葬儀の参列者を見送った頃には、すでに夜10時を回っていた。
重い足取りで家へ戻った若葉凛(わかば りん)は、玄関に置かれた一足の靴を見て足を止める。
7日間、連絡ひとつなかった夫――桐生真也(きりゅう しんや)が帰ってきていたのだ。
父が亡くなってからの3日間、凛は真也に50回近く電話をかけた。けれど、折り返しの一本もなかった。
病院から葬儀場へ、そして最後の別れの日まで。親しい人たちの助けがなければ、自分はきっと途中で倒れていたのだろう。
今も凛の体には、お葬式に漂っていた線香の香りが残っている。それは、家の中に満ちた冷たい杉の香りとは、あまりにも違っていた。
疲れ切った顔のままバッグを靴箱の上に置き、凛は静かにスリッパへ履き替える。
リビングでは、真也が窓辺に寄りかかりながら電話をしている。
廊下に立った凛は、ただ黙って彼を見つめる。
低く落ち着いた声。口元にはかすかな笑み。
その姿を見た瞬間、凛の唇に苦い笑みが浮かんだ。
――ああ、電話は繋がるんだ。
壊れたのか、失くしたのかと思っていた。
凛はもう限界まで疲れ果てていた。会話するどころか、なぜ連絡を絶ったのか尋ねる気力もない。
……もう、どうでもいいんだ。
そもそも真也と結婚した理由は、彼が持つ医療の力を頼るためだった。けれど、父を失った今となっては、それすらももう意味を持たない。
形だけのこの結婚生活も、ようやく終わりを迎える。
今の凛が望むことはただひとつ――シャワーを浴びて、何も考えずに眠りたい。
そう思って階段へ向かい、3段目に足をかけた時だった。
背後から、低い声が落ちてくる。
「今日はずいぶん遅かったな。どこに行ってた?」
責めるような響きがあった。
凛は昔から几帳面で、人付き合いも好まなかった。仕事が終われば寄り道もせず、まっすぐ家へ帰る。毎日、夫と献立のことだけを考えて過ごしてきた。
父が入院してからも、真也が仕事から戻る前にはすべてを済ませていた。
玄関にはいつも綺麗に揃えられたスリッパ。クローゼットには、丁寧にアイロンをかけられたシャツ。毎晩9時までに、書斎のテーブルには焚かれたお香とちょうどいい温度に冷ました紅茶。
そのすべては、父を救うための工夫だった。
しかし、結果はどこまでも残酷だった。
本来、父の手術のために来てくれる脳外科の名医は、真也の判断で急遽海外へ派遣された。
父の容体が急に悪化したわけではなく、ずっと危険だった。それでも真也は、凛に何ひとつ相談することなく、海外での手術を優先した。
真也の声に凛は足を止めた。けれど、振り返ることはなかった。
背後から足音が近づく。
次の瞬間、大きな影が彼女を追い越し、階段の前に立ちはだかった。
「海外での手術は無事に終わった。もうすぐ加藤教授がこっちへ戻ってくる。お義父さんの手術もすぐ手配するよ」
両脇にだらりと下げていた凛の手が、強く握り込まれる。眉間に刻まれた悲しみは、暗がりの中に溶けていた。
「手術は……もう、必要ない」
声には、何の感情も滲んでいなかった。
真也は眉をひそめる。電話に出なかったことを、まだ怒っているのだと思った。だから、少し声を和らげる。
「この数日、俺は伊織のそばにいたんだ。伊織のお父さんの手術があって、彼女もかなり不安がっていた」
伊織というのは、木下伊織(きのした いおり)のことで、桐生家と古くから付き合いのある木下家の次女だ。
随分と都合のいい理由だと凛は思った。視線を落とし、胸の奥に冷たいものが広がっていく。
もし自分がいなければ、伊織はきっと、堂々と彼の隣に立っていたのだろう。
伊織を安心させるためなら、7日間何の連絡もなく消えることすら許される。
「……そう」凛は力なく返した。そして真也の横を通り過ぎ、階段を上ろうとする。
しかし、真也はそれを許さなかった。
凛の肩をそっと抱き寄せる。「何を拗ねてるんだ?用事が片付いたら、こうしてすぐ戻ってきたんだろう?」
――すぐ戻ってきた。
その言葉だけが、妙に耳に残った。
凛は静かに問い返す。「じゃあ……私は『ありがとう』って言うべきなの?」
伊織と7日間も一緒に過ごしたあと、ようやく自分のことを思い出したように戻ってきてくれたことに感謝し、「よく帰ってきてくれた」とでも言えばいいのだろうか。
真也の眉間には苛立ちが浮かぶ。「今日は一体どうしたんだ?嫌味ばかり言って……電話に出なかった理由ならもう説明しただろ、まだ意地を張るつもりか?」
意地?
その言葉を聞いた瞬間、凛は、思わず笑いそうになった。
父が亡くなったこと。それに続く葬儀や後片付け。たくさんの出来事があったというのに――彼は何も知らなかった。
何より、父が入院していた病院は桐生グループの傘下にある。
たとえ真也との結婚は秘密だとしても、真也本人が父の死を知らなかったとしても、会社の雑務を毎日処理している彼の秘書は?
