Share

第8話

Auteur: 夏眠
アトリエを開いてから一年が経った。ガラス窓には、淡い金色の【一周年記念】というステッカーが今も貼られている。

陽の光がガラス越しに差し込み、私の新作「春の野桜」にやわらかく広がる。

絵の具の温かい香りが、テーブルの上のウーロン茶の湯気と混ざり合い、世界そのものが甘い蜜のようにとろけている。

私は新しい絵の額にリボンを巻いている。そのとき、スマホが小さく震えた。

尚人の助手からのメッセージが届いた。そこには一枚のニュースのスクリーンショットが添付されている。

【草場家別荘で火災】

黒々とした太字の見出しが目に突き刺さる。写真には、濃い煙に包まれた別荘と、画面の隅で赤くぎらつく消防車のライトが写っている。

指先が【二体の焼死体】という文字をなぞったとき、私はちょうど焼きたてのクランベリークッキーを手にしている。

甘い香りが口の中に広がっても、胸の奥はまったく波風ひとつ立たなかった。私は淡々とスマホを伏せ、クッキーを白磁の皿に戻した。

――あの人たちは、私を地獄に突き落とし、希望を踏みにじった報いを、ようやく受け取ったのだ。

メッセージの続きには、報道には書かれていない狂
Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application
Chapitre verrouillé

Latest chapter

  • 狂気御曹司に囚われた身代わりに   第9話

    尚人が湯気の立つ茶漬けを手にアトリエへ入ってきたとき、私はちょうど調査報告書を閉じたところだった。青沢家の両親は拉致事件の罪で懲役十年の刑を受け、共犯者も全員逮捕されたという。けれど、その知らせを聞いても、心の中には波ひとつ立たなかった。哲弘と星来があの火の海に消えた日――私の過去はすでに全て終わっていたのだ。あの出来事も、あの人たちも、もう遠く、遠く離れた場所にある。「……もう、全部過ぎたことだよ」尚人はそう言って、私の髪を優しく撫でた。その指先には、鍋のぬくもりがまだ残っている。私は微笑みながら頷き、スプーンで茶漬けをすくった。だしの甘みが舌に広がり、ふと母・千尋の言葉を思い出した。「星那は茶漬けを食べるといつも笑うね。これからもずっと笑っていられますように」――千尋の願いどおり、今の私は本当に笑って生きている。年の暮れに、私は尚人と婚約した。父・勝は郊外に小さな庭付きの洋館を買ってくれた。庭いっぱいに私の大好きなデイジーを植えてくれて、春には一面が花の海になるという。兄・流星は、その庭の一角にガラス張りのアトリエを建ててくれた。昼は陽だまりの中で絵を描き、夜は天井越しに星を眺められるように。千尋は古い絹を取り出し、老眼鏡をかけて結婚用の着物を縫った。襟元にはデイジー、袖口には星の刺繍。ひと針ひと針に、千尋の愛情が込められている。長い年月のすれ違いは、不思議と心の距離を少しも生まなかった。むしろその分だけ、私たちは互いを深く想い合い、惜しみなく愛を伝え合うようになった。婚約披露の日、児童福祉施設の前施設長・美津子が、三時間もかけて会場まで来てくれた。髪には白いものが増えていたが、背筋はまっすぐで、昔と変わらぬ穏やかさと元気さを保っている。手には布の包みがある。その中には、私が子どもの頃に施設で描いた絵が入っている。歪んだ太陽と粗末な家。おさげ髪の女の子がデイジーの花を掲げて笑っている。そして、クレヨンで塗りつぶされた五色のデイジー。「あなたね、施設にいた頃、いつも隅っこでこんな絵を描いてたのよ。家ができたら、世界中のお花を描くんだって」美津子は私の手をぎゅっと握り、目尻をしわくちゃにして笑った。「よかったわねぇ。家族もできて、お花も咲いて。星那、本当に頑張ったね」私は彼女の肩にそ

