LOGIN冷たく澄んだ風が、カサリと乾いた落ち葉を中庭の石畳の上で転がしていく。
「サラ様、ウシオさん! いってきます!」 神殿の正門。年長の孤児たちが、自分よりも少し大きな麻袋を背負い、誇らしげな顔で振り返った。 今日から彼らは、街の鍛冶工房や機織り工房へ、住み込みの見習いとして旅立つ。 新しい運営体制の一環とはいえ、それは彼らが自らの足で世界を歩き始める、確かな第一歩だった。 和装風の神官服に身を包んだサラは、彼らの目の前で静かに膝をつき、その小さな頭を優しく撫でた。「……しっかり学ぶのだぞ。だが、もし辛くなったら、いつでも顔を見せに来い」「うん!」「親方には、よく頼んで手紙を渡してある。お前たちなら大丈夫だ」 隣に立つウシオも、少し猫背の姿勢を屈め、彼らの荷物の紐を直してやりながら穏やかに笑った。<夜の帳が下りた執務室に、香ばしく出汁の効いた甘やかな匂いが漂っていた。 いつもならウシオが淹れる茶の湯気が立つだけの文机に、今は塗りものの重箱と、湯気を立てる器が所狭しと並べられている。 「……サラ様。これは一体」 ウシオは目の前に広がる料理を前に、目を丸くしていた。 艶やかに煮付けられた根菜と肉、焼き魚、白飯に汁物。 どれも見慣れた料理だったが、どれも妙に丁寧に作られていた。 「何、おぬしには日頃、茶の世話やら何やらで余計な苦労をかけているからな。たまには我から労いを、と考えてな」 サラは満足そうに瞳を細め、神官服の袖を整えて着座した。 『火の柱』であるサラは、火加減の見極めだけなら神殿でも右に出る者はいない。 普段から孤児院の炊き出しで大鍋を仕切ることもあり、料理の腕前は神殿内でも密かに知られていた。 「さあ、遠慮はいらん。冷めぬうちに食すがいい」 「……では、いただきます」 ウシオは恐る恐る箸を伸ばし、煮物をひとくち口に運んだ。 静寂。 噛みしめた瞬間、出汁の深い旨味と素材の甘みが口いっぱいに広がる。 柔らかすぎず、硬すぎず、芯まで丁寧に火が通っている。 ウシオの手が、ぴたりと止まった。 「……サラ様」 「む、なんだ」 「……美味すぎます」 「そうか」 サラは澄ました顔で湯呑みに手を伸ばした。 しかし、薄紫色の髪から覗く狼耳の先が、ぴくりと跳ねる。 ウシオは夢中で箸を動かした。 魚の身をほぐして口に運び、白飯をかき込む。汁物を啜るたびに、体の中から温かな安らぎが広がっていくようだった。
神殿の業務が拡大するにつれ、さすがのウシオも手一杯になりつつあった。 そこで新たに、筆の立つ若い書記官が一人、補佐として配属されることとなった。 新任の青年は驚くほど優秀だった。 「ウシオさん、台帳の数字の照合、すべて終わらせておきました。こちらの控えも俺が回しておきます」 「……助かるよ。本当に手際がいいな」 整然と片付いていく執務机を前に、サラも最初は満足そうに狼耳を揺らしていた。 「うむ。これでウシオの負担も減るというもの。おぬしが倒れては元も子もないからな」 「はい。おかげで随分と楽になりました」 これで万事解決――のはずだった。 数日後。 サラは手に持った書状を抱え、ウシオの机へ歩み寄った。 「ウシオ。この先月の資材購入の件なのだが――」 「あ、それなら新人の彼に引き継いであります。もう確認も済んでいますよ」 「…………」 「サラ様?」 サラは無言のまま、手に持った紙を見つめた。 薄紫色の髪から伸びる狼耳が、不自然なほど静かに、へにゃりと力なく伏せられる。 「……いや。何でもない」 すっと背を向け、己の机へ戻っていく上司の背中に、ウシオは首を傾げた。 昼下がり。 ウシオが資料室へ席を外した際、新人の青年がサラの机へお茶を運んできた。 「柱様、温かいお茶が入りました」 「……うむ。苦労かけさせるな」 受け取った湯呑みを眺めながら、サラはぽつりと呟いた。 「……おぬしは、実に優秀だな」 「ありがとうございます! ウシオさんの足元にも及びません
神殿の奥深くに置かれた古い保管庫には、あの混乱の渦中に作成された、半ば破れかけた台帳が静かに眠っている。 墨の掠れたその頁には、名もなき記号のような記載が並んでいた。 『雑役・三十代男性・死亡』 『身元不明・幼子・死亡』 かつてサラが「誰も見捨てない」と叫び、限界を超えて傷病者や孤児を抱え込み、そして破綻した、あの時期の記録である。 その日、神殿の勝手口に一人の若い女が訪ねてきていた。 擦り切れた作業着を身に纏った彼女は、ウシオから手渡された小さな桐の箱を、愛おしそうに両手で受け取った。 箱の中には、歯が二本欠けた古びた木櫛が入っている。 「……残っていたのは、これだけでした」 ウシオが静かに頭を下げる。 女は首を振り、弱々しく、けれどあたたかな微笑みを浮かべた。 「いいえ、ありがとうございます。兄が神殿のお世話になっていたと聞き、ずっと気になっていて……これ一つでも手元に戻って、本当によかった」 立ち会っていたサラは、胸の奥が不規則に痛むのを覚えていた。 彼女の兄――台帳に『雑役・三十代男性』とだけ記されていた男。 サラが、救えなかった命の一つだ。 「……すまぬ」 サラは目を伏せ、絞り出すように言葉を零した。 「我が力、及ばぬばかりに。おぬしの兄を……救ってやれなかった」 贖罪の言葉。 しかし、若い女は驚いたように目を丸くし、それからふっと目元を和らげた。 「そんな、サラ様が謝られることではありません。……あの人、最後まで笑っていたんですよ」 「……笑って、いた?」 「はい。昔から不器用な奴でしてね。大工の弟子に入っても小言ばかり言われて、朝は寝坊してばかりで。
