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あの日、海に捨てた恋

あの日、海に捨てた恋

By:  よろず日和Completed
Language: Japanese
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鷹司智則(たかつかさ とものり)は、妻になる女性に一つの条件を課していた。まずは彼の仲間たちに認められなければならない、というものだ。 交際3周年を祝うヨットパーティーで、私は負けるたびに服を一枚脱がされるポーカーゲームに無理やり参加させられた。 とうとう上半身は薄いキャミソール一枚だけになり、彼の仲間たちはそんな私を舐め回すような目で眺めていた。 「鷹司さん、水城さんの腰、ずいぶん柔らかそうっすね。普段からいろんな体位を試してるんじゃないですか?」 「肌もほんのりピンク色で、たまんねえな。あと一回負けたら、下に着てるやつまで脱いで見せてくれるんだろ?」 私は服の裾を必死に握り締め、屈辱に全身を震わせながら、助けを求めるように上座に座る智則を見つめた。 しかし、彼はちょうど魚の小骨を丁寧に取り除き、ほぐした身を隣に座る藤江芙美乃(ふじえ ふみの)の口元へ運んでいるところだった。 周囲の冷やかしが耳に入ると、彼は小さく笑い、ゆっくりと顔を上げた。 「賭けに負けたんだから、潔く脱げよ。何を隠してるんだ?普段、俺のベッドの上じゃあんなに大胆なくせに。 芙美乃はこういうのに慣れてないんだ。あまり怖がらせるなよ。遊びたいなら、そいつで好きに遊べばいい」 私は氷水の中に突き落とされたような気分だった。 皆がどっと笑い声を上げる中、まるでお姫様のように大切に扱われている芙美乃を見つめていると、心臓を容赦なく踏みにじられたような痛みが走った。 愛されているかどうかで、身にまとうことを許される服の枚数さえ、こんなにも違うのだ。 私は最後に残された、尊厳そのものともいえる一枚を脱ぎ捨て、テーブルの上に放り投げた。 そして、彼らの目の前で、一瞬のためらいもなく、暗く冷たい海へと身を投げた。