  • 狂気御曹司に囚われた身代わりに   第8話

    アトリエを開いてから一年が経った。ガラス窓には、淡い金色の【一周年記念】というステッカーが今も貼られている。陽の光がガラス越しに差し込み、私の新作「春の野桜」にやわらかく広がる。絵の具の温かい香りが、テーブルの上のウーロン茶の湯気と混ざり合い、世界そのものが甘い蜜のようにとろけている。私は新しい絵の額にリボンを巻いている。そのとき、スマホが小さく震えた。尚人の助手からのメッセージが届いた。そこには一枚のニュースのスクリーンショットが添付されている。【草場家別荘で火災】黒々とした太字の見出しが目に突き刺さる。写真には、濃い煙に包まれた別荘と、画面の隅で赤くぎらつく消防車のライトが写っている。指先が【二体の焼死体】という文字をなぞったとき、私はちょうど焼きたてのクランベリークッキーを手にしている。甘い香りが口の中に広がっても、胸の奥はまったく波風ひとつ立たなかった。私は淡々とスマホを伏せ、クッキーを白磁の皿に戻した。――あの人たちは、私を地獄に突き落とし、希望を踏みにじった報いを、ようやく受け取ったのだ。メッセージの続きには、報道には書かれていない狂気が潜んでいる。あの日、哲弘は流星にアトリエから叩き出された後、階段の前で犬のようにうずくまり、腕の中に私の日記を抱きしめていたという。警備員が来るまでの間、彼はまるで理性を失ったかのように車へ駆け込み、猛スピードで走り去った。赤信号を無視し、逆走し、ハンドルに額を打ちつけて血を流しても、まったく気づくことはなかった。――そして別荘に戻ると、最初にしたことは、星来を地下室へ引きずり込むことだ。星来は、かつて私が着ていた色あせたドレスを着せられ、髪は乱れ、頬には真っ赤な手形が残っていた。哲弘は太い麻縄で彼女を、かつて私が苦しめられたあの稲わらの山に縛りつけ、血走った目で言い放った。「お前、身代わりになるのが好きなんだろ?なら、今日は思う存分代わってみろよ」彼は、私が昔弾いていた古いピアノを引っ張り出した。鍵盤には、今もかすかな血の跡が残っていた。そして、星来の手を無理やり鍵盤に押しつけた。「『月の光』を弾け。俺の前で。一音でも間違えたら――この戒尺で叩くぞ」星来が指先をそっと鍵盤に触れた瞬間、パシンッという音が響いた。戒尺が手の甲を打ちつけ、赤く腫れ上

  • 狂気御曹司に囚われた身代わりに   第7話

    半年後――町の南部にある路地裏に、小さな絵画教室「アトリエ・星の芽」がオープンした。私は、子どもの頃からずっと夢見ていた自分の姿を実現している。私はオフホワイトのエプロンをつけ、ピンクのワンピースを着た小さな女の子に、デイジーの花びらの描き方を教えている。窓から差し込む陽の光が、ものまねメイクをしていない私の頬を優しく照らした。――誰かを真似しなくても、生きていける日々は、こんなにも軽やかで温かいものなんだ。尚人が温かいミルクを手に運んできた。カップの縁から彼の指先の温もりが伝わってきた。彼は優しく言った。「あの隅に座ってるご婦人が、もう一時間もこちらを見てるが、何を描きたいのか、一言も話さないんだ……」彼の視線の先を見ると、薄い青緑色の着物を着た婦人が、真珠のヘアピンで髪をまとめ、ついこっちをちらりと見てしまう。その目はぼんやりと霞んでいるようだ。私は微笑みながら、女の子の絵筆にそっと絵の具を足して言った。「いいのよ。ここはただ絵を描くだけの場所じゃないもの。人が心を休めに来る場所だから」やがて閉店のベルが鳴る頃、老婦人はようやくこちらへ歩み寄った。けれど彼女の視線は壁に掛けられた完成作品ではなく、私の描きかけのスケッチに引き寄せられている。私はいつも木の絵を描くとき、無意識のうちに鳥の巣を加えてしまう。それがすっかり習慣になっている。かすかに覚えている。昔、家の裏庭にあった古い桜の木は、その枝の間に小さく編まれた草の鳥の巣があった。老婦人はその絵を見つめ、突然息を詰まらせた。震える声で呟いた。「この絵……どうして、あなたがこれを?」私は手に持った筆を止めた。「小さい頃、家の裏庭にこんな木があって、その下でよく鳥の巣を編んで遊んでた」「裏庭……?」老婦人が私の腕を掴んだ。彼女の指先は、私の腕の内側にある火傷の痕を何度もなぞっている。それは、あの夜、哲弘を助けたときについたタバコの火の跡だった。老婦人の目から一気に涙がこぼれ落ちた。それが私の手の甲に落ち、熱く伝わってきた。「あなた……小さい頃、デイジーを鳥の巣に挿して遊ぶのが好きか?そして、いつもこう言ってたか?『星が輝いているときは、鳥は怖くないの』って」――私は凍りついたように、その場に立ち尽くした。それは、私が六歳の頃、家の裏

