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第6話

Auteur: 澄河
誰も動かなかった。

風に吹かれ、墓前の白菊が1輪、傾いた。

最初に笑ったのは母だった。

「希美もずいぶん知恵がついたものね。お医者様を巻き込んでまで、こんな悪趣味な芝居を打つなんて」

母は職員のほうを向いた。

「警備員を呼んでください。この人、納骨を妨害しに来たんです」

森下先生は何も言い返さなかった。

鞄から3点の書類を取り出し、ひとつずつ墓石の上に並べた。

死亡診断書の写し、火葬済みであることを示す書類、そしてあの会葬御礼の挨拶状。

遠縁の叔母が近寄って礼状を手に取り、裏の字を読み上げた。

【空っぽのままにしないでください】のところまで来て、声を詰まらせ、それ以上読めなくなった。

親戚たちが、小声でささやき合いはじめた。

「葬儀の前に亡くなったんじゃなかったの?」

「じゃあ、あの葬儀は誰の……?」

母はまだ意地を張っていた。

「嘘よ、証明書なんていくらでも偽造できるわ……」

言えば言うほど声は小さくなり、とうとう母自身も言葉を続けられなくなった。

久弥が死亡診断書の写しをひったくるように奪い取った。

彼の目は、死亡日時の欄で止まり、そのまま釘付け
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  • 生きたまま葬られた私の、最後ののぞみ   第22話

    墓誌の文字を彫り直したのは、1か月後のことだった。石材店の職人が、どのように直すかを確認した。母は墓誌に刻まれた「愛娘」の文字を、長いこと見つめていた。その横には、以前自分たちが希望して入れた、希美の名前が刻まれている。「この文字は、消してください」母は静かに言った。「私に、あの子をそう呼ぶ資格はありません」隣に立っていた久弥も、しばらく黙ったあと口を開いた。「『愛妻』も、消してください」後日、職人は指定された文字を少しずつ削り落とし、表面を磨き直した。墓誌に残ったのは、私の名前だけだった。坂梨希美。その前に誰かの呼び名もなく、そのあとに誰かの名前もない。まっさらな、私だけの名前。その年の秋、未那の件について捜査の結果が出た。薬を隠したことも、病状を偽ったことも、次々と明らかになり、彼女には、その行為に応じた処分が下された。小湊家は未那との離縁手続きを進めた。留学先の学校にも、すでに籍はなく、彼女の手元にはほとんどお金が残っていなかった。その後、小さな食堂の厨房で、彼女を見かけたという人がいた。洗い場に立ち、両手は水仕事で白くふやけていたという。彼女に気づいた客が、墓地での一件を店の従業員たちに言いふらした。翌日、彼女はその店を辞め、別の店に移った。それからほどなくして、また別の店に移った。彼女は相変わらず、自分は心の病を抱えていると言っているらしい。けれどもう、耳を貸す人はどこにもいなかった。母は毎月1回、あのバスに乗るようになった。病院から家まで乗り、家からまた病院まで戻る。腰の具合は次第に悪くなり、降りるたびに手すりにつかまって、しばらく立っていなければならなかった。母は、ついにあのマッサージチェアを買うことはなかった。お墓参りに来るたび、母は栗まんじゅうをひとつ、墓前に供えた。あるとき、母はそこにしゃがみ込んで、そっと言った。「希美、お母さん思い出したの。あなたも小さいころ、これが好きだったわね。あのとき未那も欲しがったから、お母さん、あなたの分まであの子に譲らせてしまったのよね。あなたは泣かないで、ひとりで庭に遊びに行ったのよね」私は母の後ろに立っていた。母は、思い出したのだ。20年以上も遅れて。父は煙草をやめた。

  • 生きたまま葬られた私の、最後ののぞみ   第21話

    納骨の日は、朝から雨が降っていた。激しい雨ではない。霧のような細い雨が、朝から昼まで絶え間なく降り続いていた。墓地の鉄の門は開いていて、門の内側には森下先生と千尋、それに係の人が2人立っていた。門の外には、小湊家の家族と久弥が立っていた。前の晩、久弥は墓地の使用許可に関する書類を森下先生に手渡していた。「この墓を用意したのは俺です。でもあいつがここに入るなら、もう俺が取り仕切る資格はありません」森下先生は書類を受け取り、彼を一瞥した。「彼女がカードに書いたことはふたつです。そのどちらにも、あなたたちに見送ってほしいとは書いてありませんでした。来るのは構いません。外にいてください」彼はうなずき、反論しなかった。係の人がまず、管理事務所に預けてあったあの空の骨壺を運んできた。そのそばには、未那が供えた手紙も残されていた。封筒には【お姉ちゃんへ】と書かれている。森下先生は封筒を開けずに、空の骨壺と一緒に門の外へ差し出した。母が震える手を伸ばし、骨壺と封筒を受け取った。骨壺は軽かった。まるで何も入っていないかのように軽かった。偽の葬儀のとき、母はこの骨壺を抱えて、お墓の前で立っていられないほど泣いていた。今度は、母は封筒から手紙を取り出し、皆の見ている前で粉々に引き裂いた。破れた紙片は雨水の中に落ち、たちまちふやけていった。それから母は空の骨壺を抱えたまま門の外に立ち尽くし、もう動かなかった。森下先生は私の骨壺を抱え、1歩、また1歩と、お墓の前へ歩いていった。千尋が傘をさして寄り添い、その手には祖母のマフラーがあった。納骨室の蓋が開けられた。森下先生はしゃがみ込み、骨壺をそっと中へ納めた。千尋はマフラーを畳み、骨壺の上にそっと置いた。森下先生は鞄から、あの付箋と【お母さんの誕生日】と書かれた封筒、それに4冊目のノートを取り出し、マフラーのそばにまとめて納めた。「彼女が貯めたものも、書き残したものも、一緒に持たせてあげましょう」門の外でその封筒を見た母は、口を押さえてしゃがみ込んだ。久弥は、ずっと雨の中に立っていた。手にはあの黒い長傘を持っていたが、開かなかった。髪から水滴が滴り落ち、スーツはずぶ濡れになって肌に張りついていた。兄が自分の傘を彼のほうへ差

