柱時計から夕刻の七時を告げる鐘が鳴ると、若い女中が私を迎えに来た。
「奥様、お食事のご用意ができております」
彼女もまた、足音をほとんど立てずに歩いた。廊下を進みながら、私は改めてこの屋敷の静寂さに驚いていた。二十人もの使用人がいるというのに、まるで誰もいないかのように静かなのだ。
案内された食堂は、屋敷の他の部屋と同様に和洋折衷の美しい空間だった。長いテーブルには西洋風の椅子が並び、その上には繊細な和食器が美しく配置されている。部屋の四隅には提灯が下がり、壁には風景画が掛けられていた。
そしてテーブルの上座に、理玖が座っていた。「お疲れ様でした」
理玖が立ち上がって私を迎える。
「お部屋はいかがでしたか?」
「とても素敵なお部屋をありがとうございます」
私は丁寧に頭を下げた。
「華さんにも大変よくしていただいて……」
「それは良かった。華は長年この家に仕える古株ですから、何でも相談してください」
理玖は私のために椅子を引いてくれた。そのさりげない仕草は完璧に紳士的で、作法に一点の曇りもない。
「ありがとうございます」
席に着くと、すぐに料理が運ばれてきた。季節の野菜を使った煮物、新鮮な刺身、上品に味付けされた焼き魚。どれも料亭で出されるような見事な品々だった。
「口に合いますでしょうか?」
「はい、どれもとても美味しいです」
理玖に問われ、私は正直に答えた。
「こんなに豪華なお食事をいただいて、恐縮してしまいます」
「妻が遠慮する必要はありません」
理玖は静かに微笑むけれど、その笑顔は、どこか表面的に見える。
「これからは、ここがあなたの家なのですから」
妻、という言葉に私の頬が熱くなる。例え契約上のことだとしても、まだ慣れない響きにいちいち戸惑う。食事の間、理玖は完璧すぎるほど優雅だった。箸の持ち方、食べ物を口に運ぶ所作、すべてが絵に描いたような美しさで、まるで舞台の上の役者を見ているようだった。
「朝霞様」
私は意を決して口を開いた。
「改めて、契約の内容を確認させていただけますでしょうか?」
理玖の手が一瞬止まった。それから彼は箸を置き、私を見つめた。
「もちろんです。確認は大切ですから」
理玖の声は相変わらず穏やかだったが、その瞳には冷たい光があった。
「まず、あなたには一年間、私の妻として振舞っていただきます。対外的には、恋愛結婚をした夫婦として見せるよう努めてください」
「はい」
「代わりに、時雨家の借金は全て清算いたします。また、あなたには月々相応の生活費をお支払いします」
理玖が示した金額は、私が想像していたよりもはるかに高額だった。
「そんなにいただくわけには……」
「契約ですから」
理玖はきっぱりと言った。
「ただし、先日もお伝えした通り、いくつかの条件があります」
私は緊張して身を乗り出した。一週間前に聞いた時は、余りにも突然の出来事に失礼な発言をしてしまった。そのことが胸の奥に引っ掛かっている。
「一つ目。夫婦としての外面は保ちますが、実質的な夫婦関係は求めません。寝室も別々です」
「はい」
「二つ目。お互いの私生活への干渉は行いません。あなたの自由時間に何をしようと、私は関与しません」
「分かりました」
「三つ目。この婚姻が契約によるものということは、秘密にすること。決して誰にも話してはいけません」
「はい」
「四つ目」
理玖の声が少し低くなった。僅かに俯いてから、視線だけを私に向けた。
「私の正体や、仕事の詳細について詮索しないでください」
正体——その言葉に、私の背中にすっと冷たい風が通り抜けた気がした。
「正体、ですか?」
「私には人に言えない事情があります。それ以上は聞かないでください」
理玖の表情が一瞬こわばったのを、私は見逃さなかった。
「最後に」
理玖は再び冷静な口調に戻った。
「一年後には、円満に離婚をします。その際、あなたには十分な手切れ金をお支払いし、新しい人生を歩んでいただく。これが契約の全てです」
私は静かに頷いた。改めて聞くと、随分と一方的な契約に思えた。
「朝霞様は、なぜ私を選ばれたのでしょうか?」
