INICIAR SESIÓN「はぁはぁはぁ——」
長い時間全速力で走り過ぎて喉が痛い。履き慣れてはいる靴だけど、編み上げブーツタイプの革靴は走るのには適していないせいで靴擦れをおこしている。踵もつま先も血が滲み、この痛みでは爪も破損していそうだ。怪我を治そうと思えば走りながらでも回復魔法で治せるが、今はスタミナの回復に努めないと危険な状況にある。少しでも走る速度が落ちればコボルト達はすぐワタシに追い付くだろう。最初は小石を投げた一体だけだったコボルトも、今では仲間が集まって来ていて何匹にも増えている。振り返れないから正確な数はわからない。だけど叫び声や足音からして追って来ているのは十や十五どころの話ではないだろう。
(いつまで、持つかな…… ワタシの魔力)
酸欠気味なせいでぼんやりとしてきた頭の中でそんな事を考えた。追いつかれるか、魔力切れを起こせばワタシは難なく彼らに捕まるだろう。そうなればまず間違いなく、死ぬ。先行していた一体に石を投げて怪我を負わせたし、ワタシは手を下してはいないにしても、彼らの奴隷であったゴブリンを殺した事には変わりないから。
攻撃系の魔法をワタシは使えないし、まともな武器も無く、コボルトはワタシ程度が力で対抗出来る相手ではない。自分一人の犠牲であの三人が助かるのならそれも悪くないけれど、町にはワタシの帰りを待っている幼い弟がいるから簡単に諦める訳にもいかないのが辛いところだ。
(だけど、このまま逃げ切れるんだろうか?)
もうかなりの距離を走った気がする。ロイヤルさん達や町に被害があっては大問題だからと、正反対の方向に走り続けて来た。だけど、そのせいでもう、彼らの助けは見込めない。あの三人が無事に町へ辿り着いていたとしても、話しを聞いて、救助隊がワタシを探すにはヒントがなさ過ぎる。この世界の連絡手段である《伝書鳥》も町に置いて来ているし、生き残る為には何処か隠れられる場所を見付けなければ。
『待テェェェェェ!イイ加減ニシロ、コノアマァ!』
コボルト達にも疲労が見えるが、残念ながら怒りがそれを上回っている。この様子では簡単には諦めてくれないだろう。
腰から下げていた水筒と非常食を入れたポーチ、テーピングや裁縫セットなどの入る小さな鞄、ずっと手に持っていた杖を横に投げ捨て少しでも身を軽くした。無駄な行為かもしれないが、何もしないよりはきっとマシだろう。
木々の間を駆けているせいで頬や素脚部分が枝に引っ掛かり傷を作っているが、構っている隙は無い。ゴブリンの討伐の為にと町を出発した時はまだ朝だったのに、今はもう夕日が空を染め始めている。このまま夜になってしまえば一層ワタシの状況は不利になるだろう。魔物は夜目が効くが、生粋の獣人ではないワタシの目ではほとんど周囲が見えなくなる。体は傷だらけ、ランタンなんか持って来てもいないし、火属性の魔法も使えないから灯りを得る手段は何も無いときたもんだ。
(あぁ、これが『絶体絶命の大ピンチ』ってやつなのかな)
一年前では知りもしなかった言葉が当然の様に頭の中に浮かび、ふっと自嘲気味の笑みが自然と顔に浮かんだ、その時——
目の前に広がっていた数多の木々が一瞬にして無くなった。視界が一気に開け、茜色の綺麗な夕焼け空が前方に目一杯広がる。眼下には広大な森が何処までも続いていた。
「——あっ」
勢い余って前に出した足で地面を蹴ろうとしたが、そこには何も無い。どうやらワタシは崖まで走って来てしまっていたみたいだ。
