今二人は海外に派遣されている。素性を明かして、面倒を起こすわけにはいかない。安浩は落ち着いた表情で頷いた。「大丈夫です、問題ありませんよ」沙夜も「ええ」と相槌を打った。このような状況下では、彼らは見せかけの夫婦を演じるしかない。担当者は真衣と沙夜を見て言った。「ダブルルームは女性お二人で使用されても構いません。女性一人だと少し不安でしょうから」安浩も同意した。「確かに。その方が安心できるかもしれないね」しかし真衣は首を振り、安浩と沙夜を見て言った。「いいえ、私は一人で大丈夫です。シングルルームを使います。二人とも疲れているでしょう。ゆっくり休んで。私は一人の方が却って都合がいいから
「準備は整った?」安浩が尋ねた。「ええ」真衣は頷いた。「行きましょう」三人はそれ以上言葉を交わさず、直接階下へ降りて車に乗り込んだ。車内は静かで、誰も任務について話さず、沈んだ気持ちを隠すように、何気ない会話を交わすだけだった。空港に到着すると、出国手続きから保安検査、搭乗まで、すべてが順調に進んだ。彼らは、搭乗人数の少ない国際便に乗り、隣同士の席に並んで座った。飛行機は離陸し、ゆっくりと上昇していった。隣で目を閉じて休んでいた沙夜の顔色が、次第に青ざめていった。飛行機が乱気流に遭遇し、機体に軽い揺れが生じた。元々乗り物に酔いやすい沙夜は、気分が悪くなり、眉をひそめながら、思わず口元を押さえた。「どうした?」安浩は真っ先に彼女の異変に気づき、身を乗り出して尋ねた。沙夜はかすれた声で言った。「少し酔っちゃって……気持ち悪い」安浩はすぐに呼び出しボタンを押し、自分の鞄から水筒を取り出した。「白湯を持って来たんだ。少しずつ、ゆっくり飲んでごらん」安浩が状況を説明すると、客室乗務員がエチケット袋とアロマオイル持って駆け付けた。彼はエチケット袋を沙夜の前に差し出した。「我慢できなかったらこれを使って」沙夜は頷いたが、必死に吐き気を堪えていた。安浩はアロマの蓋を開け、彼女の鼻の下に近づけ、手を伸ばして彼女の座席を少し後ろに倒し、より楽な姿勢を取れるようにした。彼の振る舞いは自然且つ細やかで、気配りも行き届いていた。彼は静かに沙夜の傍に寄り添い、時折「気分はどう?」と声をかけた。沙夜は目を閉じたまま、「うん」と呟いた。彼女は、実は少し驚いていた。安浩は、優しく穏やかな性格だが、いつもどこか距離感があり、これほどまでに感情を露にし、細やかな気遣いを見せることはなかった。しかし、沙夜が具合が悪いと知って、彼は手際よく彼女の世話を焼いてくれた。真衣は二人の様子を見つめながら、ただ黙ってブランケットを差し出した。沙夜はブランケットを羽織り、座席にもたれると、少しずつ落ち着きを取り戻した。安浩は傍を離れず、彼女が快適に過ごせるように、こまめに通風口を調整していた。「普段から飛行機酔いするの?」彼は声を潜めて尋ねた。「たまにね」沙夜は言った。「最近疲れていたのと、心配事があったせいかもしれない
礼央は驚きのあまり疲れを忘れ、その場に立ち尽くした。再婚。それは、彼自身が誰よりも願っていたことだ。ただ、彼はそれを口に出せずにいた。彼の周りには常にトラブルや危険が潜んでいる。彼は真衣や千咲を、その危険に巻き込みたくないと思っていた。しかし、彼女が再婚を願っている。未知の地へ赴き、前途が不透明な彼に、真衣は約束と帰る日、未来を与えてくれた。礼央はかすれた声で、力強く言った。「わかった」そして、そっと付け加えた。「時間ができたら、会いに行くよ。結婚届を出して、また家族に戻ろう」それは、心からの約束だった。真衣は彼を見つめ、ついに堪えきれず、手を伸ばして彼の腰を抱き、顔をその胸に強く押し当てた。