Masuk神殿の奥深くに置かれた古い保管庫には、あの混乱の渦中に作成された、半ば破れかけた台帳が静かに眠っている。
墨の掠れたその頁には、名もなき記号のような記載が並んでいた。 『雑役・三十代男性・死亡』 『身元不明・幼子・死亡』 かつてサラが「誰も見捨てない」と叫び、限界を超えて傷病者や孤児を抱え込み、そして破綻した、あの時期の記録である。 その日、神殿の勝手口に一人の若い女が訪ねてきていた。 擦り切れた作業着を身に纏った彼女は、ウシオから手渡された小さな桐の箱を、愛おしそうに両手で受け取った。 箱の中には、歯が二本欠けた古びた木櫛が入っている。 「……残っていたのは、これだけでした」 ウシオが静かに頭を下げる。 女は首を振り、弱々しく、けれどあたたかな微笑みを浮かべた。 「いいえ、ありがとうござ陽が完全に落ち、執務室には行灯の温かな灯火だけが揺れていた。 いつもと変わらぬ一日の終わり。 ウシオが淹れた香ばしい茶を啜りながら、サラは最後の一冊となった日誌を閉じた。 「うむ。今日の分はこれですべて終いだな。ごくごく平穏な、良い一日であった」 「はい。お疲れ様でした」 ウシオは自席から立ち上がると、机の上を手際よく片付け始めた。 何度も、何度も繰り返してきた、いつもの光景だった。 「ウシオ」 「はい、サラ様」 何気ない呼びかけ。 いつもの返事。 サラが次の言葉を口にしようとした、その時だった。 ウシオの手が止まった。 雑巾を握ったまま、少しだけ俯いている。 「……サラ様」 「ん?」 呼ばれて、サラが顔を上げる。 「どうした?」 「いえ……」 ウシオは目を伏せた。 「……?」 サラが怪訝そうに眉を寄せる。 銀色の前髪が目元を覆い、その表情は見えない。 ただ、雑巾を握る指先だけが、わずかに強くなっていた。 やがてウシオは、意を決したように前髪を
神殿の重々しい門扉を叩く靴音が、朝の静寂を破った。 一年前、破綻寸前だった神殿に乗り込み、冷ややかな眼差しで「一年だ」と期限を突きつけた貴族であり、上級監査官の男が、約束の日に姿を現したのだった。 かつては積み上がった書類の山と、疲弊しきった神官たちの悲鳴が満ちていた廊下。 男は足を踏み入れるなり、周囲を鋭く見渡した。 取り乱す者は誰一人いない。 各部署の神官たちは落ち着いた手つきで書状を整理し、互いに声を掛け合いながら、それぞれの仕事を滞りなく進めている。 誰か一人の指示を待っている様子もない。 監査官は、ほんの僅かに眉を動かした。 執務室の扉を開ける。 「監査官様。お待ちしておりました」 ウシオが一礼し、机の上に数冊の台帳を並べた。 監査官は返事をせず、椅子へ腰を下ろした。 分厚い帳簿を手に取り、頁をめくっていく。 収支は合っている。 人員も適切に配置されている。 資材にも無駄がない。 困窮者への援助も、以前のように際限なく膨れ上がってはいない。 数字だけを見ても、一年前とは比べものにならなかった。 だが、監査官はすぐには口を開かなかった。 最後まで帳簿を確認し、別の台帳を開き、さらにいくつかの書類へ目を通す。 やがて、低い声が落ちた。 「……随分と減ったな」 「はい」 「支出も、人員も、保護する者の数も」
夜の帳が下りた執務室に、香ばしく出汁の効いた甘やかな匂いが漂っていた。 いつもならウシオが淹れる茶の湯気が立つだけの文机に、今は塗りものの重箱と、湯気を立てる器が所狭しと並べられている。 「……サラ様。これは一体」 ウシオは目の前に広がる料理を前に、目を丸くしていた。 艶やかに煮付けられた根菜と肉、焼き魚、白飯に汁物。 どれも見慣れた料理だったが、どれも妙に丁寧に作られていた。 「何、おぬしには日頃、茶の世話やら何やらで余計な苦労をかけているからな。たまには我から労いを、と考えてな」 サラは満足そうに瞳を細め、神官服の袖を整えて着座した。 『火の柱』であるサラは、火加減の見極めだけなら神殿でも右に出る者はいない。 普段から孤児院の炊き出しで大鍋を仕切ることもあり、料理の腕前は神殿内でも密かに知られていた。 「さあ、遠慮はいらん。冷めぬうちに食すがいい」 「……では、いただきます」 ウシオは恐る恐る箸を伸ばし、煮物をひとくち口に運んだ。 静寂。 噛みしめた瞬間、出汁の深い旨味と素材の甘みが口いっぱいに広がる。 柔らかすぎず、硬すぎず、芯まで丁寧に火が通っている。 ウシオの手が、ぴたりと止まった。 「……サラ様」 「む、なんだ」 「……美味すぎます」 「そうか」 サラは澄ました顔で湯呑みに手を伸ばした。 しかし、薄紫色の髪から覗く狼耳の先が、ぴくりと跳ねる。 ウシオは夢中で箸を動かした。 魚の身をほぐして口に運び、白飯をかき込む。汁物を啜るたびに、体の中から温かな安らぎが広がっていくようだった。