一、二度空を蹴るばかりで、次の瞬間には視界が急速に下方向へ流れていった。自由落下というやつだ。何か周りに捕まる物はないかと考える暇も無く、既に小さな傷だらけになっている体が下方に並び立つ木々から伸びる枝の隙間を落ちていく。魔力ももうほとんど残っていないのか、自分に回復魔法を使う事も不可能だった。
バキッ!ガサガサガサッ!と大きな音が響き、衝撃で周りの木が破損していくのがわかるがどうする事も出来ない。ドンッという音と共に地面が激しく揺れ、全身に容赦の無い激痛が走った。背を思いっ切り打ったからこれはきっと背骨が折れ痛みだ。
(……参った、なぁ)
瞼は開いているのに視界がぼやけ、生温いモノが肌に触れた。多分自分の血だ。だけどそれを確かめようにも体は動かず、指一本すら自由に出来なかった。全身が痛いけど、痛過ぎて段々とその痛みすら麻痺していく。脳から麻酔成分でも出ているんだろうか。もしかしたら、なけなしの魔力を無意識にそういう方面に使っているのかもしれないが、今の自分には確かめる術は無かった。
(リア、ン……)
まだ幼い弟の姿が目の前に浮かんでは消える。どうしよう、どうしようどうしよう…… 。あの子を保育所に預けたままにしてあるのに、この先あの子はどうなってしまうんだろうか?将来的には強くなれる保証のある子だけど、今はまだ非力なリアンには『家族』と呼べる相手はワタシしかいない。
しかも此処は、ワタシ達が元々生まれ落ちた世界とは全く別の世界だ。
《異世界》なんて不可思議な場所に移住しようと勝手に決めたのはワタシなのに、『此処へボクを連れて来たクセに、一人残してお前が先に死ぬのか!』と怒る事すら出来ないくらいに幼い、まだ赤ん坊のリアンが心配で堪らない。だけど……意識は容赦無く遠くなっていく。
(ごめん、ね。本当にごめん、リアン、リアン、リァ——)
この先。一人で生きていく為のお金どころか、家族とのささやかな思い出さえも残してやれない事を悔やみながら、不甲斐なさを噛み締めながら、ワタシは薄れていく意識から手を離した。
(——い、いいいっ、言ってしまった!我儘じゃ無かったかな、面倒だとか思われなかったかなっ) 平然と、朝ご飯を食べる事で頭が一杯になっているフリをして着替えを済ませ、リアンの部屋に急いで向かう。 失敗した……かもしれない。 過去を再体験するみたいな悪い夢を見て気持ちが凹んでいたとはいえ、そんなタイミングで、機嫌直しの為のプレゼントを受け取りやすい口実として『記念日に欲しい物が何かないか?』と気遣うみたいに訊かれたとはいえ、だ。『ワタシはスキアが傍に居てくれるだけで、寂しくないってだけで充分嬉しいよ』だなんて言ったのは、やっぱりマズかったのだろうか。別段嬉しそうでもなく、何となくスルーされた気さえするせいか、段々不安になってくる。(やっぱり、高望みだったのかな……) 森の奥深くで命を救われて以降。ほぼずっと傍に寄り添ってくれ、同じ布団で眠ってまでくれていたから、つい調子に乗ってしまった。毎晩の様に体に触れてくるから、より一層ワタシ達は『夫婦』なんだって実感して、心が勘違いをし始めているみたいだ。奥深くまで触れてくるアレはただ契約印に魔力を馴染ませているだけなのだと、何度自分に言い聞かせて窘めても、ふとした瞬間に見せてくれる熱の籠った眼差しと流れ落ちる汗を前にすると、『好きって感情をぶつけられるのって、こういう感じなのかな』だなんて勝手な妄想が頭に浮かび、いつも過度な反応を返してしまう。事が済んで冷静になる度に猛省してはいるが、あんな目と視線が絡んでは、むしろ『増長するな』という方が無理なのでは?と、そんな言葉は言われてもいないのに逆ギレしそうになってきた。…… 気持ちを宥めつつリアンの部屋の扉をノックし、反応がない事を確認してから部屋に入って大きなペットベッドで眠っているリアンに声をかける。「……起きて、リアン。朝だぞー。用意しないと、遅刻しちゃうよー」 「くぅぅんっ」 瞼が閉じたまま、でも返事だけは返してくれた。寝る子は育つと言うけれど、リアンはよく眠る割に、そこまで成長していない気がする。栄養が足りていないのか、ワタシの管理が悪いのか。今のこの子は長寿種であるそうだから、ただ単にフェンリルという種の成長ペースが遅
