LOGIN私の肩に置かれた、彼の手のひらの熱。
私を守るために実の父親と対峙する、彼の真剣な眼差し。 その全てが「パートナー」という言葉に集約されている……気がする。それは私を「僕のものだ」と、宣言しているようだった。
◇ 食事会はそれ以上一言の会話もなく、終わりを告げた。 湊さんの宣言に、黒瀬社長もお母様もただ黙り込むしかなかったのだ。デザートは誰も手を付けず、重苦しい沈黙だけがテーブルの上を支配していた。
やがて湊さんが立ち上がり、私の椅子の後ろに回る。それが退出の合図だった。「ごちそうさまでした」
私と湊さんが頭を下げても、社長もお母様もこちらを見ようともしない。
挨拶の言葉すらなかった。 私たちは存在しないかのように扱われたまま、広大なダイニングルームを後にした。長い廊下を歩いていく。
磨き上げられた木の床に、私と彼の足音だけがやけに大きく響いた。 玄関では年配の家政婦さんが、無言で私たちの靴を用意してくれていた。外に出ると、ひやりとした夜の空気が火照った頬に心地よかった。
門の前には、彼が乗ってきた黒の高級車が静かに停まっている。 運転手が音もなく後部座席のドアを開けた。車に乗り込んで重厚なドアが閉められた時、私はようやく詰めていた息を細く吐き出した。
外の世界から完全に遮断された、静かな空間。 滑るように走り出した車の中で、聞こえるのはかすかなエンジン音だけだった。さっきまでの出来事が、頭の中で何度も繰り返される。
社長負債の冷たい視線。湊さんが見せた、固い覚悟。 感謝と申し訳なさで、胸がいっぱいだった。何か言わなければ。お礼も、謝罪も。でも、どんな言葉を選べばいいのか分からない。
しばらくためらった後、私はようやく口を開いた。「ありがとうございました。私のために、あんなふうに庇ってくださって」
言葉が続かない。
船がバルセロナの港に着いた日の朝。私たちは部屋のプライベートバルコニーで、朝食をとっていた。 私はコーヒーカップを片手に、少しずつ近づいてくる活気のある港と、独特の建築物が混じる街並みを夢中で眺めていた。 そんな私の横顔を、湊さんが優しい目で見つめていたことに、私は気づいていなかった。「夏帆さん」 彼が私の名前を呼ぶ。「この旅が決まった日、君が言っていたこと、覚えているかい?」「え?」「『本物のサグラダ・ファミリアを見てみたい』って」 もちろん覚えている。私の長年の夢。 湊さんはテーブルの上に、上質な革で装丁された小さな冊子を置いた。表紙には金色の文字で『For Kaho』とだけ記されている。「……?」 おそるおそるそのページをめくる。そこには今日の私たちのためだけに作られた特別な旅程表が、美しいカリグラフィーで記されていた。 サグラダ・ファミリア、カサ・バトリョ。そしてグエル公園。 それぞれの場所には建築様式や歴史だけでなく、デザイナーである私の視点を考慮した、専門的な解説まで添えられている。帆波が退屈しないように、公園での休憩時間もたっぷりと取られていた。 ただのプライベートツアーではない。私の夢と私たちの家族の幸せを心を尽くして作り上げてくれた、世界でたった一つの贈り物だった。 専用車がバルセロナの目抜き通りであるグラシア通りへと入っていく。「……あ」 私は思わず、小さな声を漏らした。 通りの向かい側、立ち並ぶ建物群の中に、一つだけ明らかに異質なものが紛れ込んでいる。建物の壁面を覆う、色とりどりのガラスと陶器のモザイク。まるで仮面のような不思議な形のバルコニー。一階部分の巨大な獣の骨を思わせる、滑らかな曲線の柱。「カサ・バトリョだ……」 湊さんが微笑んでいる。 学生時代、教科書やデザイン誌のページが擦り切れるほど、何度も眺めた建築。写真の中の平面的だった存在が今、確かな立体感と生命を持って、私の目の前に存在している。
帆波は、こくりと一度頷くと、今度はパイそのものに小さな両手を伸ばした。 よほど気に入ったのだろう。帆波はパイを夢中で頬張って、口の周りも服の胸元も、パイ生地の欠片だらけにしてしまった。「あらあら。帆波、パイだらけよ」「んーっ」 私はハンカチを取り出して、娘の口元をぬぐう。 湊さんはその様子を愛おしそうに目を細めて見つめていた。 カフェを出た後も、私たちは、蜂蜜色の路地をゆっくりと散策した。 湊さんは私の隣を歩きながら、ある建物の前で立ち止まった。「夏帆さん、見てごらん。この出窓」 彼が指差す先には、鮮やかな青色に塗られた美しい木製の出窓があった。