「無事に帰ってきてね」彼女は言った。「怪我をしないで、無理をしないで。約束よ?」「ああ」「私も気をつける。任務を終えたら、すぐに帰るから」「待ってる」今の二人に、それ以上の言葉は必要なかった。時間が刻一刻と過ぎ、礼央はキャンプに戻らなければならなかった。真衣は立ち上がり、彼を玄関まで見送った。玄関の灯りが二人の影を照らしていた。礼央は寝室の方を見た。千咲はこの別れと懸念の一切を知らずに、ぐっすりと眠っている。彼は声を潜めて言った。「千咲のことは、手配しておいた。隠れ家は外界から隔絶され、最も信頼できる人員を手配しておいた。情報が漏れる心配もない。エリアスがどんな手を使おうと、千咲を見つけられない」真衣は頷いた。「ありがとう」「赴任先に着いたら連絡をくれ」彼は念を押した。「無事を伝えてくれるだけでいい」「わかった」礼央は手を伸ばし、真衣をもう一度抱きしめた。彼は、これから訪れる、長い別れの時間を埋め合わせるかのように、彼女を強く抱きしめた。真衣は頭の上に、礼央の息遣いを感じた。できることなら、このままずっと彼と一緒にいたい。しばらくして、礼央はゆっくりと手を離して言った。「行ってくる」「うん」「身体に気をつけて」「あなたも」礼央は振り返ってドアを開け、夜の闇の中に消えていった。ドアが閉まり、車のエンジン音が次第に遠ざかっていった。真衣は玄関口に立ち尽くし、長い間動かなかった。外には冷たい夜風が吹いていたが、彼女の心は温かく、そしてどこか空虚だ
礼央は決意していた。今日中にキャンプへ戻らなければならない。千咲の隠れ家と人員の確保、外部との接触を遮断するための封鎖措置など、とりあえず今は基本的な準備しかできなかった。これらの手配は、彼が自ら電話をかけて決めていく必要のあるものだ。一方、エリアスはまだ身を潜めているため、国境地帯の警戒を緩めることもできない。彼の不在が、計画に穴を開ける恐れもある。真衣は礼央を見つめ、胸が痛んだ。彼女は、彼がここ数日どう過ごしてきたかをよく知っていた。埠頭での包囲、逆襲、追撃、そして今彼は猛スピードで車を走らせ、家に戻ってきた……彼はゆっくり眠るどころか、腰を下ろして水を飲む時間すらなかった。一息つく間もなくキャンプに戻り、重い責務を負わなければならないのだ。「もう戻るの?」真衣は心配そうに尋ねた。「せめて一、二時間ぐらい休めない?夜が明けてからではだめなの?」礼央は手を伸ばし、彼女の前髪に触れながら言った。「だめなんだ」「早く戻らないと、現場が混乱してしまう。エリアスは、こちらが隙を見せるのを待っているんだ。俺の不在が、危険をもたらすことになる」「でも、あなたの体は……」真衣は言葉を詰まらせた。「やっぱり、まだ眠れないの?」その言葉を口にした途端、彼女は思わず涙ぐんだ。真衣は、礼央がずっと不眠に悩んでいることを知っていた。国境地帯のキャンプでは、ずっと緊迫した状況が続いている。不眠症ではない者でも、神経が張り詰め、小さな物音にも反応するだろう。実際、彼は歯を食いしばり、冷水で顔を洗い、自分を追い込むことで、ようやく少しの間目を閉じて休むことができていた。真衣がキャンプにいた時は、彼女が傍で励まし、話し相手になり、彼が眠りにつくまで、付き添うことができた。彼女が傍にいなくなったことで、礼央は再び眠れない夜を過ごしていた。礼央は少し沈黙した後、笑顔で言った。「大丈夫、もう慣れてる。この仕事をしている限り、ぐっすり眠る暇なんてないからな。エリアスのことが片付いたら、ゆっくり休んで、今までの分を取り戻すよ」彼の言葉を聞いても、真衣は安心できなかった。「慣れてるって何よ……」真衣は涙声で言った。「そんなことに慣れたりしないで。あなただって生身の人間なんだから」真衣の心は混乱していた。
