荷車を停め、オーク姉さんは小箱を抱えて歩いてきた。
「おはよう。どう? げんきにしてた?」 わたしは腫れぼったい顔をうつむかせた。小さくうなずくが、彼女は目を丸くした。 「……どうしたの? 腫れてない?! 大丈夫!?」 オーク姉さんを上目遣いに覗くと、彼女は心配そうに眉をひそめた。 「ないたの? 気の毒に……なにかあったのね」 昨夜、泣き腫らしたことは、きっと丸出しなんだろう。 わたしは、ちょんまげ頭を掻いて、どう誤魔化したものかと考えた。けれども、よく考えたら、オーク姉さんはこの魔界でただ一人の女性の知り合いだ。 わたしは、長くならい程度に、ことのあらましを話した。 マヌルという画家と、マッチングしたこと。 うまくいかなかったこと。 背中を向けて黙ってしまった彼に、なんと声を掛けたらいいものか分からなくて、黙って帰ってきたこと。 そして、どうやらわたしは、彼に興味を持っているらしいこと…… 照れ隠しに笑おうとするものの、うまく表情が出てこない。 一言でいえば、こうだ。 「──どうも初恋と、失恋が、同時にやってきたみたいです」 そう言いながら笑った──翌日、昼過ぎ。 ぽかぽかとした春の光の中で、ヒコさんが訪ねてきた。 彼は、わたしがテラスでチラシの裏に落書きをしていることに驚いた。 「……絵、描けるようになったの?!」 わたしは、はにかんだ。絵というほどのものではないけれど…… 「えへへ、そうなんですよ」 描いていたのは、昨夜のアオがコウモリに食いつこうとした顛末の四コマ漫画だ。 線もヨレヨレだし、下書きも無しの一発描きで、楽しいから描いただけのものだ。 「──ははは! たしかにあいつ、コウモリとか食べそうだ」 でも、ヒコさんには、このとおり好評で良かった。 チャリン……、と、懐のポケットでアプリの通知音がした。 そう。わたしは発見したのだ。こんなラクガキでも正のエネルギーが貯まるのだと言うことを……! 「面白かったよ、また描いたら見せてね」 すると、チャリン……と、またスマホが鳴った。 「なんの音?」と、ヒコさんは興味深そうだった。 「ええと…… なんていうか、仕事、みたいなものかな?」 わたしは誤魔化した。 それにしても、四コマでも人に絵を見せたからポイントが加算になったのだろうか。わたしは少し考え込んだ。……いや、反応が返ってきたことに、わたしの心が嬉しかったからだろうか。 わたしの横で、ちょっと離れてヒコさんがあくびをしながら、「おれも座っていい?」と、縁側に腰掛けた。 「朝から王都に仕事行ってきた帰りなんだ」 「大工さんのお仕事?」 「んにゃ。きょうは魔王さまの王宮で、庭師さ」 ……とっさにピンと来なくて、私
今夜は、サラダと煮っ転がし。 ヒコさんにも食べていけばと誘ったが、なんだか明日は早いらしい。 ものすごく残念そうに、肩と尻尾を落として帰って行った。 だから今夜は簡単に、タコをサトイモと煮た。 魔界にも醤油があるのが微妙に嬉しい。 わたしはエプロンをかけ、トマトを切っている。 こうして、夕暮れどきに夕飯を作る生活にも、だいぶ慣れてきた。 時計を見るとまだ十八時。 社畜だった頃は、この時間だと、追加の残業が降ってくることにイライラしていたはずだ。 背後では、アオが塗り絵をしている。 クレパスがテーブルの上でカツカツと踊る音がしている。 「それで、絵葉書にはなんて書いたのさ?」 「んー、なんてことは書いてないよ。今度はうちに遊びにきてください。一緒に湖を見ましょう、って」 それでダメなら、何を言ってももうダメってことだろう。 レタスを洗いながら、わたしは答える。 アオが手を止めて、ちょっとためるように言った。 「……一緒に、って、ぼくもいっしょにってことだよね?」 かわいいけど、めんどくさいスライムだな…… わたしはレタスの葉をちぎりながら言った。 「まぁ、そういうことになるね。でもお利口さんにするんだよ」 アオは勝ち誇ったような顔をしてるんだろうな。 言わなくても分かる。クレパスの音が楽しそうに変化している。
和室にちゃぶ台を出し、マヌルさん宛の手紙を書きはじめた。 けれども、どうにも文章が堅い。というか、手癖のせいで――なんだかビジネスメールみたいになってしまう。 お世話になっております…… とか書いちゃってるし。 「──だめだな、こりゃ」 はぁ、とため息をつきながら便箋をくしゃりと丸めて、大の字に寝転がる。 天井の染みに目をとめて、ぼんやりと考えた。 最後にプライベートな手紙を書いたのは、いつのことだろう。たぶん、学生のころか。それこそ十年以上前の話だ。 喧嘩をして、しばらく電話に出なかったとき、ハルトから封筒で手紙が届いた。 何日か開けなかったけど、机の片隅に置いたきり、それは心のどこかにずっとあった。 学校で絵を描いている時も、バイトをしている時も。 一週間ほどして、気も晴れてしまったのか、休みの日に封を切ったら便箋に三枚の手紙が入っていた。 小学校のときと変わらないハルトの字に、ちょっとほっとして、電話をかけたっけ。 わたしは畳に体を起こした。 やっぱり手紙は良いな。 面とむかって言えないことも、心をこめて書ける。 ちょっと休憩でもしようと立ち上がった。 廊下に出て、台所へ向かう。 その途中、ふと窓の外に湖が見えて、わたしは足を止めた。