「これは、『ガレリア』と呼ばれる、マルタ建築に特有の様式なんだ。一説には、聖ヨハネ騎士団が、故郷のスペインの様式と、アラブの様式を融合させて生み出したものだと言われている。淑女たちが、顔を晒さずに、外の祝祭を眺めるためのものだったそうだ」 私は彼の言葉を聞きながら、青い出窓をじっと見つめた。外からは、中の様子は全くうかがえない。そういう造りなのだ。「美しいけれど、少しだけ寂しいデザインね」 私の呟きに、湊さんが不思議そうに顔を向けた。「寂しい?」「ええ。外の世界を眺めることはできるけれど、祝祭の輪の中に入ることはできない。この鮮やかな色は、中にいる人の『ここから世界を見ている』という、声にならない叫びのようにも見えるわ」 それは私のデザイナーとしての、純粋な感想だった。「……そうか。夏帆さんはやはり、鋭い感性を持っているね」 港さんは微笑んだ。 彼はただ娘を甘やかすだけの父親でも、私を溺愛するだけの夫でもない。私の知らない世界を見せてくれる。知的好奇心を分かち合える最高の旅のパートナーなのだと、私は改めて、実感していた。 ◇ その夜。遊び疲れた帆波は、クルーズ船のベッドでぐっすりと眠っていた。 私と湊さんは二人きりで、部屋のプライベートバルコニーの椅子に座
マルタの道は石畳の敷かれた細い路地。その両側を太陽の光を浴びて輝く蜂蜜色の建物が、どこまでも続いている。街全体が同じ石材で、同じ色調で統一されているのだ。圧倒的なまでの統一感と、歴史の重み。 だが統一感の中に、鮮やかな個性が宝石のように散りばめられていた。建物のファサードに取り付けられた、赤や青や緑の、木製のバルコニー。同じ形は一つとしてない。それぞれがそこに住む人々の暮らしを、物語っている。 街全体という一つの巨大なコンセプト。その中に、無数の小さな物語が息づいている。 私はデザイナーとして、町全体の調和にただただ心を奪われていた。◇ ヴァレッタの街は、どこまでも続く急な坂道でできていた。 石畳の道を帆波は楽しそうに歩いていたが、足取りが少しずつ重くなっていく。「ママ、だっこ……」 私の手を小さな力で、きゅっと引っぱる。私が「もう少しよ」と言い聞かせようとした時のこと。 一歩先を歩いていた湊さんが、立ち止まって振り返った。彼はにこりと笑うと、帆波の前に屈みこむ。「おいで、帆波ちゃん。パパの特等席が空いたよ」 彼は娘を抱き上げた。急に視界が高くなった帆波は、きゃっきゃと嬉しそうな声を上げる。 湊さんの腕の中からなら、街の景色がよく見えるのだろう。帆波はすぐに新しい発見をした。「パパ! あかい、まど!」 彼女が指差す先には、蜂蜜色の建物の壁から突き出た木製の出窓があった。窓は鮮やかな赤色に塗られている。「本当だ。きれいだね。あっちには、緑の窓もあるよ」「ほんとだー!」 私たちの横をカッポ、カッポと軽快な蹄の音を立てて、観光用の馬車が通り過ぎていった。「おうまさん!」 帆波が小さな手を振る。私はその二人の後ろを、少しだけ離れて歩いていた。 夫の広い背中と、その腕の中で揺れる小さな娘。蜂蜜色の壁に落ちる二つで一つの影。その光景が私の胸を満たした。 私たちは広場に面した、赤いパラソルの立つカフェで休憩する
「見てごらん、帆波ちゃん。お砂はね、こうやって遊ぶんだ。サラサラ……って、ほら、お山ができた」 湊さんは小さな砂の山を作る。帆波は彼の足の後ろから、おそるおそる覗き込んでいた。「おやま?」「そうだよ。帆波ちゃんも、触ってみるかい? ほんのちょっとだけ。パパの手の上で、どうかな?」 湊さんが手のひらに乗せた砂を、娘の目の前に差し出す。 帆波はしばらく迷っていたが、小さな人差し指をそろりと伸ばした。ちょんと砂に触れる。自分の指先を不思議そうに見つめた。「あったかい」「うん、少し温かいね。気持ちいいだろう?」 今度は帆波自身の小さな手で、砂を掴んでみる。指の間から砂がこぼれ落ちていく。その感触が面白かったのだろう。帆波の顔にぱあっと、花が咲くような笑顔が広がった。「きゃっきゃっ」 楽しそうな笑い声が、静かな入り江に響いていった。 砂遊びに飽きた帆波が、今度は海を指差した。「パパ、ママ、あっちいこ!」 私たちは三人で手をつなぎ、波打ち際へと歩いていった。 寄せては返す、穏やかなさざ波。白いレースのような波の縁が、私たちの足元までやってきては、また遠ざかっていく。「きゃっ!」 波が足に触れるたびに、帆波は驚きと喜びが混じった高い声を上げた。「ほら、帆波ちゃん、波が逃げていくぞ。追いかけよう」「まてまてー!」 帆波はと叫びながら、小さい足を一生懸命に動かして引いていく波を追いかける。「おっと、転ばないようにね」 私と湊さんも、小さな体に引っぱられるようにして一緒に砂浜を走った。 太陽の光が湊さんの髪をきらきらと輝かせて、帆波の弾けるような笑顔を照らし出している。 私の右手には、この世で何よりも大切な娘の小さな手の感触。この子の向こう側には、愛する夫がいる。 寄せては返す波の音と、みんなの笑い声。 幸せな一瞬を、私は強く心に焼き付けた。◇
