夕刻の空が茜色に染まる頃、私――
「こちらが朝霞様のお屋敷でございます」
人力車の車夫が振り返って言った言葉に、私は小さく頷いた。目の前にそびえ立つのは、これまで見たこともないほど立派な屋敷だ。洋館の重厚さと日本家屋の優美さが不思議に調和した建物は、まるで異国の物語から抜け出してきたかのように幻想的で、私のような庶民には場違いな場所だと感じる。
それなのに――。
先日、訪ねてきた時にも感じたけれど、どこか懐かしいような感覚が胸をよぎる。
「ありがとうございました」
震え声にならないよう気をつけながら車夫に礼を言い、小さな竹籠の入った風呂敷包み一つを抱えて車を降りる。これが私の全財産だった。父の死後、家財道具はほとんど借金の形に取られてしまったのだから。
門の前で立ち止まり、私は深く息を吸った。
朝霞邸――。
契約結婚。そんな現実離れした話が私の元に舞い込んできたのは、ほんの一週間前のことだった。
「本当にこれでよかったのだろうか」
心の中で呟きながら、私は重厚な門扉を見上げた。黒塗りの木材に施された金の装飾が、夕日を受けて鈍く光っている。門柱には「朝霞」の文字が刻まれた表札があり、その下には見慣れない家紋――すすきの穂が左右から寄り添い、根元で結ばれた優美な意匠が彫り込まれていた。
「お嬢様、時雨様でございますね」
突然声をかけられて、私は背筋がピンと伸びた。いつの間にか門番の老人が現れていたのだ。白髪を丁寧に撫でつけた、品のある初老の男性だった。
「は、はい。時雨鈴凪と申します」
「ご足労をおかけいたしました。旦那様がお待ちでございます。どうぞこちらへ」
老人の敬語は丁寧すぎるほど丁寧で、まるで私が本当に身分の高い令嬢であるかのように響いた。それがかえって居心地の悪さを増していく。
――私には身分なんてないようなものなのに。
門をくぐると、玉砂利の敷かれた前庭が広がっていた。手入れの行き届いた植木や、季節外れなのに美しく咲いている彼岸花が目に入る。
彼岸花は秋の花のはずなのに、なぜ今の季節に? そんな疑問が頭をよぎったが、すぐに玄関の立派さに圧倒された。洋風の重厚な扉の両脇に、和風の提灯が下がっている。風もないのに、その提灯がゆらゆらと揺れていた。どこからともなく視線を感じて落ち着かない。
「お嬢様、どうぞ」
老人が扉を開けると、中から暖かい明かりが溢れ出した。そして――。
「お疲れ様でした」
低く、よく通る男性の声が私を迎えた。
玄関の奥に立っていたのは、一週間前に初めて会った男性――朝霞理玖だった。
二十八歳と聞いていたが、実際に見ると年齢よりも若く見える整った顔立ちをしている。漆黒の髪が風に揺れ、仕立ての良い洋服を完璧に着こなしている。誰が見ても申し分のない紳士の姿だった。
けれど、その美貌に見惚れそうになった私の心の奥底に、静かに澱のように沈む寂しさを感じた。彼の瞳を見つめた瞬間、そこには人を寄せつけない冷たさがあったからだ。
「時雨鈴凪さん」
理玖は静かに口を開いた。
「いえ、今日からは朝霞鈴凪ですね」
朝霞鈴凪――。
初めて聞く自分の名前に、緊張で胸の鼓動が早まる。「急なことでお疲れでしょう。まずはお部屋にご案内します」
理玖の後ろから、女性が現れた。四十代くらいの、堂々とした体格の女性だった。着物の着付けも髪の結い方も完璧で、使用人とは思えないほど品格がある。
「こちらは
理玖に紹介され、緊張のあまり、私は無言のまま頭をさげた。
「華、案内をお願いします」
「かしこまりました。奥様、こちらへどうぞ」
奥様――。
その呼び方に、私は顔が熱くなるのを感じた。華という女性の表情を見ると、そこには複雑な感情が宿っているように思えた。まるで私を知っているかのような、それでいて困惑しているような眼差し。「あの……」
私は思わず声をかけそうになったが、理玖の視線を感じて言葉を飲み込んだ。
「何かご質問でも?」
理玖に問われて首を振る。
「いえ、何でもありません」
理玖は小さく頷くと、再び口を開いた。
「それでは華に屋敷の案内をさせます。私は書斎で仕事をしておりますので、夕食の時間にお会いしましょう」
そう言って理玖は去っていく。その後ろ姿は完璧に真っ直ぐで、足音もほとんど聞こえない。まるで足が地面に触れていないかのように、静かだった。
「奥様、お疲れになったでしょう。まずはお部屋にご案内いたします」
華の声に我に返り、私は慌てて頷いた。
「よろしくお願いします」