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Chapter 1

第1話

海水が耳に流れ込んだ瞬間、世界は完全に静まり返った。

ヨットの上から聞こえていた笑い声も、冷やかす声も、智則の気のない声も、すべて冷たい海水に遮られた。

私は泳げない。

それなのに、海へ飛び込んだ瞬間、不思議と後悔はなかった。

胸が押し潰されるように痛み、四方八方から暗闇が押し寄せてくる。

私は本能的にもがき、必死に腕を動かしたが、指先は何も掴めず、ただ虚しく水をかくばかりだった。

やがて、誰かが浮き輪を投げ込んできた。

巡視艇の乗員に引き上げられたとき、私は全身を震わせていた。

薄いキャミソールが肌にぴったりと張りつき、まるで剥がせない皮膚のように冷たく濡れていた。

ふくらはぎには船べりで擦った長い傷ができ、傷口に海水がしみて、目の前が真っ暗になるほど痛んだ。

ようやく智則がヨットから降りてきた。

一歩ずつ近づいてくる彼を見つめながら、私は愚かにも、かすかな期待を抱いてしまった。

たった一言でもいい。

痛くないか、寒くないかと聞いてくれるだけでよかった。

しかし、彼は私の前を素通りすると、真っ先に自分の上着を芙美乃の肩にかけた。

芙美乃は彼の隣に立ち、少し青ざめた顔で小さく口を開いた。「智則、私、何か悪いことしちゃったのかな?あの人が海に飛び込んだとき、本当に怖かったの」

智則は芙美乃にかけた上着のボタンを丁寧に留めながら、優しいとさえ思えるほど穏やかな声で答えた。「君のせいじゃないよ」

そう言ってから、彼はようやく私に目を向けた。

その眼差しに心配の色など微塵もなく、ただ楽しい気分を台無しにされた苛立ちだけが滲んでいた。「水城依緒(みずき いお)、もう気は済んだか?」

海水でむせたせいで喉がひどく痛み、私は声を出すことさえできなかった。

彼は二歩ほど近づくと、ずぶ濡れで惨めな姿の私を見て眉をひそめた。「これだけ大勢が見てる前で海に飛び込んで、いったい誰に何を見せつけたかったんだ?」

私はゆっくりと指先に力を込め、体にかけられた保温シートを握り締めた。

彼の目には、私が屈辱に耐えきれず、逃げ場を失って海へ飛び込んだようには映っていないのだ。

ただ駄々をこねているだけ。

わざと彼に恥をかかせようとしているだけなのだ。

彼の後ろでは、仲間たちも次々とヨットから降りてきて、そのうちの一人が口笛を吹いた。

「水城さん、なかなか度胸あるじゃないっすか。本当に飛び込むとは思いませんでしたよ」

「鷹司さん、さすがに今回の婚約者テストはやりすぎだったんじゃないですか?」

智則は振り返りもせず、軽い口調で言い捨てた。「こいつは昔から甘やかされてるからな。少し頭を冷やせば目も覚めるだろ」

芙美乃がそっと彼の袖を引いた。「智則、あの人、服がびしょ濡れだよ。先に着替えさせてあげたほうがいいんじゃない?」

私は呆然と顔を上げた。

次の瞬間、智則は執事に命じた。「こいつにバスタオルを一枚持ってきてくれ」

ふと、2年前のことが脳裏に浮かんだ。

あのとき、智則は私を山頂へ日の出を見に連れていってくれた。

私がたった一度くしゃみをしただけで、彼は自分のコートを脱いで私をすっぽりと包み込み、自分はシャツ一枚のまま、一晩中冷たい風に吹かれていた。

あのとき、彼は私を抱き締めながら言ったのだ。「大切な依緒に、寒い思いなんかさせられないからな」

それなのに今、私は全身ずぶ濡れで、ふくらはぎから血を流しているというのに、彼が心配しているのは、芙美乃が海風に当たって寒い思いをすることだけだった。

私は俯いて、小さく笑った。

けれど、笑っているうちに涙が手の甲にぽたぽたと落ち、そこに残る海水と混じり合っていった。

智則もようやく何かに気づいたのか、少し声を和らげた。「もういい。今夜はこれで終わりだ。車に乗れ、送っていく」

私は顔を上げ、彼を見つめた。「智則、もしさっき、誰にも助けてもらえなかったら?」

