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狼男は「ほどほどの愛し方」が分からない
狼男は「ほどほどの愛し方」が分からない
Auteur: 酔夫人

第1話 死者の名前

Auteur: 酔夫人
last update Date de publication: 2026-03-04 10:01:23

『昨夜未明、都内のマンションで男性が死亡しているのが見つかりました。死亡したのは、会社員の岡本蒼太さん――』

その名前が耳に入った瞬間、美咲の手が止まった。

朝のニュースは、いつもただの背景音だった。

時間を確認するために流しているだけで、内容を真剣に聞いているわけではない。

今日もそのはずだった。

なのに。

その名前だけが、針のように意識へ刺さった。

「……え?」

反射的に顔を上げる。

テレビ画面には、見覚えのある顔写真が映し出されていた。

【死亡した岡本蒼太さん】

同姓同名かもしれない。

そんな淡い期待は、あっけなく砕けた。

岡本蒼太。

一年前に別れた、元恋人だった。

.

『死因は転落とみられ、警察は事故と自殺の両面で捜査を進めています』

アナウンサーの声は驚くほど淡々としていた。

誰かの死が朝のニュースで流れることは珍しくない。

けれど、その誰かが自分の知っている人間だった。

その瞬間、世界の温度が一段下がったように感じた。

転落。

事故。

自殺。

聞き慣れているはずの言葉が、妙に現実味を持たないまま、美咲の胸の奥に沈んでいく。

コーヒーメーカーの低い音が、やけに大きく響いていた。

ゴボゴボと湯が落ちる音。

テレビの声。

自分の浅い呼吸。

そのすべてが混ざり合って、頭の内側をじっとりと濡らしていく。

耐えきれず、美咲はリモコンを手に取った。

テレビを消す。

画面が暗くなった途端、部屋の中に静寂が落ちた。

「……別に、関係ないし」

声に出した言葉は、思ったよりも頼りなかった。

岡本蒼太とはもう終わっている。

一年前に別れた。

連絡も取っていない。

会いたいと思ったこともない。

今さら彼がどうなろうと、自分の日常に関係などない。

そう思う。

そう思いたい。

美咲はいつも通りの動作をなぞるように、コーヒーメーカーの前へ立った。

マグカップを手に取り、サーバーを持ち上げる。

その瞬間だった。

「……あ」

まだ抽出は終わっていなかった。

黒い液体がサーバーのない場所へ落ちる。

熱された保温プレートの上で、コーヒーが小さく弾けた。

ジュッと焦げる音。

苦味と焦げ臭さが混ざった匂いが鼻の奥を刺す。

美咲は慌ててサーバーを戻したが、プレートの上には黒い染みが広がっていた。

「……最悪」

呟いてから胸の奥がざわつく。

たかがコーヒーだ。

拭けばいい。

何も大したことではない。

それなのに、指先が少し震えていた。

岡本蒼太が死んだ。

その事実を悲しいと思っているのか、驚いているだけなのか、それとも怒っているのか、美咲には分からなかった。

彼は美咲を裏切った男だ。

あの人のために泣く理由なんてない。

そう思えば思うほど、胸の奥に別のものが引っかかった。

事故か、自殺か。

ニュースの言葉が頭の中で何度も繰り返される。

岡本蒼太は自殺するような人だっただろうか。

美咲は答えを出す前に首を振った。

「関係ない」

もう一度、今度は少し強めに言う。

言葉にしなければ、自分の中の何かが勝手に膨らんでしまいそうだった。

時計を見る。

家を出る時間が近い。

美咲は焦げたプレートを拭き、冷めかけたコーヒーを一口だけ飲んだ。

味はよく分からなかった。

.

いつも通りに鞄を持つ。

いつも通りに靴を履く。

いつも通りに玄関を出る。

けれど、鍵を閉める音だけが妙に大きく響いた。

マンションの廊下を歩きながら、美咲は無意識に手すりの向こうを見下ろしていた。

八階。

地面までの距離が、やけに生々しく目に映る。

転落死。

その言葉がまた脳裏に浮かんだ。

岡本蒼太の部屋を最後に訪れたのは一年前だ。

間取りも、家具の配置も、カーテンの色も、ほとんど忘れかけていたはずだった。

なのに今朝、その記憶だけが妙にはっきりと蘇る。

そして、その日から三日後。

美咲は彼が別の女性と腕を組み、ラブホテルへ入っていく姿を見た。

胸の奥で古い痛みが鈍く疼いた。

悲しみではない。

たぶん、未練でもない。

ただ、自分の人生に一度深く入り込んだ人間が突然この世から消えた。

その事実がうまく飲み込めないだけだ。

美咲は足を止めなかった。

止まれば考えてしまう。

考えれば、何かを認めてしまいそうだった。

エレベーターの前に立ち、下行きのボタンを押す。

そのとき。

どこからか冷たい風が吹いた。

廊下の端から、かすかに雨の匂いがした。

今朝は晴れているはずなのに。

美咲は思わず振り返る。

誰もいない。

ただ静かな廊下が続いているだけだった。

「……気のせいよね」

そう呟いて、前を向く。

エレベーターの扉が開いた。

美咲はその中へ足を踏み入れる。

岡本蒼太の死は自分には関係ない。

そう言い聞かせながら。

けれどその朝から、美咲の日常はほんの少しずつ別のものへ変わり始めていた。

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