Share

第 2 話

Author: 燈ちゃん
その夜、真也は帰ってこなかった。

朝の9時。

凛のもとに、一通のメッセージが届いた。

【若葉さん、離婚協議書の作成が終わりました。ご確認いただき、追加したい内容があればお知らせください】

凛はパソコンを開き、最初から最後まで慎重に目を通した。

【問題ありません。ありがとうございます、東野先生】

送信したあと、プリンターから紙がゆっくりと吐き出される。

凛は書類を確認し、揃え、綴じる。

そして、署名。

すべての動作に迷いはなかった。

ペンの蓋を閉じた瞬間、凛は、心の扉も閉めたような気がした。

スマホを取り出し、配達の予約を入れる。

昼の12時には、署名済みの離婚届と離婚協議書は予定通り、桐生グループ本社の社長室へ届けられる。

その後、凛はシャワーを浴び、着替え、荷物をまとめた。

3年間暮らした家なのに、凛の私物は驚くほど少なかった。スーツケースひとつですべてが収まってしまう。

思い返せば、ここへ来た時もこのスーツケースを手にしていた。そして今、去る時もまた同じものを持っている。まるで始まりと終わりが一つにつながったようで、これでようやく一つの区切りをつけられたような気がした。

凛は鏡の中の自分を見つめる。

目の下には薄いクマが浮かんでいる。けれど、いつも眉間に刻まれていた不安は、もうどこにもない。昨夜はほとんど眠れていないはずなのに、表情は不思議なほど軽い。

もうすぐ、すべてが終わる。

間違ったことに費やしてきた時間を、これ以上増やさない。気づくのが遅すぎるなんてこともない。

朝の10時半、凛はスーツケースを引きながら、家を出た。

ちょうど清掃スタッフがホースを手に、庭の花へ水をやっていた。凛の姿を見ると、女性は丁寧に挨拶をする。

「奥様、今から出張ですか?」

凛は小さく微笑んだ。「ええ」

それ以上は何も言わず、軽く会釈だけを返す。

去っていく凛の背中を見送りながら、清掃スタッフは思わず首を傾げた。

いつもの凛なら、出かける前に必ずアロマオイルの種類やインテリアの配置について細かく伝えていく。それほどこの家を大切にしていた彼女が、今日は何一つ言葉を残さなかった。

まるで、もう二度と戻るつもりがないかのように。

凛は書類の入った封筒を配送員へ預けると、そのまま車へ乗り込んだ。

向かう先は、北青山。

もう振り返る必要はない。

そう決めたように、凛は最後まで一度も後ろを見ることはなかった。

……

桐生グループ本社、社長室。

真也は、海外との緊急会議を終えたばかりだった。疲れ切った身体を椅子に沈め、しばし目を閉じている。

海外プロジェクトで予想外の問題が発生し、真夜中に急遽会社へ戻ったのだ。夜明け前から現在まで、ほとんど休むことなく対応に追われ、頭が重く、思考すら鈍るほど疲労が蓄積していた。

10時間以上何も口にしていないせいか、胃のあたりには鈍い痛みが広がっている。

――自分の胃も、すっかり凛に甘やかされてしまった。

真也は、昔から仕事に命をかけるような人間だった。会食や接待、不規則な食事、そして、休むことを知らない生活。そんな日々を続けてきたせいで、胃にはとうに負担が積み重なっていた。

そのことを知っていた凛は、彼のためにレシピを細かく調べ、毎日違う養生料理を作ってくれた。薬膳も取り入れ、胃に優しい食事を3年間、一度も欠かすことなく作り続けてきたのだ。

たとえ真也が夜中まで仕事をしていた日でも、保温容器の中に入れられた胃を労わるスープは、いつも温かいままだった。

最近胃の調子が悪くなりがちなのは、出張が続き、さらに仕事量も増えていたからだった。

真也が休憩している最中、秘書の金城哲也(きんじょう てつや)がノックをして入ってきた。手には、茶色い封筒が握られている。

「社長。こちら……奥様から届いたもののようです」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 父を亡くした日から、私の逆襲劇が幕を開ける   第 102 話

    ――信之は、妻を失ったことで息子を憎むようになったのではないか。だからこそ、何人もの養子を迎え入れた。そして、彼らを使って実の息子を追い詰めているのではないか、と。様々な憶測が飛び交った。けれど、誰一人として、信之の本当の思惑を知る者はいなかった。麻美が言ったように、表向きの理由は「後継者を鍛えるため」。だが――本当に、それだけだったのだろうか。陸は、何も答えなかった。窓の外の景色を見ていた黒い瞳が、ゆっくりと麻美へ向けられる。口元だけが、わずかに緩んだ。「なんだ、緒方家の財産を分けてもらいたくなったのか?」目の前の女――麻美もまた、信之が迎え入れた数多くの養子の一人だった。

