Share

第5話 夕食の時間

Aвтор: 釜瑪秋摩
last update Последнее обновление: 2025-08-01 13:49:44

 柱時計から夕刻の七時を告げる鐘が鳴ると、若い女中が私を迎えに来た。

「奥様、お食事のご用意ができております」

 彼女もまた、足音をほとんど立てずに歩いた。廊下を進みながら、私は改めてこの屋敷の静寂さに驚いていた。二十人もの使用人がいるというのに、まるで誰もいないかのように静かなのだ。

 案内された食堂は、屋敷の他の部屋と同様に和洋折衷の美しい空間だった。長いテーブルには西洋風の椅子が並び、その上には繊細な和食器が美しく配置されている。部屋の四隅には提灯が下がり、壁には風景画が掛けられていた。

 そしてテーブルの上座に、理玖が座っていた。

「お疲れ様でした」

 理玖が立ち上がって私を迎える。

「お部屋はいかがでしたか?」

「とても素敵なお部屋をありがとうございます」

 私は丁寧に頭を下げた。

「華さんにも大変よくしていただいて……」

「それは良かった。華は長年この家に仕える古株ですから、何でも相談してください」

 理玖は私のために椅子を引いてくれた。そのさりげない仕草は完璧に紳士的で、作法に一点の曇りもない。

「ありがとうございます」

 席に着くと、すぐに料理が運ばれてきた。季節の野菜を使った煮物、新鮮な刺身、上品に味付けされた焼き魚。どれも料亭で出されるような見事な品々だった。

「口に合いますでしょうか?」

「はい、どれもとても美味しいです」

 理玖に問われ、私は正直に答えた。

「こんなに豪華なお食事をいただいて、恐縮してしまいます」

「妻が遠慮する必要はありません」

 理玖は静かに微笑むけれど、その笑顔は、どこか表面的に見える。

「これからは、ここがあなたの家なのですから」

 妻、という言葉に私の頬が熱くなる。例え契約上のことだとしても、まだ慣れない響きにいちいち戸惑う。食事の間、理玖は完璧すぎるほど優雅だった。箸の持ち方、食べ物を口に運ぶ所作、すべてが絵に描いたような美しさで、まるで舞台の上の役者を見ているようだった。

