Share

第7話

Author: 霧島柳乃
理玖と悠月は、その声に振り向いた。

悠月はたちまち顔色を失い、悲鳴を上げる。

「いやっ!」

「悠月!」

梨央が理玖の前に駆け込んだ、その瞬間だった。

彼は反射的に、悠月を自分の背後へと引き寄せた。

だが、取り乱した悠月は、理玖をかばおうとして最前列に立った梨央を、思わず突き飛ばしてしまった。

もともと右足を傷めていた梨央は、とても踏ん張れなかった。

身体は大きくよろめき、そのまま狂気に駆られた男の足元へ倒れ込む。

梨央は目を見開き、信じられない思いで悠月を見た。

だが次の瞬間、男は果物ナイフを握りしめ、ためらいなく彼女の背中へ突き立てた。

鈍い音とともに、刃が深く沈む。

まるで身体を真っ二つに裂かれたような痛みに、梨央は悲鳴を上げた。

それでも男はナイフを引き抜き、さらにもう一度振り下ろそうとする。

そのとき、理玖が飛び出した。

鋭い蹴りが男を吹き飛ばし、手からナイフが離れる。

男は床に叩きつけられた瞬間、すぐさま数人がかりで取り押さえられた。

梨央は痛みに全身を震わせ、意識ももう朦朧としていた。

それでも、視界の端に映った。

理玖が慌てた様子で彼女のそばに膝をつき、背中の傷口を強く押さえていた。

その目には、焦りと心配が滲み、声まで震えていた。

「梨央……大丈夫だ。

怖がるな。

何ともない、絶対に何ともないから……」

ああ、もう自分は死ぬのだろう。

だからこんな幻まで見えるのだ。

理玖が自分をあれほど憎んでいるのに、心配するはずがない。

まして、彼が自分のために涙を流すなんて。

彼女の血が、彼の掌いっぱいに広がっていく。

意識を失う直前、梨央の頭に浮かんだのは、ただひとつだけだった。

――また、汚してしまったと嫌がられるんだろうな。

まさか病院を出る前に、もう一度自分が救命室へ運ばれることになるなんて、梨央は思ってもみなかった。

再び目を覚ましたとき、彼女はまた、さっきまでいたあの病室に戻っていた。

耳元が騒がしい。

ゆっくり目を開けると、ちょうど悠月が傍らで泣いているところだった。

「ごめんなさい……本当に、わざとじゃなかったの。

あのときは怖くて、何が何だかわからなくて……

まさか梨央がこんな大怪我をするなんて思ってなかった。

こんなことになるなら、いっそ怪我をしたのが私だったらよかったのに……」

悠月は理玖の顔色を窺いながら、おそるおそる口を開く。

「……あなたも、私を責めるの?」

理玖はうつむいたまま何も答えなかった。

その表情はどこか冷えている。

すると悠月は、ますます声を詰まらせて泣き出した。

「そうよね。

私はずっと、彼女が手段を選ばずにあなたを奪って、三年も独り占めしてきたことを恨んでた。

でも、傷つけたいなんて思ったこと、一度もない……

信じてもらえないなら、もう死んだほうがましよ!」

そう言い残すと、彼女は勢いよく立ち上がり、そのまま病室を飛び出そうとした。

理玖の顔色が変わり、とっさに腕を伸ばして引き留める。

悠月は必死にもがき、彼は逃がさないよう強く抱きしめるしかなかった。

そして小さく息をつき、ようやく口にした。

「もういい。

お前が無事なら、それでいい」

言葉は、ときに刃よりも深く人を傷つける。

梨央はそれを、何度も思い知らされてきた。

そのひと言は、刺された傷よりもなお深く、彼女の胸を引き裂いた。

理玖はきっと心の底では、傷を負ったのが梨央でよかった、悠月ではなくてよかったと思っているのだろう。

悠月の抵抗がぴたりと止まる。

彼女は顔を上げ、理玖を見つめた。

「理玖……あのとき、真っ先に私を背中にかばってくれたよね。

やっぱりあなたの中で、いちばん大事なのは私ってこと?」

理玖が答えるより先に、ベッド脇に置かれていた梨央のスマホが、不意に小さく鳴った。

その音で、理玖と悠月はようやく彼女のほうを見た。

そして初めて、梨央が目を覚ましていることに気づく。

理玖は足早にベッドへ近づいた。

「梨央、目が覚めたのか?