早朝の神殿は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。 ただ一つ違っていたのは、執務室の入口に立つ影が一つ少ないことだけだった。 数ヶ月前から調整していた故郷への用立てのため、ウシオは一日だけ神殿を離れていた。 かつてなら、ウシオが半日席を外すだけで書類は溢れ、神殿はたちまち混乱に陥っていた。だが、いまの神殿は違う。 分担された業務は各部署の神官たちによって整然と処理され、配分の滞りもない。 サラ自身の机の上にも、精選された必要な文書だけが整然と並んでいる。 サラは目を落とし、迷いのない手つきで花押を記していった。 一人でも、何の問題もなく公務は進む。 神殿は滞りなく回り、誰一人として困ってはいない。 二人で苦密を重ねて作り上げた「皆で支える神殿」が、正しく機能している何よりの証拠だった。 陽が傾き、執務室の畳に茜色の斜光が長く伸びる頃。 サラは本日最後となる文書に目を通し、筆を洗った。 カサ、と紙を重ねる乾いた音が響き、静寂が部屋の隅々にまで行き渡る。 何ひとつ不備はない。滞りもない。 完璧な一日の終わりだった。 けれど、サラは無意識のうちに、隣の机へ視線を滑らせていた。 整頓されたままの硯。誰も座っていない文机。 静かに墨を磨る微かな音も、控えめな呼吸の気配もない。 サラは静かに息を吐き、誰にともなく呟いた。 「……今日は静かだな」 お茶を差し出しに来た控の神官が、ふっと表情を緩めて応える。 「ウシオさんがおられないからでしょうか」 「……そうかもしれぬ」 サラは湯呑みに手を添え、静かに目を伏せた。
神殿の財政が持ち直し、街に穏やかな活気が戻り始めた頃。 執務室の机には、普段とは質の異なる、香を焚き染めた上質な文が数通届いていた。 「――で、あるからして、隣領の有力な貴族家より『火の柱様をぜひ正室に』との打診が来ておりまして……」 使いの神官が恐縮しながら述べ立てる言葉を、サラは手元も見ずに一蹴した。 「断れ。我にそのような暇はない」 「で、ですがサラ様、お立場というものもございます。良家と縁を結べば神殿の威信も高まり、将来的な庇護も――」 「断れと言っておる。二度と言わせるな」 一切の余地を与えない冷ややかな声に、神官は「は、ははっ」と小さく首をすくめ、文を残したまま退室していった。 静かになった執務室で、サラは積み重なった文の山を片隅へ押しやる。 「……まったく。公務だけでも手一杯だというのに、余計なものを持ち込みおって」 その隣で、墨を磨っていたウシオが手を止めた。 「まあ……サラ様も、そろそろ将来を考えても良い時期なのでは」 ピク。 薄紫色の髪から覗く狼耳が、不自然なほどまっすぐに跳ね上がった。 サラはゆっくりと首を巡らせる。 「……ほう?」 「……いえ、あくまで世間一般の話としてですが」 前髪の奥の視線が、わずかに泳ぐ。 「サラ様ほどの立場とご容姿があれば、いずれは伴侶を得て、静かに暮らす未来があっても不思議ではないと……」 「静かに暮らす?」 サラは怪訝そうに眉を寄せた。 「我がか?」 「……はい」 「おぬしは我を、縁談一つで大人しく家庭に収まるような女だと思っておるのか?」 「思って
神殿に夕闇が迫る頃、ウシオは小さな畳まれた子供服の山を抱え、奥にある湯殿の廊下を歩いていた。 普段ならこの時間の入浴は女官たちが付き添うのだが、今日は夕方の会議が早く終わったため、ウシオが自ら着替えの準備を引き受けたのだ。 水気が多く滑りやすい廊下に気をつかいながら、彼は何気なく引き戸へ手をかけた。 ガラガラ、と木戸を開ける。 途端に、室内から温かい白湯の湯気がぶわっと溢れ出した。 「ウシオさん、遅いよー!」 湯船から無邪気な子供の声が跳ねる。 だが、ウシオの視線は、その手前――木桶と湯手ぬぐいが置かれた洗い場で、ピタリと固まった。 そこにいたのは、薄紫色の髪を上に束ね、湯に濡れた肌を露わにしたサラだった。 そのサラの姿に、ウシオの視線が凍りつく。 サラも子供の頭を優しく撫でていた手が、戸の開く音とともに途中で止まっている。 静寂。 湯気がゆらりと揺れる中、ふたりの視線がまっ振りに交錯した。 サラは一瞬ぽかんと目を丸くし、頭の上の狼耳をパタとひと揺らしさせる。 「……ウシオ?」 「…………」 「何用か?」 「……いえ」 ガラバタン。 吸い込まれるように扉が閉まり、激しい音が浴場内に響き渡った。 「えー? ウシオさん、なんで出てっちゃうのー?」 浴場の中で首を傾げる子供たちの声を背に受けて、ウシオは廊下の壁にどんと額を押し付けていた。 全身の血が頭に上り、耳の先まで耳鳴りがするほど熱い。前髪の隙間から見える床の一点を見つめたまま、ウシオは石のように完全停止していた。 半刻後。







