เข้าสู่ระบบウシオが倒れてから、二日が経った。
火の神殿は、泥沼のような混乱の渦中にあった。 指示を出す者がいないことで、備蓄の配分は滞った。 「薬草がありません! 熱が下がらないんです!」 「こっちは麦が足りません! 今日の夕食はどうするんですか!?」 「待って、あの子を止めて! 南の部屋の魔物が――!」 泣き叫ぶ孤児の声。 怯えて暴れる火トカゲの幼体。 疲弊した神官たちの怒声。 誰も悪くないはずなのに、誰もが余裕を失い始めていた。 「……もう、無理だ……」 誰かの掠れた呟きが、騒音の中に溶けて消えた。 サラは不眠不休で魔物を宥め、子供たちを抱きしめ、底を見せ始めた麦の計算をしようとしていた。 だが、羊皮紙に並ぶ無機質な数字は、彼女の慈愛を容易く跳ね返す。 そんな限界を迎えた神殿の玄関に、冷たく重い靴音が響いた。 「……随分と、凄惨な有様だな」 豪奢な外套を羽織った隣領の貴族が、数名の従者を連れて立っていた。 以前のような余裕を含んだ笑みはない。冷酷に弱った獲物の喉首を狙う、狩人の目だった。 「聞いたぞ。有能な書記官が倒れたそうだな。柱殿も、立っているのがやっとのように見えるが」 「……何用だ。今は、来客の相手をしている暇は――」 「神殿への『保護施設』としての認可を、取り消す手続きに入らせてもらった」 サラの言葉を遮り、貴族は一枚の羊皮紙を突きつけた。 「神殿はあくまで宗教を司る場所だ。勝手に魔物や孤児を際限なく囲い込む権限などない。それに、衛生面での問題や、夜鳴きによる近隣住民からの苦情も、すでに我慢の限界を超えている」 突きつけられたのは、反論の余地もない『正論』だった。 「これ以上、街の安寧を脅かすというのであれば、領主として兵を動かし、施設を解体せざるを得ない」 貴族が傍らに従えた兵士を横目で見やる。 「弱者を救うというのは結構だ。だがな、それは余裕のある者の道楽でもある」 貴族は肩を竦めた。 「採算の取れぬ善意は、いずれ周囲を巻き込んで沈む。ならば最初から、救う相手を選ぶべきだ」 「……」 「それが統治というものだよ。火の柱殿」 サラは唇を噛み締めた。 彼の言う通りだ。 命を救いたいという己の理想だけで突っ走った結果が、この崩壊寸前の現状なのだから。 「今ならまだ、私の提案を受け入れる余地は残してある。私が後ろ盾となれば、認可の問題も資金も、すべて丸く収まるぞ」 貴族が去った後、冷たい風が吹き抜ける回廊には、重苦しい沈黙だけが残された。 「……サラ様」 ふらつく足取りで歩み寄ってきた若い神官が、血走った目で懇願するように口を開いた。 「もう、限界です……。怪我人の手当ても、子供たちの食事の準備も……これ以上は、私たちが倒れてしまいます……」 そのひどく切実な声が、サラの胸を刃のように貫いた。 (我の理想は……本当に、誰も救っていなかったのか――) 命に優劣はない。すべてを救いたい。 その願いが、一人の青年を倒れさせ、神官たちをすり減らし、結果的に子供たちや動物たちをも路頭に迷わせようとしている。 強固なはずの信念が、現実の重圧に耐えきれず、今まさに音を立てて砕け散ろうとしていた。 気づけば、サラの足は執務室へと向かっていた。 主のいない、静かな部屋。 彼が座っていた机の上には、未処理の書類が乱雑に積まれ、インクの乾いた羽ペンが置きっぱなしになっている。 いつも、ここで猫背になりながら帳簿と睨み合っていた銀髪の青年の姿が脳裏をよぎる。 『全部を救うのは無理です』 『だから……順番を、変えます』 かつて彼が、困ったように笑いながら言っていた言葉。 「……ずるいではないか」 誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。 「そんな大切なことを……なぜ、もっと早く我に言わなんだ」 返事はない。 