  • 狂気御曹司に囚われた身代わりに   第6話

    哲弘は、私の日記を抱えたまま、私が暮らしていた部屋で夜明けまで座り込んでいた。朝の光がカーテンを貫いたとき、彼は両手でテーブルを叩きつけ、掠れた声で血を吐くように叫んだ。「調べろ……すぐにだ!星那がいた福祉施設の記録を全て調べろ!あの時、俺を助けたのが誰だったのか、今すぐ確かめろ!」執事はその表情に言葉を失い、すぐさま動き出した。夕方、前施設長・武上美津子(たけがみ みつこ)の証言を携えて戻ってきた。電話越しに聞こえる年配の声が、胸を抉るように響いた。「ええ、覚えてますよ。星那は確かに、昔一人の男の子を助けました。あれは彼女が十歳の頃だったと思います。拉致された子どもを見つけて逃がしたときに、腕を火で焼かれてしまって――その痕が腕の内側に残ってるんです」哲弘は弾かれたかのように、袖をまくり上げた。自分の腕の内側――そこには、幼い頃に拉致事件で負った小さな火傷の痕が確かに残っている。そして、星那の腕にも、同じ位置に同じ形の火傷があった。彼はずっと、彼女が働くことで傷つけられたと思っていた。だが、今ようやく気づいた――それは、彼を救った証だったのだ。「……あああああっ!」哲弘は絶叫し、テーブルの上にあったフォトフレームを叩き割った。そして、狂気じみた勢いで星来の部屋へ駆け込んだ。星来は鏡の前で口紅を引いている。哲弘の血走った目を見て、彼女の手はぶるりと震え、口紅の線が大きく歪んだ。「哲弘……な、なにを……?」「俺を救ったのは――星那だ!どうしてお前が彼女の名を騙った!」哲弘は力強く星来の首を掴み、押し殺したような怒声を吐いた。「お前が彼女を陥れた!お前がでっち上げて、彼女を身代わりにした……彼女があんなに苦しんでるのを見て、お前は得意になってたのか!」星来の顔は青紫に染まっているが、それでも必死に言い返した。「ち、違う……あの女が嘘をついたの……!」「嘘だと?」哲弘は力強く彼女を床に叩きつけた。星来の額がテーブルの角にぶつかった瞬間、赤い血が流れ出した。哲弘は背を向けて部屋を出ていった。戻ってきたときには、手に古びた紙袋を持っている。それは――私の古い服だ。「着ろ」その一言と共に、服を星来の足元に投げつけた。その目には狂気の光が宿っている。「お前は身代わりをやるのが得意だろう?な

