LOGIN「ウシオさん。南区の支援申請、また増えてしまって……これ、どう調整しましょう」
「ああ、ここに置いておいてください。あとで俺が見ておきます」 「すみません。ウシオさんなら、大丈夫ですよね」 「はは。まあ……」 執務室の片隅で交わされる、いつものやり取り。 神殿の裏方を一人で背負う彼は、誰もが頼る『何でも背負ってくれる頼もしい人』だった。 彼に任せておけば、神殿は回る。 誰もがそう思い込み、当然のように彼に寄りかかっていた。 サラもまた、その中の一人だった。 「……ウシオ。少し、顔色が悪いぞ」 昼下がり、山積みの書類から顔を上げた彼にサラが声をかける。目の下には濃い隈が落ち、頬はあきらかにこけていた。 だが、長い前髪の下からウシオはいつものように少し困ったような笑顔を貼り付ける。 「大丈夫です。少し寝不足なだけで」 「……」 「それに、まだ終わっていない仕事があるので」 笑って、彼は再び羽ペンを握る。 サラは狼の耳を微かに伏せながらも、その笑顔を前にすると、それ以上踏み込むことができなかった。 その日の夕暮れ。 サラは、西の教区から届いた急報を手に執務室に戻ってきた。 「ウシオ。西の村で大規模な土砂崩れが起きた。冬越しの備蓄の半分を直ちに支援に回し、我も救護に向かう。数日は戻れぬゆえ、後のことは——」 「……どうしてですか」 静かな、けれどひどく冷たい声が、サラの言葉を遮った。 羽ペンを止めたウシオが、ゆっくりと顔を上げる。 その瞳は、いつもの穏やかなものではなく、限界まで張り詰めたガラスのように危うく揺れていた。 「ウシオ?」 「備蓄を半分も回せば、ここで保護している子供たちや動物たちが冬を越せなくなります。サラ様が数日不在になれば、残された結界の維持もままならない。……それは、分かっていますよね?」 「……分かっておる」 サラは静かに頷いた。 「だが、あちらにも今すぐ救うべき命がある。我らの食事をさらに削れば、少しは保つだろう」 「……そうですよね」 ウシオは俯いた。 「サラ様なら、そう言うと思いました」 「ウシオ?」 「備蓄の再計算をします。西の村へ回せる分も考えます。神官たちの配置も組み直します」 「……」 「だから、せめて――」 羽ペンを握る指先が、小さく震えた。 「せめてサラ様だけでも、休んでください」 「我は柱だ」 「……」 「ここで休むわけにはいかぬ」 「……そうですか」 ウシオは震える手で羽ペンを置いた。 「……どうしてですか――」 そして、うつむいたまま、両の拳を強く握り込んだ。 「どうして……全部抱え込もうとするんですか!」 不意に張り上げられた声に、サラは目を見開いた。 ウシオがガタッと音を立てて立ち上がる。 その異様な気迫に、執務室にいた他の神官たちも凍りついたように動きを止めた。 「サラ様は昨夜も一睡もせず、魔物の保護区の修繕をしていましたよね。食事も、自分の分を子供たちに分け与えてばかりだ。……そんな体で、数日も不眠不休の救護活動なんて、できるわけがない!」 「……我は、柱なのでな」 「だから! なぜもっと早く限界だと言わないんですか!」 初めて向けられた、彼の激しい怒声。 あまりのことに硬直したサラは、無意識のうちに反論を口にしていた。 「……おぬしこそ――」 「え?」 「おぬしこそ、限界ならばなぜ言わぬ! 我にどうしろと言うのだ! 目の前で助けを求める者を、見捨てよと!?」 サラの顔にはいつもの流麗さなど微塵もなく、ただ苦悶に歪んでいた。 「我には、それができぬ! できぬのだ……!」 その言葉に、ウシオはひどく悲痛な顔で笑った。 「……何度も言おうと思ったんです。でも、そのたびにサラ様は誰かを助けていて……。だから俺の方が我慢すればいいって……俺が頑張れば、なんとかなるって……」 胸を鋭い刃で抉られたような衝撃に、サラは息を呑んだ。 