執務室には、インクの乾いた羽ペンだけが残されていた。 あの時は、ただ「そうか」と聞き流してしまっていた。 だが、今なら痛いほど分かる。 彼は、サラの綺麗事を叶えるために、削れるはずのない命の『順番』を、己の睡眠や食事を犠牲にして強引に組み替えてくれていたのだ。 「……おぬしは、どうしておったのだ? 我は……何を見ていた――こんなにも、近くにおったというのに」 ぽつりと零れた呟きは、静かな部屋に吸い込まれていった。 すべてを救おうとすれば、すべてが共倒れになる―― サラはゆっくりと、執務室の入り口に集まってきた神官たちを振り返った。 彼らもまた、柱である彼女の決定を、すがるような目で待っている。 威厳ある決断を下さなければならない。彼らを導く、絶対的な存在として。 だが―― 「……我には」 ひび割れた、掠れた声だった。 「……我には、分からぬ」 酷く掠れた声だった。 「命に優劣はないと、ずっとそう信じてきた。誰も見捨てたくなかった。だが……我が誰も見捨てたくなかったからこそ、おぬしたちを追い詰めたのなら……」 サラは拳を握り締めた。 「……我は、何を守っていたのだ」 静まり返った執務室で、狼の耳が力なく伏せられる。 「教えてくれ」 若い神官がおずおずと一歩前に出る。 「……食料が、足りません。子供たちの明日の食事が……っ、足りないのです」 その一言を口火に、他の神官たちからも次々と声が上がる。 「薬草も、底をつきそうです」 「動物たちの藁も欲しい……!」 「私たちにも、休息を……っ」 その声に、サラの狼の耳が真っ直ぐ、静かに、空を仰ぐ。 そんなサラの袖を引っ張る小さな手―― 「サラさまぁ、明日もご飯ある?」 子供の一人が、心配そうにサラの顔を見上げた。 その姿に周りの神官たちもどよめき立つ。 言葉に詰まる者。服の裾で涙を拭う者―― サラは震える手でその子を抱き寄せると、虚空にひとつ、息が溢れた。 「……我々は今、何を優先すべきなのだ」 それは、柱としての完全な敗北だったのかもしれない。 だが同時に、己の無力さを知り、初めて他者の声に耳を傾けようとする――彼女が、真に皆を導く者へと踏み出した、確かな『成長』の一歩でもあった。「……ん? いま何と言った、ウシオ」 早朝の執務室。 いつもなら書類で埋め尽くされているはずの机に、一冊の書類もない。サラは呆然と狼耳をピコピコと動かした。 向かい側で筆を整えていた書記官のウシオは、銀色の前髪の奥から眠たげな目を向け、静かに告げる。 「ですから、本日はサラ様の『完全休養日』です。神殿の運営も落ち着き、予算も人員の配置も当面は滞りありません。神官たちの話し合いを経て、本日一日の公務免除が決まりました」 「きゅ、休養日……?」 サラは朱を引いた端麗な目を丸くし、薄紫色の髪から伸びる耳をぴんと立たせた。着物の袖を整え、思案するように腕を組む。 「休むとは……具体的に何をすればよいのだ? どの文書に花押を記せば『休日』が始まる?」 「……提出する書類はありません。ただ、何もしなくていいんです」 「なにも……せぬ?」 サラの表情が固まった。尻尾が不穏にゆらゆらと揺れ始める。 「な、何もしないなどということがあってたまるか! それでは時間が余ってしまうではないか! 息をしているだけで日が暮れてしまったらどうするのだ」 「それが『休む』ということです。部屋で横になるなり、お茶を飲むなり、敷地内を散歩でもしてきてください」 ウシオは小さく息をつき、手元に残った過去の記録帳を開いた。 「俺は溜まっている古い台帳の整理をしますので。どうぞご自由に」 ――それが、小さな混乱の始まりだった。 一時間後。 ウシオが過去の記録をめくっていると、執務室の扉がひっそりと開いた。 覗き込んできたのは、神官服の袖を襷で綺麗に結び直したサラだった。 「ウシオ。裏庭の薪割りと、井戸端の清掃を終えてきたぞ」