それは、一週間前から抱いていた疑問だった。椿京には私よりも美しく、教養のある女性がいくらでもいるはずなのに。
理玖は少し間を置いてから答えた。「あなたの曾祖母、ちよさんにお世話になったことがあります。その恩返しと思ってください」
「曾祖母が……」
「華からも聞いたでしょうが、ちよさんは一時期この家で働いていました。とても優しく、聡明な方でした」
理玖の表情が一瞬和らいだ。まるで遠い記憶を辿っているかのように。
「ちよさんには、いつか時雨家に何かあった時には助けてほしいと頼まれていました。その約束を果たしたまでです」
「そうだったのですね……」
私は胸が熱くなった。曾祖母が残してくれた縁が、こんな形で私を救ってくれるなんて。『ある人』というのが、曾祖母だったことにも安堵した。
「ありがとうございます。曾祖母に代わって、お礼を申し上げます」
「いえ。こちらこそ、このような急な話を受けてくださって、ありがとうございます。正式な契約書はまだ整っておりませんが、それも急ぎ準備をしています」
理玖がそう言った時、その表情には今までにない温かさが見えた。ただ、それも一瞬のことで、すぐにいつもの冷静な仮面に戻った。
「他に質問はありますか?」
私は少し迷ってから、口を開いた。
「一つだけ。この屋敷は、昔から朝霞家のものなのでしょうか?」
「ええ。代々受け継いできた家です」
「使用人の方々も、皆さん長くお勤めなのですね」
「そうです。華などは、私の祖父の代から仕えています」
祖父の代から――それでは華は相当な年齢のはずなのに、どう見ても四十代にしか見えない。不思議だった。
「今日は慣れない場所でお疲れでしょう。早めにお休みになってください」
理玖が立ち上がった。
「今後は、妻として外出していただく機会も増えます」
「分かりました」
私も席を立とうとしたその時、理玖が振り返った。
「鈴凪さん」
「はい」
「この家には古い決まりごとがあります。夜中に一人で出歩かないよう、気をつけてください」
それは華が言ったのと同じ注意だった。
「はい。華さんからも同じことを……」
「それから」
理玖の声が一段と低くなった。
「もし夜中に変わった音が聞こえても、決して部屋から出ないでください。約束していただけますか?」
理玖の瞳を見つめた瞬間、私は言いようのない恐怖を感じた。その瞳には、人間のものとは思えない深い闇があったからだ。
「は……はい。約束します」
「ありがとうございます。それでは、おやすみなさい」
理玖は静かに食堂を出て行った。一人残された私は、まだドキドキしている心臓を抑えることができなかった。
――あの人は、本当に人間なのだろうか?
そんな疑念が、心の奥で静かに芽生えていた。
慎吾が帰った後、私と理玖は中庭に出た。 夕暮れ時の庭では、桜と梅と椿の花が時季を違えながら同時に咲き、月見草が星明りに輝いている。この不思議な庭の光景も、今では二人にとって日常の一部だった。「今日も一日、お疲れ様でした」 私が理玖に茶を淹れながら言うと、理玖は愛しそうに彼女を見つめた。「鈴凪こそ。毎日たくさんの人の相談に乗って、疲れただろう」「いいえ、全然。皆さんの笑顔を見ていると、私も元気になります」 私は湯呑みを理玖に手渡すと、自分も隣に腰を下ろした。理玖の肩に頭を預けると、理玖は自然に腕を回す。「理玖様」「何だ?」「私、幸せです」 私の素直な気持ちを伝えると、理玖は肩に回した手に少し力を込めた。「私もだ。鈴凪と出会えて、本当に良かった」 二人はしばらく、庭に散る花びらを眺めながら静かに寄り添っていた。「あの……理玖様」 私は言い淀んで俯いてしまう。顔が熱くなるのは恥ずかしさを隠し切れないからだった。そんな私を、理玖は不思議そうな表情で覗き込む。「どうした? 何か言いにくいことでも?」「その……実は……」 私は頬を赤らめながら、自分のお腹にそっと手を当てた。理玖はその仕草を見て、はっと息を呑んだ。「まさか……」「はい。先日、華さんと一緒に医師の縁火様の