「サラ様は……誰のことも見捨てない……でも――」 ウシオは両手で机の端を強く握りしめ、震える声で叫んだ。 「自分を見捨ててるじゃないですか!」 「ウシオ……」 「俺たちのことも……!」 「……っ!」 「俺は……」 「あなたが壊れるところなんて……見たくないんです」 執務室が静まり返った。 誰も、何も言えなかった。 「……ウシオ?」 ウシオは何かを言いかけるように唇を動かした。 「あ……」 その声は最後まで形にならない。 ぐらり、と―― 「ウシオッ!」 机に突っ伏し、そのまま糸が切れたように床へと倒れ伏す。 サラが駆け寄って抱き起こすが、彼はすでに完全に意識を失っていた。燃えるような高熱が、彼の体を支配している。 怪我をした動物の気配には、誰よりも早く気づける。 孤児の微かな泣き声も、すぐに拾い上げることができる。 命に優劣はないと、そう言い切っていたはずだった。 なのに―― 一番近くで、必死に自分を支えてくれていた命の悲鳴にだけは、今の今まで気づけなかったのだ。 (ああ……) 『ウシオさんなら大丈夫』 自分もまた、他の者たちと同じように、彼を『限界を知らない頼もしい存在』という便利な役割に押し込めていたのだと、サラは初めて思い知った。 夜の静寂が降りた南の部屋。 ベッドで苦しげな呼吸を繰り返すウシオの傍らで、サラはただ一人、彼の熱い手を両手で握りしめていた。 「我は、誰よりも命を尊いと言いながら……」 静かな部屋に、掠れた声が落ちる。 「……一番近くにおった、おぬしの苦しみに、気づいてやれなかった」 彼が笑って「俺がやります」と言うたびに、それに甘えていた。 彼の笑顔の裏でどれほどの血が滲んでいたのかを、見ようとしなかった。 彼が自分の理想を守るために、己の命を削ってくれていたことに、気づいてやれなかったのだ。 「……すまぬ」 サラの切れ長の瞳から、熱い雫がこぼれ落ちる。 自らの手で拾い上げた小さな命たちを護るため、気高く振る舞ってきた最初の『火の柱』。 狼の耳を伏せ、尾を震わせながら、サラはただ彼の手を握り続けた。 「……どうか……」 彼の手を自身の額に押し当て、サラは祈るように震える声を絞り出す。 「どうか……目を覚ましてくれ、ウシオ……」 返事はなかった。 熱に浮かされた寝息だけが、静かな部屋に、そしてサラの良心に響いていた。「……ん? いま何と言った、ウシオ」 早朝の執務室。 いつもなら書類で埋め尽くされているはずの机に、一冊の書類もない。サラは呆然と狼耳をピコピコと動かした。 向かい側で筆を整えていた書記官のウシオは、銀色の前髪の奥から眠たげな目を向け、静かに告げる。 「ですから、本日はサラ様の『完全休養日』です。神殿の運営も落ち着き、予算も人員の配置も当面は滞りありません。神官たちの話し合いを経て、本日一日の公務免除が決まりました」 「きゅ、休養日……?」 サラは朱を引いた端麗な目を丸くし、薄紫色の髪から伸びる耳をぴんと立たせた。着物の袖を整え、思案するように腕を組む。 「休むとは……具体的に何をすればよいのだ? どの文書に花押を記せば『休日』が始まる?」 「……提出する書類はありません。ただ、何もしなくていいんです」 「なにも……せぬ?」 サラの表情が固まった。尻尾が不穏にゆらゆらと揺れ始める。 「な、何もしないなどということがあってたまるか! それでは時間が余ってしまうではないか! 息をしているだけで日が暮れてしまったらどうするのだ」 「それが『休む』ということです。部屋で横になるなり、お茶を飲むなり、敷地内を散歩でもしてきてください」 ウシオは小さく息をつき、手元に残った過去の記録帳を開いた。 「俺は溜まっている古い台帳の整理をしますので。どうぞご自由に」 ――それが、小さな混乱の始まりだった。 一時間後。 ウシオが過去の記録をめくっていると、執務室の扉がひっそりと開いた。 覗き込んできたのは、神官服の袖を襷で綺麗に結び直したサラだった。 「ウシオ。裏庭の薪割りと、井戸端の清掃を終えてきたぞ」
