Share

第8話

Author: 清水雪代
智美は、祐介が千尋の腕を取ってあちこちで挨拶している姿を見て、心底つまらないと感じた。

彼女の視線は瑞希を探したが、周囲には上流夫人たちが集まっていて、すぐに近づくことはできなかった。

少しして瑞希の周りに人がいなくなったのを見計らい、智美はそっと近づいて、自分が用意した贈り物を差し出した。

瑞希は彼女を見ると、複雑な表情を浮かべた。「離婚が承諾されるまで、あと五日ね。智美、あなたのことが本当に名残惜しいわ」

かつて祐介が歩けなくなってから、ひどく怒りっぽくなり、看護師に暴力を振るうこともあった。瑞希は十数人も雇ったが、皆逃げ出した。

どうしようもなくなった瑞希が最後に思いついたのが、代役を雇うという無茶な策だった。

それでも運良く、優しい智美を見つけることができた。

智美は瑞希を見つめ微笑んだ。「時間がある時にまた会いに来ます、おばさん」

もうすぐ他人になるのだから、お義母さんとは呼べない。

瑞希は軽くうなずき、目元が赤くなった。

そしてバッグからカードを取り出して智美の手に握らせた。「これは二千万。あなたへのせめてもの補償よ。それと、あの別荘も手続きは済ませたわ。明日、私のアシスタントがあなたを連れて名義変更に行くから」

智美はそのカードを見つめ受け取った。

たとえ彼との結婚が契約だったとしても、この三年間、自分が妻として尽くしてきたことに悔いはない。

彼の身体的・精神的暴力に耐え、浮気にも目をつむった。

祐介との三年間は、尊厳を踏みにじられる日々だったのだ。

「お母さん、智美に何を渡してたの?さっき名義変更って聞こえたけど?」

麻祐子が突然現れ、好奇心丸出しで口を挟んだ。

瑞希は彼女を睨みつけた。「何でもないわよ。あなたはなんでそんなに好奇心旺盛なの」

麻祐子は不満げに言った。「お母さん、もしかしてこっそりお金あげてるの?智美って毎月お兄ちゃんから生活費もらってるじゃん。なのにお母さんからも?騙されてるって!あの人、いわゆる金目当ての女だよ。お兄ちゃんはもともと仕方なく彼女と結婚したんだ。でも今はもう元気になったし、彼女に頼る必要もない。だから、そろそろ彼女には身を引かせなきゃいけないのよ」

さらに智美に向き直り、怒りをぶつけた。「智美、お兄ちゃんと結婚して、あんな豪邸に住んで、家政婦もついてて、何が不満なの?これ以上欲張ったら、私がお兄ちゃんに言ってお仕置きさせるからね!」

過去二年、祐介が智美を怒鳴りつける場面を麻祐子は何度も目にしていた。彼女にとって智美は、兄の所有物にすぎなかった。

智美はもう口をきく気も失せて、立ち去ろうとした。

麻祐子はさらに絡もうとしたが、瑞希が彼女を止めた。

「智美はあなたが思ってるような人じゃないのよ。彼女はもう、あなたの兄と離婚するって承知してるの」

麻祐子は目を輝かせた。「本当に?彼女がそんなあっさり手放すなんて!」

瑞希は彼女を一瞥して、ため息をついた。「もう余計なことは言わないで。この三年間、彼女はあなたのお兄ちゃんの世話を本当によくしてくれた。看護師なんかよりずっと上よ。本気で向き合ってくれたわ。それにね」

瑞希は少し声を落とし、本音を漏らした。「お金を渡したのは、補償費でもあるけど、口止め料でもあるのよ。祐介が三年もタダで彼女を抱いてたなんて、世間に知られたら笑いものだもの」

二千万と別荘くらい、渡辺家にとっては痛くもかゆくもない。

もし智美が身を引くなら、それに越したことはない。

麻祐子はまだしつこく聞いてきた。「じゃあ、これでお兄ちゃんは千尋ちゃんと結婚できるってこと?」

瑞希の表情が一瞬で冷え切った。「佐藤さんが祐介の彼女になるのも、愛人になるのも勝手。でも妻になるのは、この先一生無理よ!」

彼女は忘れていなかった。

息子が障害を負ったきっかけが、誰だったかを。

あんな女、渡辺家の嫁になれると思うな!

