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第2話

Author: 霧島柳乃
彼は黒のスーツに身を包み、襟元をわずかに開けたまま、ゆっくりと袖を直していた。

端整な顔立ちは、相変わらず冷たく近寄りがたい。

ふと視界の端に彼女の姿が入ると、切れ長の目をわずかに上げ、その鋭い眼差しが、血の気が失った彼女の顔の上で一瞬止まった。

二人が玄関先まで来て距離が近づくと、理玖は彼女の身体から、かすかに血と薬の匂いがするのに気づいた。

彼の表情がわずかに変わる。

「怪我でもしたのか?」

梨央の手首の傷は、すでに手当てをして薬も塗ってあり、そのうえ長袖まで着て隠していた。

そう聞かれて、彼女はとっさに手を背中に隠した。

「してないわよ」

理玖はそれ以上その匂いを感じ取れず、気のせいだったのだろうと思った。

よほど機嫌がよかったのか、その日は珍しく自分から口を開いた。

「どこへ行くんだ。送るよ」

梨央が断る間もなく、彼は早足で先に歩き出していた。

梨央は黙ってそのあとについていき、車に乗り込んでから小さな声で言った。

「出入国在留管理局まで」

彼女はバッグの持ち手をぎゅっと握りしめ、隠しきれない期待を胸に彼を見つめた。

けれど理玖は何も聞かず、ただ目を伏せて行き先を入力しただけだった。

梨央の瞳に浮かんだ期待は、行き場を失った。

ほっとした気持ちと、失望と、どちらが大きいのか自分でもわからなかった。

彼は彼女がどこへ行こうと、少しも気にかけていないのだ。

車は管理局へ向かって走り出した。

梨央は顔を横に向け、彼を見つめる。

骨格の整ったその横顔は、息をのむほど端正だった。

彼女はためらいがちに口を開いた。

「理玖。実は三年前、私たち……」

そのとき、彼のスマホが突然鳴った。

彼は画面をひと目見るなり、すぐに電話に出た。

声は驚くほどやさしい。

「もう着いたのか?待ってて。すぐ行く」

梨央は表示された画面を見た。

悠月からの着信だとわかっていた。

理玖が口を開くより先に、彼女は空気を読んで自分から言った。

「用事があるなら先に行って。

私は自分でタクシーを呼んで、管理局に行くから」

理玖は彼女をひと目見て、やがて路肩にゆっくり車を寄せた。

梨央がドアノブに手をかけたとき、彼がふいに尋ねる。

「さっき、何を言いかけたんだ?」

梨央は首を横に振った。

「ううん、何でもない。先に行って」

彼女はいつものように消毒用のウェットティッシュを取り出し、自分が座っていた場所を、隅々まで丁寧に拭いた。

その手元を見た理玖の目が、ふいに暗さを帯びる。

彼女が車を降り、ようやく立ち止まったかと思うと、車は待ちきれないように走り去っていった。

巻き起こった風がスカートの裾を揺らす。

梨央はその場に立ち尽くしたまま、遠ざかっていく車を見送った。

さっき彼に伝えようとしていたのは、実は三年前、自分たちはまだ正式に婚姻届を出していないということだった。

あの日、二人は婚姻届を出すために役所へ行った。

けれどそのあと理玖は一本の電話を受け、慌ただしく立ち去ってしまった。

梨央もそのまま家へ戻り、結局、二人は正式に入籍していないままだった。

それなのに彼はこの三年間、一度としてそれを確かめようともしなかったのだ。

そして、悠月が帰国した。

三年もの間、ずれたままだったものを、もう元に戻すときなのだ。

彼の誕生日まで待ってから、このサプライズを伝えよう。

梨央は一人で管理局へ向かい、書類を提出した。

そこを出たあとは、友人と待ち合わせていたレストランへ向かった。

彼女が海外へ行くと知るなり、友人はその場で目を真っ赤にした。

しばらくしてから、喉を詰まらせるように言う。

「海外へ行くのもいいと思う。

これからは思いきり自由に生きて、やり直せばいいよ。

彼があなたを愛してくれなくても、もっといい人がきっと現れるから」

友人は別れを惜しんで、かなり酒を飲んだ。

最後にはすっかり酔ってしまい、彼氏に迎えに来てもらって帰っていった。

梨央も少し気持ちが沈んでいた。

トイレを済ませて店を出ようとしたとき、ある個室の前を通りかかり、ふいに理玖の名前が耳に入った。

思わず足が止まる。

個室の扉は半開きになっていて、椅子にもたれかかるように座っている理玖の姿が、はっきり見えた。

片手を椅子の背にもたせ、どこか気だるげな姿勢のまま、隣にいる悠月を見下ろす眼差しは、やさしく、甘やかだった。

個室の中では、誰かがしみじみと言っていた。

「理玖と悠月って、やっぱりお似合いだよな。

あの頃はあんなに愛し合ってたんだから、てっきり二人の結婚式に呼ばれるものだと思ってたよ。

ほんと残念だ」

「そんな話、今さら持ち出してどうするの?

元をただせば朝倉っていう、あの計算高い女のせいでしょ。

薬まで使って理玖のベッドに入り込んで、無理やり二人を引き裂いたんだから」

さっきまで賑やかだった個室の空気が、ぴたりと凍りついた。

理玖の表情も、いくぶん冷たくなった。

悠月が笑みを浮かべ、先に場を取りなした。

「もういいの、いいのよ。

そんな昔のこと、今さら掘り返さないで。

今日は私の帰国祝いなんだから、みんなそんな嫌な話はやめましょう?」

それでも誰かが、こらえきれずに理玖へ問いかけた。

「理玖、お前だって朝倉のことなんか好きじゃないんだろ。

三年も振り回されたんだから、もう十分じゃないか。

さっさと別れろよ」

「この数年ずっと悠月の帰りを待ってて、時間さえできれば海外まで会いに行ってたんだって?」

「やっと戻ってきたんだし、今度こそやり直すつもりなんだろ?」

梨央は、答えなどわかっているはずなのに、それでも思わず息を潜め、理玖の返事を待った。
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