千咲はまだ幼い。もし彼らの標的となれば、その結末は想像を絶するものになる。真衣が手配した方法は一見確実に見えたが、彼は自ら出向き、自らの方法で、千咲に最も安全な壁を築いてやらなければならない。一方、真衣も眠れる気になれず、リビングに座っていた。真衣は礼央が沈黙していたことから、彼が何かを察しているだろうと感じてはいたが、彼女には他に選択肢がなかった。彼女はソファにもたれ、窓の外に広がる夜の景色を眺めた。どれくらい時間が経っただろう。ドアの鍵が開く音が聞こえた。真衣は驚き、はっと顔を上げた。こんな時間に、誰が来たのだろう?ドアから、見覚えのある人影が現れた。礼央が玄関に立っていた。彼は、不安そうな顔をしていた。真夜中だというのに、彼は眠らず、ためらうことなくここへ駆け付けてきた。真衣は呆然と立ち尽くした。「どうして戻ってきたの?キャンプでやることがたくさんあるのに、どうして?たった一人でこんな遠い道のりを辿ってくるなんて、命が惜しくないの?」礼央は素早く真衣の前に歩み寄り、彼女をじっと見つめた。彼は声を落して言った。「俺に、千咲が危険に晒されるのを、お前が一人で何もかも背負うのを黙って見ていろと言うのか?真衣、俺に隠し事なんかできない。お前が行くのは、出張なんかじゃないんだろう」真衣の心は震え、言いかけた言葉が、すべて喉元で詰まってしまった。彼女は、礼央の心配そうな表情を見て、胸が苦しくなり、目に涙を浮かべた。「私……」「止めはしない」礼央は口調を和らげた。「お前の任務も、責務も、俺はわかってる。干渉もしないし、止めたりはしない。でも、千咲は別だ。あの子を危険には晒せない。お母さんを信頼していないわけではないが、エリアスなら、必ず居場所を突き止める」真衣の声には疲れと無力感が滲んでいた。「じゃあ、私はどうすればいいの?他に方法なんて……」「俺に任せろ」礼央はためらわずに言った。「俺が千咲の安全を守る。千咲を匿う隠れ家を用意する。そこで、信頼できる者に二十四時間体制で守らせるんだ。エリアスの部下に見つからないよう、一切の痕跡を残さないように徹底する。そうすれば、お前も安心して任務を遂行できるだろう。約束する。お前が戻るまで、千咲の無事は保証する」真
沙夜は去り際、真衣に言った。「自分のことも、千咲のことも大事にしてね。お互い、無事に帰還しましょう」真衣は頷き、二人を見送った。リビングには彼女とぐっすり眠る千咲の二人だけになった。彼女はそっと千咲を抱いて寝室に寝かせ、千咲の額にキスをした。リビングに戻ると、真衣は携帯を取り出し、礼央に電話をかけた。礼央はすぐに電話に出たが、背後からは無線機や人の話し声が聞こえ、キャンプ地では変わらず、忙しい日々が続いていることが伺えた。「もしもし」受話器から、礼央の優しい声がした。「無事に家に着いたんだな?何も問題はないか?」「ええ、大丈夫よ。千咲もいい子にしてる」真衣は努めて平静を保った。「礼央、話したいことがあるの」「何だ?」礼央は真剣な声で尋ねた。「急に地方へ出張へ行くことになったの。期間は未定で、いつ帰れるかまだ分からない」真衣はできるだけ淡々と話した。「出張の間、千咲は母さんに預けることにしたわ。家のことは心配しないでね」礼央は沈黙していた。礼央はテントの外に立っていた。真夜中の風に吹かれ、指先が冷たかった。真衣の口調は平静で、いつもと変わりはなかった。だが、あまりに平静で、そのことが却って彼を不安に駆り立てた。礼央は真衣という人間をあまりにも理解している。彼女は今まで、突然出張することなどなかった。