離婚が成立したら祐介にはすぐに見合いをさせるつもりだった。

智美が会場を後にしようとしたとき、背後から呼び止める声がした。

「智美さん!」

千尋だった。

彼女は祐介のジャケットを羽織り、こちらに向かってきた。

智美は話す気もなかったが、千尋は簡単に引き下がらなかった。

「何の用?」

千尋は笑顔で、手に持っていたスカーフを彼女に渡した。「さっき、うっかりこのスカーフを汚しちゃって。これ、祐介くんがアイスランドで買ってくれたものなの。すごく高くて、手洗いじゃないとダメなのよ。祐介くんがね、あなたなら、家政婦よりずっときれいに洗ってくれるって言ってたの。お願い、洗ってくれない?」

智美は、これ以上ない侮辱を感じた。

「ふざけないで。私はあなたの家政婦じゃない!」

立ち去ろうとすると、千尋が腕を掴んで離さなかった。さっきまで祐介の前で見せていたか弱さはどこへやら、声には傲慢さがにじんでいた。「ふざけないでって?あなた、ただの都合のいい女のくせに。まさか本気で渡辺家の妻気取り?」

智美の怒りが一気に爆発した。

彼女は手を振り上げ、そのまま千尋の頬を打った。

ちょうど祐介がケーキを手に戻ってきたところで、頬を押さえている千尋を見て、すぐに駆け寄り彼女を抱き上げた。

「千尋ちゃん、大丈夫か?」

千尋は涙目で彼に寄り添い、すすり泣きながら言った。「大丈夫よ、祐介くん、怒らないで。彼女もわざとじゃなかったの。ただ、あなたが私と一緒にいるのが嫌だっただけ。私が悪いの」

