片桐先生、離婚ならメールで伝えたはずです のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

30 チャプター

第1話

片桐星奈(かたぎり せな)は子供が産めない体だった。病院で診断結果を受け取り、星奈は片桐蒼士(かたぎり そうし)にメッセージを送った。【私たち、離婚しましょう】メッセージを送り、スマホを置いた瞬間、いろんなことが吹っ切れた。診断結果を受け取ってすぐに、義理の母親から、すぐに夫の実家に来いと電話がかかってきた。星奈はそれに応じながら、片桐家の医療業界内でのコネクションはさすがだと感心してしまった。夫の実家へ向かう途中、星奈はどんよりとした曇り空の中、始終放心状態だった。彼女の目には涙が滲み、悲しみに襲われていた。星奈は蒼士とは知人からの紹介で知り合った。体を重ね合うことこそ、女性の心を掴む最も早い方法だという。女性は誰もが初体験の男性を忘れることはできない。それに、愛し合う二人が体で相手の愛を確かめる行為だから、違法でない最も簡単なことだ。星奈も自分の最初の男を簡単に忘れることなどできないだろう。しかも、彼はあの片桐蒼士だ。医学界の天才で、峯崎市において最年少で外科主任部長に抜擢された男。星奈が片桐家に着いて、まず顔を合わせたのは蒼士の妹だった。この時、片桐綾音(かたぎり あやね)は憎しみに顔を歪めていた。緒方星奈という片田舎からやって来た平凡な女が、兄と結婚したのは、片桐家の汚点だと綾音はずっと思っていたのだ。それに、満足に子供一人産むこともできない役立たずだ。「ねえ、あんたさぁ、子供すら産めないくせに、私の兄と結婚してどういうことよ?こちらはとんだ災難だわ」星奈は手に持っていた診断結果を彼女の前で揺らしてみせた。「私もさっき知ったばかりなの」星奈は、偉そうなこの小姑に構わず、家の奥へと進んだ。「真帆さんが帰ってくるって噂は、峯崎の医療業界関係者にはもう広まってる。あなたも自分が置かれた状況を理解して、離婚することね。それが誰にとってもハッピーな事なんだから」星奈はその言葉にピクリと反応し、綾音に背を向けたまま鼻で笑った。綾音の言うとおりだ。片桐蒼士という男が、子供を欲しがらないはずがないだろう?それに、自分との子供を喜んで産むはずもない。甲斐田真帆(かいだ まほ)こそ、蒼士が求めている女だ。彼はもちろん彼女との間に子供を望んでいるのだ。ただ、ここにいるこのお嬢さんは、星
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第2話

星奈は乾いた唇を舐めた。「あの人、彼女を迎えに行ったんですね?」昇平は答えた。「ええ、真帆さんは帰国して、この病院で精神外科の主治医を務めることになったんで」荻野昇平という男は、蒼士と真帆の先輩だ。あの二人はカップルだと思っていて、長年応援しているらしい。そして、甲斐田真帆という後輩のことを特に可愛がっていた。蒼士が星奈と結婚する前夜、昇平はイライラして酒を飲み、片桐家まで押しかけてきて、蒼士の襟元を掴んで、どうして真帆が帰ってくるのを待ってやらないのか、と問い詰めていた。それが今このような結果になり、みんな本来あるべき場所に戻ろうとしている。すると彼はわざとらしく、こう付け加えた。「蒼士が自分から彼女を迎えに行くって言ったんですよ。焦ってましたね。やっぱり、真帆さんのことを丸一年待っていたから」「へえ」星奈は淡々と笑った。「それならいいんです。どうも、お邪魔しました」昇平は冷たく鼻を鳴らした。星奈が去る時、後ろから微かに話し合う声が聞こえてきた。「あんなこと言って、彼女、蒼士と喧嘩するんじゃないか?」昇平は軽蔑するような口調で言った。「あの人が蒼士と喧嘩できると思うか?自分が少しくらい綺麗だからって、二人の間に割って入ったんだ。それを世間では『泥棒猫』って言うんだよ」同僚は低い声で笑った。「おいおい、荻野先生は彼女の母親の主治医だろう?そんなふうに彼女のことを言うなんて」するとまた別の同僚が小声で言った。「でも、彼女だって可哀想。私の同級生が産婦人科医なんですけど、どうも、彼女は不妊症らしいですよ」「なんだって?蒼士は本当に運がない男だな。でも、真帆さんが帰ってくるからよかった」星奈は急ぎ足で、エレベーターに乗り込んだ。まさか、自分が不妊症であるという小さな事まで、すでに噂で広まっているとは思ってもいなかった。病院を出ると、沈む夕日の残光が照りつけ、目の前の光景がぼんやりとして見えた。甲斐田真帆はただ帰ってくるだけではなく、蒼士自ら遠くまで迎えに行ったのか……星奈は段差をおりながら、唇をキュッと引きしめた。この一年、星奈は蒼士が運転する車の助手席にも乗せてもらえなかった。もういい。それなら、彼が彼女を連れて戻ってくるのを待っていよう。その日の夜、
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第3話