長く厳しかった冬が、ようやく終わりを告げようとしていた。 屋根に残っていた雪が溶け、ポタポタと春の訪れを告げる音を立てている。 「……どうやら、口出まかせではなかったようだな」 分厚い帳簿から顔を上げた貴族は、鋭い視線をウシオからサラへと移した。 予告通りに行われた冬明け一度目の厳格な監査。 だが、その結果は彼らの予想を上回るほど堅実なものだった。 「近隣からの苦情もない。里親制度も機能しているようだし、何より……」 貴族は窓の外を見た。 中庭では、街の工房へ見習いに出ていた孤児たちが、春の休みに合わせて里帰りのように神殿を訪れ、残っていた子供たちと元気に駆け回っている。 誰も飢えていない。 誰も凍えていない。 痛みを伴う選択を乗り越え、彼らは自らの足でこの厳しい冬を見事に生き抜いたのだ。 「次の監査は半年後だ。……せいぜい、気を抜かぬことだな」 貴族は帳簿を突き返すと、ほんの僅かに、統治者としての安堵の笑みを浮かべて神殿を後にした。 「……終わりましたね」「うむ。おぬしのおかげだ、ウシオ」「いえ、皆が踏ん張ったからです。さ、街から帰ってきた子たちの相手をしてあげてください。俺は夕食費の計算をしておきますから」「ああ。買い出しの備忘録は、あとで机に置いておく」「分かりました」 以前のように「我がすべて背負う」と意気込む柱はもういない。 サラが自然な呼吸で実務を任せ、ウシオがそれを完璧に支える。 二人の間には、冬を越える間に培われた、見えないけれど強固な相棒としての信頼が完成していた。
冷たく澄んだ風が、カサリと乾いた落ち葉を中庭の石畳の上で転がしていく。 「サラ様、ウシオさん! いってきます!」 神殿の正門。年長の孤児たちが、自分よりも少し大きな麻袋を背負い、誇らしげな顔で振り返った。 今日から彼らは、街の鍛冶工房や機織り工房へ、住み込みの見習いとして旅立つ。 新しい運営体制の一環とはいえ、それは彼らが自らの足で世界を歩き始める、確かな第一歩だった。 和装風の神官服に身を包んだサラは、彼らの目の前で静かに膝をつき、その小さな頭を優しく撫でた。 「……しっかり学ぶのだぞ。だが、もし辛くなったら、いつでも顔を見せに来い」「うん!」「親方には、よく頼んで手紙を渡してある。お前たちなら大丈夫だ」 隣に立つウシオも、少し猫背の姿勢を屈め、彼らの荷物の紐を直してやりながら穏やかに笑った。 子供たちが元気に手を振りながら、街へと続く坂道を下っていく。 サラとウシオは、その背中が小さくなるまで並んで見送った。 午後には、北の霊山へ還る魔物たちの檻も、業者の荷馬車に乗せられて出発していった。 子供たちが減り、動物たちの鳴き声も少なくなった神殿は、以前よりも確かに静かだった。 だが、すれ違う神官たちや残された子供たちの顔に、以前のようなすり減るような悲壮感はない。 皆が己の役割を持ち、無理のない範囲で、この場所を明日へ繋ぐために笑い合っている。 それが、彼ら全員で出した「現実の答え」だった。 昼下がりの執務室。 サラは机に向かい、教区からの報告書に目を通していた。 「……この薬草の配分だが、少し南区へ多く回した方がよいな。ウシオ、明
黒金の鎧の列が遠ざかり、火の神殿に静寂が戻った。 割れた窓ガラスから冷たい秋風が吹き込む執務室。 ウシオは机に向かい、山積みの羊皮紙に素早く羽ペンを走らせていた。 「……ウシオ。まだ休まぬのか。熱は下がったとはいえ、無茶が過ぎる」 瓦礫の片付けを終えたサラが、呆れたように声をかける。 「平気ですよ。あの人に『一年』と約束してしまったでしょう?」 ウシオは手を止めず、ふっと笑った。 「神殿の規模の縮小。成獣に近い魔物の、北の霊山への移送手配。自立可能な年齢の孤児たちを街の工房へ見習いとして斡旋する手続き……そして、幼い子たちの里親制度の構築」 ウシオは書き上げたばかりの羊皮紙を、サラへ向けてそっと差し出した。 