「——っ!」 突如視界に真っ白な天井が広がった事に驚き、勢いよく体を起こした。今いるのが“記憶の夢”の中なのか現実なのかもわからず、慌てて周囲を見渡す。「……くぅ……」 外から聞こえてくる小鳥の囀り、カーテンの隙間から差し込んできた優しい朝の日差し。すぐ隣で、幸せそうに寝息をたてつつ口の端から涎をこぼして眠っているルスの顔を見てやっと、自分が“記憶の夢”から覚めたのだと自覚した。ちょっと大きなシャツを着て、穿いているショートパンツから伸びた細い脚を、捲れた掛布が無防備に晒している。 ほっと息を吐き、ぐっすり眠っているルスを見ていると、夢で見た過去の姿と、今の彼女の姿が重なって瞳に映った。あんなにも見窄らしかった、当時まだ九歳だった少女が、此処では立派なアイスブルー色の尻尾を持ち、胸元こそ控えめだが、ちゃんと健康的な体つきになっている。不健康でくすんでいた肌も、今では白くてとても艶やかだ。 幸せそうに寝入っている姿がとても眩しい。とてもじゃないが、あんな過去を経験してきた者には到底見えない。「……昨日は、ちょっと弄り過ぎたか?」 ふっと笑い、顔の方に落ちてきている髪を指でそっとよけてやる。ちょっとだけくすぐったそうに眉を寄せたが、ルスはまたすぐに眠りの中へ戻って行った。「もう……離れないと、手放さないと……なんだよな」 ルスとの契約を切れば、彼女の想像力に頼って構成されたこの体を僕は失う事になる。肉体が無ければ、こうやってもうルスに触れることは叶わない。ただ近くに居るだけで伝わってくる心地いい体温、触れると手に馴染む柔らかな肌、微かに香る甘い匂い。その全てを……もう感じられなくなるのかと思うと、即座に顔を顰めてしまった。 悔しいが、腹が立つが、だけどもう……僕には騙し討ちみたいな真似は無理そうだ。 肉体を持たない性質の僕が、“善性”という猛毒には勝てない事が、この契約で痛い程にわかった。欲に溺れさせるどころか、まずは心を開かせる事で精一杯になり、真っ白な魂をドロドロとした欲望で黒く染め上げてやろうとした思惑の一切が叶わなかった。何も手にする事なく育ったせいか、幸せに感じる物事の基準があまり
『……ぁ、ぇ……』 何が起きたのか理解が追いつかず、呆然と固まっているルスに向かい、いかにもな魔法使いっぽいローブに身を包んだ、吊り目が特徴的な少年は構う事なく話を続ける。『初めまして。ボクの名前は“ルートラ”。“輪廻の輪”に引き込まれた貴女を探し出し、やっと悲願のお迎えに……ゴホッ!——し、失礼、失礼。知らん事を口にして警戒されたらマズイから「勧誘に来た」って言えって言われていたんだったな……。勧誘に!勧誘に来たんだ!』 大声になったり小声になったり、また大声で叫んだりと。一人芝居みたいな事をしながら、ルートラと名乗った少年は空中に浮いたままルスに話した。『かん、ゆー……』 そんな言葉をルスが知るはずがなく、何それ?と思っていそうな声色で小さく呟くと、ルートラは何度もうんうんと頷き返した。『そうだよ。貴女が、こんな世界から逃げたい、消えたい、全てを捨てたいと願うのをずっと待っていたんだ』 『……』 爽やかな笑顔をルスへ向けたが、彼女は処理落ちしたみたいにリアンの手を握ったまま黙ってしまった。