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第5話

Author: 霧島柳乃
「梨央、それ……?」

梨央は腕の中の箱を抱きしめたまま答えた。

「もう要らないものよ。

捨ててくるわ」

悠月はにこにこと笑った。

「どうせ捨てるなら、ちょうど私の部屋に収納箱がひとつ欲しかったの。

中身はこっちで捨てるから、その箱、もらってもいい?」

そう言って手を伸ばしてきた。

梨央は慌ててその手を避けた。

緊張のせいで、声が少し固くなる。

「結構よ」

差し出した手が宙に浮き、空気が気まずく張りつめた。

理玖は箱に目をやり、そのまま冷えた視線を向ける。

「それ、もう古いだろ。

あとで新しいのをいくつか持ってこさせるよ」

それでようやく悠月もまた笑みを浮かべ、今度は明るい声で梨央を声をかけた。

「梨央、明日、友達を何人か呼んで家で食事するの。

あなたも一緒に、食べましょう?」

その口ぶりは自然で、まるでこの家の主人のようだった。

梨央は唇を噛み、どう断ろうか迷った。

すると理玖が口を開いた。

「悠月は帰国したばかりだ。

お前も手伝ってやれ」

「……わかったわ」

三年前のことは、たとえ自分の仕業ではなかったとしても、結果として悠月を傷つけたのは事実だ。

あまりに冷たく突き放すことはできなかった。

梨央は結局うなずき、うつむいたまま箱を抱えて外へ出ると、ゴミ捨て場へ向かった。

その背中に注がれていた悠月の含みのある視線には、まるで気づかなかった。

気づけば翌日になっていた。

悠月が招いた友人は多く、二十人を優に超えていた。

梨央は朝早くから起きて手伝いに回ったが、悠月はこの家の主人のような顔で、彼女や使用人たちに次々と指図した。

使用人たちは何度か口を開きかけたものの、理玖が何も言わずに許しているのを見て、梨央も黙っている以上、最後にはため息をついて引き下がるしかなかった。

宴が始まってから、梨央も付き合いで二杯ほど口をつけた。

だがほどなくして、身体に妙な違和感が走る。

理玖は悠月とその友人たちに囲まれ、談笑しながら接待に追われていた。

梨央の胸に、ふいに嫌な予感がよぎる。

彼女は足早に部屋へ向かった。

けれど、身体の異変はみるみるはっきりしていった。

下腹の奥に、理由のわからない熱がこみ上げてくる。

全身から力が抜け、脚まで頼りなくなる。

頬は赤く染まり、こめかみには細かな汗が浮かび始めた。

梨央は急いで浴室へ駆け込み、冷水で顔を洗った。

だが、まるで効き目がない。

全身が熱を帯びていた。

彼女は身につけていた服を脱ぎ捨てるように床へ落とし、そのままベッドに身を横たえた。

そのとき、指先にふいに覚えのある感触が当たった。

手に取ってみると、それは理玖のシャツだった。

梨央は呆然とつぶやいた。

「もう……捨てたはずなのに……」

身体の奥から湧き上がる渇きが、容赦なく彼女を揺さぶる。

梨央は首をのけぞらせ、抗えないまま、頭の中に理玖の顔を思い浮かべていた。

一瞬で、三年前、理玖と一夜をともにしたあの夜へ引き戻される。

男の力強い手が腰をつかみ、何度も深く身体を重ねた。

肌の触れ合い以上に、彼女の魂を震わせたのは、その密やかな熱だった。

意識はとろけるように曖昧で、幻を見ているみたいだった。

梨央は理玖の名をかすかに呼びながら、無意識にそのシャツを抱きしめる。

まるで、抱いているのが彼自身であるかのように。

そのとき、突然ドアがノックされた。

続いて聞こえてきたのは、理玖の冷たい声だった。

「梨央。

俺を呼んだのか?」

梨央は愕然として目を見開く。

自分の耳がおかしくなったのかと思った。

理玖はもう一度ドアを叩き、しばらく待ったあと、ためらいもなくノブを回した。

梨央は恐怖に駆られ、叫ぶ。

「入らないで……!」

だが、理玖はすでにドアを開けていた。

数メートル離れた場所からでも、彼女の無様な姿ははっきり目に入った。

理玖の瞳が激しく揺れる。

「お前……」

その背後から、突然悠月の声がした。

「梨央、部屋にいるの?

さっき顔色が悪かったから、具合でも悪いのかと思って」

言い終えるより早く、悠月は理玖の後ろからひょいと顔をのぞかせる。

「梨央!」

その後ろには何人もの人影が続いていた。

悠月の驚いた声を聞きつけて、次々と中へなだれ込んでくる。

そしてそのとき、梨央は何も身につけないままベッドに横たわり、胸に抱いていたのは理玖の黒いシャツだけだった。

部屋に入ってきた者たちは、一斉に彼女と目を合わせた。

そこにいたのは、見るも無残で、みっともない姿の梨央だった。

悠月が悲鳴を上げる。

「いやっ……!

何してるの?」

その背後の者たちも、驚きのあまり梨央を指さしながら囁き合う。

「うそ……そういうことしてたの?

気持ち悪い……」

「みんな下で集まってるのに、部屋にこもってこんなことしてるなんて。

そんなに欲求不満なの?」

「今日の集まりは悠月が開いたものなのに、こんなふうに自分の立場を見せつけるつもりだったの?」

「わざと理玖を部屋に呼び戻したの?

また前と同じことをするつもりだったんじゃない?」

あちこちから向けられる視線と声が、容赦なく梨央に突き刺さる。

そのうえ階下からも、どたどたと激しい足音が響いてきた。

さらに人が駆け上がってくるのだとわかった。

「やめて……いや……」

誰にも見せたくなかった、自分のいちばん醜い部分が、無理やり暴かれていく。

その瞬間、まるで再び三年前へ引きずり戻されるようだった。

もう一度、あの地獄に突き落とされるみたいに。

梨央の顔から血の気が引き、身体は激しく震え始める。

彼女は何も考えられないまま逃げ出し、まっすぐ窓のほうへ駆けた。

そして、そのまま窓の外へ身を投げた。

理玖の顔色が変わる。

「梨央!」
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