具合はどうだ?」

梨央は静かに彼を見つめ、掠れた声で言った。

「少し疲れたわ。

……出ていってもらえる?」

理玖は、その顔をしばらく黙って見つめていた。

だが横にいた悠月が、そこでまた泣き出した。

「ごめんなさい」とひと言だけ残し、そのまま慌ただしく病室を飛び出していく。

理玖はその背中を見送り、それからベッド脇に腰を下ろした。

「犯人は、妻の病気が手遅れになって助からなかったことで、世の中に恨みを向けたらしい。

幸い、刺された場所は内臓には達していなかったし、処置も早かった。

数日もすれば退院できる」

しばらく言葉を選ぶように黙ったあと、彼は低く続けた。

「あのときは混乱していた。

悠月も怖くて、思わずお前を突き飛ばしたんだ。

お前だって、これまで何度も悠月を苦しめてきただろう。

……今回のことは、これでチャラにしろ」
Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 燃え尽きた恋の果てに   第24話

    理玖は、それほど長くは離れていなかった。食事の時間になると、すぐにまた戻ってきた。扉を開け、自ら食事の載ったトレーを部屋へ運び入れた。梨央はひと目で、それが彼の手作りだとわかった。どれも自分の好物ばかりだ。けれど梨央は、たださりげなく視線を向けただけで、まるで何もないかのように目を逸らした。理玖は感情を押し殺し、しばらく言葉を尽くして食べるよう促した。だが梨央は何の反応も示さない。目を閉じたまま、聞こえないふりをし、見えないふりをしているようだった。しばらく部屋にいた理玖も、結局は食事を手にしたまま出ていくしかなかった。だが、その後二日続けて、梨央はひと口も食べず、水さえ一滴も口にしなかった。何ひとつ言葉はなかったが、彼を拒む意思だけは、痛いほどはっきり伝わってきた。再び理玖が部屋を訪れたとき、梨央はベッドに横たわったまま、目を閉じていた。呼吸はかすかで、まるで息絶えてしまったかのように見える。理玖は血の気を失い、慌てて駆け寄った。「梨央!」水分を取っていないせいで、彼女の唇はすでにひび割れていた。声を聞き、梨央は疲れ切ったように目を開いて彼を見た。何も言わない。ただ、その目の奥には、かすかな嘲りが浮かんでいた。理玖はひとまず安堵したものの、その胸にはさらに強い苛立ちがこみ上げてきた。「そんなに俺が嫌か?餓死してでも、俺とは結婚したくないのか。どうしてだ。黒沢のせいか?あいつを好きになったのか?」梨央は相変わらず、ひと言も返さなかった。けれど、悠真という名前が耳に入った瞬間だけ、彼女の瞳に微かな光が宿った。きっと悠真は、もう自分と連絡が取れないことに気づいている。探してくれるだろうか――そのほのかな光が、理玖の胸を鋭く刺した。彼は手を伸ばし、彼女の顎をつかむと、冷えきった目でまっすぐ見据えた。「梨央。お前が自分で食べないなら、俺が食べさせる。自分でおとなしく食べるか、それとも俺が口移しで食べさせるか。選べ」梨央は彼と視線をぶつけ合った末、ついに折れた。理玖は人に言いつけて味噌汁を運ばせた。梨央は無表情のまま、数口だけそれを口にした。だが、あまりに長く何も食べていなかったせいで、少し胃に入れただけですぐに吐き気が込

