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第2話

Auteur: 暁山朱里
星奈は乾いた唇を舐めた。

「あの人、彼女を迎えに行ったんですね?」

昇平は答えた。

「ええ、真帆さんは帰国して、この病院で精神外科の主治医を務めることになったんで」

荻野昇平という男は、蒼士と真帆の先輩だ。あの二人はカップルだと思っていて、長年応援しているらしい。

そして、甲斐田真帆という後輩のことを特に可愛がっていた。

蒼士が星奈と結婚する前夜、昇平はイライラして酒を飲み、片桐家まで押しかけてきて、蒼士の襟元を掴んで、どうして真帆が帰ってくるのを待ってやらないのか、と問い詰めていた。

それが今このような結果になり、みんな本来あるべき場所に戻ろうとしている。

すると彼はわざとらしく、こう付け加えた。

「蒼士が自分から彼女を迎えに行くって言ったんですよ。焦ってましたね。やっぱり、真帆さんのことを丸一年待っていたから」

「へえ」

星奈は淡々と笑った。

「それならいいんです。どうも、お邪魔しました」

昇平は冷たく鼻を鳴らした。

星奈が去る時、後ろから微かに話し合う声が聞こえてきた。

「あんなこと言って、彼女、蒼士と喧嘩するんじゃないか?」

昇平は軽蔑するような口調で言った。

「あの人が蒼士と喧嘩できると思うか?自分が少しくらい綺麗だからって、二人の間に割って入ったんだ。それを世間では『泥棒猫』って言うんだよ」

同僚は低い声で笑った。

「おいおい、荻野先生は彼女の母親の主治医だろう?そんなふうに彼女のことを言うなんて」

するとまた別の同僚が小声で言った。

「でも、彼女だって可哀想。私の同級生が産婦人科医なんですけど、どうも、彼女は不妊症らしいですよ」

「なんだって?蒼士は本当に運がない男だな。でも、真帆さんが帰ってくるからよかった」

星奈は急ぎ足で、エレベーターに乗り込んだ。

まさか、自分が不妊症であるという小さな事まで、すでに噂で広まっているとは思ってもいなかった。

病院を出ると、沈む夕日の残光が照りつけ、目の前の光景がぼんやりとして見えた。

甲斐田真帆はただ帰ってくるだけではなく、蒼士自ら遠くまで迎えに行ったのか……

星奈は段差をおりながら、唇をキュッと引きしめた。

この一年、星奈は蒼士が運転する車の助手席にも乗せてもらえなかった。

もういい。それなら、彼が彼女を連れて戻ってくるのを待っていよう。

その日の夜、星奈は上司に頼んで半月の休みをもらい、母親を気晴らしに涼名川市(すずながわし)へ連れていった。

二年前、星奈の母親である緒方祐実(おがた ゆみ)は脳腫瘍を患い、手術をしたが、術後の状況はあまり芳しくなかった。

今、祐実の一番の願いは、花が満開になった涼名川市を観光することだった。

――

蒼士と真帆が峯崎市に到着したのは、それから五日後のことだった。

ほとんどの荷物は送っていたが、真帆の手荷物はまだまだたくさんあった。

蒼士はスーツケース三つに、大小さまざまな鞄四つを手に提げて、入っていった。

真帆はすでに両手を伸ばし、ソファに横になっていた。ウェーブがかったロングヘアに、上着を脱いで、キャミソール一枚になっている。

蒼士は彼女の服と鞄が床に散乱しているのを見て、ため息をついた。

真帆は典型的な「秀才」で非常にIQが高く、気難しい性格の持ち主だ。勉強はよくできるが、生活能力は壊滅的だ。

さらに、彼女は甲斐田グループのお嬢様だ。各方面優秀な女の子で、小さい頃からずっと、彼女を中心に世界は回っていた。

「ねえ、蒼士、私頭が痛いわ」

彼女は目を閉じて、甘えた声を出した。

蒼士が尋ねた。

「マッサージでも呼ぼうか?」

「いらない」

蒼士はハチミツを溶かしたお湯をローテーブルの上に置いて、腰をかがめて床に散らばった物を、ひとつひとつ拾っていき、窓を開けて空気を入れ替えた。

そして慣れたように、浴室に行き、真帆のために熱いお湯を浴槽にためて、帰ろうとした。

ソファに座る彼女は、魅惑的な顔をして、軽い口調で言った。

「今夜はここにいてくれない?」

「……」

蒼士は手をドアノブにかけて止まった。

彼はキュッと唇を引き結び、ドアの前に立っていた。その後ろ姿からは、どこかそっけない雰囲気が漂っている。

時間がまるで一瞬止まったかのように感じた。

彼が振り返るのを待たず、真帆は曖昧な目つきで、いたずらをした子供のようにケラケラと笑った。

「ほらほら、早く帰って。私は休みたいの。あなたには奥さんがいるんだからね」

