Mag-log inバーのカウンターで、初対面の男性と酒を飲んでいる。
それだけでも、美咲にとっては十分すぎるほど非日常だった。
仕事帰りにバーへ入り、隣に座っていた男と話し始める。
ほんの一時間前の自分に話したら、きっと信じないだろう。
手元には司狼から受け取った名刺がある。
『木崎司狼』
その下に並ぶ「小説家」の文字をもう一度見つめる。
(小説家……)
だから人を観察するのだろうか。
そう考えれば、先ほどの言葉も納得できる。
――姿勢がきれいだ。
そんなところを褒められたのは初めてだった。
自然と口元が緩む。
「緊張が抜けた」
不意に司狼が呟いた。
「え?」
顔を上げた瞬間だった。
近い。
思っていたよりずっと近くに司狼の顔があった。
「……っ」
反射的に身体が引く。
椅子が小さく軋んだ。
(しまった)
あからさまだった。
これでは警戒していると宣言したようなものだ。
慌てて表情を取り繕い、司狼を見る。
怒っているだろうか。
気まずそうにしているだろうか。
そう思った美咲は、司狼を見て拍子抜けした。
司狼は笑っていた。
嬉しそうに。
そして、どこか安心したように。
(……え?)
予想とまったく違う反応だった。
距離を取られたのに、どうしてそんな顔をするのだろう。
意味が分からない。
「どうした?」
「……いえ」
美咲は慌てて視線を逸らした。
グラスの中で氷がゆっくり回る。
その音だけが妙に耳へ残った。
(この人……)
何を考えているのか分からない。
普通なら避けられたと傷つく場面ではないのだろうか。
それともよくある反応で、慣れているのか。
(いや……)
どちらとも違う気がした。
まるで、美咲のその反応を期待していたような。
そんな違和感だけが残る。
(考えすぎ、よね)
美咲は自分へ言い聞かせる。
司狼は整った顔立ちをしている。
女性に声を掛けることにも慣れているだろう。
ナンパ。
そう考えるのが一番自然だった。
それなのに、その「自然」が司狼には当てはまらない気がする。
言葉は軽い。
笑顔も優しい。
なのに、視線だけはどこまでも真っ直ぐだった。
(この目……)
見透かされている。
そんな感覚になる。
「何?」
司狼が小さく笑う。
見つめていたことに気づかれていた。
「……こういうお店、よく来るんですか?」
慌てて話題を変える。
司狼は首を横へ振った。
「あまり来ない」
「そうなんですか?」
「ああ」
少しだけ間が空く。
「今日は、美咲さんが入っていくのが見えたから」
思わず息を止める。
さらりと言う。
あまりにも自然に。
(そういうこと、普通に言う人なんだ)
甘い言葉。
女性なら嬉しいはずの言葉。
なのに気持ちはあがらない。
なぜなら。
司狼の瞳は少しも甘くない。
何かを期待する色でもない。
口説く男の目でもない。
ただ静かに、美咲だけを見ている。
その視線に居心地の悪さを覚えた。
「木崎さんって」
美咲はゆっくり口を開く。
「いつも、そうやって人を試しているんですか?」
司狼がきょとんとした。
「試す?」
心の底から不思議そうだった。
演技には見えない。
だからこそ、美咲の胸がざわつく。
その表情が。
その「本当に分からない」という顔が。
一年前に別れたあの男、岡本蒼太と重なった。
何が悪いのか理解していない顔。
悪意がないからこそ厄介だった、あの表情。
(……違う)
目の前にいるのは司狼だ。
岡本蒼太じゃない。
分かっている。
分かっているのに。
胸の奥で嫌な記憶がゆっくりと目を覚まし始めていた。