彼は眉間にしわを寄せた。「縁起でもないことを言うな」

そう言って、以前のように、私の頭を撫でようと手を伸ばしてきた。

そのとき、まるでタイミングを見計らったかのように、芙美乃が軽く二度ほど咳き込んだ。

智則はすぐさま振り返った。「どうした?どこか具合が悪いのか?」

「ううん、大丈夫。ちょっと寒いだけ」

彼はそれきり私を見ることもなく、芙美乃を支えながら車に乗り込んだ。

車のドアが閉まる直前、彼の声が聞こえてきた。「先に芙美乃を送っていこう。彼女は暗いところが怖いんだ」

そうか。

寒さが怖くても、暗闇が怖くても、痛い思いをするのが怖くても、彼はその人を腕の中に抱き寄せて守ってくれるのだ。

私以外なら、誰でも。

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第1話
海水が耳に流れ込んだ瞬間、世界は完全に静まり返った。ヨットの上から聞こえていた笑い声も、冷やかす声も、智則の気のない声も、すべて冷たい海水に遮られた。私は泳げない。それなのに、海へ飛び込んだ瞬間、不思議と後悔はなかった。胸が押し潰されるように痛み、四方八方から暗闇が押し寄せてくる。私は本能的にもがき、必死に腕を動かしたが、指先は何も掴めず、ただ虚しく水をかくばかりだった。やがて、誰かが浮き輪を投げ込んできた。巡視艇の乗員に引き上げられたとき、私は全身を震わせていた。薄いキャミソールが肌にぴったりと張りつき、まるで剥がせない皮膚のように冷たく濡れていた。ふくらはぎには船べりで擦った長い傷ができ、傷口に海水がしみて、目の前が真っ暗になるほど痛んだ。ようやく智則がヨットから降りてきた。一歩ずつ近づいてくる彼を見つめながら、私は愚かにも、かすかな期待を抱いてしまった。たった一言でもいい。痛くないか、寒くないかと聞いてくれるだけでよかった。しかし、彼は私の前を素通りすると、真っ先に自分の上着を芙美乃の肩にかけた。芙美乃は彼の隣に立ち、少し青ざめた顔で小さく口を開いた。「智則、私、何か悪いことしちゃったのかな?あの人が海に飛び込んだとき、本当に怖かったの」智則は芙美乃にかけた上着のボタンを丁寧に留めながら、優しいとさえ思えるほど穏やかな声で答えた。「君のせいじゃないよ」そう言ってから、彼はようやく私に目を向けた。その眼差しに心配の色など微塵もなく、ただ楽しい気分を台無しにされた苛立ちだけが滲んでいた。「水城依緒(みずき いお)、もう気は済んだか?」海水でむせたせいで喉がひどく痛み、私は声を出すことさえできなかった。彼は二歩ほど近づくと、ずぶ濡れで惨めな姿の私を見て眉をひそめた。「これだけ大勢が見てる前で海に飛び込んで、いったい誰に何を見せつけたかったんだ?」私はゆっくりと指先に力を込め、体にかけられた保温シートを握り締めた。彼の目には、私が屈辱に耐えきれず、逃げ場を失って海へ飛び込んだようには映っていないのだ。ただ駄々をこねているだけ。わざと彼に恥をかかせようとしているだけなのだ。彼の後ろでは、仲間たちも次々とヨットから降りてきて、そのうちの一人が口笛を吹いた。「水城さん、な
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第2話
その夜、私は智則の車には乗らず、タクシーを拾ってマンションへ帰った。運転手はバックミラー越しに、何度も私の様子を窺っていた。深夜、ずぶ濡れのままバスタオルにくるまった女が、ヨットハーバーからタクシーに乗り込んでくるなど、見たことがなかったのだろう。私は小さな声で頼んだ。「すみません、少し急いでもらえますか」マンションに戻ると、リビングにはまだ明かりがついていた。ローテーブルの上には、午後に私が手作りしたケーキが置かれていた。交際3周年を祝うために、半月も前から練習を重ねてきたものだった。クリームの塗り方は決して上手とは言えなかったけれど、真ん中にはチョコレートソースで智則の名前を書いていた。けれど今はクリームが崩れ、文字も滲んでぐちゃぐちゃになっている。まるで笑い話だ。