エルドリスはキャビネットを開けて、平たい缶を取り出した。僕は甘い焼き菓子の類が出てくると思い、期待を込めて彼女の手元を見つめる。
しかし、彼女が缶の蓋を開けた瞬間、その期待は粉々に打ち砕かれた。
中に詰められていたのは、丸く平らな魔物だった。見た目はチョコチップクッキーに似ているが、数えきれないほどの細かい脚が、体の周りをぐるりと取り囲んでわさわさ動いている。
鳥肌が立った。
「こ、これは……?」
「ダスト・スコッチ。D級魔物だ」
エルドリスは缶の中からダスト・スコッチを一匹取り出し、指でその脚の生えていない体の中央を摘まみながら僕に見せた。
「ダスト・スコッチは食べ方に工夫がいる。正しい食べ方をすれば焼き菓子代わりになるが、間違うと、臭くて苦い雑巾の味になる」
「ぞ、雑巾……?」
「味を知らないか? それは幸運な人生を送ってきたな」
僕は返事ができなかったが、彼女は気にせず続けた。
「まず、脚をすべて抜く」
そう言い、ダスト・スコッチの周囲に生えている細かな脚を二十本ほどまとめて摘み、一気に引き抜く。そしてそれを繰り返す。
僕もダスト・スコッチを摘まみ上げ、彼女の真似をして、恐る恐る脚を引っ張った。細い脚は大した抵抗もなく簡単に抜ける。虫は悲鳴を上げたり暴れたりしないから、あまり気も咎《とが》めない。
エルドリスは、僕がすべての脚を抜き終えるのを待って口を開いた。
「次は、平らな面が地面と平行になるように持ち、十回ほど振る。こうして内部の臓器や体液を撹拌《かくはん》するんだ」
エルドリスは言いながらダスト・スコッチを振る。僕もすかさず真似をした。その動作に合わせて、ダスト・スコッチから微かに甘い香りが漂ってくる。
「これが最後だ。振り終えたら間髪入れず、半分に割り開く」
彼女は両手の親指と人差し指を使って、パキッと小さな音を立てながらダスト・スコッチを二つに割った。僕もやってみる。
断面は、焼いたパイ生地のような層になっており、層の間からは紫水晶のように輝く淡紫の蜜がとろりと滲《にじ》み出てくる。
「こうなれば、もう大丈夫だ。よく噛んで食べろ」
エルドリスは真っ二つに割り開いたダスト・スコッチの半分を口に運び、カリカリと小気味よい音を立てながら咀嚼する。僕も同じように口に入れてみた。
「甘い……」
最初に広がるのは、仄《ほの》かな甘みとナッツのような香ばしさ。そして歯を立てればカリッとした食感の後、層の間から淡紫の蜜が染み出て、舌の上に濃厚な甘さを広げる。
蜜は、煮詰めた蜂蜜のような香りと奥深いコクがあり、咀嚼を続けるとそれはやがてスーッと清涼感のある後味に変わった。
魔物だという事実を忘れそうになるほど、純粋に美味い。
僕はいつの間にか割り開いたもう半分も食べ終えていて、新たなダスト・スコッチの脚を無心に毟《むし》っていた。
「美味いか、助手君?」
わかりきったことを彼女は尋ねる。
「はい、美味しいです、びっくりするぐらい。外側の硬い部分はナッツ入りのクッキーみたいで、中の蜜は脳が痺れるような複雑な甘さ。最後、飲み込む直前くらいになると爽やかな清涼感まであって」
「秀逸な食レポをどうも」
「いえ……モガッ」
油断した。エルドリスが突然、僕の口に割り開いたダスト・スコッチの半分を突っ込んできた。そしてもう半分を自分の口に入れ、にっこりと微笑む。
「どうだ?」
僕は咀嚼しながら驚愕した。
彼女の処理したダスト・スコッチの方が、僕のより数段美味い。
「なんで……」
「素人と調理人の差さ」
満足げな彼女の笑みを見ながら、僕は何故だかふっと肩の力が抜けるのを感じた。そして、やや感傷的な思いが巡ってくる。
終身刑の囚人と向かい合いながら、魔物でできた茶を飲み、茶菓子代わりに魔物を食べる午後のひととき。
第七監獄《グラットリエ》という場所に不釣り合いなほどの平穏。
だがそれは、重犯罪という泥沼の上に薄く砂を張った土地に、かろうじて建つだけの楼閣《ろうかく》。
「エルドリス」