「朝霞様」

 私は意を決して口を開いた。

「改めて、契約の内容を確認させていただけますでしょうか?」

 理玖の手が一瞬止まった。それから彼は箸を置き、私を見つめた。

「もちろんです。確認は大切ですから」

 理玖の声は相変わらず穏やかだったが、その瞳には冷たい光があった。

「まず、あなたには一年間、私の妻として振舞っていただきます。対外的には、恋愛結婚をした夫婦として見せるよう努めてください」

「はい」

「代わりに、時雨家の借金は全て清算いたします。また、あなたには月々相応の生活費をお支払いします」

 理玖が示した金額は、私が想像していたよりもはるかに高額だった。

「そんなにいただくわけには……」

「契約ですから」

 理玖はきっぱりと言った。

「ただし、先日もお伝えした通り、いくつかの条件があります」

 私は緊張して身を乗り出した。一週間前に聞いた時は、余りにも突然の出来事に失礼な発言をしてしまった。そのことが胸の奥に引っ掛かっている。

「一つ目。夫婦としての外面は保ちますが、実質的な夫婦関係は求めません。寝室も別々です」

「はい」

「二つ目。お互いの私生活への干渉は行いません。あなたの自由時間に何をしようと、私は関与しません」

「分かりました」

「三つ目。この婚姻が契約によるものということは、秘密にすること。決して誰にも話してはいけません」

「はい」

「四つ目」

 理玖の声が少し低くなった。僅かに俯いてから、視線だけを私に向けた。

「私の正体や、仕事の詳細について詮索しないでください」

 正体——その言葉に、私の背中にすっと冷たい風が通り抜けた気がした。

「正体、ですか?」

「私には人に言えない事情があります。それ以上は聞かないでください」

 理玖の表情が一瞬こわばったのを、私は見逃さなかった。

「最後に」

 理玖は再び冷静な口調に戻った。

「一年後には、円満に離婚をします。その際、あなたには十分な手切れ金をお支払いし、新しい人生を歩んでいただく。これが契約の全てです」

 私は静かに頷いた。改めて聞くと、随分と一方的な契約に思えた。

「朝霞様は、なぜ私を選ばれたのでしょうか?」

 それは、一週間前から抱いていた疑問だった。椿京には私よりも美しく、教養のある女性がいくらでもいるはずなのに。

 理玖は少し間を置いてから答えた。

「あなたの曾祖母、ちよさんにお世話になったことがあります。その恩返しと思ってください」

「曾祖母が……」

「華からも聞いたでしょうが、ちよさんは一時期この家で働いていました。とても優しく、聡明な方でした」

 理玖の表情が一瞬和らいだ。まるで遠い記憶を辿っているかのように。

「ちよさんには、いつか時雨家に何かあった時には助けてほしいと頼まれていました。その約束を果たしたまでです」

「そうだったのですね……」

 私は胸が熱くなった。曾祖母が残してくれた縁が、こんな形で私を救ってくれるなんて。『ある人』というのが、曾祖母だったことにも安堵した。

「ありがとうございます。曾祖母に代わって、お礼を申し上げます」

「いえ。こちらこそ、このような急な話を受けてくださって、ありがとうございます。正式な契約書はまだ整っておりませんが、それも急ぎ準備をしています」

 理玖がそう言った時、その表情には今までにない温かさが見えた。ただ、それも一瞬のことで、すぐにいつもの冷静な仮面に戻った。

「他に質問はありますか?」

 私は少し迷ってから、口を開いた。

「一つだけ。この屋敷は、昔から朝霞家のものなのでしょうか?」

「ええ。代々受け継いできた家です」

「使用人の方々も、皆さん長くお勤めなのですね」

「そうです。華などは、私の祖父の代から仕えています」

 祖父の代から――それでは華は相当な年齢のはずなのに、どう見ても四十代にしか見えない。不思議だった。

「今日は慣れない場所でお疲れでしょう。早めにお休みになってください」

 理玖が立ち上がった。

「今後は、妻として外出していただく機会も増えます」

「分かりました」

 私も席を立とうとしたその時、理玖が振り返った。

「鈴凪さん」

「はい」

「この家には古い決まりごとがあります。夜中に一人で出歩かないよう、気をつけてください」

 それは華が言ったのと同じ注意だった。

「はい。華さんからも同じことを……」

「それから」

 理玖の声が一段と低くなった。

「もし夜中に変わった音が聞こえても、決して部屋から出ないでください。約束していただけますか?」

 理玖の瞳を見つめた瞬間、私は言いようのない恐怖を感じた。その瞳には、人間のものとは思えない深い闇があったからだ。

「は……はい。約束します」

「ありがとうございます。それでは、おやすみなさい」

 理玖は静かに食堂を出て行った。一人残された私は、まだドキドキしている心臓を抑えることができなかった。

 ――あの人は、本当に人間なのだろうか?

 そんな疑念が、心の奥で静かに芽生えていた。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 狐の記憶に触れるたび、私はあなたに恋をした   第8話 翌朝の食卓

     朝の光が薄いカーテン越しに差し込み、私は自然と目を覚ました。 時計を見ると七時を少し回ったところ。昨夜の出来事が夢だったのかと思うほど、穏やかな朝だった。鳥のさえずりが聞こえ、庭からは爽やかな風が吹き込んでくる。「おはようございます、奥様」 身支度を整えて部屋を出ると、廊下で華が待っていた。昨夜見た薄暗い廊下とは打って変わって、朝の光に満ちた明るい空間になっている。「おはようございます、華さん」「お食事の準備ができております。旦那様もお待ちです」 華の案内で食堂に向かいながら、私は昨夜の記憶を辿った。あの不思議な出来事は本当にあったことなのだろうか。明るい朝の光の中では、全てが夢のように思えてくる。「失礼いたします」 食堂の扉を開けると、そこには昨夜とは全く違う理玖がいた。 明るいグレーのスーツに身を包み、新聞を読みながら優雅にコーヒーカップを傾けている。朝の光に照らされた横顔は穏やかで、昨夜感じた得体の知れない雰囲気は微塵も感じられない。「おはようございます」 理玖は新聞から目を上げると、完璧な笑顔で私を迎えた。その瞳は美しい琥珀色で、昨夜見た獣のような縦の瞳は影も形もない。「おはようございます、朝霞様」 私は軽く会釈をして、向かいの席に座った。テーブルには焼きたてのパンと、色とりどりの料理が並んでいる。「よくお眠りになれましたか?」「はい、ありがとうございます」 そう答えながらも、私の心は複雑だった。理玖の問いかけは自然で、まるで昨夜の出来事などなかったかのようだった。本当に、あれは夢だったのだろうか。「今日から本格的な新生活の始まりですね」 理玖はナプキンを膝に置きながら言った。その動作も、昨夜の音のない歩き方とは違って、普通に衣擦れの音がする。「何か困ったことがあれば華に相談してください。私は会社の仕事で出かけますが、夕方には戻ります」「ありがとうございます」 私はパンを一口食べながら、理玖の様子を観察した。朝食を取る姿

