LOGIN火の神殿で書記官として働く青年ウシオの上司――『火の柱』サラ。 孤児も、傷ついた魔物も、行き場のない者は誰一人見捨てない。 そんな理想を掲げる彼女は、人々から慕われる優しい守護者だった。 ――ただし、現実さえ見なければ。 増え続ける保護対象。 底をつく食料と資金。 休むことを知らない神官たち。 理想家の柱が救い続ける裏側で、帳簿と予算と人員配置に頭を抱えるのは、いつも書記官のウシオだった。 「全部は救えません」 「ならば我は、全部を救える方法を探そう」 夢を見る火の柱と、現実を数える書記官。 理想と現実の狭間で、それでも明日へ灯を繋ぐ異世界福祉ファンタジー。
View More豪奢な外套を翻し、貴族は執務室の扉の前で振り返った。「ならば、じっくりと考えさせてもらおう。また来るぞ、火の柱殿」 不敵な笑みを残し、靴音を響かせて去っていく。 静寂が戻った執務室で、サラは膝の上で固く握っていた拳をゆっくりと解いた。 そして、隣に立つ書記官を見上げ、真顔のまま口を開く。「……ウシオ。予算とは、具体的に何を削ればよいのだ」「はい」「この子らを減らすという話なら、聞かぬぞ」「はい」「動物も駄目だ。食事の質を落とすのもならん」 無茶苦茶な要求である。 だが、ウシオは手元の帳簿をパタンと閉じ、いつものように少し困ったような、けれど穏やかな笑顔を向けた。「……分かってます」 その言葉の裏で、ウシオの日常は泥沼のような忙しさの中にあった。 朝靄がまだ晴れない薄暗い市場。 彼は一番乗りで商人の前に立ち、頭を下げて冬越しの麦を少しでも安く買い付けていた。 日が昇れば神殿へ戻り、不満を漏らす神官たちを宥めすかし、仕事を割り振る。 回廊で喧嘩を始めた孤児たちの仲裁に入り、泥だらけになった手当をし、昼食もそこそこに貴族への角の立たない返書の文面を捻り出す。 そして夜の静寂が降りる頃、蝋燭の灯りだけを頼りに、削れるはずのない予算の帳簿と夜明けまで睨み合う。 数日後の、夕暮れ時。 赤く染まった誰もいない回廊を、ウシオは重い足取りで歩いていた。 不意に、彼の足が止まる。 石壁にドサリと寄りかかり、ずるずると肩を落とした。「……はぁ」 静かな空間に落ちた、深く、ひどく重い溜息。 普段の穏やかな笑顔は完全に剥がれ落ち、そこにはただ、疲労にすり減った等身大の青年が俯いているだけだった。 回廊の角。物陰から、サラはその光景をじっと見つめていた。 怪我をした動物の気配なら、すぐに察知できる。 なのに、いつも隣にいる彼の異常には、今の今まで気づけなかった。 サラは狼の耳を伏せ、そっと声をかけようと足を踏み出した。 だが―― パン、と。ウシオは両手で自身の頬を軽く叩いた。 顔を上げた時には、あの重い溜め息は消え去り、いつもの穏やかな表情がしっかりと貼り付けられている。 サラは、踏み出した足を思わず引っ込めてしまった。 夜の執務室。 ランプの灯りの下で、ウシオは山積みの書類に向かい、羽ペンを走らせていた。 サラは自分
窓の外から、中庭を駆け回る子供たちの声と、犬の鳴き声が聞こえてくる。 執務室には、豪奢な服に身を包んだ恰幅の良い男――隣領の貴族が、不敵な笑みを浮かべて長椅子に腰を下ろしていた。 彼の足元には、先日サラが保護して手紙を出した、純血種の猟犬が大人しく伏せている。「迷い犬を保護していただいたこと、感謝するよ。……だが、随分と騒々しく、そして貧相な神殿だな」 貴族は執務室の簡素な調度品や、目の下に濃い隈を作って壁際に並ぶ神官たちを値踏みするように見回した。 サラは正面に座り、凛とした顔を崩さない。横には書記官のウシオが控え、手元の帳簿に静かに目を落としている。「ここは命を繋ぐ場所だ。飾るための金はない」「だろうな。聞いたぞ、魔物まで囲って食糧庫が底を尽きかけているそうじゃないか。使用人の給金も遅配気味だと」 神官たちの肩が、ビクリと震えた。 貴族は身を乗り出し、サラの切れ長の瞳、薄紫の髪、そしてその整った顔をまっすぐに見つめた。「そこでだ、火の柱殿。私から合理的な提案がある。私に嫁ぎ、庇護下に入らないか。もちろん、悪いようにはしない」「……何?」「神殿への一切の干渉を取り下げ、十分な資金援助を約束しよう。そうだな、今の予算の三倍は出そうじゃないか」 ざわっ、と。 背後に控えていた神官たちの中で、明らかに空気が揺れた。 貴族の言葉は続く。「その金があれば、孤児たちに毎日肉の入った温かい麦粥を食わせてやれる。毛布も新しいものを揃えられる。職員たちの給金も倍にしよう。休息も取れる。……君の言う『すべての命を救う』という崇高な理想は、金がないと維持できない」 暴力ではない。純然たる、圧倒的に魅力的で合理的な価値の提示。「君ほど慈悲深い人なら、この提案が最善だと分かるだろう」 街行く男を振り向かせ、頬を赤らめさせるほど均整のとれたサラの全身を、貴族は値踏みするように眺める。 サラは眉を寄せ、静かに口を開こうとした。「我は、身を売ってまで――」「サラ様」 背後から、ひどく掠れた声がそれを遮った。 振り返ると、若い神官が、震える両手で自身の衣服を握りしめていた。「……もし、本当にそれだけの予算が下りるなら……」「おい、何を言っているんだ!?」 別の神官が咎める。だが、若い神官の瞳からは涙がこぼれ落ちた。「だって……もう限界なん
