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مؤلف: 酔夫人
last update تاريخ النشر: 2026-04-23 17:31:44

死んだ男の影にまで揶揄われているような感覚が、美咲の胸の奥でじわりと広がった。

自分の内側にあるはずの記憶が、いま目の前にいる男と勝手に重なり、勝手に意味を持とうとする。その不快さは、外から与えられたものではなく、自分の中から湧き上がっていると分かっているからこそ、余計に逃げ場がなかった。

 カランッ 

美咲は逃げるようにグラスへ手を伸ばし、そのまま一気に中身を煽った。

氷がぶつかる音が鋭く響き、淡いピンクの液体が喉を滑り落ちていく。グレープフルーツの苦味が舌に広がる。その奥に、さっきまでは感じなかった別の苦味が混じる。アルコールのものなのか、それとも自分の感情なのか、判別がつかなかった。

「ちょっと……」

隣から制止するような声がかかるが、それよりも先に、美咲の中で結論は出ていた。

「不愉快なので、帰ります」

言葉にしてしまえば、あとは早かった。

これ以上ここにいても、自分の中のざわつきは収まらない。それどころか、余計に輪郭を持ってしまいそうで怖かった。

(グラスで千円をこえた飲み物は、カクテルにはなかった)

冷静さを装うように、現実的な計算が頭をよぎる。チャージを含めても、二千円もあれば足りるはずだ。美咲は鞄に手を伸ばし、財布を取り出そうとした。

そのときだった。

「待って……」

司狼の声が、わずかに引っかかるように耳に届いた。

その後に続くはずだった音が、途中で切り落とされたような、不自然な間がある。

(今……)

一瞬、思考が止まる。気のせいかもしれない。だが、確かに何かがあった。

まるで―――名前を呼びかけて、飲み込んだような、そんな違和感。

(あっ!)

気づいた瞬間には遅かった。

司狼の腕が伸び、美咲の鞄をすっとさらっていく。視線で追うよりも早い動きだった。

気づいたときには、もう彼の手の中にある。あまりにも自然で、無駄のない動作。その速さに、美咲は一瞬、何が起きたのか理解できなかった。

鞄を奪われたという事実よりも、その反射的な動きの鋭さに、先に驚きが立つ。

「悪かった!」

次の瞬間、司狼が勢いよく頭を下げた。

ためらいのない、見事なまでの動きで、深く、深く頭を垂れる。つむじがはっきり見えるほどの角度に、店内の空気がわずかに揺れた。

近くにいた客の視線が一斉に集まり、美咲のほうが慌ててしまう。

「あの、頭をあげて……」

周囲の目を気にしながら小声で言うと、司狼はゆっくりと顔を上げた。

その表情は、先ほどまでの余裕を完全に失っている。

「不愉快な思いをさせて悪かった。言い訳になるが、人と接するのはあまり得意ではなくて……これも、その、勉強した人間の男女の駆け引きを試してみた……いや、試したというのは挑戦という意味で……」

言葉が少しずつ崩れていく。自分の言い訳を自分で修正しながら、必死に整えようとしている様子がありありと伝わってくる。さっきまでの自信に満ちた態度はどこへ行ったのか、と問い詰めたくなるほど、その姿はしゅんと小さく見えた。

美咲は戸惑う。怒りをぶつけるタイミングを、完全に失ってしまったからだ。

予想していた展開と、あまりにも違う。

(どういう人なの、この人……)

警戒していたはずの相手が、いきなりこんなふうに頭を下げる。しかも、どこか不器用で、取り繕いきれていない。計算でやっているようには見えなかった。

だからこそ、余計に扱いに困る。慌てた結果、口から出たのは、自分でも意外な言葉だった。

「しょ、職業病なら仕方がないですよね」

言ってしまってから、少しだけ後悔する。納得する理由としては、あまりにも雑だった。

それでも、その言葉を受け取った司狼は、わずかに表情を緩めた。

謝罪が成立してしまった以上、美咲も引き下がるしかない。

(飲み直すの? でも、もう、飲み物はないんだけど……)

空になったグラスが、妙に軽く感じる。帰る流れだったはずなのに、場の空気がそれを許さない方向へと傾いている。

「ジンウーロン、ふたつ」

司狼が、間を埋めるように注文を口にした。

自分もスプモーニを一気に飲み干しているあたり、どこか焦りが見える。バーテンダーはそれを察したように、にこりと笑った。

「ひとつは、ウーロン茶を多めにしますね」

「……お願いします」

司狼が小さく頷く。そのやり取りを見ながら、美咲は再び席に腰を落ち着けた。

曖昧なまま収まった空気に、完全な納得はない。それでも、大人として、この場を続ける選択をしたのは自分だと、静かに言い聞かせた。

グラスが新しく用意される音が、再び店内に溶けていった。

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    岡本蒼太の浮気相手の女性は、彼の会社の上司だった。役職も年齢も岡本蒼太より上で、仕事の延長線上にある関係だと説明されれば、表向きは納得できなくもない。実際、美咲も最初はそう思おうとした。岡本蒼太が「ただの業務連絡だよ」と軽く笑って言ったとき、その言葉を完全に信じたわけではないにせよ、否定する決定的な証拠もなかったからだ。(ただの業務連絡だと言っていたけれど、あれをただの業務連絡だと信じるほど私は馬鹿じゃないわ)胸の奥で燻る違和感は、時間が経つにつれて形を持ち始めていた。確かに業務連絡もあったのだろう。納期や会議、資料の確認。そういったやり取りは実在していた。だが、それだけでは説明

  • 狼男は「ほどほどの愛し方」が分からない   16

    司狼は廊下を進み、迷いのない足取りで居間へと入った。八畳ほどの和室は、外の闇と切り離されたように静まり返っている。畳の匂いが、ふわりと立ち上り、玄関で感じた空気よりもさらに濃く、直接的に彼の感覚に触れた。窓の外には小さな庭があり、月明かりが障子越しに柔らかく差し込んでいる。白くぼやけた光は輪郭を曖昧にし、室内のすべてを少しだけ現実から遠ざけて見せた。低い机の上にはノートパソコンが置かれ、その周囲には書きかけのメモや紙片が点在している。整頓されているわけではないが、無秩序でもない。使う者の思考の流れが、そのまま形になったような配置だった。座布団の上には読みかけの本が重ねられている。ページ

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