それから幾月かが過ぎた。 椿京の街並みは、以前と変わらぬ風情を保ちながらも、どこか空気が軽やかになったように感じられる。和装に帽子を合わせた紳士が狐の面を持つ商人と談笑し、洋傘を差した婦人が猫又の小間物屋で品定めをする光景が、もはや珍しいものではなくなっていた。 朝霞邸の門前には、今日も数人の人影が列を作っている。「順番にお願いいたします。奥様は必ずお会いくださいますから」 華が穏やかな声で案内すると、妖と人とが入り混じった来訪者たちがほっと安堵の表情を浮かべた。ある者は隣人との諍いを抱え、ある者は商売上の取り決めで困り、またある者は恋の悩みを打ち明けたいと願っている。 かつて朝霞家の女中頭として威厳を保っていた華の表情は、今ではすっかり柔らかく、慈愛に満ちていた。「華さん、今日はどのような方々が?」 奥座敷から現れた鈴凪が、来訪者に会釈をしながら華に尋ねる。椿の花を散らした淡い紫の着物に、髪は簡素な髪結いに銀の簪を一本。装いは質素だが、その立ち姿には凛とした品格が宿っていた。「北区の魚屋の旦那さんが、河童の職人さんとの契約で悩んでおられます。それから、向島の娘さんが、狐火の青年との縁談について……」「そうですか。では、順番にお話を伺いましょう」 鈴凪は微笑んで頷くと、来訪者たちに向かって丁寧にお辞儀をした。「皆様、今日はお忙しい中をありがとうございます。私で力になれることがあれば、何でもお聞かせください」 その声音は落ち着いていて、聞く者の心を自然と和ませる。かつて時雨家の没落した娘として肩身の狭い思いをしていた少女の面影は、もうそこにはない。代わりにあるのは、多くの人と妖に頼られ、愛される女性の佳い姿だった。「所長さんは、本当にお若いのに偉いねぇ」
月光が中庭の花々を銀色に染める深夜、朝霞邸は静寂に包まれていた。昼の喧騒も、夕刻の使用人たちの慌ただしさも、今はすべてが遠い記憶のように感じられる。 私は白い小袖に身を包み、髪に簪を挿して中庭の中央に立っていた。 月明かりが彼女の頬を照らし、銀の鈴が胸元で小さく揺れている。心臓の鼓動が早鐘のように響いているのがわかったが、それは恐れからではなかった。これから始まることへの、深い期待と愛しさからだった。「鈴凪」 低い声が闇の中から響いた。振り返ると、理玖が歩いてくる。今宵の彼は、いつもの人間の姿ではなかった。 月光の下で、理玖の背後には九つの金色の尾が優雅に揺らめいていた。その尾は炎のように、水のように、時には風のように形を変えながら、彼の周りを舞い踊っている。瞳は琥珀色に輝き、頬には薄く妖の紋様が浮かんでいる。それは恐ろしいものではなく、神々しささえ感じさせる美しさだった。「理玖様……」 私は息を呑んだ。これが理玖の真の姿。九尾の妖として生まれ、長い年月を生きてきた彼の、隠すことのない本当の姿。「驚いたか?」 理玖は立ち止まり、わずかに眉を寄せる。「やはり、恐ろしいだろう。こんな日に、あなたにこの姿を見せるべきではなかった」「いいえ」 私は首を振り、一歩前に出た。「以前と同じ……美しい、と思いました」 理玖の瞳が見開かれる。「美しい……?」「はい。理玖様のすべてが、こんなにも美しいなんて」 私の声は震えていたが、それは恐怖からではなく感動からだった。
夕影山は、まるで世界の終わりのような静寂に包まれていた。 理玖と鈴凪は、山頂近くの焼け焦げた大地に立っている。かつて迦具土烈火が暴れ回った場所は、今も黒い灰に覆われ、植物一つ生えていない。「本当に、ここにいらっしゃるのですか」 私は理玖の手を握りながら、不安を抑えて問いかけた。「ああ。烈火の気配はまだ残っている。完全に消滅したわけではない。百五十年前と同じように封印をしなければ……」 二人が歩を進めると、空気が次第に重くなっていく。そして、大きな岩の陰から、弱々しい声が聞こえてきた。「理玖……来たか」 朧月会の本部で見た、威厳ある姿はもうそこにはなかった。迦具土烈火は、人間の老人のような姿で、岩にもたれかかっている。体の各所から薄い炎が立ち昇っているが、それさえも今にも消えそうなほど弱々しい。「烈火」 理玖が迦具土に静かに近づいた。「おまえとの戦いに決着をつけに来た」「決着?」 烈火は嘲笑した。「見ろ、この様を。私はもう、戦う力さえ残っていない」 私は迦具土を見つめながら、胸の奥に複雑な感情が湧き上がるのを感じていた。恐怖、憐れみ、そして……理解しがたい親近感。「迦具土烈火様……」 私も理玖の横に立った。「私は朝霞鈴凪と申します」 迦具土は私を見上げると、瞳の奥を覗き込むように見つめてきた。