  • 狐の記憶に触れるたび、私はあなたに恋をした   第7話 深夜の廊下

     眠りについてからどれほど経ったのだろう。私は喉の渇きを覚えて目を覚ました。 枕元に置いた懐中時計を見ると、針は午前二時を指している。静寂に包まれた屋敷の中で、時を刻む音だけが規則正しく響いていた。「お水を……」 私は小さく呟きながら布団から起き上がった。昼間、華に案内された時の記憶を辿りながら、台所への道筋を思い出す。確か廊下を右に進んで、階段を下りた先にあったはずだ。 部屋着の上に羽織を引っ掛けて、そっと扉を開ける。廊下は薄暗く、ところどころに置かれた行灯が仄かな明かりを灯していた。昼間見た時とは全く異なる、幻想的で静謐な雰囲気に包まれている。「静かね……」 足音を立てないよう気をつけながら廊下を歩いていると、大きな窓から月光が差し込んでいるのが見えた。今夜の月はとりわけ美しく、銀色の光が廊下全体を淡く照らし出している。 その時だった。「こんな夜中に、どうされたのですか?」 突然声をかけられ、私は驚いて振り返った。「あ……朝霞様」 そこには月光に照らされた理玖の姿があった。昼間の洋装とは違い、深い紺色の着物を纏った和装姿で、いつもと違った趣がある。月明かりの中で見る彼は、まるで絵画から抜け出してきたかのように美しく、思わず見惚れてしまう。「眠れませんか?」 理玖は穏やかな声で問いかけてきたが、私は違和感を覚えていた。昼間の彼よりもさらに所作が静かで、まるで音もなく現れたような――。「いえ、少し喉が渇いて……お水をいただこうと思いまして」「そうですか」 理玖は微かに頭を下げた。その動作も、やはり音がしない。着物の裾が擦れる音すら聞こえないのだ。 月光が理玖の横顔を照らしている。彫刻のように美しい輪郭、長い睫毛、整った鼻筋。私は、その美しさの中に人間離れした雰囲気を感じて、無意識のうちに一歩下がってしまった。「この屋敷は古いので、慣れるまで時間が掛かるかもしれません」 理玖の声は優しかったが、なぜかその言葉に深い意味が込められているような気がする。まるで、慣れなければならないのは建物の古さだけではない、とでも言うように。「そう……ですね」 私が答えた時、理玖がゆっくりとこちらを向いた。 月光の下で見る理玖の瞳は、昼間よりもずっと深く、神秘的だった。そして――。「……!」 私は息を呑んだ。一瞬、理玖の瞳が縦に細くなった