【美咲視点】.駅へ向かう途中、美咲はバッグの中へそっと手を入れた。小さな箱の感触が指先へ伝わる。銀色のしおり。司狼に似合うと思って買ったものの、衝動買いである感じは否めない。(渡せる日なんて来るのかな)会う約束はしていない。連絡先は知っている。でも、プレゼントがあるから渡したいというメールを送るほどの勇気はない。考えれば考えるほど、自分が何をしているのか分からなくなる。恋人でもない。ただ何度か偶然会って、その流れでほんの一時を過ごした。それだけ。それなのに、プレゼントを選んでしまった。誕生日とか、何の名目もなく。思い付きで。(重いかな……)そう思ってしまうと、急に恥ずかしくなった。「やっぱり早まったかな」小さくため息をつきながら改札へ向かう。そのときだった。「美咲?」聞き慣れた声に足が止まる。ゆっくり振り向くと、少し離れた場所で司狼が片手を上げていた。「木崎さん……」思わず目を丸くする。(また会った)偶然。そう思うには出来すぎている。だが、それ以外に適切な説明が思いつかない。司狼はいつも通り自然な笑顔で歩いてきた。「奇遇だな」「……本当に奇遇なんですか?」思わず疑いの目を向ける。「当たり前だろ」「絶対違います」「それなら、どうやって?」ストーキング。そんな言葉が浮かんだがすぐに消す。理由がない。それに。(もし本当なら、もっとこそこそしているわよね)「偶然、なんですね」「そうだ」「何とか納得す
【美咲視点】.夜、部屋へ戻った美咲はバッグから『透明な烙印』を取り出した。読み終えたから棚に片付けようとしたが、思い直してテーブルの上に置く。化粧を落として、シャワーを浴びて、リビングに戻る。化粧水を肌に充てながら、気づけばまた表紙を眺めていた。邪魔だからだと、自分の天邪鬼が囁く。でも、数分後には手に取ってしまっていた。触れてしまえば誤魔化せない。天邪鬼は沈黙する。(でも……)読み返したいわけではない。ただ、気になる。まるで司狼のようだと思ったところで、口元が緩む。「……変な人」思わず声に出して、そして笑ってしまう。初対面では軽薄な人だと思った。女性を口説き慣れていて、距離感がおかしくて、何を考えているのか分からない人。それなのに話していると安心するから不思議。からかわれているはずなのに嫌ではない。泣いているときは困った顔をする。美咲が恥ずかしいと感じたときは、笑い飛ばしてくれる。(もしくは遠慮なくからかう)思い出すと、笑ってしまう。そんな不思議な人だった。(もっと知りたい)そう思った瞬間、心の奥から『なんで?』という声がした。美咲の笑みが消える。岡本蒼太。その名前が頭に浮かぶ。(まただ……)一年前に忘れようと決めたはずだった。木崎司狼という新しい出会いができたのだから、忘れてしまったほうがいい。これが恋になるかは分からない。でも、少しだけ前を向きたいと思った。(多分、これも恋の始まりなんだと思う)そう思うのに。司狼のことを考えるたび、蒼太のことまで思い出してしまう。「最低……」誰に対してなのか分からないまま呟いた。司狼に失礼だと思っているわけではない。(だって、まだそんな義務のある関係ではない)でも、新しい出会いに過去の恋愛を重ねている。そんな自分が嫌だった。◇◇◇翌日。仕事へ向かう足取りは思っていたより軽かった。「花邑さん」「はい?」呼ばれて振り向くと、同じ部署の女性社員が笑っていた。「最近、雰囲気変わったね」「そうですか?」「うん。なんか柔らかくなったというか、笑うこと増えたよね」美咲は目を丸くする。そんなつもりはなかった。「いいことでもあった?」そう聞かれ、美咲は少しだけ考えた。「……本、ですね」「本?」「面白い本を読んで、その影響かもしれ
