Masuk記事のコメント欄には、匿名ながらも業界関係者と思われる辛辣な書き込みがあふれていた。
『外資のやり方はこれだから……』
『佐藤専務、前々から黒い噂があったよな』
『インペリアル・クラウン・ホテルズの黒瀬副社長の方が、よほど職人へのリスペクトがある』
称賛されるべきは自分で、貶められるべきはあの二人だったはずだ。
湊への憎しみ。その原因となった、相沢夏帆という女。(次の手は、もう生半可なものではだめだ)
あの女をデザイナーとして社会人として、再起不能なまでに、完全に潰す。
そうすれば湊の、あの常に余裕のある顔を、絶望に歪ませることができるだろう。佐藤は、デスクの椅子に深く座り直した。
その瞳から、先ほどまでの激情の色は消えていた。代わりに、氷のように冷たい光が宿っていた。◇ それから数日後。事務所には活気が戻っていた。 プロジェクトは以前にも増して、スムーズに進行している。 昼休みになると、同僚の一人が業界専門誌の電子版を、興奮した様子で私に見せてきた。「相沢さん、これを見てくれ!」
彼が差し出したタブレットには、『グラン・レジス東京、職人への不当契約疑惑で業界団体が調査へ』という大きな見出しが躍っていた。
記事の中では佐藤の名前こそ伏せられているものの、誰が主導したのかは誰の目にも明らかだった。「佐藤専務、本社から厳重注意を受けたらしいわよ」
「これで、グラン・レジスの評判もガタ落ちね」
「前々から黒い噂があったからな、あそこ。いい気味だよ」
所長や同僚たちの会話から、佐藤が社会的にも経済的にも、大きな打撃を受けたことが伝わってくる。
(やったわ、湊さん!)
私の心に満足感が広がった。
◇ その夜、自分の部屋でデザインの最終チェックをしながら、私は考えていた。 湊さんと共に戦い、勝利した。 そのことで私プロジェクトが順調に進んでいた、ある日の午後のこと。 アトリエ・ブルームの事務所に、環境保護団体を名乗る組織から一通の内容証明郵便が届いた。「内容証明? 物騒ね」 所長が不審の表情で封を開けて、文面に目を通す。「そん、な……」 彼女の顔から、さっと血の気が引いた。「インペリアル・クラウンの新スイートに、違法伐採木材の使用疑惑? 調査を要求する、ですって……?」 所長から文書を受け取って、私も読んでみる。『貴社がデザインを担当するインペリアル・クラウン・ホテルの新スイートに、違法伐採された木材が使用されている疑いがある。公式調査を要求します』 と、紙面には厳しい調子で書かれていた。 所長は青い顔をして、椅子にへたり込みそうになっている。 私はショックを受けながらも、必死に思考を巡らせた。「所長、落ち着いてください。そんなはずはありません」 私は、すぐにプロジェクトのファイルが保管されているキャビネットへ向かった。 中から問題となっている木材を納品した業者との、契約書類一式を取り出す。「これを見てください」 テーブルの上に広げたのは、木材の正規の産地証明書と品質保証書だった。 産地証明書には、その木材が環境保護の規定に則って、正しく管理された森林から伐採されたものであることが、政府機関の印章付きで明記されている。 品質保証書には、シックハウス症候群の原因となる化学物質を含まない、最高ランクの品質『F☆☆☆☆(エフ・フォースター)』をクリアしていることが、写真付きで詳細に記載されていた。「これだけの証明書が揃っています。何かの間違いです」 書類上は何の問題もない。完璧なはずだった。 私の冷静な言葉に、所長も少しだけ落ち着きを取り戻す。「そう、よね。何かの間違いよ、ね……?」 けれど彼女の声には、まだ不安の色が濃く残っていた。(身に覚