祐介はその言葉を聞いて、智美を鋭く睨んだ。「智美。さっきのこと、一分以内に説明しろ」

智美は、千尋の芝居にうんざりしていた。

感情を押し殺し、淡々と口を開いた。「馬鹿なことを言ったから殴っただけ」

祐介は息を荒くし、鬼のような目つきで彼女を睨みつけた。

もし周囲に客がいなければ、その場で怒鳴りつけていたことだろう。

智美は彼の性格をよく知っていた。背筋を伸ばし、毅然と言い放った。「社長、特にご指示がなければ、これで失礼します」

そう言って背を向けその場を去った。

千尋は祐介が自分をかばってくれないのを見て、ますます涙をぽろぽろこぼした。

「すごく痛いよ」

祐介は優しく声をかけた。

「いい子だ、もう泣かないで。今夜は俺がそばにいる。あの女をちゃんと懲らしめてやるから」

千尋は弱々しく頷いた。「うん、やっぱり祐介くんが一番優しい」

智美がマンションに戻ると、警備員が声をかけてきた。

「奥様、お荷物が届いてるんですが、宅配業者が間違えて別の階に届けてしまいまして。管理棟の五階にあるんで、取りに行っていただけますか?」

智美はスマホを開き、どの荷物か確認しながら、管理棟へ向かった。

エレベーターに乗った瞬間突然、電気が消えた。

慌ててスマホのライトをつけ、非常ボタンを押したが反応なし。

すぐに管理会社へ電話をかけようとしたが、電波が入らない。

しかも、バッテリー残量が少ない。

そして、スマホの光も消えた。

彼女には夜盲症がある。狭くて暗い空間の中、まるで誰かに首を絞められているかのような感覚に襲われ、息苦しさが増していく。

死への恐怖が、波のように押し寄せた。

彼女は膝を抱え、エレベーターの隅で震えていた。

思い出されたのは、父がビルから飛び降りた夜。彼を探しに会社のオフィスに向かった時、室内は真っ暗だった。

スマホのライトで照らすと、父が窓辺で酒を飲んでいた。

そのとき彼は、自分に向かって微笑んだ。

その笑みは、どこか薄気味悪く、悲しげだった。

彼女は思わずスマホを落とし、光が消えた。

暗闇の中に、一人きり。

どれだけの時間が経ったかも分からない。

外から叫び声が聞こえた。

「誰かが飛び降りたぞ!」

その瞬間、彼女の世界は崩れ落ちた。

そして今夜、智美は再び暗闇の中、一晩を耐え抜いた。

翌朝、ようやく管理人たちがエレベーターを開けると、驚いたように言った。

「奥様、こんなところでどうしたんですか?このエレベーター、故障中ですよ。注意書き、見なかったんですか?あれ?注意書きのシール、誰かに剥がされてる?」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第618話

    実際のところ、佳乃は夫との仲があまりよくなかった。夫がほとんど家に寄り付かないため、家のことはすべて彼女が切り盛りしてきたのだ。そこへ悠人と典子が揃って訪ねてきたのを見て、佳乃は内心、苦々しく思っていた。珠里があそこまで常軌を逸した真似をしたのも、岡田家と典子が口を挟んだせいだ。あの人たちが余計な入れ知恵さえなければ、珠里があんな真似をするはずがない。「何の用?」佳乃は二人を冷たく迎えた。典子は穏やかに切り出した。「珠里ちゃんのことで話し合いたくてね」佳乃は露骨に不機嫌になる。「珠里はさっさとうちに戻してちょうだい。娘の教育は私がするわ。あなたたちがよかれと思って口出しするから、珠里まで家に帰らなくなったじゃないの。あの子は騙されやすいのよ」典子は呆れたように溜息をついた。「そんな言い方しないでよ。年義理の姉妹をやっていると思っているの。私だって珠里ちゃんのことを子供の頃からずっと見てきたわ。あの子がどれだけ可愛いか、あなたにだってわかるでしょう」「結構よ。娘は自分で可愛がるわ。あなたには自分の娘がいるじゃないの。よその子に構わなくていいのよ」佳乃は煩わしそうに手で払いのけるしぐさをした。悠人は単刀直入に本題に入った。「佳乃さん、珠里を典子さんの養女にすることを承諾していただけませんか。これからは、典子さんの娘として生きさせてやってほしい」佳乃はあっけにとられ、やがてせせら笑った。「手塩にかけて育てた、売り出し前の商品なのよ。やっと家の役に立てる年になったというのに、あなたたちにいいとこ取りをされるなんて」悠人は淡々と言った。「佳乃さんが珠里を縁談の道具にし、広瀬家に利益をもたらしたいと考えているのはわかっている。それと見合った利益を提示しよう。その代わり、珠里を自由にしてやってください」「どういう意味……?」佳乃はむっとした顔をした。娘を利益と交換したいとは思っていても、面と向かって指摘されると気分がいいものではない。典子は内心、佳乃の冷酷なやり方が心底嫌だった。お金に困っているわけでもないのに、なぜいつも娘を売り物にするような真似をするのか。悠人は佳乃の強欲な性格をよく知っていたから、単刀直入に条件を提示した。「深田家と縁組みしたかったのは、深田蓉子のツテを当てにしていたんだろう。正直に言うが、深田