こうして、私の新しい生活が始まった。まだその時は知る由もなかったのだ――。
この美しい屋敷に、どれほど多くの秘密が隠されているのかということを。朝の光が薄いカーテン越しに差し込み、私は自然と目を覚ました。 時計を見ると七時を少し回ったところ。昨夜の出来事が夢だったのかと思うほど、穏やかな朝だった。鳥のさえずりが聞こえ、庭からは爽やかな風が吹き込んでくる。「おはようございます、奥様」 身支度を整えて部屋を出ると、廊下で華が待っていた。昨夜見た薄暗い廊下とは打って変わって、朝の光に満ちた明るい空間になっている。「おはようございます、華さん」「お食事の準備ができております。旦那様もお待ちです」 華の案内で食堂に向かいながら、私は昨夜の記憶を辿った。あの不思議な出来事は本当にあったことなのだろうか。明るい朝の光の中では、全てが夢のように思えてくる。「失礼いたします」 食堂の扉を開けると、そこには昨夜とは全く違う理玖がいた。 明るいグレーのスーツに身を包み、新聞を読みながら優雅にコーヒーカップを傾けている。朝の光に照らされた横顔は穏やかで、昨夜感じた得体の知れない雰囲気は微塵も感じられない。「おはようございます」 理玖は新聞から目を上げると、完璧な笑顔で私を迎えた。その瞳は美しい琥珀色で、昨夜見た獣のような縦の瞳は影も形もない。「おはようございます、朝霞様」 私は軽く会釈をして、向かいの席に座った。テーブルには焼きたてのパンと、色とりどりの料理が並んでいる。「よくお眠りになれましたか?」「はい、ありがとうございます」 そう答えながらも、私の心は複雑だった。理玖の問いかけは自然で、まるで昨夜の出来事などなかったかのようだった。本当に、あれは夢だったのだろうか。「今日から本格的な新生活の始まりですね」 理玖はナプキンを膝に置きながら言った。その動作も、昨夜の音のない歩き方とは違って、普通に衣擦れの音がする。「何か困ったことがあれば華に相談してください。私は会社の仕事で出かけますが、夕方には戻ります」「ありがとうございます」 私はパンを一口食べながら、理玖の様子を観察した。朝食を取る姿
眠りについてからどれほど経ったのだろう。私は喉の渇きを覚えて目を覚ました。 枕元に置いた懐中時計を見ると、針は午前二時を指している。静寂に包まれた屋敷の中で、時を刻む音だけが規則正しく響いていた。「お水を……」 私は小さく呟きながら布団から起き上がった。昼間、華に案内された時の記憶を辿りながら、台所への道筋を思い出す。確か廊下を右に進んで、階段を下りた先にあったはずだ。 部屋着の上に羽織を引っ掛けて、そっと扉を開ける。廊下は薄暗く、ところどころに置かれた行灯が仄かな明かりを灯していた。昼間見た時とは全く異なる、幻想的で静謐な雰囲気に包まれている。「静かね……」 足音を立てないよう気をつけながら廊下を歩いていると、大きな窓から月光が差し込んでいるのが見えた。今夜の月はとりわけ美しく、銀色の光が廊下全体を淡く照らし出している。 その時だった。「こんな夜中に、どうされたのですか?」 突然声をかけられ、私は驚いて振り返った。「あ……朝霞様」 そこには月光に照らされた理玖の姿があった。昼間の洋装とは違い、深い紺色の着物を纏った和装姿で、いつもと違った趣がある。月明かりの中で見る彼は、まるで絵画から抜け出してきたかのように美しく、思わず見惚れてしまう。「眠れませんか?」 理玖は穏やかな声で問いかけてきたが、私は違和感を覚えていた。昼間の彼よりもさらに所作が静かで、まるで音もなく現れたような――。「いえ、少し喉が渇いて……お水をいただこうと思いまして」「そうですか」 理玖は微かに頭を下げた。その動作も、やはり音がしない。着物の裾が擦れる音すら聞こえないのだ。 月光が理玖の横顔を照らしている。彫刻のように美しい輪郭、長い睫毛、整った鼻筋。私は、その美しさの中に人間離れした雰囲気を感じて、無意識のうちに一歩下がってしまった。「この屋敷は古いので、慣れるまで時間が掛かるかもしれません」 理玖の声は優しかったが、なぜかその言葉に深い意味が込められているような気がする。まるで、慣れなければならないのは建物の古さだけではない、とでも言うように。「そう……ですね」 私が答えた時、理玖がゆっくりとこちらを向いた。 月光の下で見る理玖の瞳は、昼間よりもずっと深く、神秘的だった。そして――。「……!」 私は息を呑んだ。一瞬、理玖の瞳が縦に細くなった
