共有

第 6 話

作者: 燈ちゃん
光永商事なら、凛も知っている。高級ブランド事業を中心に、海外で大きな展開をしている企業だ。

オートクチュールの展示会や社交イベントも数多く主催している。国内市場へ進出する足掛かりとして、伝統ある高級生地分野へ参入すること自体は不思議ではない。

けれど――

なぜ、結華のような小さなブランドのために、光永商事の社長秘書が直接対応してくれているのだろう。

「若葉さん、中へどうぞ」遥は扉へ視線を向ける。「若葉社長がお待ちしております」

……若葉社長?

その言葉に、凛の胸の奥でひとつの推測がよぎった。それを確かめるように、遥に続いて中へ入る。

個室は想像以上に広かった。落ち着きのある部屋に大きな照明が柔らかな光を落としている。壁には趣向を凝らした掛け軸が飾られており、上品さと重厚感が同居した空間だった。

そして――

凛の視線が奥へ向いた瞬間。

上座に座る人物と、まっすぐ目が合った。

グレーのジャケットを身にまとった男。穏やかな表情には余裕が漂い、椅子へゆったりともたれながら、片手で湯呑みを弄んでいる。

凛の姿を認めた瞬間、その涼やかな瞳には隠しきれない喜びが浮かんだ。

「……凛」

その一言が、静かな湖面へ落ちた小石のように、凛の心を揺らした。

若葉陸(わかば りく)。

数日前、明穂から帰国したらしいと聞いたが、こうして本人を目の前にすると、なかなか実感が湧かなかった。

まさか、彼と再会する日が来るなんて。

凛が呆然と立ち尽くしている間に、陸はすでに目の前まで近づいていた。彼が視線だけを向けると、隣にいた遥はすぐに察し、静かにその場を離れる。

次の瞬間、懐かしいモミの木の香りが、ふわりと凛の鼻先をかすめた。

逞しい腕が身体を包み込み、耳元へ低く穏やかな声が落ちてくる。

「……凛、会いたかった。俺は帰ってきたぞ」

凛の思考は追いついていなかった。意識だけが、遠い昔の夏へ引き戻される。父と一緒に、廃材置き場の前で彼を拾ったあの日へ。

10歳だった少年は、何の前触れもなく現れ、そして10年後、何の前触れもなく消えた。

あの交通事故の後、陸はまるで存在ごと消えたかのように姿をくらました。そして再び現れた時、彼はもう、かつての孤独な少年ではなく、光永商事の社長になっていた。

ずっと会いたかった凛を目の前に、陸の目元には柔らかな光が浮かんでいる。彼の指先は、凛の左手の薬指へそっと触れた。「もう……どこにも行かない」

その声には、喜びなのか、寂しさなのか、簡単には読み取れない感情が滲んでいた。

凛は彼の瞳を見つめる。

懐かしい。けれど、どこか遠い。

幼かった少年の面影は消え、今の陸には鋭く整った輪郭と、隠しきれない気品があった。金縁眼鏡の奥にある黒い瞳は、昔から変わらず深く、凛にはその奥にあるものを読み取ることができない。

誰が想像できただろう。

今、目の前にいる気高い男が、かつてはゴミ置き場でカラスと食べ物を奪い合っていたことを。

陸は少し身体を屈め、もう一度凛を腕の中へ抱き寄せる。

突然の距離の近さに、凛は戸惑った。長い時間会っていなかったせいなのか。それとも、目の前の彼がもう昔とは違う存在になってしまったからなのか、凛には分からなかった。

凛はそっと彼を押し返し、口元に穏やかな笑みを浮かべる。

「そう……それはよかったね」

この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード

最新チャプター

  • 父を亡くした日から、私の逆襲劇が幕を開ける   第 102 話

    ――信之は、妻を失ったことで息子を憎むようになったのではないか。だからこそ、何人もの養子を迎え入れた。そして、彼らを使って実の息子を追い詰めているのではないか、と。様々な憶測が飛び交った。けれど、誰一人として、信之の本当の思惑を知る者はいなかった。麻美が言ったように、表向きの理由は「後継者を鍛えるため」。だが――本当に、それだけだったのだろうか。陸は、何も答えなかった。窓の外の景色を見ていた黒い瞳が、ゆっくりと麻美へ向けられる。口元だけが、わずかに緩んだ。「なんだ、緒方家の財産を分けてもらいたくなったのか?」目の前の女――麻美もまた、信之が迎え入れた数多くの養子の一人だった。