だが、星奈と片桐家の家族たちの仲を考えると、綾音に尋ねても意味はないと蒼士は思った。この時、廊下の先に、真帆と院長が話しながら歩いてくるのが見えた。白衣を着用した真帆からは、できる女という雰囲気が漂っていた。その表情も一つのことに集中し、真面目な様子だった。院長が彼女を見る眼差しからも、彼女を非常に評価しているのが一目瞭然だ。綾音は蒼士を押しのけて、つま先立ちして、真帆のほうへ手を振った。「真帆さん!」真帆は淡々とした表情で二人のほうへ視線を向けた。院長から許可を得ると、ようやく笑顔になって近づいてきた。プライドが高く自由奔放な性格の彼女は、周りから嫌われるどころか、逆に支配欲を抱かせてしまう。綾音にとって、真帆のように家柄も良く、スタイル抜群で、できる女だけが兄の嫁として相応しい。綾音は、真帆の腕に抱きついて、甘えた声を出した。「真帆さん、やっと帰ってきてくれたんですね。学校はもう真帆さんの話題で大盛り上がりなんですよ。この一年、お兄さんがどれだけあなたのことを想っていたか……」蒼士が口を挟んだ。「ここは病院だぞ。そういう話をするもんじゃない」綾音は彼を睨みつけた。「あら、私がでたらめな事言ってるって?だってお兄ちゃんったら、病院にずっといて家に帰らずに、あの女には冷たくあたってたじゃない。それは心の中にずっと真帆さんが変わらずに居続けているからでしょ!」真帆は両手を白衣のポケットに突っ込み、深い瞳でじっと数秒ほど蒼士を見つめてから、彼のためにその場を取り持とうとした。「わかったから、綾音ちゃん。お兄さんは小さい頃から恥ずかしがり屋だったの、そうやって彼をからかわないであげてね。夜は食事に行きましょうか、私の奢りで」綾音は曖昧にこう言った。「あれあれ?つまりこれってお兄ちゃんを庇ってる?やぁね、お二人とも、本当にアツアツなことで」蒼士は表情を変えずに、カルテを持ってオフィスへ入った。真帆は誇り高く堂々とした彼の背を見つめ、綾音を思いやってこう言った。「私とお兄さんは、ずっと前に終わってるのよ。お兄さんには今奥さんがいるでしょ。病院にはたくさんの人がいて、誰に聞かれるか分からないのだから、あまり好き勝手に言っちゃダメよ」綾音は不服そうに言った。「奥さんがいる?お兄さんから聞い
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第4話