  • 父を亡くした日から、私の逆襲劇が幕を開ける   第 101 話

    「A区画31番、若葉賢治さんのご家族の方でしょうか?」警備員に声をかけられ、凛は足を止めた。「はい。私が娘の若葉凛です」そう答えると、警備員は「ああ、やっぱりか」と頭を下げた。「数日前にもご家族の方がお参りに来られたようで、墓前に落とし物をしたんです。清掃員が拾って届けてくれたので、今お渡ししますね」凛は、きっと墓前に花を供えていた人のものだろうと思った。警備員が小さな紙袋を差し出す。「何なのかは私もよく分からなかったんですが、見るからに高そうだったので……無くしたら困るんじゃないかって」凛は袋を受け取り、開けた。中から出てきたのは、金属製で爪ほどの大きさのものだった。隣にいた明

  • 父を亡くした日から、私の逆襲劇が幕を開ける   第 100 話

    もちろん、陸が自分にとって大切な存在であることに変わりはない。ただ、それはあくまで家族としての大切さだ。越えてはいけない境界を、凛は越えるつもりはなかった。陸ほど人の感情に敏い人なら、自分の気持ちにもきっと気づいているはずだと思っている。陸の話をすれば、自然と真也の話にもなる。そして真也の話になれば、今度は凛の父親の話へと繋がっていった。明穂は以前から、帰国したら一度墓参りに行きたいと思っていたらしい。ちょうどその話になったため、2人は途中で必要なものを買い、そのまま一緒に霊園へ向かうことにした。山道を登りながら、凛は父が入院していた頃のことを明穂に話した。以前訪れた時と比べると、

  • 父を亡くした日から、私の逆襲劇が幕を開ける   第 99 話

    明穂の乗った飛行機が到着するのは、午後2時半。凛はその1時間半前には家を出ていた。耳にはワイヤレスイヤホンをつけ、片手でハンドルを握りながら、顧客とオーダーメイドの細かな要望について話している。本来なら、凛が直接やり取りをする必要はなかった。けれど茜から、「どうしても凛さん本人に対応してほしいというお客様がいる」と頼まれたのだ。その女性は、以前のSNS騒動をきっかけに凛へ強い好感を持ったらしい。周囲から何を言われても自分の信念を貫いた姿に惹かれ、ファンとしてわざわざ港市から訪ねてきたのだという。【一か八かの勝負に出る勇気がすごいと思ったんです】褒め言葉のつもりなのは分かっている。けれ

  • 父を亡くした日から、私の逆襲劇が幕を開ける   第 98 話

    英一まで凛を庇うとは思っていなかったのだ。その横で、伊織は真江の背中に手を添えながら、ゆっくり息を吐いた。胸の奥に、言葉にできない違和感が広がっていく。真也の態度。そして、英一の言葉。2人が凛を認め、守ろうとしていることは明らかだった。――今まで自分の味方だと思っていた人たちまで、もう自分の側には立ってくれないのだろうか。……真也は家には戻らず、気づけば北青山へ向かっていた。車を停めたのは、凛の家から少し離れた場所だった。見上げると、部屋の明かりはまだついている。あの日、哲也から聞いた話を、真也は半信半疑で受け止めていた。自分の家族が、そんなことを言うはずがない。心のどこかで、そ

  • 父を亡くした日から、私の逆襲劇が幕を開ける   第 97 話

    3年間、真也が凛を庇う姿を見たことは一度もない。凛が何を言われても、真也はいつも「今は我慢してくれ」と言うだけだった。その度に、彼女が一人で耐えていることに、屋敷の者たちも気づいていた。だからこそ、今日の真也の態度は余計に意外だった。「真也……あなた、母親を亡くした後、誰に育ててもらったのか……もう忘れたの?」そして次の瞬間、吐き捨てるように言う。「あんなひどい女のために……私に逆らうつもり?」その瞬間、真也の表情がわずかに変わった。「ひどい女」――その言葉が、胸の奥に深く突き刺さる。自分の叔母である真江が、凛をそんなふうに呼ぶことが信じられなかった。自分の前でさえ、平然と凛の悪口

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status