きっと秘書ですら思ったのだろう。
――凛のことなど、真也を煩わせるほどのことではない、と。
凛はゆっくりと顔を上げ、目の前にいる真也を見つめた。その瞬間、すべてが無意味に思えた。
薄い唇をわずかに開き、風に溶けるような声で告げる。「真也……私たち、離婚しましょう」
もう限界だった。
夫がいるのに、まるでひとりで生きているような結婚生活にも。
毎日、たった一人の男のために自分をすり減らしていく日々にも。
彼に愛されるため、認めてもらうために、本当の自分を押し殺してきたことにも。
真也は一瞬、言葉の意味を理解できないように目を見開いた。そして、深い湖の底のような瞳で凛を見つめる。
「……俺が電話に出なかったからか?」
凛は目を伏せる。瞳の奥に残っていた最後の光を隠すように。「そうだよ。あなたが電話に出なかったから」
本当の理由を説明しても意味がない。言い争う気力すら、もう残っていなかった。
凛は真也を押しのけ、そのまま階段を上っていく。
「凛。俺と離婚したら、この先どうやって暮らすつもりなんだ?お義父さんの高額な治療費を、お前ひとりで払えるのか?」
階段の踊り場で、凛の足が止まる。
真也は両手をポケットに入れたまま、細めた目で彼女を見ていた。「今の言葉は、聞かなかったことにする。もう休め」
辺りは薄暗くても、凛には、真也の目に浮かんだ感情がはっきり見えた。
――軽蔑だ。
上に立つ者が、下の者へ向ける冷たい軽蔑。
その時、真也のスマホが再び鳴った。画面を確認した彼は電話に出ることはなく、画面を暗くした。
そして静かに階段を下りていく。
凛は爪が掌に食い込むほど強く手を握りしめた。遠ざかっていく背中を見つめながら、喉の奥につかえたものを必死に飲み込む。
「離婚届と離婚協議書は、できるだけ早く作るよ。できたら、あなたの会社へ郵送する」
その言葉を聞いた瞬間、真也の足が、ほんの一瞬だけ止まった。けれどすぐには、何事もなかったように歩き出す。
玄関から、扉が閉まる音が響いた。
リビングが静まり返り、やがて車のエンジン音が聞こえ、それも少しずつ遠ざかっていく。
凛の身体から力が抜けた。その場に崩れるように座り込む。
床の冷たさが肌に伝わるが、胸の奥に広がる痛みに比べれば、なんともないように思えた。
その時、スマホが震えた。画面を見ると、親友の田辺明穂(たなべ あきほ)からだった。
海外にいる明穂は、父の葬儀には参列しなかったが、凛ひとりにすべてを背負わせないよう、人を手配して葬儀の準備などを手伝ってくれていた。
「凛ちゃん、手配は済ませたよ。いつ離婚を切り出すの?」
凛は震える指先を見つめ、少し間を置いて答えた。「……もう言った」
広い邸宅を見渡す。
この家にあるすべての家具や飾り物。そのひとつひとつを、3年の間何度も磨いてきた。
真也は静かな環境を好むため、凛は住み込みの使用人を辞めさせた。定期的に掃除業者が来る以外、家事はすべて自分でしてきた。
ここは自分の家だと、自分の居場所だと信じたこともあった。けれど今、ここはまるで初めて見る空間のようで、温もりなどまったく感じられなかった。
結局、自業自得なのかもしれない。自分でさえ自分を見下してるのに、他人が自分を大切にしてくれるはずもない。
「……え?もう言ったの?」スマホの向こうで、明穂の声がわずかに揺れる。「じゃあ……桐生さんは、同意してくれた?」
凛は淡々と答えた。「彼の意見は関係ない」
その言葉を聞いた明穂は、それ以上何も言わなかった。凛がこの3年間、どれほど自分を押し殺してきたか、ずっと見てきたからだ。今回、彼女の父親が亡くなったのに、真也が電話すら出なかった件は、どう考えても許されることではない。
離婚には、心から賛成だった。
ただ――
明穂には、ひとつだけ引っかかることがあった。真也が、そう簡単に凛を手放すとは思えない。彼にとって離婚は、デメリットしかない選択だから。
「離婚を切り出したのなら、まず家を出ないとね。北青山の家、鍵は凛ちゃんが持ってるよね?引っ越す日が決まったら教えて。業者を手配するから」
凛の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。なぜか、鼻の奥が少しだけ熱くなった。「ありがとう、明穂」
明穂は小さく笑う。「お礼はいらないよ。いい?私がいる限り、凛ちゃんにはいつでも戻れる場所があるから」
そして小さく息をついて、静かに言葉を続けた。
「自分を大切にしてくれない相手に囚われちゃ駄目。誰かのために、あなたが持っている誇りや輝きを捨てる必要なんてないんだから」
温かい涙が、床へ落ちる。凛は小さく頷いた。「……うん」
「そうだ……言い忘れてた」明穂がふと思い出したように続けた。「陸さんが帰国したみたい」
その名前を聞いた瞬間、凛がスマホを強く握り締めた。瞳の奥に、言葉に表せない感情が静かに浮かぶ。