「……たぶん、回せます」「たぶん?」「正直、分かりません。でも今ある人員と予算で計算したら、一番長く持つ形がこれでした。近隣の商人から寄付を募る仕組みも整えれば、あの厄介な貴族の監査も何とか越えられるはずです」 それは、泥に塗れながらもこの場所を明日へ繋ぐための、地に足のついた現実的な計画だった。 サラは羊皮紙を受け取り、そこに並ぶ文字を静かに目で追う。 やがて、狼の耳を力なく伏せ、ポツリとこぼした。 「……これは、我があの時……命を切り捨てるために下した指示ではないか」 兵団が来る直前。すべてを救うことはできないと悟り、血を吐く思いで下した決断。 「おぬしは、我の冷酷な案を……」「これは俺が倒れる前から少しずつ考えていた案でもあります。それに、切り捨てるためじゃありません」 ウシオは静かに、けれど強く否定した。
紅蓮の渦が、黒金の鎧を纏った兵士たちを容赦なく押し返していく。 一切の武具を持たぬ一人の女性から放たれる熱量は、それ自体が圧倒的な暴力だった。 馬上の貴族が顔を引き攣らせ、兵士たちが熱波に悲鳴を上げて後ずさる。 彼女は優勢だった。誰も彼女を止められない。 だが、その強大すぎる力は、前方だけでなく背後へも等しく牙を剥いていた。 『パリーンッ!!』 限界を超えた熱に耐えきれず、神殿の窓ガラスが次々と砕け散る。 吹き込む熱風に子供たちが泣き叫び、保護されていた動物たちが混乱して逃げ惑い始めた。 サラは、息を呑んだ。 敵を焼き払うことはできる。 だが、それでは背後にあるすべてが灰になる。 自分が振るう力が、一番守りたかった者たちを傷つけている。 「……我は、守りたいだけなのだ」 迷いが生じ、分厚い炎の壁が大きく揺らいだ。 振り返ったサラの目に映ったのは、自分の力に怯え、蹲る者たちの姿。 だが、同時に気づくことがあった。 窓ガラスが割れ、混乱が走る中でも、誰一人として神殿の奥へ逃げ出そうとはしていないのだ。 この数日間、彼女は一人で絶望と戦っているつもりだった。 しかし脳裏に浮かぶのは、自分が奔走する傍らでの彼らの姿。 真っ赤な目を擦りながら、夜通し薬草の調合を続けていた若い神官。 腰の痛みを堪え、不安がる孤児たちにずっと昔話を読み聞かせていた年配の神官。 そして、その子供たち自身もまた、小さな手で薪を運び、冷たい水で布を洗い、懸命に炊き出しを手伝っていた。
南の部屋に差し込む朝の光が、眠る青年の横顔を静かに照らしていた。 サラはベッドの傍らに座り、彼の手の甲にそっと自らの手を重ねた。 燃えるような高熱は引き、荒かった呼吸も今は規則的で穏やかなものへと変わっている。 「……熱が、下がってきたな」 ぽつりとこぼしたサラの声に、わずかな安堵が滲む。 彼が回復に向かっている。その事実だけが、今の彼女にとって唯一の救いだった。 だが、彼が目を覚ますのをゆっくりと待っている猶予は、今の神殿には残されていない。 サラは眠る青年の額にそっと手を添えた。 「……すまぬ。今は、我が守る。だから、もう少しだけ休んでおれ」 サラは瞳を伏せ、ゆっくりと立ち上がる。 「……目覚めた時には、ちゃんと帰ってこよう」 狼の耳を伏せ、小さくそう呟くと、彼女は静かに部屋を後にした。 灰色の雲が広がり始めた昼下がり。 重苦しい沈黙が支配する執務室で、サラの低く掠れた声が響いた。 「……西の森の魔物たちは、明日、北の霊山へ移送する。子供たちのうち、年長者には街の工房へ事情を話し、受け入れを頼んでくれ」 神官たちは暗い顔で頷き、羊皮紙に書き留めていく。 すべてを救うことはできない。 彼が身を削って繋ぎ止めていた理想は限界を迎えた。 残された命を明日へ繋ぐため、血を吐くような思いで『切り捨てる順番』を決めていく。 その時だった。 『ザッ、ザッ、ザッ、ザッ――』 神殿