  • 燃え尽きた恋の果てに   第23話

    理玖はそのまま梨央の手を取り、外へ向かって歩き出した。病院を出てから、梨央は思わず一度振り返った。悠月は、二人が去っていくほうを見つめていた。その眼差しは、絶望に染まっていた。車に乗り込んだあとも、梨央はやはり聞かずにはいられなかった。「……彼女に、何をしたの?」理玖の目がわずかに冷えた。彼はハンドルを握ったまま、淡々と言った。「大したことはしてない。やられたことを、そのまま返しただけだ。あいつはあのとき、ああいう手を使うと決めた時点で、報いを受ける覚悟もしていたはずだろう」梨央は海外へ渡ってから、国内の携帯番号はもう使っていなかった。新しい番号に替えたあと、連絡を取ったのも志保子と、ごく親しい友人数人だけだった。彼らは理玖や悠月の交友関係とはほとんど接点がない。だから当然、悠月がこのところ何をされてきたのかも知らない。それでも、理玖の今の一言と、さっきの悠月の様子を見るだけで、このしばらくの間、彼女がどれほど追い詰められてきたのかは想像がついた。梨央は、理玖の手段の苛烈さも、情け容赦のなさも、疑ったことがない。三年前、自分は悠月に濡れ衣を着せられ、それ以来、数えきれないほどの非難と罵声を浴びてきた。悠月のしてきたことを思えば、梨央は聖人ぶって彼女を哀れみ、許しを請おうとは思わなかった。ただ、どこかやるせなさを覚えただけだった。あの頃、悠月は意気揚々と帰国し、理玖を取り戻そうとしていた。まさか自分がこんな結末を迎えることになるとは、夢にも思っていなかっただろう。過去を思い出し、梨央の気持ちは沈んだ。そのとき、掌の中のスマホがふるりと震えた。画面を開くと、悠真からのメッセージだった。梨央の口元が思わずわずかに緩んだ。彼女は目を伏せ、丁寧に返信を打ち始めた。その表情を、理玖は視界の端で捉えていた。画面を見なくても、誰とやり取りしているのかはわかった。彼は薄い唇をきつく結び、ハンドルを握る指先に力を込めた。やがて実家に着き、梨央は以前使っていた自分の部屋へ入った。ひとまずシャワーを浴びてから病院へ戻ろうとした、そのときだった。不意に、部屋の扉が外から閉められた。梨央は一瞬息をのみ、足早に扉へ駆け寄った。ドアノブを引いたが開かない。その

  • 燃え尽きた恋の果てに   第22話

    梨央は愕然として彼を見つめ、たちまち全身をこわばらせた。「今はどうなってるの?」理玖は目を伏せた。「執事が見つけて、すぐ病院に運んだ。俺は今から帰国しないといけない。お前は……」梨央はためらわずに言った。「私も一緒に帰るわ」理玖は彼女を深く見つめ、それから手を取って足早に浜辺を後にした。あまりに突然の出来事で、梨央も考える暇などなかった。ただ慌ただしく、彼のあとに続く。志保子は、梨央にとって実の母親以上に大きな存在だった。その人に何かあったと知って、放っておけるはずがない。理玖は歩きながらスマホを取り出し、プライベートジェットを手配した。ほどなくして迎えの機が到着し、二人はそれに乗り込んだ。梨央は、帰国することだけを悠真に慌てて伝えるのが精いっぱいで、そのまま理玖とともに急ぎ国内へ戻った。道中、梨央は気が気ではなく、隣にいる理玖の表情が次第に曇っていくことにも気づかなかった。二人が病院の屋上に降り立ったときには、志保子はすでに病室へ戻っていた。理玖の後ろから一緒に現れた梨央を見て、志保子は目を丸くし、うれしそうに声を上げた。「梨央、どうして戻ってきたの?」梨央はあわてて駆け寄り、彼女の様子をひと通り確かめた。顔色も思ったほど悪くないとわかって、ようやく少しだけ安堵する。それでも、目の奥は熱くなった。「お義母さん、どうして急に倒れたりしたの?本当にびっくりしたわ。先生は何て言ってる?原因は何だったの?」志保子は思わず、理玖のほうへちらりと目をやった。朦朧としたまま病院へ運ばれたあと、執事が理玖に電話を入れたときには、彼女の意識はすでに少し戻っていた。大したことではないと、ちゃんと伝えてあったはずなのに。けれど、彼女はその場で口には出さなかった。ただ梨央の手を取って、やさしく微笑む。「びっくりしたでしょう?大丈夫、大丈夫。たいしたことはないのよ。最近ちょっと食欲がなくて、血糖値が下がって、うっかり倒れてしまったの。これからはちゃんと気をつけるから」梨央は目を潤ませたまま、ようやくほっと息をついた。理玖は志保子に詳しい検査を受けさせ、そのまま数日入院することになった。命に別状はないとわかっても、梨央の胸のざわめきは簡単