星奈は昨日の夜、電話で蒼士が「気分がいい」と言っていたのを思い出した。どうやら、峯崎のほうはとても賑やかなようだ。星奈と蒼士の離婚など、まるで取るに足らない些細な事で、真帆が帰国したことは世界が震撼するほどのビッグニュースであるかのようだ。星奈はSNSを閉じ、寝ようとした。そこに突然、綾音から詰問するようなメッセージが届いた。【お兄ちゃんと離婚するんじゃなかったわけ?母親連れてどこ行ってんのよ?】星奈は返信した。【旅行だけど、あと二日もしたら帰るわ】【お兄ちゃんはもう真帆さんとヨリを戻したの。さっさと帰ってきなさいよ。真帆さんを浮気相手になんてさせたくないから!】星奈は送られてきた「ヨリを戻した」という言葉を見て冷たく笑った。そもそも私のほうが法律上のれっきとした妻なのに、彼らが命令できることか?そう簡単にいじめられる弱い人間だと思うなよ。【あなたのお兄さんのせいで、時間をロスしたのよ。あなたの大事な真帆さんを浮気相手にしたくないなら、私にお願いしてみたら?早く帰れるかもしれないよ】しかし、綾音お嬢様が彼女に何かをお願いするはずがない。【あのさ、あんたの母親の写真をネットに上げないでよね。きもちわるっ!あんたが恥ずかしくなくても、お兄ちゃんが恥かいて困るんだっつーの】その言葉に星奈は怒りの炎を燃やした。【私がお母さんの写真を投稿したって、別にあんたに関係ないでしょ?】【キモイんだよ。あの写真見た人がみんな驚くでしょ?あんな顔見ても綺麗だと思える?一目見て障害者だって分かるじゃん!】星奈は布団を剥がしてベッドからおり、部屋を出てひたすら綾音に電話をかけ続けた。あのクソ小姑は、電話に出ようとしない。すると綾音は我慢できなくなった。【ちょっと、頭おかしい女みたいに、ふざけた真似しないでよね!あんたがいつまで経ってもダラダラとお兄ちゃんと離婚しようとしないからいけないのよ。そうじゃなかったら、あんたなんかさっさとスマホから消し去ってるわ!】【いいわ、あんたが医者になった日に、患者を侮辱した言葉をスクショしてネットに上げるから。誰もあんたみたいな医者に治療してもらおうと来ないわ】【は?やれるもんなら、やってみなさいよ】星奈はスマホ画面に映る母親の写真を見つめた。そして、壁に寄りかかってしゃがみ、膝を抱いて、腕に顔を埋めた。翌日にな
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第5話

蒼士は黙っていた。「一年よ、結婚式の写真だってSNSにアップしたことないよね。なによ、見せられないの?」「……」「彼女と結婚するくらいだもの、別にブサイクってわけじゃないでしょう?奥さんのほうが綺麗?それとも、私?」リビングで、真帆は楽しそうにからかっている。「ほら、出てきてよ。奥さん?それとも私?はっきり言って」蒼士は拳を強く握りしめ、寝室で長いため息をついた。「リビングで何を探してるんだ?」「はいはい、もうからかって遊ぶのはやめるわよ。加湿器、すっごく乾燥するから、鼻血が出ちゃうわ」蒼士は言った。「分かった。俺が探すから、勝手に探すのはやめてくれ」真帆は少しおかしそうに笑った。「なによ、奥さんが帰ってきて部屋が荒らされてたら、怒るから?」月明かりに照らされた彼女の魅惑的な瞳には、意味深な色が浮かんだ。綾音から、彼は離婚すると聞いた。蒼士は彼女に言いつけた。「部屋に入って、俺が加湿器を探してくる。薄暗いからぶつからないように気をつけて」真帆は部屋のほうへ歩いていきながら、突然、振り返ってなんとも言えない顔をした。「蒼士、そんなに奥さんの話題が嫌?彼女はあなたが選んだ人なんじゃないの?」やっと、寝室にいる彼に少しだけ反応があった。彼は語気を強めて警告するように彼女の名前を呼んだ。「真帆」真帆は皮肉混じりにニヤリと笑い、部屋に戻ってドアを閉めた。蒼士は重たい息を吐き出し、星奈に電話をかけた。今一体何時なのか、そんなことも考えずに……祐実は昼間体調があまり良くなく、夜も慣れないベッドでなかなか寝付けず、今ようやく眠りについたところだった。そこへ、突然、携帯の耳をつく音が鳴り響き、親子二人はその音で起こされてしまった。星奈は母親を落ち着かせて、カーディガンを羽織り、部屋を出て電話に出た。「何の用?」蒼士は言った。「うちがすごく乾燥してて、真帆が鼻血が出るって言うんだよ。加湿器はどこにある?」彼からのその返答に、星奈は完全に呆れてしまい、怒りをどうにか抑えて答えた。「物置部屋の、棚、上から三番目」「分かった」星奈は不機嫌そうに言った。「今後、こんな夜中に電話してこないでくれる?お母さんがさっきやっと眠ったばかりだったのに、どう責任をとってく
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第6話