神殿の業務が拡大するにつれ、さすがのウシオも手一杯になりつつあった。 そこで新たに、筆の立つ若い書記官が一人、補佐として配属されることとなった。 新任の青年は驚くほど優秀だった。 「ウシオさん、台帳の数字の照合、すべて終わらせておきました。こちらの控えも俺が回しておきます」 「……助かるよ。本当に手際がいいな」 整然と片付いていく執務机を前に、サラも最初は満足そうに狼耳を揺らしていた。 「うむ。これでウシオの負担も減るというもの。おぬしが倒れては元も子もないからな」 「はい。おかげで随分と楽になりました」 これで万事解決――のはずだった。 数日後。 サラは手に持った書状を抱え、ウシオの机へ歩み寄った。 「ウシオ。この先月の資材購入の件なのだが――」 「あ、それなら新人の彼に引き継いであります。もう確認も済んでいますよ」 「…………」 「サラ様?」 サラは無言のまま、手に持った紙を見つめた。 薄紫色の髪から伸びる狼耳が、不自然なほど静かに、へにゃりと力なく伏せられる。 「……いや。何でもない」 すっと背を向け、己の机へ戻っていく上司の背中に、ウシオは首を傾げた。 昼下がり。 ウシオが資料室へ席を外した際、新人の青年がサラの机へお茶を運んできた。 「柱様、温かいお茶が入りました」 「……うむ。苦労かけさせるな」 受け取った湯呑みを眺めながら、サラはぽつりと呟いた。 「……おぬしは、実に優秀だな」 「ありがとうございます! ウシオさんの足元にも及びません
神殿の奥深くに置かれた古い保管庫には、あの混乱の渦中に作成された、半ば破れかけた台帳が静かに眠っている。 墨の掠れたその頁には、名もなき記号のような記載が並んでいた。 『雑役・三十代男性・死亡』 『身元不明・幼子・死亡』 かつてサラが「誰も見捨てない」と叫び、限界を超えて傷病者や孤児を抱え込み、そして破綻した、あの時期の記録である。 その日、神殿の勝手口に一人の若い女が訪ねてきていた。 擦り切れた作業着を身に纏った彼女は、ウシオから手渡された小さな桐の箱を、愛おしそうに両手で受け取った。 箱の中には、歯が二本欠けた古びた木櫛が入っている。 「……残っていたのは、これだけでした」 ウシオが静かに頭を下げる。 女は首を振り、弱々しく、けれどあたたかな微笑みを浮かべた。 「いいえ、ありがとうございます。兄が神殿のお世話になっていたと聞き、ずっと気になっていて……これ一つでも手元に戻って、本当によかった」 立ち会っていたサラは、胸の奥が不規則に痛むのを覚えていた。 彼女の兄――台帳に『雑役・三十代男性』とだけ記されていた男。 サラが、救えなかった命の一つだ。 「……すまぬ」 サラは目を伏せ、絞り出すように言葉を零した。 「我が力、及ばぬばかりに。おぬしの兄を……救ってやれなかった」 贖罪の言葉。 しかし、若い女は驚いたように目を丸くし、それからふっと目元を和らげた。 「そんな、サラ様が謝られることではありません。……あの人、最後まで笑っていたんですよ」 「……笑って、いた?」 「はい。昔から不器用な奴でしてね。大工の弟子に入っても小言ばかり言われて、朝は寝坊してばかりで。
早朝の神殿は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。 ただ一つ違っていたのは、執務室の入口に立つ影が一つ少ないことだけだった。 数ヶ月前から調整していた故郷への用立てのため、ウシオは一日だけ神殿を離れていた。 かつてなら、ウシオが半日席を外すだけで書類は溢れ、神殿はたちまち混乱に陥っていた。だが、いまの神殿は違う。 分担された業務は各部署の神官たちによって整然と処理され、配分の滞りもない。 サラ自身の机の上にも、精選された必要な文書だけが整然と並んでいる。 サラは目を落とし、迷いのない手つきで花押を記していった。 一人でも、何の問題もなく公務は進む。 神殿は滞りなく回り、誰一人として困ってはいない。 二人で苦密を重ねて作り上げた「皆で支える神殿」が、正しく機能している何よりの証拠だった。 陽が傾き、執務室の畳に茜色の斜光が長く伸びる頃。 サラは本日最後となる文書に目を通し、筆を洗った。 カサ、と紙を重ねる乾いた音が響き、静寂が部屋の隅々にまで行き渡る。 何ひとつ不備はない。滞りもない。 完璧な一日の終わりだった。 けれど、サラは無意識のうちに、隣の机へ視線を滑らせていた。 整頓されたままの硯。誰も座っていない文机。 静かに墨を磨る微かな音も、控えめな呼吸の気配もない。 サラは静かに息を吐き、誰にともなく呟いた。 「……今日は静かだな」 お茶を差し出しに来た控の神官が、ふっと表情を緩めて応える。 「ウシオさんがおられないからでしょうか」 「……そうかもしれぬ」 サラは湯呑みに手を添え、静かに目を伏せた。