守ってあげたい。彼女を傷つける全てのものから。 元夫の男はケリをつけた。もうつきまといの心配はない。 だが今は、仕事上のトラブルが彼女を痛めつけている。 グラン・レジスの佐藤は、いずれ徹底的に追い落とす必要があるだろう。夏帆さんに恨みを残したまま、野放しにするのは危険だ。 でも、今は――。 わずらわしい全てを忘れて、僕と2人きりで過ごしてほしかった。 柔らかい笑みを見せる彼女に、僕の心は明るくなった。まるでたくさんの花が咲いたようだ。 近くに彼女がいて、とうとう我慢できずに触れてしまった。 抱きしめ返してもらった時は、どれほど嬉しかったことか。 あの夜以来の体温に、つい気が逸った。 もう一度彼女を感じたくて、キスをしようとして。 拒まれてしまった。 ショックでなかったと言えば嘘になる。 でもそれ以上に、彼女の心がまだ傷ついているのだと実感した。 彼女が欲しい。心から求めている。 だが、傷つけるのはだめだ。 もっと慎重に、彼女の気持ちが癒えるのを待ちながら、その時には決して逃げられないように。外堀を埋めて、逃げ道を塞いで、罠を張り巡らせておこう。 そうして最後には必ず、彼女の全てを手に入れる。「夏帆さん。待っていてくださいね。僕は必ず、あなたを振り向かせてみせる」 僕と彼女を隔てる一枚のドアが、今は恨めしい。 でも焦りは禁物だ。 じっくりと囲い込んでいこう。 テーブルに置いたままになっていた、ワイングラスを傾ける。 暖炉の明かりを眺めながら、僕は彼女の心を手に入れるための計画を練っていた。◇【夏帆視点】 3日間の夢のような休日が終わった。 東京へと向かう帰りの車の中、私は窓の外を流れる景色を、ただ黙って見つめていた。 別荘を出て海沿いの道を離れると、景色は少しずつ見慣れた無機質なものへと変わっていく。 増えていく車の数、高速道路の標識、灰色のアスフ
湊さんの動きがぴたりと止まった。 その瞳に一瞬だけ深い悲しみの色が浮かんだのを、私は気づいた。気づいてしまった。 けれど湊さんはすぐにいつもの優しい表情に戻ると、私を抱きしめる腕の力を緩めて言った。「すみません。少し、焦りすぎましたね」 暖炉の炎の明かりが、彼の長いまつ毛に陰影を落としていた。「夏帆さんが、本当に僕を受け入れてもいいと思えるようになるまで、僕もがんばりますから。……ずっと、待っています」 その優しい言葉が、逆に私の胸を締め付けた。「ごめんなさい……。もう、寝ますね」 私は立ち上がる。もうそれ以上ここに居られなくて、寝室へ戻った。 ドア一枚を隔てた場所に彼がいるのに、私は触れることができない。(どうして……) どうしてあの夜、あんなにも幸せな思い出を作ってしまったのだろう。 どうして私は、恋を諦めると決めたのに、こんなに心を残しているのだろう。「うぐ……」 涙がこぼれた。嗚咽(おえつ)が漏れそうになって、枕に顔を埋めてこらえる。 遠く聞こえる潮騒が、夜の暗闇が、私を包み込んでくれた。◇【湊視点】 逃げ去ってしまった夏帆さんの部屋のドアを見つめて、僕は小さくため息をついた。(焦ってしまったか。傷ついていないといいが……) この2日間、夏帆さんと過ごした2人きりの時間は、僕にとって何よりも幸せなものだった。 食事を作ったり、海辺を散歩したり。そんな何気ない時間がこれほど温かいとは、知らなかったのだ。 穏やかに過ごすことで、彼女も心を開いてくれたように思う。自然な笑顔が増えて、嬉しかった。 やはり疲れはかなり溜まっていたようで、ふとすると眠ってしまっている。 彼女の寝顔は無防備で、いっそあどけなくて、いつもの誇り高いデザイナーとのギャップが
「料理はまだまだですけれど、コーヒーは昔から自分で淹れていましたから」 私が褒めると、彼はちょっと照れたように笑う。 その後は散歩をしたり、音楽を聞いたりして過ごした。 私はやはり疲れていたようで、気がつけばウトウトと眠ってしまうことが多かった。 目覚めるといつも湊さんが近くにいる。冷えないようにひざ掛けをかけてくれたり、座っていたはずなのにいつの間にか横たえられていたりする。「すみません。お手数をかけてしまって」 私が恥ずかしくなって言うと、彼は微笑むのだ。「いいえ、ちっとも。あなたのお世話をするのは、とても楽しい時間ですから。何か音楽でもかけましょうか?」「ええと……そうですね。では、モーツァルトのクラリネット協奏曲を。好きなんです」 私が言うと、彼は嬉しそうに笑う。「夏帆さんの好きなものを知るのは、僕の喜びです。では、この曲を」 ヴァイオリンの軽快なメロディに続いて、クラリネットの優しい旋律が部屋を満たしていく。 お気に入りの曲が心を撫でていく感触は、とても心地よい。 私はまた微睡んでしまった。◇ 優しい時間は流れていって、とうとう最後の夜になる。 リビングの暖炉の炎が、ぱちぱちと静かに爆ぜている。 その炎を眺めながら、私たちはワインを片手にソファで並んでいた。 隣の湊さんをちらりと見上げれば、整った横顔が目に入る。美しい鼻筋に、形の良い唇。涼し気な目元は、今はワイングラスを見つめている。 いつもは上げている前髪が今は一部が下ろされていて、少しだけラフな色気があった。 ――覚えている。 あの夜も、彼は髪を乱していた。私を組み敷いて愛をささやいて、貪欲に求めてくれた。 私もまた彼を受け入れた。失った半身を取り戻すような、初めて感じる満たされた時間だった……。 穏やかな空気の中で、ふと。湊さんが私の髪にそっと触れた。 私はもう、その手を拒むこ