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第617話

    悠人は皮肉を込めて言った。「珠里の手のかかる時期は育児を放り出して、成人した途端に縁談の道具にしようとする。佳乃さん、少しは恥というものを知ってください」智美も冷ややかに続く。「今日の珠里の様子を見たでしょう。無理に連れ帰ったところで、あなたの言うことを聞くと思うのかしら?広瀬家の中で暴れ回られてもいいと?」佳乃は、珠里が狂乱したときの凄まじい形相を思い出し、胸がざわついた。まさかあの娘、精神を病んでしまったのではないだろうか……もしそうだとしたら、どこの名家が、そんな腫れ物を嫁に貰うというの――そう考えると、急に迷いが生じた。いまだに珠里の利用価値を値踏みしている佳乃を見て、悠人と智美はこれ以上言葉を交わす気も失せ、車に乗って立ち去った。帰りの車中で、智美が悠人にこぼした。「世の中に、本当にあんなお母さんがいるのね。実の娘を道具としか思っていないなんて」悠人は智美を宥めるように言う。「ああいう人間はどこにでもいる。腹を立ててもこちらが疲れるだけだ。それよりも、珠里が抜け出せる方法を考えよう。近いうちに珠里と話して、典子さんの養子に入ることを望むかどうか聞いてみるつもりだ。そうなれば、今後の結婚のことも佳乃さんたちに口を出されずに済む」「佳乃さんが首を縦に振るかしら」「利害関係さえ一致すれば、話はまとまるさ」二人は珠里を見舞うため、病院へ向かった。一通りの検査を終えた珠里に、幸いにも異常はなかった。目を覚ましたとき、珠里はしばらくぼんやりとしていた。だが、深田家で自分が言い放った言葉、引き起こした惨状。それがありありと脳裏に蘇ってきた瞬間、後悔と恐ろしさが同時に押し寄せてきた。智美が、怯える珠里の手をそっと握った。「悠人が後始末はつけてくれるって言っているから、大丈夫よ」珠里は神妙な顔つきの悠人を見た。悠人が静かに頷く。それを見て、珠里はようやく安堵の息を吐いた。悠人は続けて切り出した。「珠里、母との縁を切って、典子さんの娘になりたいか?以前、典子さんと相談したことがあってね。ずっと君を養女に迎えたいと言っていたんだ」珠里は少し緊張した顔で尋ねる。「そんなこと……本当にできるの?」叔父夫婦は、実の両親よりもずっと自分を大切にしてくれた。子供の頃も、自分の家より叔父の家で過ごした時間の方が長か

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第616話

    しかし悠人は静かに言った。「このまま幕引きにするわけにはいかない」蓉子がすぐに反発する。「じゃあ、まだ何が足りないの?息子はあんな目に遭わされたのよ!」悠人は淡々と続けた。「彼が先に珠里に手を出したのが発端だ。珠里は被害者であり、正当防衛でもある。深田瑞貴さんには珠里への正式に謝罪し、慰謝料を払ってもらう」蓉子と瑞貴が同時に顔を歪めた。崇樹は静かに言った。「わかりました。瑞貴には珠里さんへ謝罪させます。それと、瑞貴名義の別荘二棟を、賠償として珠里さんへ名義変更します」「何ですって!」蓉子が目を剥いた。「あんな小娘にどうしてそんなものまで!」崇樹は蓉子を一瞥する。「義母さんが手を引けというなら、俺はそうします。今はまだ話し合いで収められる段階です。瑞貴が不動産を少し手放すだけで済む話を、大事にして本当に瑞貴が捕まってもいいんですか」蓉子は不満だったが、息子に万が一のことが起きては困ると、しぶしぶ頷くしかなかった。「……わかったわ」まさか深田家から財産を引き出せるとは思っていなかった佳乃は、悠人に少し感心したような目を向けた。と同時に、これで深田家との関係がさらに悪化しないかという不安が頭をもたげる。少し考えてから、口を開いた。「別荘なんて結構よ。うちはそういうものには困っていないから」悠人は冷ややかに笑った。「広瀬家には要らないかもしれない。でも珠里には、今まで何一つ与えてきたのか?俺が交渉しているのは広瀬家のためではなく、珠里のためだ。それに実の母親のくせに、娘が傷つけられても、むしろ相手と組んで娘を追い詰めた。その自覚はあるのか」佳乃は言葉に詰まった。みるみるうちに顔色を変えた。悠人は言い過ぎではないか!自分はそんなに悪者に見えるのか?蓉子が我慢できずに呟いた。「息子があの地味な子に本当に手を出したかどうかも怪しいし、うちの息子があれだけいい男なんだから、多少触れられたくらい、光栄に思うべきじゃないの」悠人は冷たく言い放つ。「被害を受けた女性が感謝すべきだというのか。羞恥心というものがないのですか」蓉子はぐっと黙り込んだ。崇樹が悠人に告げた。「話はまとまりました。義母と瑞貴が誠実に対応するよう、俺がしっかり見届けます」話がついたところで、悠人と智美はこれ以上深田家に居る理由もなく、挨拶をし