【美咲視点】 .店の扉を開けた瞬間、美咲は小さく息を呑んだ。外から見た印象とはまるで違う。柔らかな照明に照らされた店内は、木の温もりに満ちていた。飾りすぎない内装。静かに流れる音楽。厨房から漂う香ばしい匂い。肩肘張るような高級店ではない。けれど、大切な人とゆっくり食事をしたくなる。そんな空気があった。「こちらへどうぞ」案内された席へ腰を下ろす。周囲を見ると、恋人同士らしい男女もいれば、年配の夫婦もいる。誰も大声では話さない。自然と声の大きさまで落ち着いてしまうような店だった。(……デート向けだ)そう思った瞬間。向かいに座る司狼を意識してしまう。「どうした?」「……何でもありません」慌ててメニューへ視線を落とした。料理はどれも美味しそうだった。パスタ。魚料理。肉料理。どれも魅力的で迷う。結局、美咲は季節限定メニューを選んだ。「おすすめじゃないんだ?」司狼が不思議そうに聞く。「おすすめも気になりますけど」美咲は少し笑う。「季節限定って、その季節しか食べられないじゃないですか」「なるほど」司狼は納得したように頷いた。「俺はおすすめにする」「迷わないんですね」「初めての店では、まずおすすめを食べる」「どうしてですか?」「その店が、一番自信があるものだから」美咲は少しだけ驚いた。そんな考え方をしたことはなかった。料理が運ばれてきた。思わず見惚れる。「……綺麗」色合いも。盛り付けも。どれも丁寧だった。崩してしまうのが惜しくて、しばらく見つめてしまう。視線を感じた。顔を上げる。司狼がこちらを見ていた。「何ですか?」「慎重だなと思って」「え?」「まず眺める」「……」「それから、何から食べようか考える」美咲は少し笑う。「食べ物なんだから当たり前です」「俺は好きなものを先に食べる」(木崎さんらしい)「人生もそんな感じなんだろうな」司狼の言葉にフォークを持つ手が止まった。「美咲って」司狼はワインではなく水を口に含みながら言う。「人を信用するまで時間がかかるだろ」図星だった。「……そうかもしれません」「いや」司狼は首を振る。「かかる、じゃないな」少し考えて。「信用したいけど、できない」静かな声だった。美咲は返事ができなかった。「綺麗とか」
【美咲視点】.カフェラテを飲み終えた頃には、さっきまで泣いていたことが嘘のように落ち着いていた。司狼も空になったカップを見つめながら、小さく息を吐く。「そろそろ出るか」「はい」美咲は頷き、本をバッグへしまった。立ち上がろうとした、そのときだった。「美咲」不意に名前を呼ばれる。「はい?」振り返る。思っていたよりも近くに司狼の顔があった。「……っ」心臓が大きく跳ねる。近い。そう思った瞬間だった。美咲は反射的に目を閉じていた。(……あっ)すぐに我に返る。(違う違う違う!)何をしているのだろう。まるで。まるでキスを待っているみたいじゃないか。そんなつもりはない。ないはずなのに、身体が勝手に動いた。恥ずかしさで頭の中が真っ白になる。「ふっ」笑われた。美咲は勢いよく目を開く。司狼は肩を揺らして笑っていた。「期待しているところ悪いけど」「期待してません!」思わず睨む。司狼はどこか楽しそうだった。「会ってまだ三回目だ」落ち着いた声で続ける。「しかも、予定して会ったことはない」「……」「それで、いきなりキスは早いだろ」「だから違います!」顔が熱い。完全に誤解されている。いや。誤解されても仕方のない反応をしたのは自分だ。(もう嫌……)恥ずかしすぎる。「安心しろ」司狼は笑う。「キスはもっと仲良くなってからしよう」「しません!」「そうか?」全然信じてもらえていない。美咲は頬を膨らませた。すると司狼が少しだけ身を乗り出した。「え?」今度こそ、本当に近い。思わず身体が固まる。司狼は美咲の顎へそっと指先を添えた。びくり、と肩が震える。(え……)動けない。司狼の視線が美咲の顔をゆっくりと見つめる。右。左。少しだけ角度を変えて。それだけだった。「よし」満足そうに頷く。「……?」美咲は瞬きを繰り返した。何が「よし」なのか分からない。(もっとこう……照れたりとか、雰囲気があると思ってたのに)サッカーでゴールを決めたみたいな満足顔をされても困る。「ジャンル間違い……」混乱したまま、心の声が口から漏れた。「え?」司狼が首を傾げる。「イタリアンは好みじゃない?」「……え?」今度は美咲が固まる。「イタリアン?」「ああ」司狼は当然のように頷いた。「