  • 狂気御曹司に囚われた身代わりに   第5話

    「遺骨すら残らない」その言葉は、毒を塗り込めた氷錐のように哲弘の鼓膜を貫いた。彼はちょうどリビングで、星来のために新しく選んだお守りジュエリーに保護用の紐を巻きつけている。その言葉を聞いた瞬間、振り返った。手にしていた宝石のブレスレットがカランと音を立ててカーペットに落ち、星来の足元まで転がった。哲弘の瞳に、瞬く間に驚きと怒りが入り混じるのを見て、星来はびくりと身をすくめた。ドレスの裾を指先でねじりながら、怯えた声で言った。「哲弘、使用人たちの言うことを真に受けないで。星那がまさか、本当に死ぬなんてありえないでしょ?」「黙れ!」哲弘の声は、これまでに聞いたことのないほど震えている。彼は星来を突き飛ばすと、そのまま地下室へと走り出した。階段を駆け下りる途中で花瓶を倒し、陶器の破片が床一面に散らばった。地下室の火はすでに消し止められていたが、焦げた匂いがまだ空気を刺すように漂っている。使用人たちはほうきを手に焼け跡の瓦礫を片付けていたが、哲弘が駆け込むと、誰もが本能的に道を開けた。哲弘は臨時に打ち付けられた板を蹴り飛ばした。床にはまだ熱がこもっており、焼け焦げた稲わらや曲がった木の棒、そして隅に積み上げられた焦げ跡の残る古い服があった。それらは灰の中にうずくまり、まるで無数の手が沈黙のまま恨みを訴えているかのようだ。「菊地星那!」彼は叫び声を上げながら、廃墟の中へ飛び込んだ。煙が喉を焼きつけ、激しく咳き込みながらも、夢中で灰の山をかき分けて探した。熱を帯びた鉄片で指を焼かれても、痛みすら感じなかった。彼はただ狂ったように、まだ燻る残骸を掘り返し続けている。「探せ!地の底まで掘り返してでも見つけ出せ!」哲弘は、彼を止めようとした使用人の胸ぐらを掴み、指先が白くなるほど拳を握りしめた。「たとえ布の切れ端でもいい、必ず見つけ出せ!」消火に使った水が黒い灰と混ざり、泥のようになって床を流れていく。彼は熱いコンクリートの上に膝をつき、木の破片を素手で掘り返した。爪が裂け、血が滴り落ちる。血の滴が焦げた布に落ちた瞬間、残った熱で蒸発した。哲弘の魂が抜けたかのような様子を、星来は使用人に支えられながら見つめている。彼女の瞳に一瞬、満足げな光がよぎった。しかし口元を涙が伝い、悲しげに言葉を紡

  • 狂気御曹司に囚われた身代わりに   第4話

    地下室のカビ臭さが鼻を突き、息をするのも苦しい。私はポケットの中のコンドームを握りしめ、指の関節が真っ白になるほど力を込めた。階段の上から足音が近づいてくる。哲弘はランプを片手に、もう一方の手には木の棒を持って降りてきた。「星来が言ってた。お前、彼女のヘアピンを隠したそうだな」彼は私の前に立ち、木の棒の先で私の膝を小突いた。「出せ。無理をさせるな。痛い目に遭いたいのか?」私は何も言わなかった。罪を着せたい者には理屈など必要ない。どうせ、何を言っても信じてもらえないだろう。昨日まで星来はそのヘアピンを身につけていた。今になって私に濡れ衣を着せるのは、彼女が彼に私を痛めつけさせたいからだ。哲弘が冷たい笑みを漏らすと、次の瞬間、古傷の膝を容赦なく蹴りつけた。鋭い痛みが膝から走り、ドンという音と共に、私は床に崩れ落ちた。額が床にぶつかり、血が滲んだ。彼は私の髪を掴んで無理やり顔を上げさせた。「草場家に何年いるんだ?まだ言うことが聞けねぇのか?そうか、また一から草場家のルールを教え込んでやらないとな」もう片方の手が勢いよく私の襟を引き裂いた。その瞬間、皺だらけのコンドームがパサッと床に落ち、数回転して哲弘の足元で止まった。彼の視線が一瞬それを捉えた。次に私を見たとき、その目には氷のような冷たさと露骨な嫌悪の色が混じっている。「まだそんなことを気にしてるのか?……お前はそんなに男がいないと生きていけないのか?ふん、今日はいい機会だ。忘れられないようにしてやる」私は目を閉じた。どんな侮辱の言葉を浴びせられても、何も言い返さなかった。背中の傷が稲わらに擦れて、ひりひりと痛む。ただ、早く終わってほしい――それだけを祈っている。彼の動きは荒々しく、まるでゴミを扱うかのようだ。どれほどの時間が経ったのか、まったくわからない。ようやく動きを止めると、彼はもう一度、無造作に私を蹴った。「ここで大人しくしてろ。星来の前に出てくるな」足音が遠ざかっていくのを聞きながら、私は長い間息を整えた後、ようやく体を起こした。掌には、あの皺くちゃになったコンドームの感触がまだ残っている。それを投げ捨てた瞬間、この数年間に積もり積もった屈辱までも、一緒に放り出せた気がした。私はしゃがみ込み、床に散らばった宝石の欠片を指でそ

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status