「さあ、食べましょう」 私が言うと、彼は「いただきます」と、少し改まった口調で言った。 湊さんはフォークでくるくると器用にパスタを巻き取る。上品な所作で口に運んだ。 しばらくの間、何も言わずにもぐもぐと咀嚼(そしゃく)していた。 その沈黙がなんだか少し、気まずい。「あの……お口に、合いませんでしたか?」 一緒に作ったけれど、味付けなどは私がやった。 おそるおそる尋ねると、彼は顔を上げた。その表情は、驚きと感動に満ちていた。「いえ……そうではなくて。ただ、驚いているんです」「何にですか?」「大切な誰かと一緒に作ったものを、こうして2人で食べる。それがこんなにも、心が温かくなるものだとは、知らなかったものですから」 素直な言葉に、今度は私が言葉を失う番だった。 私たちはそれからしばらく、無言でパスタを食べ進めた。 聞こえるのは、フォークと皿が触れ合うかすかな音と、遠い波の音だけ。 でもその沈黙は、今はもう少しも気まずくはなかった。◇「少し散歩をしてみましょうか」 食事が終わると、私たちは別荘の裏手にあるプライベートビーチへと、歩き出した。 春の午後の柔らかな日差しが、暖かく私たちを包み込んでいる。 私はパンプスを脱いで、素足になった。 キュッ、キュッと音を立てるきめ細やかな砂の感触が、足の裏に心地よい。思わず笑顔になった。 寄せては返す穏やかな波が、私の足元を優しく洗っていった。 湊さんも私にならって靴を脱ぎ、スラックスの裾を無作法にまくり上げている。 その姿がなんだか新鮮で、私はまた少し笑ってしまった。湊さんも笑顔を返してくれる。 私たちは言葉もなく、どこまでも続く海岸線を並んで歩いた。 太陽はまだ高くて、私たちの影は足元に短く寄り添っている。 彼が波打ち際で一つ、きれいな桜貝を拾い上げた。「どうぞ」
部屋の中は、全てが完璧なバランスで配置されていた。 そこにいるだけで、心がほどけていくような。最高に心地よい空間だった。「ここでは、仕事のことは一切忘れてください。あなたはただ、何もしないでいいんです。ゆっくりと休むことだけを考えて」 彼の声は、いつも以上に優しかった。「こちらを、あなたの部屋として使ってください」 湊さんはリビングの奥にあるもう一つのドアへと私を導いた。ドアを開けるとそこは、私がこれまで見たどんな寝室よりもシンプルで――贅沢な空間だった。 部屋の主役は中央に置かれた、低いローベッドだ。 ヘッドボードもない、ごく簡素な木のフレーム。でもその上にかけられたリネンのシーツは、触れなくても分かるほど、柔らかく肌触りが良さそうだった。 リビングと同じように、壁の一面が足元から天井までの大きなガラス窓になっている。その向こうには、きらきらと光る穏やかな海が、広がっている。 家具はそのベッドと、窓際に置かれた一脚のアームチェアだけ。 余計なものは何一つない。 けれどだからこそ、部屋に差し込む春の光や窓の外の海の青さ……時折聞こえてくる波の音が、何よりの装飾になっていた。(すごい……) 眠るためだけの空間。 でもその一つの目的のために、光も風も音も、すべてが計算され尽くしている。 これこそが本当のラグジュアリーなのだと、私はデザイナーとして痛感させられた。「ありがとうございます。本当に、素敵な部屋ですね」「気に入っていただけて、嬉しいです」 私がそう言うと、彼は微笑んだ。◇ 事前の言葉通り、湊さんは私に何一つ強制しなかった。 昼過ぎになると、彼は別荘のキッチンに立って、私のために食事の準備を始めた。 サンドイッチの時よりは少しだけ手際が良くなっているけれど、やはりどこかぎこちない。 その姿を見ていたら、気づけば私も自然に彼の隣に立って、野菜を洗い始めていた