しかも、国境の情勢がこれほど緊迫している時に、急な出張に出かけるなどあり得ない。さらに、彼女が出張に行く際は、必ず礼央に具体的なスケジュールや、帰りの予定を知らせてくれていた。しかし今回は、曖昧に出張へ行くと言い、いつ帰れるか、分からないと言う。どう考えてもおかしい。礼央は携帯を握りしめ、思いを巡らせた。最近の不安定な国際情勢、安浩と沙夜が家に来ていたこと、さらに後続車の追撃を踏まえると、彼の脳裏に恐ろしい考えが浮かんだ。真衣は出張ではなく派遣されるのだ。危険な任務のため、不安定な地域へ赴くのだろう。…礼央はためらわず、テントから出ると、市街地の方へ車を疾走させた。礼央は一刻も早く真衣の元へ飛んでいきたいという思いで、アクセルを踏み込んだ。もう真夜中だったが、彼はとても眠れる状態ではなかった。このまま放ってはおけない。真衣に重い任務を一人で背負わせるわけにはいかない。
礼央の額には冷や汗がどっと流れ、青白い唇は何か言おうとしているように動いたが、もう力は残っていなかった。「あなたの行動には全て理由がある。私の決断にも全て理由がある」真衣は礼央を見た。「間違った決断をした時は、その代償を払うべきだわ」彼女は礼央を見て、「時間を見つけてきちんと話し合うべきだわ」と言った。礼央は歯を食いしばって言った。「うん……」真衣は深呼吸して前に進み出て、千咲の部屋に行って彼女を起こす準備をした。しかし、礼央の横を通り過ぎたとき、彼は突然倒れてしまった。真衣は本能的に彼を支えた。彼はあまりに重かったので、彼女は思わず後ずさりした。真衣は礼央が右
真衣の頭は今、異常に混乱していた。彼女は確かに礼央と再び関わりを持つことを望んでいなかったが、彼はまるで金魚の糞のように、どこへ行っても彼女にくっついてくる。そして、イベントで起こったこと、あのナイフ、そして礼央の鋭い感覚。礼央はあのナイフが自分を狙ったものだと言っていたけど、そんなこと、誰にわかるんだろう?「わかった。じゃあ今、どこに危険が潜んでいるのか、教えて。あなたの言葉を信じることはできる。千咲もあなたが手配した学校に通わせることもできる。でも、どうやってあなたを信用しろって言うの?」信用に関して、礼央は一度も真衣に与えたことがなかった。二人の間には一度も深い心
今までの彼の行動は、どう考えてもおかしい。今となっては、彼の言葉の端々から、真衣は何かを察した。礼央は深い瞳で彼女を見つめ、何も言わなかった。真衣は鼻で笑い、冷静な目で彼を見やった。「へえ、ずいぶん忍耐強いんだね。こんなに長い間、一言も言わなかったなんて」これは既定の事実なのかしら?真衣にはわからなかった。だが、やはりここに理由があるのかもしれない。礼央の目は暗く浮き沈みし、真衣には理解できない感情が渦巻いていた。「コンコン――」その時、ドアの外から誰かがノックする音が聞こえた。「礼央、ご飯だ」延佳の声がドアの向こうから聞こえてきた。真衣は礼央を見て
彼の顔には程よい笑みが浮かび、とても穏やかだった。真衣はスプーンを持って、保温容器に入っているスープをかき混ぜていた。彼女の頭の中には多かれ少なかれそういった考えがあった。なぜならみんなもそう推測していたからだ。「それなら――」「俺が帰国したのは、ただここでシンプルに生活を送りたいだけであって、高瀬家の家業を継ぐわけではない。家業が俺のものであろうとなかろうと関係ない。帰国したら自分で生計を立てる必要もあるから、バンガードテクノロジーに入社したんだ」延佳は彼女を見て、「俺は世間で言われているような人間ではない。人を陥れるようなことはしたくないし、権力争いも望んでいない」