【美咲視点】.本を読み始めてから、三日が経った。仕事帰り。美咲はいつものカフェで、『透明な烙印』の最後のページを閉じた。静かな店内。低く流れる音楽。コーヒーの香り。窓の外には、仕事帰りの人たちが足早に通り過ぎていく。その穏やかな空間とは裏腹に、美咲の胸の中だけが大きく揺れていた。「……ずるい」ぽつりと呟く。こんな終わり方だとは思わなかった。悲しいだけではない。救われただけでもない。読み終えたあとも、登場人物たちが胸の中で生き続けている。そんな物語だった。気づけば視界が滲んでいる。一滴。また一滴。涙が頬を伝った。「家で読めばよかった……」こんなところで読むんじゃなかった。周りには仕事帰りに談笑する会社員や、本を読んでいる学生もいる。そんな中で一人泣いているなんて、恥ずかしすぎる。慌てて紙ナプキンへ手を伸ばした、そのときだった。「勉強は進んでる?」聞き慣れた声が降ってきた。「……っ」顔を上げる。「木崎さん」司狼が立っていた。トレーにはカフェラテが二つ。「隣、いい?」断る間もなく腰を下ろす。美咲は小さくため息をついた。「どうしてここにいるんですか」このカフェは美咲の勤務先の傍にある。司狼と会ったバーや書店のあるあの街ではない。「偶然」「その偶然、多すぎません?」「運がいいんだろう」どうにも信じられない内容だが、司狼は本当にそう思っているらしい。そういうところが、この人らしい。司狼はトレーからカフェラテを一つ取り、美咲の前へ置いた。「冷める前に」「ありがとうございます……」返事をしながらも、涙は止まらない。司狼の視線が本へ落ちる。「読み終わった?」美咲は小さく頷いた。「詐欺です」「詐欺?」「青春小説って言いましたよね」「言った」「泣くなんて聞いてません」司狼は少し考えるような顔をした。「感想なんて人それぞれだろう」「この本を読んで泣けないなんて人ではありません」思わず言い返す。涙声のせいで全然迫力がない。司狼は少しだけ笑った。「いや、それ書いたの俺だから」「だから詐欺なんです」美咲は鼻をすする。「……そこまで、本気で泣くなよ」その一言に、美咲は顔を上げる。司狼は困ったような表情をしていた。(……困ってる?)珍しい。軽口を返すか、笑って終
【美咲視点】.「他にも本を出しているんですか?」美咲が尋ねると、司狼は棚へ視線を向けた。「何冊か」そう言って指を折る。「『ひとりぼっち』とか、『犬を賢く育てる方法』とか」「へえ……」美咲は思わず笑った。「タイトルだけだと全然想像できません」司狼が片方の眉を上げる。(あれ……?)意外なことを言われた。そんな表情。だが、ほんの一瞬、司狼の表情に違和感を感じた。だが。「じゃあ当ててみるか」司狼が面白そうに口角を上げる姿に、掴みかけていた何かは消えた。.「『ひとりぼっち』は?」「えっと……」腕を組み、本気で考える。「サイコホラー」「ほう」「一人ずつ殺されていって、最後に本当に一人ぼっちになる話」司狼は少しだけ感心したように頷いた。「なるほど」「当たりですか?」「違う」即答だった。「じゃあ、『犬を賢く育てる方法』は?」「これは……」そこまで言って、美咲は固まった。(犬……)さっきまで見ていたBL棚。執着。監禁。そんな単語が頭をよぎる。(まさか……)頬が熱くなった。司狼が覗き込む。「変なこと考えた?」「……っ」図星だった。否定できない。司狼は小さく笑う。「美咲は素直だな」「違います」「顔に書いてある」「書いてません」「いや、書いてあるって」完全に遊ばれている。