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第4話 お屋敷の中

Author: 釜瑪秋摩
last update Last Updated: 2025-08-01 13:48:51

「それでは、奥様のお部屋からご案内させていただきます」

 華に導かれて足を踏み入れた屋敷の内部は、外観以上に息を呑むほど美しかった。玄関から続く廊下には、洋風の絨毯が敷かれているにも関わらず、天井には和風の格子が組まれている。ガス灯と提灯が共存し、西洋の油絵と日本画が同じ壁に飾られていた。

「珍しい造りでございましょう?」

 華が私の様子を見て微笑んだ。

「旦那様のご趣味で、東西の美を調和させた設計になっております」

「とても素敵です」

 私は率直な感想を口にした。なにもかもが珍しく見えて目が離せない。

「まるで夢の中にいるようです」

「そのお言葉、旦那様がお聞きになったら喜ばれるでしょう」

 廊下を歩きながら、私は何とも言えない違和感を覚えていた。この屋敷には多くの使用人がいるはずなのに、人の気配が薄いのだ。時折、廊下の向こうを誰かが通り過ぎるのが見えるのだが、足音が全く聞こえない。

「あの……」

 私は遠慮がちに声をかけた。

「こちらにはたくさんの方がお勤めなのでしょうか?」

「はい。この屋敷には二十人ほどの使用人がおります」

 華は振り返って答えた。

「皆、長年この家にお仕えしている者ばかりです。奥様のことも、きっと大切にお守りするでしょう」

 大切にお守りする――その言葉に込められた響きが、単なる主人への敬意以上のものに聞こえた。まるで私を何かから守らなければならない事情があるかのように。

「華さん」

 私は思い切って尋ねた。

「もしかして、私のことをご存知だったのでしょうか? 先ほどから、初対面とは思えないようなお顔をなさっていて……」

 華の足が止まった。振り返った彼女の表情には、明らかな動揺があった。

「いえ、そのような……」

 華は言葉を濁し、それから僅かに俯くと、深く息を吐いた。

「申し訳ございません。実は、奥様の曾祖母様のちよ様を存じ上げておりまして」

「曾祖母を?」

 私は驚いて声を上げた。

「はい。ちよ様には、若い頃この屋敷でお世話になったことがございます。奥様のお顔立ちが、ちよ様にそっくりでいらしたもので……」

 曾祖母のちよが朝霞家と関わりがあった――。それは初耳だった。理玖が私を見つけ出せたのも、そういう縁があったからなのだろうか。

「そうだったのですね」

 私は華の表情を見つめた。彼女の目には、懐かしさと同時に、何か言えない秘密を抱えているような翳りがあった。

「曾祖母は、どんな方だったのでしょう?」

「それは……」

 華は一瞬口篭もり、それから優しく微笑んだ。

「とてもお優しい方でした。人も妖も分け隔てなく……」

「妖?」

「あ、いえ」

 華は慌てたように手を振った。

「妖精のような、という意味でございます。小さな生き物にまで愛情を注がれる方だったという意味で」

 その説明は明らかに苦しいものだったが、私はそれ以上追求しなかった。まだ初日なのだから、あまり根掘り葉掘り聞くのは失礼だろう。

「こちらが奥様のお部屋です」

 華が立ち止まったのは、美しい襖絵の描かれた部屋の前だった。襖には四季の草花が描かれているが、よく見ると花々の間に小さな狐らしき動物の姿が見える。

「狐の絵なのですね」

「はい。この屋敷の象徴でもございます」

 華が襖を開けながら答えた。

「朝霞家の家紋は結びすすきですが、狐も縁の深い生き物なのです」

 部屋の中に足を踏み入れると、私は思わず息を呑んだ。

 十畳はありそうな和室に、調度品のすべてが最高級のもののようだった。桐の箪笥、螺鈿細工の化粧台、絹の座布団。そして床の間には、美しい花が活けられている。

「旦那様のお部屋は、廊下を挟んで向かい側になります」

 華が向かいの襖へ手を向けた。

「お互いのプライバシーは尊重される取り決めになっておりますので、ご安心ください」

 プライバシーを尊重される取り決め――契約結婚であることを、華も知っているのだろう。

「お着替えや身の回りのお世話は、若い女中たちが致します。寝室はそちらの襖の奥になります。何かご不明なことがございましたら、いつでもお申し付けください」

「ありがとうございます」

 私は丁寧に頭を下げた。部屋とは別に寝室まであることに恐縮してしまう。

「あの、華さん。率直にお聞きしたいのですが……私のことをどう思われますか?」

 華は一瞬驚いたような表情を見せ、それから困ったような笑顔を浮かべた。

「奥様は、とてもお美しい方だと思います。そして……とても大切な方だと」

 大切な方――またしても、深い意味を含んだ言葉だった。

「私など、大切だなんて……」

 私は謙遜したが、華は首を振った。

「いえ、奥様は確かに大切な方です。それは間違いございません」

 華の眼差しには、確信に満ちた光があった。まるで私の価値を、私自身よりもよく知っているかのように。

「夕食は七時からでございます。それまではお部屋でお休みになってください。お疲れでしょうから」

 華がそう言って部屋を出ようとした時、私は慌てて声をかけた。

「あの、華さん」

「はい?」

「この屋敷で、気をつけなければならないことはありますか?」

 華の表情が一瞬こわばった。

「気をつけること、でございますか?」

「はい。作法とか、してはいけないこととか……」

 華は少し考え込んでから、口を開いた。

「そうですね。夜中に一人で屋敷を歩き回るのは、あまりお勧めしません。古い建物でわかりにくい構造ですから、迷子になってしまうかもしれません」

「分かりました」

「それから……」

 華は一瞬躊躇し、それから小さな声で付け加えた。

「もし夜中に変わった音が聞こえても、お部屋から出ないでください。きっと風の音ですから」

 風の音――。

 それは明らかに取って付けたような説明だった。でも華の表情は真剣で、冗談を言っているようには見えない。

「分かりました。気をつけます」

「では、失礼いたします」

 華が去った後、私は一人部屋に残された。

 窓の外を見ると、庭園が一望できた。美しく手入れされた庭だが、やはり季節外れの彼岸花があちこちに咲いている。そして庭の奥には、古い祠のような建物が見えた。

「不思議な屋敷……」

 私は小さく呟いた。

 美しくて、優雅で、どこか夢のような場所。でも同時に、何か大きな秘密を隠しているような気がしてならなかった。

 そして私は気づいていなかった。襖絵の狐が、私が見ていない隙に、わずかに位置を変えていることを。

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