『火の柱』の就任から、わずか三週間。 火の神殿は、早くも深刻な機能不全の危機に陥っていた。「あれぇ? サラさまはぁ? お留守ぅ?」「こら! 廊下を走らないで、転ぶぞ!」「あははは! 待てー!」「うわぁっ、ちょっと待って! そこの毛布の山には怪我をした鹿が寝ているんだ、踏まないでくれ!」 厳かなはずの神殿の回廊を、十数人の孤児たちが笑い声を上げて駆け抜けていく。 中庭や空き部屋には、羽の折れた鳥や、脚を引きずる猪、迷子の犬猫が所狭しとひしめき合い、さながら巨大な治療所のような有様であった。「毛布が足りません!」「薬草も底をつきそうです!」 悲鳴を上げる神官たちの中、長めの前髪を掻き上げた一人の書記官の青年が、抱えきれないほどの毛布と薬草を持って走り回っている。 彼は手元の帳簿をめくりながら、目まぐるしく指示を飛ばしていた。「戻ったぞ」 重い扉が開き、薄紫色の髪を揺らしてサラが帰還した。 待ちわびたとばかりに子供たちは飛びつき、あっという間にサラの周りには人垣ができあがる。「サラさま、おかえりなさーい!」「ああ、ただいま。よい子にしておったか?」「サラさまぁ、今日もご飯ある?」「おお、あるぞあるぞ! たぁんと食え」 いつもと変わらぬ、穏やかな顔。 だが、青年や神官たちは彼女の腕の中を見て、一斉に顔を引きつらせた。「サ、サラ様……? その右腕に抱えられているのは……?」「うむ。西の森で手負いになっておったのでな」 サラの右腕には、鋭い牙と鱗を持つ、明らかに敵対的な魔物――火トカゲの幼体がぐったりと抱えられていた。「ま、魔物の子ではないですか!? 結界内に持ち込むなんて……!」「左腕の犬も……それ、隣領の貴族様が血眼になって探していた純血種の猟犬では!? 首輪がついておりますよ!」「道端で震えておったのだ。見捨てるわけにはいかんだろう」「窃盗になります!」 頭を抱える職員たちをよそに、サラは真顔で首を傾げ、頭上の狼耳をぴくりと揺らした。「なぜ騒ぐ。これも命だ。等しく尊いものに、人間も魔物も、貴族の所有物もなかろう」「い、いや、そういう問題ではなく……!」「命に優先順位はない」 凛とした、微塵の迷いもない声だった。 平然と言い放つサラに、神官たちが絶句した、その時だった――「……南の空き部屋、使っていない
――静寂。 晩秋の涼やかな風が、真新しい石造りの神殿を吹き抜けていく。 ダイタニアの世界を支える四つの属性を司る神殿。 その一つ、『火の神殿』の最奥にて、一人の女性が静かに跪いていた。 薄紫色の長い髪が、床に広がる。 緩急ある長身を包むのは、異界の『着物』を模したしなやかな和装。 頭上にはピンと立つ狼の耳、そして背後には豊かな尻尾が静かに横たわっている。 目の上に引かれた朱のアイラインが、切れ長の涼やかな瞳に、凛とした武士のような威厳を与えていた。 不意に、彼女の頭上から、機械的でありながらどこか慈愛を含んだ不思議な声が響き渡る。『火が司るは“破壊”と“再生”――故に、命の重さと尊さを知る者でないと、“柱”の役目は任せられない』 姿なき世界の管理者、《天照》。 その声を受け、サラは深く頭を垂れた。『本日より、あなたを初代『火の柱』に任命するわ』「……初代」『ええ』「我は、前例のない役職に就くということだな」『簡単に言えばそうね』「簡単に言うでない」 厳かな儀式の場であるはずなのだが、サラの頭上の獣耳が「ぴくっ」と微かな疑問符を描いて傾いた。『ちなみに、仕事量は多いわ』「ほう」 サラは涼しい顔を崩さなかった。 かつて己の命を賭して戦ったこともある身だ。少々の荒事など恐れるに足らない。『民の相談』「うむ」『他神殿との調整』「うむ」『祭事への出席』「うむ」『魔物討伐』「うむ!」 ここまでは想定の範囲内だ。 戦力であり、宗教的象徴でもある以上、当然の務めと言えよう。 サラの背後で、尻尾が誇らしげに揺れる。『孤児の保護』「……うむ?」 福祉事業。 少し毛色が違う気もするが、命を尊ぶ彼女にとってはむしろ望むところでもある。 尻尾の揺れが、少しだけゆっくりになった。『税務確認』「……待たれよ」『貴族対応』「待たれよ」『予算編成』「待たれよ!」 行政と事務作業の多重層。 冷静を貫くサラの顔面は微塵も動いていないが、背後の尻尾は完全に動きを止め、頭上の獣耳は「へにょん」と情けなく垂れ下がっていた。『じゃあ、この羊皮紙に署名を頂戴』「待たれよ!!」 静寂の神殿に、初代火の柱の切実な声が響き渡る。「……話が違うではないか! 我は剣