  • 燃え尽きた恋の果てに   第21話

    車が、かつて二人で訪れて遊んだあの海辺の近くに着くまで、誰も口を開かなかった。梨央は思いきって靴を脱ぎ、砂浜に足を下ろした。ぬくもりを含んだ細かな砂が足の指の間に入り込み、歩くたびにさらさらとこぼれ落ちていく。二人は肩を並べて歩き、その場に立ち止まって、うねる波を見つめた。浜辺では、ほかの観光客たちの楽しげな笑い声が響いている。梨央はかすかに口元をゆるめ、ふいに口を開いた。「覚えてる?昔、ここで一週間過ごしたよね。帰るときも名残惜しくて、いつかお義母さんを連れてきて、ここでのんびり暮らしたいねって、冗談まじりに話してた。私、このあたりの家の値段をあちこち聞いて回ったの。そしたら本当に、ここに家を買うことになるなんてね」あの頃、彼女は言えなかった。本当は、この場所そのものよりも、理玖と二人きりで過ごす時間がいちばん名残惜しかったのだと。ここでは誰も彼らのことを知らない。寄り添い合う二人だけがいて、まるで彼が自分だけのものになったような気がしていた。あのとき彼女は、こんな幸せな日々がこのままずっと続けばいいと、心から願っていた。理玖は顔を向け、真剣な眼差しで彼女を見つめた。「ここが好きなら、これからは毎年、一緒に休暇を過ごしに来ればいい。子どもの頃だってそうだっただろ。お前が行きたい場所なら、俺はどこへでも付き合った。その気持ちは今も変わってない」傍らに下ろした手を、理玖はぎゅっと握りしめた。その声には、抑えきれない後悔と苦しみがにじんでいた。「梨央。俺はずっと、お前に抱いているのは家族としての情だと思ってた。ひとりの女性として見たことなんてないと、そう思い込んでた。でも、子どもの頃から今まで、お前のことだけはいつだって俺の中でいちばんだった。もしかしたら、愛している相手は最初からお前だったのかもしれない。ただ、俺が自分の気持ちをずっと見誤っていただけで」彼は、悠月と結婚することも考えた。彼女は美しく、聞き分けもよく、妻にするには申し分のない相手だったからだ。激しい恋情があったわけではない。それでも結婚して、一生守っていくことはできると思っていた。どうせ自分にとっては、誰を娶っても同じようなものだと、どこかでそう思っていた。けれど、あの出来