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第615話

    「あ、あなた……娘を連れて行かないで!」佳乃はようやく声を絞り出した。勝也は鼻で笑った。「あなたに、珠里さんの母親を名乗る資格などあるものか」佳乃には目もくれず、珠里を抱いたまま立ち去っていった。蓉子が怒りをぶつけるように悠人を睨んだ。「岡田さん、あれだけあの女をかばって、この落とし前、どうつけてくれるのかしら?家の中をこんなに荒らされて、黙っていると思ってるの?息子だってあんな目に遭わされたのよ!」悠人は軽く眉を上げ、薄く笑う。「確か深田瑞貴は少し前、会員制クラブで女性を死なせる事故を起こし、身代わりを立てて、闇に葬ったよね。それが表に出たとき、無事でいられると思うのか」蓉子と瑞貴は同時に体を硬直させた。あの件は完璧に処理したはずだった。被害者の家族の口も封じたのだ。なぜ悠人が知っているのか。悠人は穏やかに続けた。「弁護士をやっていたこともあってね。職業病みたいなものでして。深田瑞貴さんを徹底的に調べさせたとして、山積した余罪を暴かれて、果たして持ち堪えられるかな」蓉子と瑞貴の顔から血の気が引いた。悠人は冷ややかな視線を佳乃に向けた。「こういう男を、見どころがある、とお思いになったわけだ。後でどんな厄介事を被ることになっても知らないよ」佳乃はそれまで、瑞貴をただ遊び好きな男だとしか思っていなかった。人の命に関わる話が出てくるとは想像もしておらず、縁談など口にする気も失せた。そのとき、崇樹が二階からゆっくりと下りてきた。先ほどの騒ぎはすべて耳に届いていた。だが、口を挟む気はなかった。広瀬家の次女が家を荒らしたければ、好きにさせればいい。そもそも悪いのは、あの異母弟の方なのだから。この何年かで、継母に甘やかされて育った弟が次々と過ちを重ねるのを、崇樹は冷めた目で見てきた。瑞貴はいつか必ず問題を起こす――そう思っていた。時間の問題にすぎなかったのだ。蓉子は崇樹を見るなり声を上げた。「崇樹、ちょうどよかった!あなたの弟があんな目に遭って、家の中もこんなにされて、広瀬家と岡田家が組んでうちを嵌めたのよ。長男なんだから、黙って見てるつもり?」夫はすでに一線を退き、釣り仲間と出かけることが多く家を空けがちだった。崇樹のことは気に食わなかったが、この男だけは確かに腕が立つ。背に腹は代えられないと、蓉子