彼女はまるで屈辱を与えているかのように、その言葉を口にした。彼を蔑んでいるようだ。

空気は張りつめ、胸の奥がズキズキし、息苦しかった。

蒼士が結婚している事実は、この世の誰にも変えることなどできない。永遠に気持ちは変わらないと言った約束は今は何の価値もないものだ……

彼がドアノブを握る手の甲に青筋が浮かんだ。

蒼士は沈んだ声で返事をした。

「じゃ、俺はこれで、ゆっくり休んで」

真帆はソファに横たわり、天井を見つめて冷笑していた。

蒼士は真帆のマンションを出て、星奈と暮らしている家に帰った。

玄関のドアを開けると、長旅で留守にしていた時間よりもはるかに長い時間、ここには誰も生活していなかったような空気を感じた。

彼は潔癖症なところがある。顔を暗くし、不満が心の底から込み上げてきた。

清掃サービスに電話をかけて掃除してもらってから、やっと寝室に入った。

スラリと長い指先でゆっくりとシャツのボタンを外していく。目はどこか上の空だった。

彼は長いため息をつき、ベッドに倒れ込むと、唾を飲み込んだ。

連日忙しく飛び回り、気持ちも落ち着かない状態で、彼はとても疲れていた。

一週間、落ち着いて休む暇もなかった。枕に残るほのかな匂いを感じ取り、彼は前回、理性を失って星奈をベッドに押し倒した時のことを思い浮かべた。

彼女の綺麗な髪は肩にかかり、彼女は汗ばみながら、ぎゅっとシーツを掴んでいた。あの可愛らしい桜色の唇を噛みしめて、必死に熱く込み上げてくる感情を抑えようとする姿。

あの魅惑的な姿を思い出し、彼は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。

時間を見ると、あとおよそ二時間しないと彼女は帰ってこない。

蒼士は疲れた体を癒すために少し居眠りをした。目を覚ました時には、空はとっくに暗くなっていた。

ベッドからおりて部屋を出ても、リビングは真っ暗だった。

星奈はまだ帰ってきていない。

彼は眉をひそめた。

結婚してから、彼女が朝帰りなんてしたことは一度もない。

それで翌日、出勤すると、蒼士はまずカルテを確認した。

義理の母親である祐実の病状は悪化していなかったが、予定していた再検査は一度キャンセルされたようだ。

同僚の話から、彼は星奈が自分を訪ねてきたことを知った。

昇平は少し得意げな顔でこう言った。

「彼女には蒼士が真帆さんを迎えにA国に行ったって、教えてやったよ」

蒼士は眉間を押さえた。

「星奈にそれを伝えて、どうするんですか?」

「でも、彼女はどのみち知ることになるだろう?」

真帆が帰ってきたのだから、あの子供を産めない星奈とかいう女はもちろん捨てられると、昇平は言いたいのだ。

蒼士は何も言わずに、カルテを手にとって尋ねた。

「星奈の母親は、どうしてまだ検査し直してないんですか?」

「お前は不在だったし、あの日は患者さんが多かったからな。彼女には先に母親を連れて帰るように言ったんだ。その後、うっかり再検査の予約をするのを忘れててさ」

「先輩、念を押しておく必要があるようですね。こちらの不手際で、彼女の母親は開頭手術の後、知能に障害が残っただけでなく、病状も落ち着いていません。このような状況であれば、病院側としても、彼女の診察が優先されるはず。次は彼女には精密検査をしてください。そのほうが先輩にとっても良いことなんですよ」

そう言い終わると、蒼士はカルテを手に、冷たい空気をまとってその場を去っていった。

その場に残された昇平は、わけが分からないといった顔をしていた。

……

今まだ医学生である綾音は、蒼士が真帆を連れて帰国したと聞くと、すぐにテンションを上げて、授業をさぼり、彼らに会いに来た。

「お兄ちゃん!」

この時、蒼士は回診を終わらせてオフィスに戻ったばかりで、後ろにはたくさん人がついていた。

すると彼は眉間に皺を寄せた。

「綾音、どうしてここにいる?」

「真帆さんは?彼女に会いに来たの!」

真帆は彼女たち医学生の憧れの存在だった。

蒼士が真帆の名前を聞くと、澄んだ瞳に鋭い光が走った。

「院長が話があるそうで、院長室に行ってる。お前は邪魔するんじゃない」

綾音は、べえっと舌を出してみせた。

「安心して、お兄ちゃんの大事な大事な真帆さんに迷惑をかけるようなことはしないから」

蒼士は綾音を隅の方へ引っ張っていき、彼女にここ数日家で何かあったのか、星奈が病院に自分を訪ねて来たのはなぜなのか尋ねようと思った。

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