  • 燃え尽きた恋の果てに   第20話

    悠真はそのまま理玖の脇をすり抜け、肩をぶつけるようにして通り過ぎた。理玖の体がわずかに揺れた。それから彼は顔を上げ、梨央の部屋のほうを見た。その場に長く立ち尽くしたあと、ようやく足音を潜めて、そっと彼女の部屋へ入っていく。梨央は眠っていた。しかし眠りは浅く、眉はかすかに寄せられ、額には冷たい汗がにじんでいる。理玖はベッドのそばに腰を下ろし、子どものころと同じように、そっと彼女の背をトントンと叩いた。やがて梨央の呼吸は少しずつ落ち着いていく。彼は細心の注意を払いながら、彼女の左手の袖をわずかにたくし上げた。すると手首に幾筋も重なる傷跡が、視界の中に露わになる。どれほど強く、自分自身に刃を向けてきたのか。どれほど苦しんでいたのか。それだけで十分すぎるほど伝わってきた。理玖は黙ったまま、その痕を見つめ続けた。視界がにじみ、ぼやけるまで。口の中へ流れ込んだ苦みが、胸の奥までじわじわと満たし、彼の心をやわらかく、そしてひどく苦しくしていった。翌朝、目を覚まして家の中に理玖の姿を見たとき、梨央はまだどこか落ち着かなかった。理玖はちょうど朝食を用意しているところだった。彼女のぎこちなさに気づいたのか、やわらかく笑って言う。「おいで。朝ごはんにしよう」梨央がテーブルの前に行って見ると、並んでいるのはどれも自分の好物ばかりだった。十代のころ、料理を覚えようとして油が跳ね、手の甲を火傷したことがある。それ以来、理玖は彼女を台所に立たせたがらなくなった。その代わり、自分で彼女の好きな料理を作るようになり、いつの間にかかなりの腕前になっていた。あのころの彼女は、彼の作る料理がいちばん好きだった。けれど、あの出来事があってからは違った。料理どころか、同じ空間で息をすることさえ、彼には耐えがたいもののように思えた。梨央は胸の奥に湧いた動揺を押し込み、テーブルについた。ひと口食べると、そこにあったのは変わらない、記憶の中そのままの味だ。彼女はまつげを伏せる。目の縁が、わずかに赤くなる。だが感傷に沈むより早く、ひとつの影が遠慮なく彼女の隣へどかっと座った。悠真だった。気だるげに笑いながら卵をひとつつまみ、二、三口で放り込んでから、口いっぱいのまま言う。「へえ、

  • 燃え尽きた恋の果てに   第19話

    その日の午後にはもう、梨央に手を出そうとしたあの男が、過去にも複数のわいせつ事件を起こしていたことが明るみに出たと耳にした。しかも刑務所に送られる前に何者かに手足をへし折られ、二度と立ち直れない体にされたらしい。梨央はわざわざ詮索しなかったが、それが理玖と無関係であるはずがないことくらいはわかっていた。彼は昔から、やると決めたらためらわない。苛烈で、容赦がない。その夜、理玖は本当にそのまま泊まっていった。昼間に起きたこと――危うく男に乱暴されかけたことも、そして理玖が突然現れたことも、どちらも梨央からひどく安心感を奪っていた。眠ってからそう時間もたたないうちに、その夜、彼女はまた発作を起こした。理玖はうとうとと浅い眠りの中で、ふいに梨央が押し殺したような声を漏らすのが聞こえた。彼ははっと目を覚ました。見慣れない部屋の内装が目に入った瞬間、ここがどこなのかを思い出し、すぐさま梨央の部屋へ駆け出そうとする。だが、その前に、ひとつの影が彼より先に動いていた。その足音は驚くほど静かだった。人影は素早く梨央のベッド脇へたどり着き、彼女が自分を傷つける寸前、その手を強くつかむ。ベッドサイドの小さなナイトランプに照らされた梨央の顔は、いっそう青白く、怯えたものに見えた。彼女は呆けたように、ベッド脇に片膝をつくようにしている悠真を見つめる。体はどうしようもなく小刻みに震えていた。悠真が彼女の手首をつかむ力は優しげだった。それでも、彼女に自分を傷つける余地をまるで与えなかった。彼は顔を上げて彼女を見上げ、どこか不敵に笑う。その笑みには、わずかにからかうような色さえ混じっていた。「また悪夢でも見た?」男の掌は熱いほど温かかった。その熱が肌から胸の奥までじわりと入り込み、彼女の心を焼くようだった。国外へ出てからというもの、理玖と物理的に離れたせいなのか、彼女の発作はむしろ頻繁になっていた。これで三度目だった。そして悠真が彼女の異変に気づき、間に合ったのも、これで三度目だった。彼は一度も、その異常について問い詰めようとはしなかった。彼女の私生活を暴こうともしない。まして、愚かな行為だと笑ったこともない。左手に幾筋も走る傷跡も見ていた。彼女の服がすべて長袖ばかりだという

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status