長く厳しかった冬が、ようやく終わりを告げようとしていた。 屋根に残っていた雪が溶け、ポタポタと春の訪れを告げる音を立てている。 「……どうやら、口出まかせではなかったようだな」 分厚い帳簿から顔を上げた貴族は、鋭い視線をウシオからサラへと移した。 予告通りに行われた冬明け一度目の厳格な監査。 だが、その結果は彼らの予想を上回るほど堅実なものだった。 「近隣からの苦情もない。里親制度も機能しているようだし、何より……」 貴族は窓の外を見た。 中庭では、街の工房へ見習いに出ていた孤児たちが、春の休みに合わせて里帰りのように神殿を訪れ、残っていた子供たちと元気に駆け回っている。 誰も飢えていない。 誰も凍えていない。 痛みを伴う選択を乗り越え、彼らは自らの足でこの厳しい冬を見事に生き抜いたのだ。 「次の監査は半年後だ。……せいぜい、気を抜かぬことだな」 貴族は帳簿を突き返すと、ほんの僅かに、統治者としての安堵の笑みを浮かべて神殿を後にした。 「……終わりましたね」「うむ。おぬしのおかげだ、ウシオ」「いえ、皆が踏ん張ったからです。さ、街から帰ってきた子たちの相手をしてあげてください。俺は夕食費の計算をしておきますから」「ああ。買い出しの備忘録は、あとで机に置いておく」「分かりました」 以前のように「我がすべて背負う」と意気込む柱はもういない。 サラが自然な呼吸で実務を任せ、ウシオがそれを完璧に支える。 二人の間には、冬を越える間に培われた、見えないけれど強固な相棒としての信頼が完成していた。
冷たく澄んだ風が、カサリと乾いた落ち葉を中庭の石畳の上で転がしていく。 「サラ様、ウシオさん! いってきます!」 神殿の正門。年長の孤児たちが、自分よりも少し大きな麻袋を背負い、誇らしげな顔で振り返った。 今日から彼らは、街の鍛冶工房や機織り工房へ、住み込みの見習いとして旅立つ。 新しい運営体制の一環とはいえ、それは彼らが自らの足で世界を歩き始める、確かな第一歩だった。 和装風の神官服に身を包んだサラは、彼らの目の前で静かに膝をつき、その小さな頭を優しく撫でた。 「……しっかり学ぶのだぞ。だが、もし辛くなったら、いつでも顔を見せに来い」「うん!」「親方には、よく頼んで手紙を渡してある。お前たちなら大丈夫だ」 隣に立つウシオも、少し猫背の姿勢を屈め、彼らの荷物の紐を直してやりながら穏やかに笑った。 子供たちが元気に手を振りながら、街へと続く坂道を下っていく。 サラとウシオは、その背中が小さくなるまで並んで見送った。 午後には、北の霊山へ還る魔物たちの檻も、業者の荷馬車に乗せられて出発していった。 子供たちが減り、動物たちの鳴き声も少なくなった神殿は、以前よりも確かに静かだった。 だが、すれ違う神官たちや残された子供たちの顔に、以前のようなすり減るような悲壮感はない。 皆が己の役割を持ち、無理のない範囲で、この場所を明日へ繋ぐために笑い合っている。 それが、彼ら全員で出した「現実の答え」だった。 昼下がりの執務室。 サラは机に向かい、教区からの報告書に目を通していた。 「……この薬草の配分だが、少し南区へ多く回した方がよいな。ウシオ、明
黒金の鎧の列が遠ざかり、火の神殿に静寂が戻った。 割れた窓ガラスから冷たい秋風が吹き込む執務室。 ウシオは机に向かい、山積みの羊皮紙に素早く羽ペンを走らせていた。 「……ウシオ。まだ休まぬのか。熱は下がったとはいえ、無茶が過ぎる」 瓦礫の片付けを終えたサラが、呆れたように声をかける。 「平気ですよ。あの人に『一年』と約束してしまったでしょう?」 ウシオは手を止めず、ふっと笑った。 「神殿の規模の縮小。成獣に近い魔物の、北の霊山への移送手配。自立可能な年齢の孤児たちを街の工房へ見習いとして斡旋する手続き……そして、幼い子たちの里親制度の構築」 ウシオは書き上げたばかりの羊皮紙を、サラへ向けてそっと差し出した。 