  • 狐の記憶に触れるたび、私はあなたに恋をした   第6話 夜、一人の時間

     部屋の襖を閉めた瞬間、私はようやく一人になれたことに安堵のため息をついた。 奥の寝室には既に布団が敷かれていて、すぐに休めるようになっている。布団は私がこれまで使っていたものと違って、ふかふかと厚みがあって柔らかそう。 床の間に飾られた花の甘い香りが疲れを癒してくれる気がした。箪笥や化粧台に触れてみると、温かい木のぬくもりが伝わってくる。 借金取りに追われていた数日前の生活とのあまりの落差に、現実感が湧かない。「本当に、これが私の部屋なの……」 呟きながら、私は持参した小さな竹籠の中から、形見の一つである手鏡を取り出した。銀の縁に繊細な菊の花の彫刻が施された小さな鏡は、曾祖母のちよが遺してくれた大切な宝物だった。 鏡面に映る自分の顔を見つめながら、私は今日一日の出来事を振り返った。 朝霞理玖という人は、確かに紳士的で礼儀正しい。容姿端麗で、言葉遣いも丁寧。けれど、どこか近寄りがたい雰囲気がある。まるで美しい氷の彫刻を見ているような、触れれば凍えてしまいそうな冷たさを感じるのだ。「あの方は、どうして私を選んだのかしら」 私は鏡に映る自分の顔を改めて見詰めた。特別美しいわけでもない。家柄も今では没落している。理玖ほどの男性であれば、もっと相応しい相手がいくらでもいるはずなのに。 夕食の席で交わした会話を思い出す。契約結婚の条件を淡々と説明する理玖の声には、感情の起伏が一切感じられなかった。まるで商談でもしているかのような、事務的な口調。曾祖母との約束だと言っていたけれど、曾祖母が亡くなって長い今、そんな約束など反故にされてもおかしくもない。「朝霞様の正体や仕事の詳細を詮索しない、か……」 その時の理玖の表情が妙に印象に残っている。一瞬、目の奥に何か暗いものが宿ったような気がしたのだ。正体、という言葉の使い方も気になった。普通なら「私生活」や「仕事の内容」と言うところではないだろうか。 私は鏡を大切にしまいながら、曾祖母に対する感傷に浸った。「曾祖母様、私は正しい選択をしたのでしょうか」

  • 狐の記憶に触れるたび、私はあなたに恋をした   第5話 夕食の時間

     柱時計から夕刻の七時を告げる鐘が鳴ると、若い女中が私を迎えに来た。「奥様、お食事のご用意ができております」 彼女もまた、足音をほとんど立てずに歩いた。廊下を進みながら、私は改めてこの屋敷の静寂さに驚いていた。二十人もの使用人がいるというのに、まるで誰もいないかのように静かなのだ。 案内された食堂は、屋敷の他の部屋と同様に和洋折衷の美しい空間だった。長いテーブルには西洋風の椅子が並び、その上には繊細な和食器が美しく配置されている。部屋の四隅には提灯が下がり、壁には風景画が掛けられていた。  そしてテーブルの上座に、理玖が座っていた。「お疲れ様でした」 理玖が立ち上がって私を迎える。「お部屋はいかがでしたか?」「とても素敵なお部屋をありがとうございます」 私は丁寧に頭を下げた。「華さんにも大変よくしていただいて……」「それは良かった。華は長年この家に仕える古株ですから、何でも相談してください」 理玖は私のために椅子を引いてくれた。そのさりげない仕草は完璧に紳士的で、作法に一点の曇りもない。「ありがとうございます」 席に着くと、すぐに料理が運ばれてきた。季節の野菜を使った煮物、新鮮な刺身、上品に味付けされた焼き魚。どれも料亭で出されるような見事な品々だった。「口に合いますでしょうか?」「はい、どれもとても美味しいです」 理玖に問われ、私は正直に答えた。「こんなに豪華なお食事をいただいて、恐縮してしまいます」「妻が遠慮する必要はありません」 理玖は静かに微笑むけれど、その笑顔は、どこか表面的に見える。「これからは、ここがあなたの家なのですから」 妻、という言葉に私の頬が熱くなる。例え契約上のことだとしても、まだ慣れない響きにいちいち戸惑う。食事の間、理玖は完璧すぎるほど優雅だった。箸の持ち方、食べ物を口に運ぶ所作、すべてが絵に描いたような美しさで、まるで舞台の上の役者を見ているようだった。「朝霞様」 私は意を決して口を開いた。「改めて、契約の内容を確認させていただけますでしょうか?」 理玖の手が一瞬止まった。それから彼は箸を置き、私を見つめた。「もちろんです。確認は大切ですから」 理玖の声は相変わらず穏やかだったが、その瞳には冷たい光があった。「まず、あなたには一年間、私の妻として振舞っていただきます。対外的には、