改まって口を開いた。
「僕は前任の監督官から引継ぎを受けて、あなたのプロフィールや経歴、そして罪状を知っています」
エルドリスはあまり関心のなさそうな目で先を促す。
「そのうえで疑問に思っているんです。あなたは本当に、罪状通りの罪を犯したのでしょうか。もしそうだとしたら――いえ、もしあなたの罪がそれだけなのだとしたら……終身刑は重すぎます」
しばしの沈黙。
エルドリスの碧眼がゆっくりと細められた。
「そんなことを言う監督官は初めてだ。お前、もしや私と寝たいのか?」
「は?」
「私に情をかけるふりをして、すり寄ってくる監督官は何人かいた」
「ばっ、そ、そんなのと一緒にしないでください! 僕は本当にただ、事実が知りたくて」
「なるほど。だが知ってどうする。仮に私の刑罰に正当性がなかったとして、だからなんだ? お前には何も関係しない。お前の職務はただ、調理助手《アシスタント》兼監督官として私を補助し、見張る、それだけだ」
「それが嫌だから、って言ったら信じますか?」
「……ほう」
彼女の口角が僅かに持ち上がる。
「演者本人を前にして、こんなこと言うのは失礼極まりないですが……あの『30分クッキング』という番組、相当イカレてます。あんなものに何か月も何年も出続けるつもりはありません」
「そうか。転属が叶うといいな」
叶わないだろう、という皮肉を滲ませて彼女は言う。
「違います。叶うといい、ではなく叶えるんです。どうすればいいか、僕は、ない頭を捻って考えました。その結果が先ほどの質問です。エルドリス・カンザラ。あなたがその罪に対する正当な罰としてこの第七監獄《グラットリエ》にいるのかどうか。もしも正当でないのなら、あなたの刑は減刑され、その減刑量に応じてあなたは第一から第六監獄のいずれかに移送されるでしょう。そうすれば自動的に、調理助手《アシスタント》兼監督官の僕はお役御免となる」
「筋道立ってはいるが、随分と都合のいいストーリーだな。まるで幼子に聞かせる寝物語だ」
「僕は真剣です。それで、実際のところはどうなんですか?」
「何が?」
「あなたの罪状もしくは刑罰です。どちらが正しくて、どちらが誤っているのか」
「両方」
エルドリスは不敵な眼差しで僕を見た。
「間違っていると言ったら、お前はどうする、監督官殿?」
撮影が終わると、ネイヴァンは転移魔法で帝都へと帰っていった。 午前十一時。十二時のランチタイム開始まで、あと一時間。「イオルク、冷凍室から牛のヒレ肉を取ってきてくれないか」 食材の準備をしていたエルドリスに頼まれる。僕は別に『エルネット』の調理助手《アシスタント》ではないのだが、土曜日で時間もあるし、断る理由もないので手伝うことにする。 キッチンの隅には、鈍い光沢を放つ金属製のドアがある。以前にネイヴァンとこの店に不法侵入したときには、施錠されていて開かなかった。それをこじ開けようとするネイヴァンを慌てて止めたのも、今ではいい思い出だ。エルドリスには言えないが。 今は開錠されているドアを開けて、地下へと続く階段を下りていく。あの不気味な館と同じで、このレストランも魔導冷凍庫とは別に、長期保存用の冷凍室を地下に持っているという。 最下部へたどり着くと、また金属製のドアがある。それを開けた途端、氷点下の冷気が一気に流れ出てくる。 僕はヒレ肉を探して棚の間を歩いた。 あっ、と思った時にはもう、床に流れ出た水が凍っているのを踏んでいた。つるりと滑って近くの棚にぶち当たる。 ガタンッ、ガタタ「あいっ……たた」 ドサッ 棚の最上部から革袋が落ちてきた。重い音がしたが、中身は何だろうか。 卵や瓶など、割れモノだったら大変だ。 中身の無事を確かめるべく、僕は革袋を覗く。 言葉を失った。 それは――若い男の生首だった。苦悶の表情を浮かべたままカチカチに凍っている。「何をしている」