私はケーキをゴミ箱に捨て、振り返った途端、目の前が真っ暗になった。次に目を覚ましたときには、すでに夜が明けていた。額は驚くほど熱く、ふくらはぎの傷もひどく腫れ上がっていた。傷口の周囲は海水に浸かったせいで白くふやけている。私は手探りでスマホを取り、智則に電話をかけた。一度目は、応答なし。二度目は、途中で切られた。三度目にして、ようやく彼が電話に出た。低い声が耳に届く。「今度は何だ?」私は唇を噛み締め、ほとんど聞き取れないほどかすれた声で答えた。「熱が出たの。足の傷も、ひどく腫れている……」電話の向こうで、彼が一瞬黙り込んだ。すると、芙美乃の小さな声が聞こえてきた。「智則、依緒さんから?あまり怒らないであげて。あの人も昨日はつらい思いをしたんだから」智則の声が少し遠ざかった。どうやら彼女のほうを向いて、宥めているらしい。「じっとしてて。まだ点滴が終わってないだろ」そして再び私に話しかけてきたとき、彼はこう言った。「今は手が離せない。運転手に病院まで送らせる」私は呆然とした。「病院にいるの?」「昨日のことで芙美乃がショックを受けて、動悸が出たんだ」彼はそれが当然であるかのように続けた。「とりあえず自分で受付を済ませてくれ。ただの熱だろ。いちいち大騒ぎするな」私は鏡に映る、血の気を失った自分の顔を見つめながら、思わず笑いそうになった。芙美乃が怖い思いをしたからと、彼は一晩中病院で付き添っていた。一方、私は
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第3話
智則がマンションに帰ってきたのは、あれから3日目のことだった。私はちょうど足に巻いていたガーゼを外したところで、ソファに座ってぼんやりしていた。玄関のドアが開き、智則がギフトボックスを手に、部屋へ入ってきた。「まだ怒ってるのか?」彼はいつものように私の隣に腰を下ろすと、肩を抱き寄せようと手を伸ばしてきた。私は反射的に身をかわした。智則の動きが止まり、その目がすっと険しくなった。「いい加減にしろよ。ヨットでの一件は、あいつらが悪ふざけしすぎた。あいつらに代わって、俺が謝るよ」私は顔を上げ、彼を見つめた。「あなたは?」彼は眉をひそめた。「俺が何だ?」私の心は、さらに深く沈んでいった。今になっても、彼は自分が悪いことをしたとは少しも思っていないのだ。智則がギフトボックスを開けると、中にはダイヤモンドのネックレスが入っていた。「お詫びだ」彼はネックレスを取り出し、気のない口調で続けた。「今日は一緒に婚約披露パーティーで着るドレスを試着しに行くんだから、いつまでもそんな顔するなよ。ずっと俺の隣に、婚約者として堂々と立ちたかったんだろ?」彼はあまりにも自信満々だった。まるで「鷹司家の妻」という立場を与えてやると言いさえすれば、私は涙を流して喜び、これまでの屈辱をすべて忘れるはずだとでも思っているかのようだった。私はそのネックレスを見つめながら、付き合い始めたばかりの頃、彼が銀のネックレスをプレゼントしてくれたことを思い出した。あの日、彼はプラタナスの下に立ち、耳までほんのり赤く染めながら、照れを悟られまいと平静を装っていた。「適当に買っただけだ。気に入らなきゃ捨てればいい」私はそのネックレスを、3年間ずっと身につけていた。やがてチェーンが切れてしまっても、捨てることなどできなかった。それなのに今、彼が高価なダイヤモンドのネックレスを何気なく差し出してきても、その輝きに心が動くことはなかった。午後、私たちはブライダルサロンへ向かった。婚約披露パーティーで着るドレスは、私が一目惚れして選んだものだった。アイボリーのサテン生地に、襟元から肩にかけて小さな真珠が散りばめられている。ふんわりと軽やかなスカートは、まるで月の光をまとっているかのようだった。試着室のカーテンを開ける
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第4話