『いやー。この世界に産まれていた事まではすぐに突き止めていたんだけどね、初代魔塔主の不祥事のせいで異世界への転移魔法陣は禁忌魔法として封印されていたし、仕方なくそれを引っ張り起こしたり、各国の王族供から魔法の使用許可をもぎ取ったりするのとかで苦労しっぱなしでさぁ。いざ使ってみようとしたら“害悪にしかならない不要な存在”しか召喚対象に出来ないっていう制約が魔法陣に根強く紐付けされていたから、それをどうにか“不要な存在の周囲の者も召喚対象者として含む”ってとこまで条件を緩めたり、発動の為にはアホみたいに莫大な量の魔力が必要だったものを異世界のモノを代償として捧げる事で補える様に術式を書き換えたりするので、これまためちゃくちゃ時間かかっちゃって。それ以外にも受け入れ準備をしたり、だけど貴女だけでは目立つから他の移住者も大量に用意したり——ってあぁ!混乱するから言うなって言われてるのにっ!』 己の口の軽さに気が付いて慌てて両手で口を塞ぐが時遅く。だが、ルートラがちらりとルスを見たものの、彼女はやっぱり固まったままで、全く話を理解
ボロボロのアパートの一室。 二人きりになった部屋の中でリアンの寝息だけが微かに聞こえる。まだ相当小さいから、きっとルスの時と同じく、生まれて間もない状態で此処へ連れて来られたのだろう。 ルスはひとまず絵本を床に置くと、背伸びをしてダイニングテーブルの上に置かれたタオルの塊の状態を確認した。ぐっすりと眠っているリアンの姿が見えたが、こちらもやっぱり顔が真っ黒に塗りつぶされていて、どんな顔をしているのかも全くわからない。覚えていたくなかったのか、そもそも人の顔を上手く認識出来なかったのか。 もしくは、母親の面影があるであろう自分達の顔を忘れ去ってしまいたい気持ちの表れの様な気もする。 手を伸ばし、おっかなびっくりとした仕草で自分の方へ引っ張り、ルスが小さなリアンを細腕に抱えた。赤ん坊なんか触るのはこれが初めてだ。ベビーカーで寝ている赤子や親に抱えられている子なら窓越しに見た事はあっても、この部屋から一度も出た事のないルスでは赤ん坊の抱え方など知るはずもなく、ただテキトウに抱えているせいでリアンの頭が仰け反っている。『……やわい』 ボソッと呟き、ルスはリアンを抱えたまま絵本を置いた場所に戻って行った。 硬い床にリアンを寝かせて、ルスもすぐ隣にぺたんと座る。布団に寝かせた方がいいという発想すらも今の彼女の中には無いみたいだが、小さい弟の側には居てやった方がいいとは考えたのだろう。 母から受け取った絵本を手に取り、ルスが表紙をじっと見つめる。子供の目を引きそうな絵がクレヨンで描かれているが、タイトルはない。日々生きるのだけで精一杯で、この部屋にはボタンを押せば音の鳴る板状の機械一つしかルスくらいの年齢の子供が遊べそうな物はないからか、ただ表紙を見つめたまま開こうともしない。絵本を開いて読むという発想自体無いのかもしれない。 しばらく経ち、やっとルスが絵本を開いた。『——むかしむかし。とある……の、とある……では、ニ、ンゲンとマモ、マモ、ノ?……がいつもケンカをしていまし……た?』 ボソ、ボソッと、今にも消えてしまいそうな声でルスが絵本を読み始めた。 真っ黒なクレヨンで描かれた魔物
