木製の馬車が、石畳の道をコトコトと揺れていく。
御者台には犬耳の男――ヒコさんが座っていて、一頭立ての手綱を器用に操っている。その背中を見ながら、私はそっとワンピースの裾を整えた。 少しだけ、おめかししてきた。ほんのり春色のワンピース。控えめだけど、こういうのは何年ぶりだろう。あーでもべつに深い意味はない。ただ、初めて会う相手だから、失礼のないようにというだけで……。 そう、自分に言い聞かせてはいる。けれど、心臓はいつもより、すこしだけ早く跳ねている。 御者台から、犬男のヒコが軽く振り向いた。 「そっかあ。それであのちびスライム、あんなに不貞腐れてお見送りしてたわけか」 銀縁のメガネがきらりと光って、笑ってる。 わたしは玄関先でのアオの様子を思い出して、苦笑する。 「そうなの。朝からむくれてて…… 『なんでぼくが、るんの浮気デートについていかなきゃならないんだ』って」 「ははっ、おチビさん、すっかりるんちゃんの婚約者気取りなんだねぇ」 笑いながら手綱を緩く握っているヒコさんの声に、わたしもつられて笑ってしまう。帰りには、アオに美味しい草でも摘んでいってやろう。 そんな今日は、猫男のマヌルさんとのマッチングの日だった。 デートの指定場所は、なんと彼の自宅。 初めてのデートでいきなりおうち訪問ってどうなんだろうとは正直、戸惑う。 けれど――マヌルさんの職業は芸術家らしいし、性格は繊細だという話だ。 それに猫は家につく生き物っていうし、知らない場所が苦手なんだと思う。 とはいえ、こちらもそれなりに線引きをする。だから、最初のデートはアオと一緒にお宅へお邪魔するつもりだったというわけだ。 あの詐欺ウサギ経由マヌルは無言のまま、するりと三階へのハシゴ階段を登っていった。 その背を追いかけて、わたしは二階のテラスに駆け出した。 下には、枝の合間に遠い地面がちらつく。ざっと十五メートルはある。おもわず目がくらみ、足がすくんだ。ヒコさんじゃなくてもこの高さには、目が回った。 風が吹いて、頬に髪が巻きつく。 わたしは三階の小屋につながるハシゴを見、その左右をしっかりと掴む。パンプスを段にかける。スカートの裾が風に持ち上がりそうで気が気じゃないが、そんなこと気にしてる場合じゃない。 なんで、よりによってこんな日に、スカートワンピなんかを着てきたか。 後悔は尽きないけれど、なかなか心を開いてくれないと聞いたマヌルさんが、最もプライベートな空間にわたしを招き入れようとしているのだ。 まとめていない髪が風に舞って、何度も顔を覆う。 下を見れば目が眩む。いっそもう登るしかない。しっかりハシゴを掴んで、集中して、一段ずつ足をかけて登る。 ――だって、マヌルが「見せたい」と言ったんだ。 見なきゃダメだ。今、引き返したら、きっと二度目はない。 わたしは目を上げた。 三階の床面につながる開口部が、手が届きそうなところまで近づく。 その瞬間、パンプスの足裏が滑った。短い声が出た。 でもわたしの手首を、しっかと誰かの手が掴んでいた。 見上げると、マヌルの顔がある。 無表情な彼が何も言わず、ただその瞳で「来い」と言っている。 わたしはうなずき、ハシゴを足で押す。 マヌルも腕に力を込め、わたしを引き上げてくれる。 動悸がすごい。