マンションにある私の荷物は、それほど多くなかった。3年間一緒に暮らし、私はとっくに智則の生活の一部になっているつもりだった。けれど、いざスーツケースを開いて荷造りを始めてみると、持っていけるものなど、数着の服と何冊かの本、それに数枚の古い写真くらいしかなかった。私はダイヤモンドのネックレスをギフトボックスに戻すと、引き出しの奥から、切れてしまった銀のネックレスを取り出した。ずいぶん古くなった銀のチェーンは留め具が壊れ、ところどころ黒ずんでいる。私はそれを長い間、手のひらに握り締めていた。そのとき、スマホが震えた。智則からメッセージが届いていた。【今夜、御影邸に来い。仲間も全員いる。これが最後の婚約者テストだ。これさえクリアすれば、明日は予定どおり婚約を発表する】私は長い間、画面を見つめていた。最後の婚約者テスト。なんて軽々しい言葉なのだろう。この3年間、彼の仲間たちは私が耐える姿を余興にし、私の屈辱を賭けの対象にし、私の愛さえ好き勝手に弄んでいいチップのように扱ってきた。そして智則は、いつだって彼らの真ん中に立ち、高みからそれを眺めていた。私が傷つくことなど、最初から分かっていたはずなのに。それでも彼は決まって、あと一度だけ我慢しろと言った。私は黒いロングドレスに着替え、御影邸へ向かった。広いリビングは煌々とした明かりに照らされていた。芙美乃は智則の隣に座り、膝には薄いブランケットをかけている。その指には今も、本来なら私のものになるはずだった婚約指輪がはめられていた。私が入ってくるのを見ると、彼女は反射的にその手を引っ込めた。智則が私に向かって手招きする。「こっちに来い」私はその場に立ったまま動かなかった。すると、誰かがふざけた調子で笑った。「水城さん、今夜は脱衣ゲームじゃないっすよ。鷹司さんからのお達しでね。また思い詰めて海にでも飛び込まれたら困るってさ」部屋中にどっと笑い声が広がった。智則はグラスを持ち上げ、口元に気だるげな笑みを浮かべた。「今日は簡単なやつにしておく」そう言って私を見る。「芙美乃に酒をついで、ちゃんと謝れ。ヨットの夜、お前が海に飛び込んだせいで、芙美乃は相当怖い思いをしたんだ」一瞬、自分の耳を疑った。「私が彼女に謝るの?」智則は眉
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第5話
スマホの画面が明るくなったとき、智則はまだグラスを手にしていた。画面に目を落とした彼の表情には、まだ苛立ちの色が残っていた。けれど、そこに書かれた一文を読み終えた瞬間、その表情が凍りついた。芙美乃が恐る恐る口を開く。「智則、依緒さんはまた怒っちゃったのかな?今日は機嫌が悪かったみたいだし、あまり怒らないであげてね」智則は何も答えなかった。すぐに電話をかけた。けれど、繋がらなかった。もう一度かけても、やはり同じだった。彼の顔から、少しずつ表情が消えていった。それでも空気を読めない誰かが、まだ笑いながら口を挟んだ。「水城さん、今回はずいぶん本気で芝居してますね」「女なんてちょっと宥めりゃ戻ってきますって。あれだけ鷹司さんにべったりだったんだから、どこへ行けるっていうんです?」智則が勢いよく顔を上げた。その男は一瞬で口を閉ざした。智則は上着を掴み、そのまま外へ向かった。芙美乃が慌てて後を追う。「智則、どこに行くの?」「依緒を捜しに行く」「でも、今夜は……」智則が振り返って彼女を見た。その眼差しはひどく冷たかった。芙美乃はそれ以上、何も言えなくなった。智則は車を飛ばしてマンションへ戻った。途中で何度赤信号を無視したのか、自分でも覚えていなかった。ドアを開けると、部屋の中は静まり返っていた。靴箱からは、女物のスリッパが一足なくなっている。ウォークインクローゼットの中も、半分ほど空になっていた。バスルームには、依緒がいつも使っていた歯ブラシがなかった。ローテーブルの上にはダイヤモンドのネックレスが入ったギフトボックスが置かれ、その隣にはマンションの鍵が残されていた。智則はその場に立ち尽くした。胸を激しく殴りつけられたような衝撃が走った。彼は寝室のドアを押し開けた。ベッドサイドテーブルの上には、切れた古い銀のネックレスが置かれている。その下には、一枚のメモが挟まれていた。見慣れた、細く美しい字だった。【昔のものは、思い出と一緒に置いていきます。新しいものも、もういりません。】3年前、依緒にこの銀のネックレスを贈ったとき、智則自身はそれほど深く考えていなかった。当時の彼は鷹司家の事業を引き継いだばかりで、目が回るほど忙しく、たまたま通りかかった店で