美咲は少しだけ頬を膨らませた。司狼は楽しそうに続ける。「正解は」一拍置かれる。「『ひとりぼっち』は絵本」「え?」「『犬を賢く育てる方法』は犬の飼育本」「……」美咲は呆然とした。そして一言。「普通だった……」「普通だな」美咲は肩を落とす。「私、何を想像してたんだろう……」司狼が肩を震わせる。「サイコホラーと官能小説を想像したんだろ」「言わないでください!」恥ずかしさで顔が熱い。.「そうだ」司狼は棚から本を抜き取った。司狼が書いた『私という装置』だ。「え?」そのまま歩き出す。「木崎さん?」当然のようにレジへ向かう。美咲も慌てて後を追った。店員が本を受け取り、会計を始める。「袋はご利用ですか?」「要りません」司狼はスマートフォンをかざした。決済音が鳴る。「現代的ですね」思わず漏らすと、司狼は笑う。「人生五回目のジジイでもキャッシュレスくらい使える」「まだその
グレープフルーツジュースが注がれ、グラスの中の色は淡いピンクへと変わる。(女の子受け、しそうだな)無意識にそう思いながら、隣の男をちらりと見た。整った顔立ち。シンプルな服装でも隠しきれない体の線。場慣れしている空気。こういう場所に違和感なく溶け込める人間。(慣れていそうな男)そう判断した瞬間、男の視線がこちらに向いた。見られていたことに気づいていたかのようなタイミングで、わずかに口元が緩む。「どうぞ」差し出されたグラスが、二人の前に並ぶ。男はすぐには手を伸ばさない。そのためらいが、先に飲んでもいいという合図のように思えて、美咲はおそるおそる手を伸ばした。薄いグラスの縁が、指先
美咲は重い木の扉に手をかけ、わずかに躊躇してから押し開けた。軋むほどではないが、確かな重みを伴って開くその感触が、日常から一歩外に踏み出す合図のように思える。駅前の雑居ビルの地下一階、上から覗き込んだときに見えた柔らかな灯りと、どこか閉じた空気に惹かれて、ほとんど衝動的にここを選んだ。小さなバー。普段の自分なら、まず入らない場所だ。そもそも美咲は、外で一人で酒を飲むこと自体がほとんどない。飲めばすぐに眠くなるし、わざわざ外でそれをする理由もなかった。だが、今日だけは違った。眠りたかった。何も考えずに、ただ意識を手放したかった。その一心で階段を下り、扉を押したのが数分前のことだ
岡本蒼太の浮気相手の女性は、彼の会社の上司だった。役職も年齢も岡本蒼太より上で、仕事の延長線上にある関係だと説明されれば、表向きは納得できなくもない。実際、美咲も最初はそう思おうとした。岡本蒼太が「ただの業務連絡だよ」と軽く笑って言ったとき、その言葉を完全に信じたわけではないにせよ、否定する決定的な証拠もなかったからだ。(ただの業務連絡だと言っていたけれど、あれをただの業務連絡だと信じるほど私は馬鹿じゃないわ)胸の奥で燻る違和感は、時間が経つにつれて形を持ち始めていた。確かに業務連絡もあったのだろう。納期や会議、資料の確認。そういったやり取りは実在していた。だが、それだけでは説明
司狼の声は変わらず落ち着いていた。それなのに、その奥に含まれている“何か”が、美咲の意識の表面をかすめていく。ただ言葉を交わしているだけなのに、まるで気づいていなかった感覚を指先でなぞられるような、そんな居心地の悪さと奇妙な引力が同時にあった。何かを示唆しているようで、しかし明確には何も言っていない。その曖昧さが逆に、美咲の中にあるものを浮かび上がらせようとしている気がして―――思わず、グラスを持つ手が止まった。「……匂いで、覚えてるって?」「あるだろ、そういうこと」あまりにもあっさりとした返答だった。肩の力が抜けたような、何の含みもない声音。その拍子抜けするほどの軽さに、美咲の方