突然、ガチャッという音と共に玄関扉が開き、ルスが慌てて顔を上げた。一瞬、ルスは祖母が帰って来たのかと思ったのだが、『ただいまー』と言う声と共に現れたのはルスの母親である“澤口あかね”の姿だった。腕にはタオルに包まれた物を抱えており、すぐ後ろには派手な格好をした男も立っている。 母親が帰って来た。 だが、その事を喜んでいる様子はルスには無い。今は居ないからいいが、祖母が居る時にあかねが来ると、その後数日間は祖母が泣き崩れて家の中が海底に沈んだみたいにどんよりとするからだろう。『あれ?母さんは?』 キョロキョロと室内を見渡しながら、無遠慮に室内へ上がり込む。腕に抱えていたタオルの塊は近くにあったダイニングテーブルの上にドンっと置いた。『ねぇちょっと!母さんは居ないの?』 ルスの存在に気が付いたあかねが問い掛けると、彼女は首を横に振った。『…… ふーん。まいっかぁ、アンタが居るし、そのうち帰って来るでしょ』 楽観的な言葉を口にして、あかねはいつもの様にすぐさま帰ろうと玄関の方へ足を向けた。『ソイツ、何歳くらいなんだ?』と言って、同行していた男がルスを指差す。自分では正確な年齢を把握していないルスが黙ったままでいると、あかねは『産んでから随分経ったし、多分十五、六くらいじゃないの?』とあまりにもテキトウ過ぎる言葉を返した。『いやいや、流石にねぇって!』 冗談であると受け止めた男は豪快に笑ったが、何が楽しいのかわからないルスの表情は硬いままだ。そんなルスの顔をじっと見て、あかねはニヤリと気味の悪い笑みを浮かべた。『でもそうねぇ、そろそろこの子にも働いてもらおうかしら』『は?このチビが?』 『産んでやったんだもん、恩義は返すものでしょ。それにさぁ、幼女趣味の奴っていくらでもお金出すじゃん?こう見えても十八歳です、合法ですよって言えばいくらでも喰いついて来るって』 『ばっか!十八は無理あり過ぎだろ!』 腹を抱えて、再び男が笑った。『親が十八って言えば十八なのぉ』 あかねが子供みたいに不貞腐れた顔をしたが、全く可愛くない。むしろ気持ち悪いとさえ思う。『初物なら高く売れそうじゃない?んでぇその後は日に二、三人は客取らせてさ。そうねぇ、口止め料も含めて請求したら、数週間で新作の鞄も余裕で買えそ!ヤダァ、めっちゃいい考えじゃん!』 頬を赤く染め
…… 先程。契約印に魔力を馴染ませる行為が、とうとう終わってしまった。(終わって、しまった……。——クソッ!) ルスとの出逢いから、かれこれ一ヶ月。そもそも、本来ならば早々に終わる行為を引き延ばしに引き延ばしてきたんだ、流石にもう限界だった。さっさと契約印を定着させて完全に同調し、ルスを産んだ女をとっとと始末してしまうというのも魅力的な案ではあったのだが、それ以上に目の前の欲には勝てなかった。「大丈夫か?水でも持って来ようか」 カーテンの隙間から月明かりが差し込む部屋のベッドでぐったりしているルスに声を掛ける。だが返ってくるのは虚な視線と雑な呼吸音ばかりだ。真っ白なシーツは彼女の愛液でぐっしょりと濡れ汚れ、力の入らぬ手脚はビクビクと小刻みに震えている。何度も何度も達したせいでルスの意識はほぼ無い。だけど水分くらいは摂らせておいた方がいいだろうと考え、僕は冷えた水の入ったコップをどこかから適当に拝借すると、それを口に含んで口移しでルスに飲ませた。「んっ……ふっ、んくっ」 貪るみたいにルスが水を飲み込んでいく。口を離した時には意識をしっかり取り戻せたのか、掠れ声で「ありがと」と呟いた。口の端から垂れている水を指先で拭うと、「んっ」と甘い声がルスからこぼれ出る。そんな声を聞くだけで胸の奥がちょっとくすぐったくなった。「疲れただろう?……あとはもう、寝ておけ」 もう全てが終わったのだとは、どうしても言えなかった。言ってしまえば、この行為をもう出来なくなる。