  • 父を亡くした日から、私の逆襲劇が幕を開ける   第 101 話

    「A区画31番、若葉賢治さんのご家族の方でしょうか?」警備員に声をかけられ、凛は足を止めた。「はい。私が娘の若葉凛です」そう答えると、警備員は「ああ、やっぱりか」と頭を下げた。「数日前にもご家族の方がお参りに来られたようで、墓前に落とし物をしたんです。清掃員が拾って届けてくれたので、今お渡ししますね」凛は、きっと墓前に花を供えていた人のものだろうと思った。警備員が小さな紙袋を差し出す。「何なのかは私もよく分からなかったんですが、見るからに高そうだったので……無くしたら困るんじゃないかって」凛は袋を受け取り、開けた。中から出てきたのは、金属製で爪ほどの大きさのものだった。隣にいた明

  • 父を亡くした日から、私の逆襲劇が幕を開ける   第 100 話

    もちろん、陸が自分にとって大切な存在であることに変わりはない。ただ、それはあくまで家族としての大切さだ。越えてはいけない境界を、凛は越えるつもりはなかった。陸ほど人の感情に敏い人なら、自分の気持ちにもきっと気づいているはずだと思っている。陸の話をすれば、自然と真也の話にもなる。そして真也の話になれば、今度は凛の父親の話へと繋がっていった。明穂は以前から、帰国したら一度墓参りに行きたいと思っていたらしい。ちょうどその話になったため、2人は途中で必要なものを買い、そのまま一緒に霊園へ向かうことにした。山道を登りながら、凛は父が入院していた頃のことを明穂に話した。以前訪れた時と比べると、

  • 父を亡くした日から、私の逆襲劇が幕を開ける   第 99 話

    明穂の乗った飛行機が到着するのは、午後2時半。凛はその1時間半前には家を出ていた。耳にはワイヤレスイヤホンをつけ、片手でハンドルを握りながら、顧客とオーダーメイドの細かな要望について話している。本来なら、凛が直接やり取りをする必要はなかった。けれど茜から、「どうしても凛さん本人に対応してほしいというお客様がいる」と頼まれたのだ。その女性は、以前のSNS騒動をきっかけに凛へ強い好感を持ったらしい。周囲から何を言われても自分の信念を貫いた姿に惹かれ、ファンとしてわざわざ港市から訪ねてきたのだという。【一か八かの勝負に出る勇気がすごいと思ったんです】褒め言葉のつもりなのは分かっている。けれ

  • 父を亡くした日から、私の逆襲劇が幕を開ける   第 98 話

    英一まで凛を庇うとは思っていなかったのだ。その横で、伊織は真江の背中に手を添えながら、ゆっくり息を吐いた。胸の奥に、言葉にできない違和感が広がっていく。真也の態度。そして、英一の言葉。2人が凛を認め、守ろうとしていることは明らかだった。――今まで自分の味方だと思っていた人たちまで、もう自分の側には立ってくれないのだろうか。……真也は家には戻らず、気づけば北青山へ向かっていた。車を停めたのは、凛の家から少し離れた場所だった。見上げると、部屋の明かりはまだついている。あの日、哲也から聞いた話を、真也は半信半疑で受け止めていた。自分の家族が、そんなことを言うはずがない。心のどこかで、そ

  • 父を亡くした日から、私の逆襲劇が幕を開ける   第 97 話

    3年間、真也が凛を庇う姿を見たことは一度もない。凛が何を言われても、真也はいつも「今は我慢してくれ」と言うだけだった。その度に、彼女が一人で耐えていることに、屋敷の者たちも気づいていた。だからこそ、今日の真也の態度は余計に意外だった。「真也……あなた、母親を亡くした後、誰に育ててもらったのか……もう忘れたの?」そして次の瞬間、吐き捨てるように言う。「あんなひどい女のために……私に逆らうつもり?」その瞬間、真也の表情がわずかに変わった。「ひどい女」――その言葉が、胸の奥に深く突き刺さる。自分の叔母である真江が、凛をそんなふうに呼ぶことが信じられなかった。自分の前でさえ、平然と凛の悪口

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status