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第614話

    珠里は灰皿をひっ掴むと、その足元へ叩きつけた。瑞貴はびくっとして身をすくめた。今のは頭を狙ったのではないか――そう気づいた瞬間、背筋が凍りついた。目の前の女を見る目が変わる。正気を失ったような顔をしていた。確かに珠里はずっと大人しい人間だった。だが、大人しい人間だって追い詰められれば壊れる。どうせ地獄に道連れにするのなら、もう怖いものなど何もない。珠里が物を投げるのを見て、蓉子は慌てて息子の前に飛び出した。「早く警備員を呼んで!この狂った女が息子を殺そうとしてるわ!」佳乃は常軌を逸した娘の行動に顔面蒼白になっていた。「珠里、やめなさい!何をしてるの!」まさかこの娘が、本当にここまでやるとは、想像だにしていなかった。悠人と智美は、珠里の荒れ狂う様を二人して静かに見守っていた。悠人が智美に小声で囁く。「いいさ、気が済むまで暴れさせてやれ。責任は俺が持ってやる」智美は頷きながら、心の中で珠里に拍手を送っていた。珠里はとっくにこうすべきだったのだ。大人しくしているだけでは、舐められ続けるだけ。人はいつだって弱い者を狙う。自ら立ち上がらない限り、踏みにじられ続けるしかない。珠里は今度は花瓶を手に取り、瑞貴を真っ直ぐに見据えた。「こんな人間の風上にも置けないクズに頭を下げる?笑わせないで。牢屋に入ることになっても、あなたみたいな男に土下座なんてしないわ!」「やめなさい、珠里!やめてちょうだい!」佳乃が叫ぶ。珠里は振り返り、佳乃を睨みつけた。「言ったでしょ。クズのところに嫁がせるなら殺すって。冗談だと思っていたの?ここまで追い詰めるなら、広瀬家ごと、何もかもぶち壊してやるわ!どうせ失うものなんてないんだから!」今度ばかりは佳乃も、珠里の言葉が本気だと信じた。そして、心の底から恐ろしくなった。この娘が、まさかここまでやるとは……!「落ち着きなさい!早まるんじゃないわ!」しかし言い終わるより早く、花瓶が粉々に砕け散った。その場にいた全員が思わず身をすくめる。それから珠里は、手の届くものを手当たり次第に叩き壊していった。広瀬家が深田家に嫁がせるというなら、こうしてやる。二度とここに、嫁ぎ先として名前が挙がらないように。「もう、どいつもこいつも狂ってるわ!」大切に飾っていた調度品が次々

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第613話

    「滅相もございません。おっしゃる通りでございます。全て私どもの不徳の致すところで……!どうか蓉子さんも瑞貴さんも、珠里の無礼を許してやってください。この子はこれまで男性と接する機会が少なく、初めてのお見合いの席で、些細なことを勝手に誤解してしまったようなのです。それで、ついあんな真似を……」佳乃は平身低頭して口先では謝罪の言葉を並べ立てながらも、内心では蓉子の言い分など微塵も信じてはいなかった。瑞貴の女癖の悪さは、この業界で知らない者などいないほど有名な話だ。深田家との強力な提携を取り付けるという明確な見返りがなければ、珠里をあんな放蕩息子の元へ嫁がせようなどと考えるはずがなかった。蓉子は忌々しげに珠里へ目を向けた。「謝罪に来たのではないの?いつまで黙り込んでいるおつもり?」だが珠里は、氷のように冷たい瞳で蓉子を見据えたまま、頑なに口を閉ざしていた。佳乃が慌てて背後から娘の背中を小突く。「ほら、早くお詫びを言いなさい、珠里。ちゃんと頭を下げれば、蓉子さんも瑞貴さんも、きっと寛大な心で許してくださるわ」車椅子の瑞貴は、舐め回すような卑しい視線で見ていた。昨夜はあれほど狂ったように暴れたくせに、結局は親に引きずられて、おとなしく頭を下げに来たというわけだ。母の蓉子からも聞かされていた。広瀬家のこの末娘は、父親にも母親にも全く愛されていないのだと。だから、こちらがどれだけ横暴な真似をしようと、広瀬家は利益のために必ず地を這ってでも、許しを乞いに来るのだと。今に見ていろ。誰に逆らったのか、その身の程を徹底的に思い知らせてやる。智美は彼らのあまりの傲慢さに、ついに黙っていられなくなった。「珠里は何も悪いことなどしていないわ。理不尽な言いがかりはいい加減にしてください!」蓉子は涼しい顔で冷笑を浮かべた。「これはあなたには一切関係のない問題でしょう。岡田家への筋は通しているから、私からあなたをとやかくいうつもりはないけれど、部外者は口を挟まないでくださる?」すかさず佳乃も厳しい目つきで智美に強く釘を刺した。珠里は真っ直ぐに瑞貴へと向き直ると、静かだが、刃のように鋭い声で言い放った。「謝るですって?どうして私が謝らなければならないの?私があなたを叩く前に、自分が一体何をしたのか、ここで皆に正直に言えるのかしら?」瑞貴の顔に