「お役人さん、最近うちの畑にモグラが出て困ってるんだ。助けてくれるかい?」 町役場の受付カウンターで書類を整理していた僕が顔を上げると、そこに立っていたのはネイヴァンだった。「また来たんですか。言っときますけど僕、午後五時まで上がれませんからね」「別に構ってくれなんて言ってないじゃあないか。『エルネット』にランチを食いに来たんだ」「エルドリスにも、また来たのかって言われますよ」「別にいいだろう。帝都から一瞬なんだ」「転移魔法使いは便利でいいですね」「ツンツンするなよ。俺の顔が見られて嬉しいだろう?」「毎週末、見てますけどね」 エルドリスは結局、レオネウスを開かなかった。 開く代わりに、気絶した僕を叩き起こして回復魔法を掛けさせた。 彼女はレオネウスをしこたま辛辣に罵倒したあと、彼の嗜虐趣味とあの夜のアブノーマルな会合を世間にバラさない代わりとして三つの条件を提示した。 ひとつ、エルドリスの罪は冤罪だったと明言して彼女を解放すること。 ふたつ、僕たち三人が皇帝である彼に刃向かったことを不問にすること。 みっつ、僕を第七監獄《グラットリエ》からどこかの町役場へ異動させること。 レオネウスは最後まで気味の悪い笑みを浮かべていたが、仕方なしといった様子で条件を飲んだ。 そして僕は今、エルドリスの故郷――セリカの町の町役場に勤めている。 エルドリスは第七監獄《グラットリエ》から釈放されたあと故郷に戻り、レストラン『エルネット』を再開した。 ネイヴァンは今も帝都で脚本家兼演出家を続けている。生きた魔モノを開く『30分クッキング』は人気調理人だったエルドリスの釈放とともに終わってしまったが、彼は新しい番組を撮り始めた
エルドリスはレオネウスへまっすぐ突き進む。途中、白仮面の男が食い止めようと割り込むが、「邪魔をするな!」 僕の魔力を受け取り強化された彼女は、ナイフの柄尻でいとも容易く殴り飛ばした。男が派手に転倒し、小石のごとく床を転がっていく。次の瞬間―― ガキィイイン! 甲高い音を立てて、ナイフと短剣の刃《やいば》が激しくかち合った。 レオネウスが、ここにきて初めて、僅かに顔をしかめる。「なるほど、これは防御一辺倒ではいられないな」 エルドリスのナイフが素早く閃き、連続して斬撃を放つ。 レオネウスは巧みに短剣を操り、襲い来る刃先を逸らしながら反撃を試みる。 刃と刃がぶつかり合って悲鳴を上げる。「答えろ。あのアンフィモルフは本当に人間だったのか」 鋭い突きを放ちながら問う。それをかわしたレオネウスが、意趣返しとばかりに深く踏み込み、「いいや、アレは私が弓の修練で捕らえた、ただの魔物だ」 突き出した短剣でエルドリスの胸元を狙う。が、彼女は上体を捻りナイフを盾にして軌道を逸らす。 反撃の刃がレオネウスの頬をかすめ、浅い切り傷から赤が一筋、焦げ茶色の肌を伝った。「では、私とリュネットは無実の罪で捕らえられたと?」 次の瞬間、エルドリスは横へ飛び、サッと姿勢を低くして足払いの奇襲を仕掛ける。 レオネウスは咄嗟に後方へ飛ぶが、追いかけるエルドリスが速い。空中の不安定な体勢のまま打ち合いとなり、エルドリスに押し込まれるように着地する。「悪かったね。他にきみを終身刑にできうる冤罪を思いつかなくて」 刃が
「飛ばしたのか……? どこへ飛ばした」 エルドリスの声音は静かだが怒気を孕んでいる。レオネウスは薄く笑みを浮かべながら答えた。「心配ないよ。殺すには惜しい人材だからね。帝都に帰ってもらっただけだ」 それを聞いて、僕はネイヴァンの無事をひとまず安堵するとともに切迫感を覚えた。命の心配はなさそうだが、これでネイヴァンは完全に戦線離脱だ。この場所の座標がわからない以上、転移魔法を操る彼であっても、もうここには戻ってこられない。 ここからはエルドリスとふたりで戦うしかない。 覚悟を胸にエルドリスに視線を移すと、レオネウスと対峙してじりじり距離を詰めようとする彼女の動きが微妙に左足を庇っていることに気づいた。怪我をしているのかもしれない。 僕はエルドリスの前方に広範囲の鉄の守護《アイアンウォード》を張った。 