「……たぶん、回せます」「たぶん?」「正直、分かりません。でも今ある人員と予算で計算したら、一番長く持つ形がこれでした。近隣の商人から寄付を募る仕組みも整えれば、あの厄介な貴族の監査も何とか越えられるはずです」 それは、泥に塗れながらもこの場所を明日へ繋ぐための、地に足のついた現実的な計画だった。 サラは羊皮紙を受け取り、そこに並ぶ文字を静かに目で追う。 やがて、狼の耳を力なく伏せ、ポツリとこぼした。 「……これは、我があの時……命を切り捨てるために下した指示ではないか」 兵団が来る直前。すべてを救うことはできないと悟り、血を吐く思いで下した決断。 「おぬしは、我の冷酷な案を……」「これは俺が倒れる前から少しずつ考えていた案でもあります。それに、切り捨てるためじゃありません」 ウシオは静かに、けれど強く否定した。
紅蓮の渦が、黒金の鎧を纏った兵士たちを容赦なく押し返していく。 一切の武具を持たぬ一人の女性から放たれる熱量は、それ自体が圧倒的な暴力だった。 馬上の貴族が顔を引き攣らせ、兵士たちが熱波に悲鳴を上げて後ずさる。 彼女は優勢だった。誰も彼女を止められない。 だが、その強大すぎる力は、前方だけでなく背後へも等しく牙を剥いていた。 『パリーンッ!!』 限界を超えた熱に耐えきれず、神殿の窓ガラスが次々と砕け散る。 吹き込む熱風に子供たちが泣き叫び、保護されていた動物たちが混乱して逃げ惑い始めた。 サラは、息を呑んだ。 敵を焼き払うことはできる。 だが、それでは背後にあるすべてが灰になる。 自分が振るう力が、一番守りたかった者たちを傷つけている。 「……我は、守りたいだけなのだ」 迷いが生じ、分厚い炎の壁が大きく揺らいだ。 振り返ったサラの目に映ったのは、自分の力に怯え、蹲る者たちの姿。 だが、同時に気づくことがあった。 窓ガラスが割れ、混乱が走る中でも、誰一人として神殿の奥へ逃げ出そうとはしていないのだ。 この数日間、彼女は一人で絶望と戦っているつもりだった。 しかし脳裏に浮かぶのは、自分が奔走する傍らでの彼らの姿。 真っ赤な目を擦りながら、夜通し薬草の調合を続けていた若い神官。 腰の痛みを堪え、不安がる孤児たちにずっと昔話を読み聞かせていた年配の神官。 そして、その子供たち自身もまた、小さな手で薪を運び、冷たい水で布を洗い、懸命に炊き出しを手伝っていた。
南の部屋に差し込む朝の光が、眠る青年の横顔を静かに照らしていた。 サラはベッドの傍らに座り、彼の手の甲にそっと自らの手を重ねた。 燃えるような高熱は引き、荒かった呼吸も今は規則的で穏やかなものへと変わっている。 「……熱が、下がってきたな」 ぽつりとこぼしたサラの声に、わずかな安堵が滲む。 彼が回復に向かっている。その事実だけが、今の彼女にとって唯一の救いだった。 だが、彼が目を覚ますのをゆっくりと待っている猶予は、今の神殿には残されていない。 サラは眠る青年の額にそっと手を添えた。 「……すまぬ。今は、我が守る。だから、もう少しだけ休んでおれ」 サラは瞳を伏せ、ゆっくりと立ち上がる。 「……目覚めた時には、ちゃんと帰ってこよう」 狼の耳を伏せ、小さくそう呟くと、彼女は静かに部屋を後にした。 灰色の雲が広がり始めた昼下がり。 重苦しい沈黙が支配する執務室で、サラの低く掠れた声が響いた。 「……西の森の魔物たちは、明日、北の霊山へ移送する。子供たちのうち、年長者には街の工房へ事情を話し、受け入れを頼んでくれ」 神官たちは暗い顔で頷き、羊皮紙に書き留めていく。 すべてを救うことはできない。 彼が身を削って繋ぎ止めていた理想は限界を迎えた。 残された命を明日へ繋ぐため、血を吐くような思いで『切り捨てる順番』を決めていく。 その時だった。 『ザッ、ザッ、ザッ、ザッ――』 神殿