目の前にいるこの男は、以前真帆に、彼女を一生大切にすると約束していた。部屋のエアコンはつけておらず、蒸し暑い空気には、なんとも形容しがたい曖昧さが漂っている。このような雰囲気に包まれると、まるで、何かが起こるべくして起きてしまうような……二人は互いに見つめ合った。どちらの瞳にも多くの感情が渦巻いている。真帆は手を伸ばしたまま彼の反応を待っていた。時間は刻一刻と過ぎていく。しかし、蒼士はただ、熱いジンジャーティーを彼女に差し出すだけで終わった。「これを飲んでゆっくり休みな。トイレの棚にはナプキンがあるから。もし痛みがひどくて治らないようなら病院に行こう」蒼士はそう言いながらため息をついた。「真帆、あまり無理はするなよ」そう言い残し、彼は背を向けて部屋を出ていこうとした。「蒼士……」真帆はカチンと来て、起き上がった。立ち止まった彼の背中を見つめ、彼女は冷ややかに笑った。「なによ、奥さんがいるから、操を立てるって言いたいわけ?」蒼士はピクリと体を震わせ、振り返って、眉をひそめ彼女を見つめた。真帆は少し態度を和らげたが、やっぱりプライドの高い顔で冷たく言った。「蒼士、あなた一体私とどんな関係になりたいの?」その質問に答えることなく、彼は冷たい顔をして、そのまま部屋を出て、ドアを閉めた。「蒼士!」――蒼士は実家に引っ越した。彼は結婚してから、ずっと星奈と一緒に暮らしてきた。父親と母親、そして祖父母はそれにどうも慣れなかった。今回、彼がまた実家に戻ってきたことを、家族は全員喜んだ。綾音は授業がなく、家に帰ってくると、兄の姿を見て思わず尋ねた。「真帆さん、生理痛でつらいんじゃないの?どうして彼女のお世話をしてあげないわけ?」蒼士は医学雑誌を見ながら、淡々とした口調で答えた。「彼女は生理初日だけ生理痛がひどくて、その後はだいぶ良くなるんだよ」「そうだったとしても傍にいてあげなさいよ。立派なお医者さんだっていうのに、女の子が生理中は情緒不安定になるって知らないの?ほら、早く……」蒼士は不機嫌そうに綾音をキッと睨みつけ、雑誌を持ったまま立ち上がって二階に行った。「ちょっと、お兄ちゃん!この、女心が分からない薄情者!」綾音は全くデリカシーのない兄に苛立ちを覚えた。
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第7話

蒼士は母親がどうして突然、義母の事に関心を示すのか不思議に思った。義母の開頭手術はあまり良い結果ではなかったが、今のところ悪化しないための治療を続け、家に帰って静養すればいいところまで来ている。退院の手続きならまだだ。蒼士は答えた。「言っただろう、彼女が帰ってきてからだって」麻衣子は彼の言葉に安心し、星奈は別に騙そうとしているわけではないと思った。息子夫婦が離婚することになったのだから、彼女はもちろん息子側に立っている。そして彼女は当たり前のようにこう尋ねた。「結婚する時の結納金は、星奈さんも全部お母様の治療費にあてたのでしょう?」「ああ」「結婚してからあなた達の収入は天と地ほどの差があった。彼女のお母様の病気もかなり治療費がかかる病気で、生活費も何もかも、全部あなたが負担していたでしょ。彼女との結婚はあなたのほうが損をしたのよ。それに、片桐家が出した結納金も少なくはない。あの親子に何か借りを作ることもない」麻衣子は慎重に念を押した。「彼女がもしまた何か要求してきたら、特に金銭面でね、その時はあなたも彼女に譲る必要はないからね。片桐家は別に慈善活動家ではないのだから。彼女の母親の病を少し気にかけてあげるくらいで、もう十分尽くしてあげていると思うわ」そこまで聞き、蒼士はますます不愉快になってきた。「母さん、今日は一体どうしたんだ?普段、家庭内の些細な事に口を挟むのは嫌っているじゃないか」「だって彼女が欲を出して、もっと要求してくるんじゃないかって心配なのよ」なんといっても、蒼士と星奈の差は月とスッポン、天と地の差なのだから。結婚当初、星奈は結婚資金は一切出さなかった。これが片桐家では敏感な話題になっている。もちろん片桐家は金銭的な面を気にしているわけではない。しかし、なんの取柄もない嫁をもらうと、やはりメンツに関わる。彼ら上流社会の間で、長いこと笑い話にされてしまった。だから、片桐家は自然と星奈に不満を抱いている。蒼士のことを考えて、この夫婦の仲を壊さないように、口に出してこなかっただけだ。蒼士は冷ややかな声で言った。「昨日の夜は、よく休めなかったみたいだね」麻衣子は息子のその言葉に声を失い、胸が詰まる思いだった。彼女は心の中で、他人の家庭事情に口を挟むのが好きではない
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第8話