朧月会本部の会議室に、重苦しい空気が漂っていた。長い楕円形のテーブルを囲んで座る幹部たちの表情は、それぞれに複雑な感情を映している。 議長席に座る慎吾は、手元の書類に目を落としながら、深く息を吸った。この日のために、彼は三日三晩考え抜いてきた。「諸君、本日は重要な議題について話し合いたい」 慎吾の声が、静寂を破った。「九尾・朝霞理玖との戦いが終結し、我々、朧月会の使命について、根本から見直す時が来たと思う」 会議室のあちこちで、ざわめきが起こる。最前列に座る高師小夜が、鋭い視線を慎吾に向けた。「慎吾、まさか敗北宣言をするつもりではないでしょうね」「小夜さん、これは敗北ではない」 慎吾は落ち着いて答えた。「我々は、戦うべき相手を間違えていたのではないかと言っているのです」「何を言っているの!」 復讐することを諦めたとはいえ、相変わらず小夜の声は、どこまでも冷たい。「妖は人類の敵よ。それは変わらない事実でしょうが! 人を騙して弄び、」「本当にそうでしょうか」 慎吾は立ち上がり、窓辺に歩いた。外では、椿京の街並みが夕日に染まっている。「僕は先日、朝霞邸を訪れました。そこで見たのは、恐ろしい化け物ではなく、一人の女性を心から愛する男の姿でした」「惑わされているのよ! 妖の幻術に騙されているだけじゃない」 小夜が苛立ちを隠さずに言う。これまでずっと、妖を憎み続けた小夜にとっては、全ての妖が同じに見えるのだろう。長い間、抱えていた憎しみを急に忘れることなどできないと、慎吾にもわかる。「では、鈴凪さんも幻術にかかっているとでも?」 慎吾は振り返り、会議室の全員を見回した。誰もが慎吾の言葉に耳を傾けていながらも、小夜の強い口調に身をひそめている。「僕は彼女を以前から知っています。彼女がどれほど聡明で、意志の強い女性かも知っている。その彼女が、自分の意志で朝霞を選んだのです」 年配の幹部の一人、橋本が口を開いた。「真壁君の言いたいことは分からんでもない。だが、それは一例に過ぎないのではないか。すべての妖が朝霞のような存在だとは限らん」「その通りです、橋本さん」 慎吾は頷いた。「だからこそ、我々は妖を一律に敵視するのではなく、個々の存在として向き合うべきなのです」 小夜が立ち上がった。「あなたは朧月会を解散させるつもりなの? 我
朝霞邸の玄関に、聞き慣れない足音が響いたのは、契約解除の儀式から二日が過ぎた夕刻のことだった。「真壁慎吾様がお見えです」 華の知らせに、私は胸の奥で小さく息を呑んだ。理玖と真の夫婦になると決めてから、いつかこの時が来ることは分かっていた。それでも、実際に慎吾と向き合うとなると、心は複雑に揺れる。「お通ししてください」 私は襟を正し、座敷へと向かった。障子の向こうから差し込む夕日が、畳に長い影を落としている。やがて襖が開き、慎吾が姿を現した。 朧月会の制服ではなく、質素な紬の着物に袴。その表情は、かつてのような激しい敵意ではなく、深い疲労と諦めに似た静けさを湛えていた。「鈴凪さん、お久しぶりです」 慎吾は畳に正座すると、まっすぐに私を見つめた。「お久しぶりです、慎吾さん」 私も正座し、丁寧に頭を下げる。二人の間に流れる空気は、以前とはまったく違っていた。敵対でもなく、昔の親しさでもない。ただ、互いを理解しようとする静かな意志だけがそこにあった。「君は……元気そうですね」 慎吾の声は、どこか安堵を含んでいる。「おかげさまで。慎吾さんは……ずいぶんとお疲れのようですが」「ええ」 慎吾は苦い笑みを浮かべた。「朧月会の後始末に追われています。今日は、その件で来たのです」 私は静かに頷く。理玖が迦具土を退けた後、朧月会内部では激しい議論が続いていることを、華から聞いていた。「まずは…&helli