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第6話 知らない横顔

作者: 酔夫人
last update publish date: 2026-04-23 16:55:04

グレープフルーツジュースが注がれ、紅い酒は淡い桜色へと姿を変えた。

氷が静かに揺れ、グラスの中で小さな音を立てる。

(きれい……)

思わず見入ってしまう。

隣の男も同じグラスを見つめていた。

整った横顔。

黒い髪。

店の照明を受けても鋭さを失わない眼差し。

それでいて、どこか穏やかだった。

(こういう場所に慣れている人なんだろうな)

自然とそう思う。

店の空気にも、バーテンダーとの距離感にも、何一つ気負いがない。

自分とは正反対だ。

視線を向けていたことに気づかれたのか、不意に男がこちらを見た。

目が合う。

その瞬間、ふっと男の口元が緩んだ。

.

「どうぞ」

バーテンダーが二人の前へグラスを置く。

美咲はハッとして、前を向く。

視界の隅に男を据えたまま。

男はすぐには手を伸ばかなかった。

まるで、「先にどうぞ」と言われているようだった。

美咲は遠慮がちにグラスを持ち上げる。

薄いガラス越しに冷たさが伝わる。

そっと口をつけた。

爽やかな甘みが広がり、そのあとからほんの少しだけ苦味が追いかけてくる。

「……おいしい」

思わず本音がこぼれた。

男は嬉しそうに笑う。

「よかった」

一言だけなのに、不思議と胸の奥が温かくなった。

まるで自分が褒められたような笑顔だった。

(久しぶり……)

誰かと話して、こんなふうに自然に笑ったのは。

朝から張りつめていた心が、少しだけほどける。

男は自分のグラスを軽く持ち上げた。

「俺は木崎きざき司狼しろう

その名前は、不思議と耳に残った。

司狼。

その響きは、目の前の男に驚くほどしっくりきた。

「あなたは?」

花邑はなむら……美咲みさき、です」

「美咲さん」

自分の名前が呼ばれる。

たったそれだけなのに、心臓が一つ大きく跳ねた。

「いい名前だな」

まっすぐに言われ、美咲は思わず視線を逸らす。

照れくさい。

こんなふうに名前を褒められたのは、いつ以来だろう。

――美咲って名前、似合っている。

思い出したのは岡本蒼太の声。

岡本蒼太が死んだ日なのに。

その事実が胸の奥にあったものにぶつかる。

誰かにときめいてしまったような高揚感。

そんな自分への戸惑い。

美咲は小さくグラスを見つめた。

司狼はその変化を見逃さなかった。

「何かあった?」

問いかける声は静かだった。

無理に聞き出そうとする響きではない。

「……別に」

「そう?」

それ以上は踏み込まない。

けれど、その目だけは美咲を見つめていた。

まるで何かを確かめるように。

少しだけ居心地が悪い。

でも、不思議と嫌ではなかった。

司狼は肩の力を抜いたまま笑う。

「美咲さんって、会社員?」

「……そう見えます?」

「ああ」

司狼は迷わず頷いた。

「言葉を選ぶクセがある。人の話を最後まで聞く。それに」

少し笑う。

「姿勢がきれいだ」

姿勢。

思わず美咲は身動ぎする。

そんなところまで見られていたのか。

「……はい。会社員です」

「やっぱり」

「でも、ごく普通の会社員ですよ」

「普通、か」

司狼は小さく笑った。

なんで普通なんてわざわざ言ったのか。

「仕事始めの月曜日、一人でバーへ来る会社員が、普通……か」

司狼の説明に、図星を刺された。

自分にとって普通ではないことをしている自覚ごと。

美咲は苦笑する。

「たしかに」

「仕事帰り?」

「はい」

「疲れてる?」

「……少し」

「少し、ね」

司狼はそれ以上何も言わない。

けれど、「少しではない」と思っていることが伝わってきた。

観察されている。

そんな感覚があった。

「ごめん」

司狼は軽く笑う。

「人を見るクセがあるんだ」

「クセ?」

「職業病みたいなもの」

「……営業?」

「違う」

「先生?」

「まあ、近いかな」

そう言うと、ジャケットの内側から名刺入れを取り出した。

一枚を美咲へ差し出す。

受け取る。

『木崎司狼』

その下に書かれていた肩書きを見て、美咲は思わず顔を上げた。

「……小説家、さん?」

司狼は照れたように笑うだけだった。

その笑顔がどこか少年のようで、さっきまで感じていた大人の余裕との落差に、美咲はまた少しだけ心を揺らされる。

――初対面なのに。

どうして、この人といると肩の力が抜けるのだろう。

そんな疑問が、胸の奥で静かに芽生え始めていた。

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