僕の手の中で、馬鹿みたいにぐだぐだになっていくルスの姿をもう見られなくなるのだと思うと、『完了した』の一言がどうにも出てこない。絶望に打ちひしがれて泣き叫ぶ過去の契約者達の姿を思い出すよりもずっと、今さっきまで僕に見せてくれていた快楽で崩れるルスの表情の方がよっぽど心が高揚するせいだ。毎夜下っ腹の重たさに耐えるのは拷問を受けているような気分にはなるが、ルスの体を好きに弄る時間に楽しみを見出してしまっている事はどうしたって否定出来ない。困った事に、この感情はルスの望みなどではなく、自分自身から湧き出てくるものである事も自覚出来ている。何らかのまやかしや媚薬に支配でもされない限り、初心なルスが自分から望むはずがないからだ。この感情はきっと、今までの、肉欲とは無念な少年少女の肉体とは違って、酸いも甘いも知り尽
ふっと意識を取り戻してまぶたを開くと、僕の腕の中でまだルスが眠っていた。 掛け布団の上でゴロンッと横なっていた状態だったから、きっと少し寒かったのだろう。温もりを求めて自ら進んで体を引っ付けてきたような体勢だ。仮眠開始時に腕枕をしてやってはいたが、ルスの頭は僕の二の腕にまで達していて、彼女の獣耳が顔に当たってちょっとくすぐったい。抱き合っているに近い体勢でもまだ少し寒いのか、もふっとしたアイスブルー色の大きな尻尾を自分達の上に掛けるみたいにしている。(あー……) かわいいな、このクソが。 好意的な感情で心が動かされるこの感覚が心底気持ち悪い。なのに自分からこの体勢を変える気にはどう
お姫様抱っこにも、背後からの添い寝にもルスは動じなかった。まるで小さな子供が父親に構ってもらった時程度の反応だ。仮にも『夫婦』という枠にある僕達でコレはマズイと思う。ただでさえ僕らは見た目の年齢に相当の開きがあるのに(中身を語り始めたらもっと酷い事になるので、その辺は割愛しておく)、このままの空気感ではただの親子だ。 過去歴代の憑依者達とは『夫婦』という関係を築いた相手は一人もいなかった。形だけの『弟子と師匠』や『参謀と上司』、近くてもせいぜい『義姉と義弟』くらいなものだったし、契約の印となる魔法陣を他人には見えない位置に刻んでやるみたいな気遣いが必要な者達でもなかった。だから過度な触れ
今日はスキアからの提案と甘い誘惑に流されて、急遽お休みとなった。討伐ギルドから頂く仕事はほぼ全て単発のものなので、毎日行かねばならないものではないから支障はないのだが、この世界へ移住して来て、三ヶ月間の教育期間を経て以降、お休みだなんて初めての事だ。そのせいかちょっとソワソワとしてしまう。自分はすっかり仕事中毒状態だったのだと、約二百七十日ぶりに休んでみて初めて気が付いた。 この部屋の家賃は大家であるマリアンヌさんと町のご厚意により他の同等物件よりは安く済んではいるらしいものの、二人分の食費だ、リアンの保育代だと払っていくと、ワタシの収入では殆どお金が残らなかった。でもそれが当たり前だと
討伐ギルドのある通りからまた少し奥の方へ進み、広めの路地を住宅が多く並ぶ通りへ向かうと、ルスの弟・リアンを預けている保育所がある。 入口から中に入った途端、開口一番説教されてしまった。『ご自分で、この時間までと言っていた時間通りに迎えに来て欲しい』と。僕らよりも先に討伐ギルドの方から伝書鳥が送られてはいたらしく、深刻な事情があっての延滞である事は理解しているものの、それでも人手が足りていない現状では連絡無しのまま延滞されるのは非常に困るのだとか。(……まぁ、向こうの言い分も理解出来るが、一人寂しく森の中で瀕死にまでなっていた者に対して言う台詞では無いのでは?) ついそんな事を考えて、す