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第65話

    食事を終えると、悠人は智美を家まで送った。智美は、今回のデートで悠人から何か話があるのだと思っていた。けれど彼は何も言わず、本当にただ一緒に食事をするためだけのようだった。もしかして、悠人の気持ちはただの好意で、まだ恋愛にまで至っていないのだろうか。自分が勝手に期待しすぎただけ?でも、彼の普段の優しさや視線、あの日の額へのキスは、どう考えても他人行儀とは言えない。まあいい。彼が言わないなら自分も知らないふりをしよう。こうして流れに任せるのも悪くない。悠人は彼女を家の前まで送り、手を振って別れた。家に入ると悠人はコートを脱ぎスリッパに履き替えた。冷蔵庫から

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第49話

    誘拐犯は一言つけ加えた。「今すぐ、この口座に振り込め」千尋はすぐに金を送金した。その直後、誘拐犯はそのお金を智美の口座に転送した。智美は無言のまま、金を受け取った。千尋が自分を陥れようとしたことを思えば、これくらいの代償は当然だ。振り込みを終えた千尋は電話を切た。怯えた様子で誘拐犯が言った。「もう全部済ませましたよね?どうか……俺たちを見逃してください……」さっき、智美が簡単に6千万をふっかけて成功させたのを見て、彼らはこの女性が只者ではないと痛感していた。智美は冷ややかに問いかけた。「でも、あなたたち……刑務所から出てきたら、私に復讐するんでしょう?」その

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第64話

    智美がここにいない以上、彼の演技も意味がない。居座っても仕方がない。苛立ちを押し殺しながら洗面所で身なりを整えると、そのまま病院を後にした。日曜の夜。智美は上品でフォーマルなワンピースに着替え、フルメイクを施し、ヘアアイロンで髪に軽くカールをつけた。鏡に映る自分を見て思わず口元が緩んだ。祐介と結婚する前は、こうして丁寧に自分を磨くのが当たり前だった。その頃の彼女は自信に満ち、自分は見た目も悪くない女だと信じていた。気の合う同世代の男性と時々デートもした。たとえ何も進展がなくても、いつか心をときめかせる恋に出会えると信じていた。だが、結婚してからは少しずつ

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第63話

    それは悠人だった。智美はほっと息をつき、ドアを開けた。悠人は手に持っていたケーキを差し出しながら言った。「さっき仕事帰りにケーキ屋に寄って買ってきたんだ。食べてる?」「ありがとう。こんな遅い時間に、わざわざ買ってきてくれたの?」智美が受け取りながらそう言うと、悠人は彼女の顔色が少し青白いのに気づいた。「体調悪いのか?」「ううん。ただ今日はちょっと疲れただけ」彼はうなずき、紳士的に微笑んだ。「じゃあ、早めに休んだほうがいい」「ええ」軽く挨拶を交わし、智美はドアを閉めた。ケーキを冷蔵庫に入れてから部屋に戻った。ベッドに横になった途端、スマホが鳴った。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status