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第6話
依緒と連絡が取れなくなって7日目、智則はついにあのヨットハーバーへ向かった。あの夜、ポーカーに参加していた者たちは全員、彼に呼び出されていた。普段なら誰よりも率先して囃し立てる連中が、今は甲板の上に立ち、息を潜めたまま誰一人口を開こうとしない。智則は、あの夜と同じ席に腰を下ろした。ポーカーテーブルはすでに綺麗に片づけられ、シャンパンタワーも跡形もなく消えていた。それでも目を閉じれば、照明の下に立つ依緒の姿が鮮明に浮かんだ。彼女は服の裾を強く握り締め、肩を激しく震わせていた。あのとき、彼女は自分を見ていた。甘えていたわけでも、意地を張っていたわけでもない。助けを求めていたのだ。それなのに、自分は何をしていた?芙美乃のために魚の小骨を取り除いていた。他の男たちが依緒を辱めるのを聞いて笑い、自分まで彼女の傷口を抉るような言葉を投げつけた。智則は突然、息苦しさを覚えた。やがて一人が怯えながら口を開いた。「鷹司さん、あの夜は俺たちも冗談のつもりだったんです。まさか水城さんが本当に飛び込むなんて思わなくて……」智則が顔を上げた。「脱衣ポーカーをやろうと言い出したのは誰だ?」一同は互いの顔を見合わせたが、誰も答えようとしなかった。しばらくして、ようやく一人が小声で答えた。「藤江さんです。水城さんが鷹司さんの仲間たちに認めてもらいたいなら、それなりの誠意を見せないとって……」智則の眼差しが暗く沈んだ。「じゃあ、依緒にあんなことを言ったのも、芙美乃に言われたからか?」男は一瞬言葉に詰まり、みるみる顔を青ざめさせた。「いや、それは……誰かに言われたわけじゃないです。俺たち、前からああいうノリだったじゃないですか。鷹司さんだって、今まで止めたことなかったし……」智則の胸に、鋭い痛みが突き刺さった。その通りだった。自分は何も言わなかった。だからこそ、彼らは次第に調子に乗り、どこまでも酷いことができるようになったのだ。彼らが依緒を軽んじていたのは、そもそも自分自身が、依緒なら笑いものにしても構わないと彼らに思わせてしまったからだった。依緒の愛は安っぽく、どれだけ傷つけても最後には我慢してくれる――そんな扱いを許していたのは、ほかでもない自分だった。その夜、智則は長い間、ヨットの上に座ってい
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第7話
1か月後、智則は目に見えて痩せていた。彼は、依緒が行きそうな場所を片っ端から捜した。以前よく通っていたスイーツ店。お気に入りだった古書店。大学の正門前に続く、あのプラタナス並木。けれど、誰に尋ねても依緒を見たという人はいなかった。依緒は彼の世界から、跡形もなく消えていた。婚約披露パーティーも中止になり、依緒の電話番号もすでに解約されていた。共通の知人でさえ、依緒がどこへ行ったのか知る者は一人もいなかった。智則は眠れなくなった。夜、目を閉じるたびに、海へ飛び込んだ依緒の後ろ姿が浮かんでくる。彼女は一度も振り返らなかった。あまりにも決然としたその後ろ姿は、いつまでも塞がらない傷となって彼の胸に残った。芙美乃が智則を訪ねてきたのは、深夜のことだった。白いワンピースを着た彼女は、目を赤くしてマンションの玄関先に立っていた。「智則、少し話せない?」智則は彼女を部屋に入れなかった。芙美乃の顔から、さっと血の気が引いた。「前は、私を玄関の外に立たせたりしなかったのに」智則は淡々と答えた。「今までが間違ってたんだ」その瞬間、彼女の目から涙がこぼれ落ちた。「じゃあ今は、全部私が悪いって言いたいの?」智則は彼女を見つめたまま、何も答えなかった。