「いっそ名前をつけちゃえば」 わたしも苦笑する。 たしかに他所の人にしたら、なんでこんな中途半端な銅像を玄関先に飾っているのかなんて謎でしかないだろう。 「いやそれが、もうこの銅像には名前はあって……」 わたしは白状するように言った。 「ハルトっていうんです。むかしのカレです」 「あらま! ……じゃあ、例の画家さんは、初恋じゃナイじゃない」 言ってしまえば、そうなんだけど…… 「でも、このハルトとは……好きとかそういう感情じゃなかった気がするんです」 そう聞くとオーク姉さんは、ハルト像の顔を見上げた。 「……なんだか、ちょっとわかる気がするわ」 そして思い出すような、遠い目をした。 「気づいたら近くにいたけれど、いなかった時のことは記憶になくて、離れ離れになるタイミングで心細くなっちゃったって感じかしら」 「そう、空気みたいなかんじで……。幼馴染なんです」 気がついたらそばにいたっていうか、ずっと助けてもらっていた。 オークの姉さんは、「あるよね、そういうの」とうなずきながら続けた。 「後になって効いてくるものよね。親の小言と、初めて付き合った人の思い出って……」 オーク姉さんは穏やかに微笑んだ。 「でもまあ、今はマヌルさんの話しよね」 わたしはうなずく。 家の前の道を、畑に向かうご近所さんが手を上げながら笑顔で通り過ぎていった。 ふと息をついて、オーク姉さんが言った。 「──実はね、私、彼のところにも配達に行くことがあるんだ」 「えっ、ほんとですか? 彼って
荷車を停め、オーク姉さんは小箱を抱えて歩いてきた。 「おはよう。どう? げんきにしてた?」 わたしは腫れぼったい顔をうつむかせた。小さくうなずくが、彼女は目を丸くした。 「……どうしたの? 腫れてない?! 大丈夫!?」 オーク姉さんを上目遣いに覗くと、彼女は心配そうに眉をひそめた。 「ないたの? 気の毒に……なにかあったのね」 昨夜、泣き腫らしたことは、きっと丸出しなんだろう。 わたしは、ちょんまげ頭を掻いて、どう誤魔化したものかと考えた。けれども、よく考えたら、オーク姉さんはこの魔界でただ一人の女性の知り合いだ。 わたしは、長くならい程度に、ことのあらましを話した。 マヌルという画家と、マッチングしたこと。 うまくいかなかったこと。 背中を向けて黙ってしまった彼に、なんと声を掛けたらいいものか分からなくて、黙って帰ってきたこと。 そして、どうやらわたしは、彼に興味を持っているらしいこと…… 照れ隠しに笑おうとするものの、うまく表情が出てこない。 一言でいえば、こうだ。 「──どうも初恋と、失恋が、同時にやってきたみたいです」 そう言いながら笑った
そう。それは昨日のことだ。 絵描きの猫男、マヌルさんの家にわたしは行った。 彼はまるで生きてる宝石みたいに綺麗で、見惚れるほどだった。 無愛想なところはあるけど、ヒコとはまた違ったタイプのイケメンだった。 「……いや、顔は問題じゃないんだった」 思わず髪を掻きむしり、ため息をつく。 「そうじゃなくてね、ハルト。問題はね……わたしがマヌルさんの大切な場所を、奪っちゃったってことなの」 ──なんと説明したらいいのだろうか。 今、わたしが住んでいるこの家は、言ってしまえば、ついこの前、魔王の力でここに生えたばかり。 ところが、この家が生えた場所は、マヌルさんが子供のころからずっと絵を描いていた場所だったらしいのだ。 玄関先に腰掛けて、わたしは物言わぬハルトの銅像を見上げた。 「ヒコさんが教えてくれた。帰り道でね……」 幼馴染のマヌルは、同じ絵を、あそこから描いていたと。 だから、あんなに何枚も、同じアングルから描いた湖の絵があったんだ。 ツリーハウスの最上階、緑の樹海から飛び出したアトリエから見た景色を思い浮かべて、わたしはため息をつく。 当然、ハルトの像は、何も答えない。 道路のほうに向かって右手を差し出し、なにか言いたげな口を、うっすら開けたまま、左手をスーツのおしりポケットに差し入れて、何かを取り出そうとしたまま、固まっている。 でも今は、その何も言わなさが、ありがたい。 わたしは地面の小