ここ数日、蒼士は星奈に何度も電話をかけたが、一向に繋がらなかった。彼は、不愉快に思い、彼女は一体何をごねているのだと思っていた。彼自身は以前星奈の電話やメールにほとんど返事しなかったことを、ほぼ覚えていないらしい。彼は陰険な表情で、病院のオフィスに戻ると、同僚がしている世間話を耳にした。「ニュースだと、南西のほうは大雨らしいね」「らしいね、伏方市(ふしかたし)とか、涼名川市とか、全部毎年災害が起こりやすい地域だよね」蒼士はその言葉に、顔色を大きく変えた。スマホを取り出してニュースを確認し始めた。同僚は蒼士のその反応をおかしく思った。蒼士は滅多なことで慌てることのない、山のようにどっしりと構えた人間だ。普段、とても厳格な人で、今のような姿は一度も見たことがない。「蒼士?どうかしたのか?」……星奈は空港で、窓の外のバケツをひっくり返したような大雨を見つめ、心の中で思った。ホント、次から次に……母親がようやく退院でき、親子は荷物をまとめて、峯崎市に戻るところだった。まさか、南西部で集中豪雨となり、至る所で洪水、土砂崩れが起きている。フライトは全てキャンセルとなり、鉄道も運休している。星奈はスーツケースを引き、母親を連れて空港を出たが、タクシーも出払っている。祐実は困った顔で言った。「星奈、どうしましょう。今日は帰れそうにないわね」星奈は子供のような母親を慰めた。「大丈夫よ、どこか休める所を探そう。娘を信じて、ね」祐実は瞳を輝かせて、笑顔で愛しそうに娘を見つめた。「もちろん、信じてるわよ。私の娘はすごいんだもの。あなたがいるから、お父さんも二度と私を殴ったりできないわ」星奈は神経が震えた。強い憎しみに、彼女は無意識に奥歯を噛みしめ、手のひらに爪が食い込むほど、強く拳を握りしめていた。大雨の中、星奈は気を強く持ち、その美しい顔の瞳には、冷徹さを宿していた。彼女はまっすぐに背筋を伸ばし、降りかかる雨から母親を守っていた。この時、黒の高級車の窓が開いた。美しいフォルムの車体は雨によって洗い流され、さらに光沢を増していた。そして車内に、大人の落ち着きを持つ人物の端正な顔が見えた。「片桐さん」雨音にかき消されて、男の艶やかで低い声が、遠くのほうから微かに聞こえて
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第9話