芙美乃は涙に声を詰まらせながら言った。「認めるわ。私、依緒さんのことが嫌いだった。私よりずっとあとから現れたくせに、あなたをまるで別人みたいに変えてしまったから。あなたは彼女のためなら私たちとの集まりだって断ったし、彼女がパクチーを苦手としていることも覚えてた。彼女が暗いところを怖がれば、夜中でも駆けつけてた。私はただ、あの人がそこまで大切な存在じゃないって証明したかっただけなの」智則の喉仏がわずかに動いた。「だから何度も、あいつにあんな惨めな思いをさせたのか」芙美乃は泣きながら首を横に振った。「ただの冗談だったの。本人が気にしなければ、それで済む話だったでしょう?」その言葉は、まるで平手打ちを食らったかのような衝撃を智則に与えた。なぜなら、かつての彼もまったく同じように考えていたからだ。依緒が自分を愛してさえいれば、どれほど傷つけても、そんなことはなかったことにできると思っていた。依緒が最後には戻ってくるのなら、それほど傷ついては
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第8話
私は南にある海辺の小さな町に落ち着いた。ここへ来たばかりの頃は、相変わらず海が怖かった。夜、波の音が聞こえると夢から飛び起き、全身が冷や汗でびっしょりになっていることもあった。夢に出てくるのは、決まってあの夜の光景だった。ヨットを照らす明かりの下、智則は上座に座り、気だるげな表情で、まるで自分とは何の関係もない余興でも眺めるようにこちらを見ている。夢の中で私は何度も海へ飛び込み、そのたびに冷たい海水に呑まれたところで目を覚ました。大家のおばあさんは、怖いなら海なんて見なければいいと言った。けれど私は、あえて毎朝海辺へ行き、しばらくそこで過ごすことにした。あの真っ黒な海を、自分の悪夢から取り戻したかった。その後、私は朝倉湊(あさくら みなと)と知り合った。彼は海辺で小さな木彫りの店を営んでいた。無口な人だったけれど、木を彫るその手はいつも落ち着いていた。初めて会ったのは、私が砂浜で発作を起こしたときだった。水遊びをしていた子供たちが甲高い歓声を上げた瞬間、あの夜の笑い声が耳の奥に蘇り、突然全身が震え始め、息ができなくなった。湊は私に触れなかった。ただ二歩ほど離れた場所にしゃがみ込み、自分の上着を砂浜に置いた。「よかったら、これを羽織って。俺はここにいる。近づかないから」その声はとても穏やかだった。智則とは違った。智則はいつも、私の代わりに何もかも決めたがった。もっと聞き分けのいい女でいるべきだ、折れるべきだ、騒ぐべきじゃないと。けれど、湊は決して私の代わりに何かを決めようとはしなかった。ただ、こう尋ねるだけだった。「君は、どうしたい?」過去と向き合いたいのか。もう一度、海に近づいてみたいのか。もう一度、誰かを信じてみたいのか。私はすぐに彼を好きになったわけではない。一度深く傷ついた人間には、温もりに近づくためにさえ時間が必要だった。私は、あらゆる優しさには代償があるのではないかと恐れていた。今日差し出された優しさが、明日には私を屈服させるための切り札に変わるのではないかと怯えていた。けれど、湊は決して急かさなかった。私が木彫りの店の前を通りかかれば、温かいお茶を一杯用意しておいてくれた。雨の日には店先に傘を用意しておき、それが私のためだとは決して言わなか
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第9話