翌朝、私が目を覚ましたのは、ごくわずかな、ゆりかごのような揺れのせいだった。 一瞬、まだ夢の中にいるのかと思う。だが穏やかでどこまでも続くリズムは、紛れもない現実のもの。都会の喧騒も、車の音も聞こえない。静かな波の音と、船が水を切る微かな音だけが部屋を満たしていた。(そうだった。昨日から、クルーズ船に乗っているんだった) 私はベッドから身を起こして、厚手のカーテンへと歩み寄った。一気に引き開ける。 目に飛び込んできたのは、昨日までのローマとは全く違う鮮やかな光景だった。 突き抜けるような青空。目の前に広がる、深い深い紺碧の海。その海の向こうには、緑豊かな丘の斜面にテラコッタや黄色、白といったカラフルな家々が、まるで宝石箱をひっくり返したように密集して立ち並んでいた。シチリア島、メッシーナの港だ。 眠っている間に私たちは海を渡ったのだ。昨夜見たローマの夜景が、もう遠い昔のことのように思える。全く違う港町で、こうして新しい朝を迎える。船旅ならではの魔法のような体験だった。「ママ、パパ、うみー!」 帆波も目を覚まして、パジャマのままバルコニーへと駆け出していく。「帆波ちゃん、夏帆さん。おはよう」 湊さんはそんな娘を優しく抱き上げると、その小さな頬に朝のキスをした。◇ メッシーナの港に入った日の午前中。湊さんが手配してくれた専用車は、メッシーナの市街地を抜けて海岸沿いの道を走っていた。車窓からはレモンやオリーブの木が茂る丘と、キラキラと輝くイオニア海が見える。 私たちは観光客の喧騒から離れた、小さな入り江に面した砂浜にたどり着いた。 どこまでも続く青い空と、エメラルドグリーンから深い藍色へとグラデーションを描く透き通った海。寄せては返すさざ波の音だけが、静かに響いている。「わあ……! きれいな海」 湊さんと私は靴を脱いで、きめ細かい砂の感触を楽しんだ。秋とはいえ、南国シチリアの気温は高い。砂は温かく、海の水も心地よい。 だが帆波は違った。「ママ。おすな
その様子を見て、湊さんがくすくすと笑い声を漏らす。「帆波ちゃん、お口の周りが、大変なことになってるよ」 彼は帆波の前に膝をつく。きれいにアイロンのかかったハンカチで、小さな口元を拭ってやる。 私はそんな微笑ましい父と娘の姿から、目が離せなかった。 ローマの強い日差しの下、娘を見下ろす彼の眼差し。父親の顔をした、私の愛する人。 そして私たちの娘である、誰よりも大事な帆波。 私はその一瞬を永遠に残しておきたくて、スマートフォンのカメラを向けて夢中でシャッターを切った。◇ ローマから車で移動し、チビタベッキアの港が近づく。港の建物の向こうに、信じられないほど巨大な真っ白な壁が見え始めた。 それは壁ではなかった。何層にも、何十層にも重なった客室のバルコニー。空へと伸びる巨大な船体。停泊しているというのに、今にも動き出しそうな流線形の美しい船首。 車が港の埠頭に完全に着いた時、私たちはその船のあまりにも巨大な真下にいた。「ママ? おっきい、おうち……」 隣では帆波が、口をぽかんと開けたままその光景に釘付けになっている。「そうね、すごく大きいわね……」 私も頷くしかなかった。ビルというよりは、一つの街がそのまま海に浮かんでいるような印象を受ける。圧倒的なスケールと機能美の集合体である姿に、私はデザイナーとしてではなく、ただ純粋に心を奪われていた。 ここでも湊さんが手配してくれた優先乗船で、私たちは長い列に並ぶことなくスムーズに船内へと進む。専属のバトラーだという品の良い初老の男性が、恭しく私たちを出迎えてくれた。 案内されたのは、最上階にある、特等客室。ドアが開いた瞬間、私は息をのんだ。 広々としたリビングと、独立したベッドルーム。さらには夕日に染まる地中海を見渡せる、プライベートバルコニー。洗練された空間は、まるで海に浮かぶスイートルームそのもの。 リビングのテーブルには、ウェルカムシャンパンと帆波のためのおもちゃが用意されている。バルコ