不意に現れた防御結界に、エルドリスが怪訝な顔で振り向く。僕はすぐに彼女に駆け寄り、その足元で跪いた。 回復魔法を発動し、彼女の左足首をオレンジ色の魔力で包み込む。「ああやっぱり、痛めてますね」「大した怪我じゃない」 怪我の度合いは魔力を通じて明白に伝わる。「いいえ、折れてます。無茶しないでください。あなたは兵士じゃないんです」「お前もだ。ネイヴァンだってそうだった。だが戦う。兵士じゃないことは、無茶をしない理由にはならない」 言い返せないまま、僕は治療を終えて立ち上がった。 エルドリスは前方にいるレオネウスから目を離さないまま、低く言った。「強化魔法を掛けてくれ」「……駄目です。さっき一度掛けています」
エルドリスがナイフを構え、皇帝レオネウスへと踏み込もうとした瞬間、白仮面の男たちが一斉に彼女の前へ立ちはだかった。「チッ……そうすんなりとは、いかないか」 疾風の如く駆け出し、正面の白仮面の男へナイフを振り下ろす。男は素早く横に身をかわし、掌底でエルドリスの手首を狙った。彼女はわずかに体を捻りながら攻撃をかわし、返す刃で男の脇腹を斬り裂く。男が痛みに呻く隙にナイフを構え直し、刃先を急所へと向ける。 その刹那、背後から別の男が拳を突き出す。「鉄の守護《アイアンウォード》!」 僕は咄嗟に防御魔法を展開して、エルドリスの背部にオレンジ色の魔法陣型の防御結界を張る。その結界が男の拳を弾いた。「爆発的な一撃《バーストブロウ》!」 別の男と入れ替わりで突如その場に現れたネイヴァンが、赤い魔力をまとった一撃を繰り出す。彼は離れた観客席にいたはずだが、戦闘開始を見て交換転移《ステップジャンプ》で援護に来たらしい。 振り抜かれた拳が、エルドリスの背後にいた男の白仮面を打ち砕く。破片が飛び散り、男の体は数メートル先へ吹き飛ばされて、床をズザザザと滑ったあと、動かなくなった。 さらに迫りくる白仮面の男たち。ネイヴァンが次々と拳を振るい、エルドリスが華麗にナイフをひらめかせる。 僕は交戦する男たちの隙を狙い、俊足の鎖《ラピッドチェイン》でひとりずつ拘束していく。ネイヴァンに白仮面ごと顔面を砕かれたり、エルドリスに急所を刺されるよりは彼らもマシだろう。彼らに直接の恨みがあるわけではない。動きを封じられればそれでいい。 ネイヴァンと背中が触れた。僕は前方の敵を睨みつけたまま呟く。「皇帝に盾突くなんて、僕たちおしまいですね。なんだか笑えてきま
観客たちが次々と席を立ち、座席横から伸びる通路の奥へと消えていく。 やがて観客席はもぬけの殻となった。 男がパチンと指を鳴らす。 するとエルドリスと僕のドレスは元の白いエプロンに戻り、それぞれが着ていた黒のコック服と看守の制服も元通りになる。 男がエルドリスに向き直った。「お疲れさま。素晴らしい調理だったよ」「それはどうも」 エルドリスが形式ばかりの会釈をする。「……やはり、きみとケーキを切りたかったな」「ただのごっこ遊びだろう」「心外だね。初めてきみの料理を食べた日から、きみのことを忘れたことはないよ」 エルドリスの目が探るように男の白仮面を見る。だが男の表情を窺い知るのは難しい。「店に来た客か?」「いいや、セリカは遠いからね。それよりも、心当たりがあるだろう?」「まどろっこしい言い方はよせ。お前は誰だ」「このケーキも絶品だった。できることなら観客たちに分けたりせず、独り占めしたいくらいだ」「質問に答えろ」「あの拘束台の上、私の目には誰が映っていたと思う?」「興味はない」「きみだよ、エルドリス。ああ、やはりきみは、生きていても死んでいても美しいな」「……変態め」「きみが言うのかい? 私ときみとの違いは、口に出して言うか言わないかの違いだけじゃないか」 男はウエディングケーキの最上段に手を伸ばした。 僕にもはっきりとソレが見えた。 男の指が、碧い光彩を持つ目玉を掴み取り、口へと運ぶ。ねっとりと、味わうように顎を動かす。「もっと早くにこうしたかった。反対する側近たち