  • 生きたまま葬られた私の、最後ののぞみ   第20話

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  • 生きたまま葬られた私の、最後ののぞみ   第18話

    警察が未那を見つけ出したのは、街外れのビジネスホテルだった。彼女は手元に残った最後の数千円で部屋をとり、2日間そこにこもっていた。ドアを開けた彼女はあの日と同じ服のままで、頬の平手打ちの痕は消えていたが、目の下には濃いくまができていた。警察官の姿を認めるなり、彼女は一瞬硬直した。それから後ずさりし、頭を抱えて部屋の隅に縮こまった。「来ないで……お姉ちゃんがまた来たの……私を連れていこうとしてる……!」先頭の警察官は冷静に彼女の様子を見ていた。「小湊未那さん。坂梨希美さんの件で、お話を伺いたいことがあります。署までご同行願えますか」未那の震えがいっそうひどくなった。「私は病気なの……双極性障害なのよ……こんな真似が許されると思ってるの……?」女性警察官が歩み寄り、立ち上がるよう促した。今度は、彼女を庇って抱きしめてくれる人間はもう誰もいなかった。森下先生と千尋は警察に事情を説明し、詳しい調査を求めていた。スーツケースの底に縫い込まれていた薬の箱は、母が自らの手で警察に提出した。あのメッセージ画面のスクリーンショットは、兄が撮ったものだった。スマホを差し出すとき、未那との関係を警察官に問われた。兄は長いこと沈黙してから答えた。「妹です……少なくとも、今までは」久弥も警察へ足を運んだ。杏奈の連絡先を渡し、あの日新居で起きたことを最初から最後まで証言した。空っぽの引き出しの前に立った私が、もう4日も薬を飲んでいないと訴えたところで、彼は長いこと言葉に詰まった。そのときどうしたのか、と警察官に尋ねられた。彼は深くうつむき、あの日自分が口にした冷酷な言葉を、一字一句違えずに繰り返した。調書を取っていた若い刑事が、顔を上げて彼を見た。その目からは何の感情も読み取れなかったが、久弥はいっそう深くうなだれるしかなかった。事情聴取の間、未那は必死に病人を演じ続けていた。泣きわめいたかと思えば急に笑い出し、かと思えば、耳元で誰かがささやいていると訴えた。警察は必要に応じて専門医の診察を受けさせることにした。医師は時間をかけて彼女に話を聞き、最後に所見をまとめた。【意識は清明。受け答えに大きな乱れは見られない。今回の診察では、双極性障害の診断を裏づける所見は確認できない】医師

  • 生きたまま葬られた私の、最後ののぞみ   第17話

    クローゼットのうち、私が使っていた半分のスペースは、彼が記憶しているよりもずっと、がらんとしていた。葬儀の前に母が服を段ボールに詰め、棺に納めるもの以外、その大半を捨ててしまったからだ。残された数着は、未那のワンピースに場所を奪われ、いちばん奥の隅へ追いやられていた。久弥は未那の服を1着ずつ取り出し、床へ次々と放り出した。クローゼットのいちばん奥に、紙の箱がひとつ置かれていた。青いリボンが結ばれ、その下にカードが1枚挟まっている。【3回目の結婚記念日、おめでとう】私たちの結婚記念日は、来月に迫っていた。久弥がリボンをほどくと、箱の中には黒い長傘が1本入っていた。柄には、小さな文字が刻まれている。【これからは雨の日も、外で待たなくていいよ】傘の下には、手紙が1通挟まっていた。封はされていなかった。便箋を取り出す彼の手は、小刻みに震えていた。【久弥へこの手紙を書いている今、あなたは書斎で未那とビデオ通話をしている。私は邪魔しなかったわ。本当は、ずっと気づいていたことがある。あなたが初めて、私の笑顔が綺麗だと言ってくれたとき、あなたが見つめていたのは、私の目じゃなかった。マンションのエントランスであなたが待っていてくれたあの日は、未那の誕生日でした。覚えていたけど、その先は考えないようにしていた。結婚してからも、私を見ているあなたが、ときどき上の空になることがあった。上の空のとき、誰のことを考えているのか、私にはわかっていた。出ていこうと思ったこともある。でも、私が熱を出したときには、あなたは夜中に起きてお粥を作ってくれたし、薬を飲んで吐いてしまったときには、背中を優しく叩きながら、ゆっくりでいいよと言ってくれた。そういうとき、あなたが見ていたのは私だった。だから、このまま一緒に生きていこうと思った。いつか、あなたが私だけを見てくれる日が来るかもしれないから。この傘を、あなたに贈るわ。これからは雨の日、一緒にさして歩こうね。希美】久弥は便箋を胸に押し当て、クローゼットにもたれかかるようにして、床へ崩れ落ちた。結婚1年目の冬のことを思い出した。夜中に私が熱を出すと、彼は起きてお粥を作ってくれた。途中で鍋に触れて熱がり、思わず悪態をついた彼を見て、ベッドの私は声

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