  • 狐の記憶に触れるたび、私はあなたに恋をした   第4話 お屋敷の中

    「それでは、奥様のお部屋からご案内させていただきます」 華に導かれて足を踏み入れた屋敷の内部は、外観以上に息を呑むほど美しかった。玄関から続く廊下には、洋風の絨毯が敷かれているにも関わらず、天井には和風の格子が組まれている。ガス灯と提灯が共存し、西洋の油絵と日本画が同じ壁に飾られていた。「珍しい造りでございましょう?」 華が私の様子を見て微笑んだ。「旦那様のご趣味で、東西の美を調和させた設計になっております」「とても素敵です」 私は率直な感想を口にした。なにもかもが珍しく見えて目が離せない。「まるで夢の中にいるようです」「そのお言葉、旦那様がお聞きになったら喜ばれるでしょう」 廊下を歩きながら、私は何とも言えない違和感を覚えていた。この屋敷には多くの使用人がいるはずなのに、人の気配が薄いのだ。時折、廊下の向こうを誰かが通り過ぎるのが見えるのだが、足音が全く聞こえない。「あの……」 私は遠慮がちに声をかけた。「こちらにはたくさんの方がお勤めなのでしょうか?」「はい。この屋敷には二十人ほどの使用人がおります」 華は振り返って答えた。「皆、長年この家にお仕えしている者ばかりです。奥様のことも、きっと大切にお守りするでしょう」 大切にお守りする――その言葉に込められた響きが、単なる主人への敬意以上のものに聞こえた。まるで私を何かから守らなければならない事情があるかのように。「華さん」 私は思い切って尋ねた。「もしかして、私のことをご存知だったのでしょうか? 先ほどから、初対面とは思えないようなお顔をなさっていて……」 華の足が止まった。振り返った彼女の表情には、明らかな動揺があった。「いえ、そのような……」 華は言葉を濁し、それから僅かに俯くと、深く息を吐いた。「申し訳ございません。実は、奥様の曾祖母様のちよ様を存じ上げておりまして」「曾祖母を?」 私は驚いて声を上げた。「はい。ちよ様には、若い頃この屋敷でお世話になったことがございます。奥様のお顔立ちが、ちよ様にそっくりでいらしたもので……」 曾祖母のちよが朝霞家と関わりがあった――。それは初耳だった。理玖が私を見つけ出せたのも、そういう縁があったからなのだろうか。「そうだったのですね」 私は華の表情を見つめた。彼女の目には、懐かしさと同時に、何か言えない秘密を抱え

  • 狐の記憶に触れるたび、私はあなたに恋をした   第3話 朝霞邸

     夕刻の空が茜色に染まる頃、私――時雨鈴凪は、人生で最も大きな分岐点の前に立っていた。「こちらが朝霞様のお屋敷でございます」 人力車の車夫が振り返って言った言葉に、私は小さく頷いた。目の前にそびえ立つのは、これまで見たこともないほど立派な屋敷だ。洋館の重厚さと日本家屋の優美さが不思議に調和した建物は、まるで異国の物語から抜け出してきたかのように幻想的で、私のような庶民には場違いな場所だと感じる。それなのに――。 先日、訪ねてきた時にも感じたけれど、どこか懐かしいような感覚が胸をよぎる。「ありがとうございました」 震え声にならないよう気をつけながら車夫に礼を言い、小さな竹籠の入った風呂敷包み一つを抱えて車を降りる。これが私の全財産だった。父の死後、家財道具はほとんど借金の形に取られてしまったのだから。 門の前で立ち止まり、私は深く息を吸った。 朝霞邸――。 椿京でも有数の大企業、朝霞開発の代表を務める朝霞理玖氏の邸宅。そして今日から一年間、私がその「妻」として暮らすことになる場所。 契約結婚。そんな現実離れした話が私の元に舞い込んできたのは、ほんの一週間前のことだった。「本当にこれでよかったのだろうか」 心の中で呟きながら、私は重厚な門扉を見上げた。黒塗りの木材に施された金の装飾が、夕日を受けて鈍く光っている。門柱には「朝霞」の文字が刻まれた表札があり、その下には見慣れない家紋――すすきの穂が左右から寄り添い、根元で結ばれた優美な意匠が彫り込まれていた。「お嬢様、時雨様でございますね」 突然声をかけられて、私は背筋がピンと伸びた。いつの間にか門番の老人が現れていたのだ。白髪を丁寧に撫でつけた、品のある初老の男性だった。「は、はい。時雨鈴凪と申します」「ご足労をおかけいたしました。旦那様がお待ちでございます。どうぞこちらへ」 老人の敬語は丁寧すぎるほど丁寧で、まるで私が本当に身分の高い令嬢であるかのように響いた。それがかえって居心地の悪さを増していく。 ――私には身分なんてないようなものなのに。 門をくぐると、玉砂利の敷かれた前庭が広がっていた。手入れの行き届いた植木や、季節外れなのに美しく咲いている彼岸花が目に入る。  彼岸花は秋の花のはずなのに、なぜ今の季節に?  そんな疑

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status