智則は、すぐには帰らなかった。彼はそのまま小さな町に滞在することにした。以前のように強引に私の生活に踏み込んでくることはなく、ただ毎日、少し離れたところから、私が海辺へ行く姿や、花を買う姿、夕暮れ時に木彫りの店の外でお茶を飲む姿を見つめていた。彼はようやく、待つことを覚えた。けれど、あまりにも遅すぎた。ある夜、町を激しい雨が襲った。コンビニを出ると、道路には足首まで浸かるほど雨水が溜まっていた。海風に煽られた雨が容赦なく吹きつけてくる中、私は軒下に立ち尽くし、突然あの夜の冷たい海水を思い出した。指先が震え始める。その寒さは外から染み込んでくるものではなく、記憶の奥底から這い上がってくるものだった。智則が向かい側から駆けてきた。傘を差すことさえ忘れていた。「依緒」彼が手を伸ばし、私を支えようとした。けれど、その手が届くより早く、別の誰かが乾いた上着を私の肩にかけた。湊が私の隣に立ち、私のほうへ傘を傾け、風雨から守ってくれていた。彼は、なぜ私が震えているのかとは聞かなかった。ただ静かな声で尋ねた。「家に帰る?」私は頷いた。智則の手が宙に浮いたまま止まった。雨水が前髪を伝い、頬へと流れ落ちていく。彼は湊が私の肩にかけた上着を整える姿を見つめ、その瞳に残っていたわずかな光が、ゆっくりと消えていった。あのヨットハーバーで、全身ずぶ濡れになっていた私の前に立ったとき、智則も自分の上着を着ていた。けれど、彼がそれを脱いでかけてやった相手は、私ではなく芙美乃だった。そして今、別の人が私に上着をかけてくれている。彼にはただ、雨の中に立ち尽くして、それを見ていることしかできなかった。「依緒」智則が苦しげに声を絞り出した。「これからは、俺だってできる。だから――」私は彼の言葉を遮った。「智則、これからの話じゃないの」まっすぐ彼の目を見つめる。「人はいつまでも同じ場所に立って、同じ上着を待ち続けたりしない」彼の唇は、少しずつ青ざめていった。私はそのまま続けた。「あのヨットの夜、私はあなたを待った。病院でも、あなたを待った。ブライダルサロンでも、ずっと待ってた。御影邸でだってそう。あの夜、あなたがたった一言、私が謝る必要なんてない、『婚約者テスト』なんて受けなく
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第10話
1年後、私はもう一度、あの街へ戻った。智則に会うためではない。ただ、あの街に置いたままの荷物を、きちんと整理しておきたかったからだ。マンションは、まだそのまま残っていた。部屋の前に立ち、インターホンを鳴らす。しばらくして、ドアが開いた。そこに立っていた智則は、私の姿を見ても驚かなかった。何も言わずに中へ通され、部屋に足を踏み入れる。室内は、私が出ていったあの夜から時間が止まってしまったかのように、何もかもあの頃のままだった。ローテーブルの上には、修理されたあの銀のネックレスが置かれている。その隣には、見覚えのある小さなベルベットのケースがあった。手に取って蓋を開けると、中に入っていたのは、かつて芙美乃の指にはめられていた婚約指輪だった。私はそっとケースを元の場所に戻した。振り返ると、智則は少し離れたところに立ったまま、黙って私を見つめていた。やがて、彼が掠れた声で口を開いた。「もう来ないと思ってた」「残ってるものを取りに来ただけ」私は静かに答えた。彼の瞳がかすかに揺れた。「結婚するのか?」私は否定しなかった。湊が私にプロポーズしてくれた日、辺りを埋め尽くすほどの花も、華やかな演出もなかった。彼はただ、朝の海辺で一つの木の指輪を私に差し出した。彼が自分の手で彫ったもので、内側には小さな波模様が刻まれていた。そして、こう言った。「急いで返事しなくていい。君がつけたいと思ったときに、つけてくれればいいから」私はその指輪を見つめながら、ゆっくりと目を赤くした。ようやく、私自身の意思で選ばせてくれる人に出会えたから。智則は、私の左手の薬指にはめられた指輪に気づいた。その瞬間、彼の瞳が大きく揺れた。「そいつは……お前を大事にしてくれるのか?」私は頷いた。「とても大事にしてくれる」「俺より?」私は彼を見つめた。本当は、比べることに何の意味もない。けれど智則は、どうしても答えを聞かなければならないかのように、じっと私を見ていた。だから私は、その目をまっすぐ見つめ、静かに答えた。「あの人は、私に寒い思いをさせないから」たったそれだけの一言で、智則は凍りついた。彼は俯き、かすかに笑った。その笑顔は、泣き顔よりも痛々しかった。「そうだな。俺は、そ
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