部屋の襖を閉めた瞬間、私はようやく一人になれたことに安堵のため息をついた。 奥の寝室には既に布団が敷かれていて、すぐに休めるようになっている。布団は私がこれまで使っていたものと違って、ふかふかと厚みがあって柔らかそう。 床の間に飾られた花の甘い香りが疲れを癒してくれる気がした。箪笥や化粧台に触れてみると、温かい木のぬくもりが伝わってくる。 借金取りに追われていた数日前の生活とのあまりの落差に、現実感が湧かない。「本当に、これが私の部屋なの……」 呟きながら、私は持参した小さな竹籠の中から、形見の一つである手鏡を取り出した。銀の縁に繊細な菊の花の彫刻が施された小さな鏡は、曾祖母のちよが遺してくれた大切な宝物だった。 鏡面に映る自分の顔を見つめながら、私は今日一日の出来事を振り返った。 朝霞理玖という人は、確かに紳士的で礼儀正しい。容姿端麗で、言葉遣いも丁寧。けれど、どこか近寄りがたい雰囲気がある。まるで美しい氷の彫刻を見ているような、触れれば凍えてしまいそうな冷たさを感じるのだ。「あの方は、どうして私を選んだのかしら」 私は鏡に映る自分の顔を改めて見詰めた。特別美しいわけでもない。家柄も今では没落している。理玖ほどの男性であれば、もっと相応しい相手がいくらでもいるはずなのに。 夕食の席で交わした会話を思い出す。契約結婚の条件を淡々と説明する理玖の声には、感情の起伏が一切感じられなかった。まるで商談でもしているかのような、事務的な口調。曾祖母との約束だと言っていたけれど、曾祖母が亡くなって長い今、そんな約束など反故にされてもおかしくもない。「朝霞様の正体や仕事の詳細を詮索しない、か……」 その時の理玖の表情が妙に印象に残っている。一瞬、目の奥に何か暗いものが宿ったような気がしたのだ。正体、という言葉の使い方も気になった。普通なら「私生活」や「仕事の内容」と言うところではないだろうか。 私は鏡を大切にしまいながら、曾祖母に対する感傷に浸った。「曾祖母様、私は正しい選択をしたのでしょうか」
柱時計から夕刻の七時を告げる鐘が鳴ると、若い女中が私を迎えに来た。「奥様、お食事のご用意ができております」 彼女もまた、足音をほとんど立てずに歩いた。廊下を進みながら、私は改めてこの屋敷の静寂さに驚いていた。二十人もの使用人がいるというのに、まるで誰もいないかのように静かなのだ。 案内された食堂は、屋敷の他の部屋と同様に和洋折衷の美しい空間だった。長いテーブルには西洋風の椅子が並び、その上には繊細な和食器が美しく配置されている。部屋の四隅には提灯が下がり、壁には風景画が掛けられていた。 そしてテーブルの上座に、理玖が座っていた。「お疲れ様でした」 理玖が立ち上がって私を迎える。「お部屋はいかがでしたか?」「とても素敵なお部屋をありがとうございます」 私は丁寧に頭を下げた。「華さんにも大変よくしていただいて……」「それは良かった。華は長年この家に仕える古株ですから、何でも相談してください」 理玖は私のために椅子を引いてくれた。そのさりげない仕草は完璧に紳士的で、作法に一点の曇りもない。「ありがとうございます」 席に着くと、すぐに料理が運ばれてきた。季節の野菜を使った煮物、新鮮な刺身、上品に味付けされた焼き魚。どれも料亭で出されるような見事な品々だった。「口に合いますでしょうか?」「はい、どれもとても美味しいです」 理玖に問われ、私は正直に答えた。「こんなに豪華なお食事をいただいて、恐縮してしまいます」「妻が遠慮する必要はありません」 理玖は静かに微笑むけれど、その笑顔は、どこか表面的に見える。「これからは、ここがあなたの家なのですから」 妻、という言葉に私の頬が熱くなる。例え契約上のことだとしても、まだ慣れない響きにいちいち戸惑う。食事の間、理玖は完璧すぎるほど優雅だった。箸の持ち方、食べ物を口に運ぶ所作、すべてが絵に描いたような美しさで、まるで舞台の上の役者を見ているようだった。「朝霞様」 私は意を決して口を開いた。「改めて、契約の内容を確認させていただけますでしょうか?」 理玖の手が一瞬止まった。それから彼は箸を置き、私を見つめた。「もちろんです。確認は大切ですから」 理玖の声は相変わらず穏やかだったが、その瞳には冷たい光があった。「まず、あなたには一年間、私の妻として振舞っていただきます。対外的には、