星奈の瞳が輝いた。「あの、脳とデバイスを接続する技術ですよね。本当に実現可能なのでしょうか?」「すぐには難しいだろうけど、将来的にはバイオテクノロジー分野では必然的な流れになるだろうね」星奈は思わずため息をもらした。「すごい」京一は笑った。「君は興味がある?」星奈は真剣な表情で頷き、魅力的な大きな瞳を輝かせた。「だったら、今後会社でBCIに関連するプロジェクトを開始する時には、積極的に参加してもらいたい。だけど、もちろん社内選抜はあるよ」「本当ですか?だったら、絶対に努力します」星奈はとても驚いた顔で喜んでいた。彼女は大学に入ってから、ずっとこの課題に注目していた。BCIの可能性が拡大すれば、人類に大きな貢献ができる。これは火星や月に人類が降り立つことと同じくらい意味のあることだ。同じく医科大学の優秀人材だった彼女にも、理想と追い求めるものがあった。「ちょうど、おじい様から、君とお母様が空港にいると聞いて、ここまで迎えに来たんだ」「榊先生が?」星奈は少し恥ずかしくなってきた。大輔は本当に彼女のことを家族のように思ってくれているらしい。孫にわざわざ空港まで迎えに行かせるほどなのだ。「なんだか、申し訳ないです。京一さんにご迷惑かけてしまって」「そんな迷惑だなんて、ただ高速も今通れないし、山崩れも起きたみたいだから、俺たちも涼名川で、待つしかないけどね」「分かりました」オーラのある大物経営者と一緒にいるなら、彼女ももちろん彼の言葉を聞くしかない。やがて車は京一の泊まる五つ星ホテルに到着した。豪華なロビーは、多くの人でごった返していた。多くのビジネス客が、涼名川に留まることになり、フロントには焦った様子の人たちが列を作っていた。運転手が長い列に並んでやっと戻ってきたと思ったら、仕方なくこう言った。「社長、もう満室だそうです」京一は眉を吊り上げた。星奈は言った。「大丈夫です。母と他のところを探してみます。きっと他のホテルに空きがあると思います」すると京一は言った。「俺はスイートを予約したんだ。部屋には寝室が二つあって、それぞれに洗面所と風呂がついてる。リビングを挟んでいるし、廊下を通って部屋に入るタイプだ。もし、嫌じゃなかったら、お母様と一緒に俺と同じ部屋でもい
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第10話

星奈は一瞬戸惑い、京一にどう返事をすればいいか困った。京一の返事は軽い感じに聞こえ、どうも大人で落ち着いた会社トップが口にするような言葉とは思えなかったのだ。きっと考え過ぎだろう。同じスイートルームに泊まらせてもらっているが、京一は二人と一緒に部屋を出てレストランに行くことはなかった。星奈は祐実を連れて、五時二十分頃、下にあるレストランに着いた。その時には、京一がすでに中で二人を待っていた。「すみません、お待たせしてしまって」京一は立ち上がって、首を横に振り、親子二人のために椅子を引いて座らせてくれた。星奈が想像する白馬の王子様は、京一のような穏やかで紳士的な優しい男性だ。京一は店員を呼び、二人にメニューを渡すように頼んだ。その行動の全てから、言葉では言い表せない謙虚さと優雅さが感じられる。「お母様には、あっさりして高たんぱくの物を注文しよう。消化に良いものを。たとえば、煮魚とか、豆腐料理とか、レバーなど鉄分が豊富なものも体に良いし」星奈は顔をあげて、感謝の気持ちを込めて彼に微笑んだ。祐実はテーブルに並んだ食器を見て感動していた。「本当に綺麗ね。星奈、ほら、ここ、お皿にお花柄もあるわよ」星奈は大らかで、そんな母親を恥ずかしいと思うことはなく、優しく答えた。「本当だね。京一さんに感謝しなくっちゃ、彼が私たちをここに食事に誘ってくれたんだよ」星奈は母親にウインクしてみせた。彼女はハキハキした性格で聡明、それに透明感ある美しい顔立ちをしている。京一はそんな彼女を温かく見つめ、視線をそらすことができなかった。祐実は無邪気な様子で京一に言った。「イケメンのお兄さん、私たちをこんな素敵なレストランに連れてきてくださって、どうもありがとう。それに、お部屋もあんなに豪華だなんて。本当に感謝してもしきれないわ」星奈は呆れてしまった。京一は手で口元を押さえて、笑いを隠そうとしていた。「おば様、私のことは『榊さん』でも、星奈さんと同じように『京一さん』でもいいので、そう呼んでくださいね」星奈は戸惑っている祐実に教えた。「お母さん、さっきの呼び方じゃ、ちょっとあれでしょ。まるで街角でナンパしてる若い子みたいじゃないの」京一は我慢できずに軽く笑い声を漏らした。それも善意のある笑みだ。祐実はこの
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