今度の梯子は縄ではなく、左右も固定してある。 縄梯子の何倍も登りやすい。 二階床の戸口の取っ手に手をかけて、そっと小屋の中に顔を出す。 さっきまでいた一階とは違って、こちらはずっと静かだった。 室内を見回すと、外から差し込む光に照らされるその空間は、ベッドが一台と、小ぶりの本棚、それから遮光カーテンの閉ざされた窓があるだけの、寝室のような雰囲気がある。 テーブルと一対の椅子があった一階と比べると、よりパーソナルでプライベートな雰囲気だ。 目を凝らし、本棚の品揃えを見た。 画集が並んでいる。 でも、今この部屋で一番目を引くのは、それらではなかった。 開け放たれたテラスの間口―― その陽だまりの中に、マヌルの影が長く落ちていたからだ。 わたしはハシゴ階段を登りきり、部屋にあがった。 そして、陽だまりのような沈黙に向かって、語りかけた。 「──どうしたって姿を見せない気なら、それでも構いません」 デートにも関わらず、あの猫男の画家さんは、わたしを避けるように逃げていくだけだ。 「ただ、あなたに聞きたいことがあって、お邪魔したの」 マヌルの影は、わたしの言葉に応えるでもなく、ただ黙って空を見上げた。 風が、小屋を包む葉影を揺らす。 それでも、だんだんわたしにもわかってきたことがある。 この猫男のマヌルという人は、なにかを言う前に、かならず間を置く。 それは思慮深さのあらわれと言っていいかもしれない。 だから、わたしは問いかけた答えが返って来ることを待った。 そして、その間に、ふと思う。
わたしは縄梯子を両手で掴み、樹上の小屋を見上げる。 はしごの先は、小屋床の開口部へと消えている。 不安定なハシゴと、二階建ての屋根ほどの高さに見える入り口までの距離に、つばをのみこんだ。 パンプスで、横木に土踏まずをかけて、体重をかけていくと、ギシギシと縄がきしむ。 固定されていない縄梯子は、両足を乗せただけで大きく揺れる。 ヒコさんが下から押さえていてくれるとはいえ、平屋でいえば軒先ほどの高さには来ている。揺れも加わり、充分に怖い……。 それでも、小屋の床に開いた戸口は、わたしがひとつ手を伸ばすたびに、一歩ずつ近付いてくる。 戸口の向こうに、取っ手が見えた。 そこまで近づき、掴んで、グイッとわたしは体を引き寄せる。 と、小屋の床から顔が出た。 薄暗さに目を慣らしながら、ゆっくりと小屋の中を見回した。 こじんまりとした、小屋の壁際には、キッチンカウンターがみえた。 床の高さから見上げているかたちだから、中央のテーブルと、一対の椅子も脚と裏側が見えている。 逆の壁際には、天井からタラの干物や、香草の束が吊るされている。 キッチンの壁には大小のフライパンや鍋が整然と引っ掛けてあり、どれもきちんと磨かれて、赤銅の輝きを反射している。 お住まいの方は猫さんは、綺麗好きに違いない。 目の高さを床に移しても、埃のひとつ、落ちていない。 と、そのとき。 サッ、っと、わたしの背後を、何かが駆け抜けていった。 「えっ?!」 ベランダの方に視線を走らせる。
ヒコさんの馬車に揺られて、マヌルさんのツリーハウスまで着いた。 わたしはその足もとから、小屋が縦に螺旋を描きながら三つ、空に向かって大木の幹に並んでいる様子をながめた。 「おもしろー……」 ワンピースでこれを登るのは、ちょっとおてんばになる気がするけれど、ワクワクする気持ちが抑えられない。 バッグの中で、チャリンとアプリが鳴る音がした。 森のそこそこ深く。うっそうと茂る木々の中、そのツリーハウスは、さも自分がオオメタセコイアの大木の一部のような顔をしている。 その根元に、ヒコが馬車を停め、上を見上げて声をはった。 「おーい、マヌルー!」 幹は、彼が言うにはオオメタセコイア。魔界最大の針葉樹らしい。 見た限り、大人10人で手をつなぎ合って、やっと抱えきれるかどうかの太さだ。 わたしもその大木を見上げる。 樹冠内側のどの枝も太い。重たげな葉を束のように茂らせている。 だけど、よく目を凝らすと、空を分け合うように枝葉同士があいだをあけて揺れている。 ——そんな枝ぶりに合間に三つ、小屋のお腹が見えている。 よくもまあこんな楽しい建築を思いつくものね、と、つい笑顔になる。 下から順に、螺旋を描きながら縦に並んでいる小屋は、わずかに陽射しをずらし合い、ジグザグな配置と床のかたちをしていて、床面が言わば玄関なのか底蓋のような戸口が開いたまま、ハシゴの階段を飲み込んでいる。 わたしは見上げる首の疲れも忘れ、すっかり見惚れてしまった。 「……ふはは、面白いなあ」 こんな家に住む猫男。しかも画家。 マヌルさんという方に、やっぱり会いにきてよかった。
木製の馬車が、石畳の道をコトコトと揺れていく。 御者台には犬耳の男――ヒコさんが座っていて、一頭立ての手綱を器用に操っている。その背中を見ながら、私はそっとワンピースの裾を整えた。 少しだけ、おめかししてきた。ほんのり春色のワンピース。控えめだけど、こういうのは何年ぶりだろう。あーでもべつに深い意味はない。ただ、初めて会う相手だから、失礼のないようにというだけで……。 そう、自分に言い聞かせてはいる。けれど、心臓はいつもより、すこしだけ早く跳ねている。 御者台から、犬男のヒコが軽く振り向いた。 「そっかあ。それであのちびスライム、あんなに不貞腐れてお見送りしてたわけか」 銀縁のメガネがきらりと光って、笑ってる。 わたしは玄関先でのアオの様子を思い出して、苦笑する。 「そうなの。朝からむくれてて…… 『なんでぼくが、るんの浮気デートについていかなきゃならないんだ』って」 「ははっ、おチビさん、すっかりるんちゃんの婚約者気取りなんだねぇ」 笑いながら手綱を緩く握っているヒコさんの声に、わたしもつられて笑ってしまう。帰りには、アオに美味しい草でも摘んでいってやろう。 そんな今日は、猫男のマヌルさんとのマッチングの日だった。 デートの指定場所は、なんと彼の自宅。 初めてのデートでいきなりおうち訪問ってどうなんだろうとは正直、戸惑う。 けれど――マヌルさんの職業は芸術家らしいし、性格は繊細だという話だ。 それに猫は家につく生き物っていうし、知らない場所が苦手なんだと思う。 とはいえ、こちらもそれなりに線引きをする。だから、最初のデートはアオと一緒にお宅へお邪魔するつもりだったというわけだ。 あの詐欺ウサギ経由
──翌朝は、嘘のように晴れた。 空気が豪雨で洗われたせいか、遠くの山脈が今日は細部まで見えた。 わたしは縁側テラスで白湯を啜っている。まだちょっと眠い。 目をやると、アオもまだ、みかん箱の中で寝息を立てている。 朝靄のかかる湖を眺めながら、あくびをした。 昨日、雨の中で回収したイーゼルとキャンバスは、拭いてからアオに頼んで洋間のアトリエに立てかけてもらった。 うちでは、あそこがいちばん乾燥している。 それに、誰も入らないあそこが、絵にはいちばん安全だ。 遠い目を、対岸の小さな森に向ける。 マグカップも湯気越しに、ぼんやりとその緑を見つめた。 気にも留めることのなかったあの森が、なぜだか胸に染みる。 ……どうしても思い出すことがある。 わたしは目を伏せた。 雨が強く降り出す前、そう。昨日、あの森に向かってわたしが投げた言葉だ。 思いだすと、すこし、もじもじする。 「あなたに会ってみたい」 思い出し、顔が熱くなる。 額を手で覆いながら恥ずかしいというよりも、内心、自分で驚いている。 あんなこと、今まで言ったことも、思ったこともない。 当然のことだが、付き合っていたハルトにだって…… 言ったことがない。 ……しかも、練習もなしに。どうしてそんなセリフが口から出たのか…… どれだけそうしていたろうか。 スマホが縁側の上で震えた。 目をやると、通知には、魔王の番号