「それでは、奥様のお部屋からご案内させていただきます」 華に導かれて足を踏み入れた屋敷の内部は、外観以上に息を呑むほど美しかった。玄関から続く廊下には、洋風の絨毯が敷かれているにも関わらず、天井には和風の格子が組まれている。ガス灯と提灯が共存し、西洋の油絵と日本画が同じ壁に飾られていた。「珍しい造りでございましょう?」 華が私の様子を見て微笑んだ。「旦那様のご趣味で、東西の美を調和させた設計になっております」「とても素敵です」 私は率直な感想を口にした。なにもかもが珍しく見えて目が離せない。「まるで夢の中にいるようです」「そのお言葉、旦那様がお聞きになったら喜ばれるでしょう」 廊下を歩きながら、私は何とも言えない違和感を覚えていた。この屋敷には多くの使用人がいるはずなのに、人の気配が薄いのだ。時折、廊下の向こうを誰かが通り過ぎるのが見えるのだが、足音が全く聞こえない。「あの……」 私は遠慮がちに声をかけた。「こちらにはたくさんの方がお勤めなのでしょうか?」「はい。この屋敷には二十人ほどの使用人がおります」 華は振り返って答えた。「皆、長年この家にお仕えしている者ばかりです。奥様のことも、きっと大切にお守りするでしょう」 大切にお守りする――その言葉に込められた響きが、単なる主人への敬意以上のものに聞こえた。まるで私を何かから守らなければならない事情があるかのように。「華さん」 私は思い切って尋ねた。「もしかして、私のことをご存知だったのでしょうか? 先ほどから、初対面とは思えないようなお顔をなさっていて……」 華の足が止まった。振り返った彼女の表情には、明らかな動揺があった。「いえ、そのような……」 華は言葉を濁し、それから僅かに俯くと、深く息を吐いた。「申し訳ございません。実は、奥様の曾祖母様のちよ様を存じ上げておりまして」「曾祖母を?」 私は驚いて声を上げた。「はい。ちよ様には、若い頃この屋敷でお世話になったことがございます。奥様のお顔立ちが、ちよ様にそっくりでいらしたもので……」 曾祖母のちよが朝霞家と関わりがあった――。それは初耳だった。理玖が私を見つけ出せたのも、そういう縁があったからなのだろうか。「そうだったのですね」 私は華の表情を見つめた。彼女の目には、懐かしさと同時に、何か言えない秘密を抱え
夕刻の空が茜色に染まる頃、私――時雨鈴凪は、人生で最も大きな分岐点の前に立っていた。「こちらが朝霞様のお屋敷でございます」 人力車の車夫が振り返って言った言葉に、私は小さく頷いた。目の前にそびえ立つのは、これまで見たこともないほど立派な屋敷だ。洋館の重厚さと日本家屋の優美さが不思議に調和した建物は、まるで異国の物語から抜け出してきたかのように幻想的で、私のような庶民には場違いな場所だと感じる。それなのに――。 先日、訪ねてきた時にも感じたけれど、どこか懐かしいような感覚が胸をよぎる。「ありがとうございました」 震え声にならないよう気をつけながら車夫に礼を言い、小さな竹籠の入った風呂敷包み一つを抱えて車を降りる。これが私の全財産だった。父の死後、家財道具はほとんど借金の形に取られてしまったのだから。 門の前で立ち止まり、私は深く息を吸った。 朝霞邸――。 椿京でも有数の大企業、朝霞開発の代表を務める朝霞理玖氏の邸宅。そして今日から一年間、私がその「妻」として暮らすことになる場所。 契約結婚。そんな現実離れした話が私の元に舞い込んできたのは、ほんの一週間前のことだった。「本当にこれでよかったのだろうか」 心の中で呟きながら、私は重厚な門扉を見上げた。黒塗りの木材に施された金の装飾が、夕日を受けて鈍く光っている。門柱には「朝霞」の文字が刻まれた表札があり、その下には見慣れない家紋――すすきの穂が左右から寄り添い、根元で結ばれた優美な意匠が彫り込まれていた。「お嬢様、時雨様でございますね」 突然声をかけられて、私は背筋がピンと伸びた。いつの間にか門番の老人が現れていたのだ。白髪を丁寧に撫でつけた、品のある初老の男性だった。「は、はい。時雨鈴凪と申します」「ご足労をおかけいたしました。旦那様がお待ちでございます。どうぞこちらへ」 老人の敬語は丁寧すぎるほど丁寧で、まるで私が本当に身分の高い令嬢であるかのように響いた。それがかえって居心地の悪さを増していく。 ――私には身分なんてないようなものなのに。 門をくぐると、玉砂利の敷かれた前庭が広がっていた。手入れの行き届いた植木や、季節外れなのに美しく咲いている彼岸花が目に入る。 彼岸花は秋の花のはずなのに、なぜ今の季節に? そんな疑