魔王が言うには、この魔界にもその昔、魔族と共存する多くの人間が暮らしていたらしい。
「じゃあ、どういうこと? あなたがその人類を滅ぼしてしまったって……」 見上げているわたしに、魔王は言った。 「彼らは旺盛な繁殖力と競争心、そして創造力をもち、この魔界でも大いに繁栄していたのだ……」 しかし、彼らは魔界で無秩序に増えすぎた。 その結果、魔族との間で戦争が起きた。 「そうか。つまり、あなたたち魔族が、その戦争に勝ったというわけね」 魔王はうなづく。 「だが…… その後、人類なきこの魔界は文化的な発展を止めてしまってな。かろうじて維持はできているが、創造を欠いた世界は、いずれ破壊の力に押し潰されよう」 そう言いながら魔王は、目を、ゆっくりとこちらに向けた。 「——そこで余は、お前たち、つがいを魔界に召喚した。人類の持つ創造性を再び導入するためにな」 彼は山羊の顔で、静かに迫る。 「相川るん、かような訳だ。この魔界で、その岸部ハルトと繁殖しろ」 わたしはめまいがして、その場に膝をつきそうになった。 「ちょ、っと待って……」 立っていられず、藁をも掴む思いでハルトミイラの肩に手を置いた。 どう言うこと……繁殖って…… 足に力が入らない。うつむいたまま言う。 「じゃあ、魔王…… あなたはつまり、ハルトとわたしをさせるというか、結婚させようと思って、魔界に召喚したってわけ……」 この言葉に、魔王はうなずく。 「左様。」 そこで、わたしが思いっきりハルトを指差しながら言うと、魔王は少し黙った。 「いやでも!こいつ、死んじゃってますよね!?」 「……そうだな」 いや、そこは反省しないでほしい……。 「しかし魂は内側に残っておるようだ。早急に蘇生させよう。式までに間に合うようにな」 ……シキ? 式って、あの、結婚式か? わたしは、魔王を見上げなおした。 「嫌か?」 「──嫌です! わたし、コイツとだけは無理なんで!」 胸の前で両手をクロスし、るんは首をぶんぶん振った。 「だって、ハルトにはもう――」 そう。もう別の婚約者がいる。わたしが横入りするわけにはいかない。 「お断りします!……それにね、繁殖って言ったって、わたしぶっちゃけ尿酸値が高いし、血圧だって要注意って言われてるんですよ!」 それに貧血で、肩も腰も痛いし、便秘だし冷え性だし! おまけに老眼もきてる。ようするに、わたしはそんなに若くない! 「だから魔王、さっさともとの世界に送り返して! 若くて繁殖だいすきで、地獄が似合いそうなカップルなら代わりをいくらでも見つけて紹介するから!」 連休明けには案件が待っている。なんとしても帰らなきゃならない。 それにこんなハルトでも、たぶん、婚約者さんは待っている……! すると、考え込んでいた魔王は、何かを思いついたかのように前のめりになった。 「──では、こういうのはどうだ。」 わたしはその巨体に気圧されて、ハルトの後ろに隠れながらも、顔だけ出して聞いた。 「はい…… じゃあ聴きますけど。なんですか。条件ですか」 「この魔界にも結婚を斡旋するマッチング業者がある。その者にお前の好みのオスを紹介させよう」 ちょっとま、 「……待てええ! ちっとは聞く耳を持てええええ!」 だけど、魔王は、まあ待てと言いたげに手のひらを見せた。 「それに、今すぐ帰してやってもいいが、その場合、お前たちは元の世界ですでに死んでおるぞ」 わたしは呆然とした。 そして、透けてもいない手をじっと見た。 でも、やっぱり、元の世界では、あの事故で死んじゃってるんだ、わたし、いや、わたしたち……。 ハルトのミイラを見た。 この幼馴染の婚約者に、ものすごく申し訳ない気持ちになってきた。 もしもあの時、居酒屋で席を立たず、四人で仲良く飲んでいたら。 胸が痛いほど塞がって、わたしはうつむいた。 だが、その絶望を待っていたかのように、魔王は口元をつり上げた。 「余も、神ではない。お前たちが持って生まれた死の宿命を覆すことはできぬ」 そう言いながらも魔王は、脚を組みかえる。 「ただし、余の魔力は、地上で〝負のエネルギー〟をためこんで死んだ魂魄を、こうして魔界に召喚することが出来る」 わたしは顔を上げた。魂魄というのは、魂と肉体のことだ。 つまり、記憶の連続性はあるものの、ここにいるわたしとハルトは一種の複製と言うことか。 「──じゃあ、複製のわたしたちを元の世界に送り返すことで、原本の死の宿命を、いわば迂回することならできるってわけね」 魔王は微笑んで、そうだと言って寄越した。 「然り。お前たちを、もとの世界。もと通りの日付。だが事故が起きる場所からすこし離れた場所に戻してやろう」 だが、この魔力とて万能ではないと、魔王は言った。 元の世界、すなわち地上界は、この魔界のひとつ上の次元に存在している。 「ゆえにお前たち二人の送還には、お前自身が心に蓄える膨大な〝正のエネルギー〟が必要となる」 わたしは、生唾を飲み込んだ。 「正の、エネルギー……?」 わたしは身を乗り出した。 「ねえ、魔王! 教えてよ、どうしたらその〝正のエネルギー〟を貯められるの?!」 それを待っていたかのように、魔王は微笑んだ。 「では魔族と人間らしく、ここは契約といこうではないか、相川るん」 息を飲むわたしに、魔王は二つの案を提示した。 「ひとつ目は、お前が心から楽しみながら絵を描き、この魔界に作品を増やすこと」 わたしはうつむいた。 絵は、描きたくないからだ。 それは見越していたように、魔王は次の提案をし、 「ふたつ目は、魔界で子供を産み、創造性あふれる人類の種を蒔くことだ」 そのためなら余はお前に支援を惜しまぬ、と、指先の空間から契約書を取り出した。──翌日。 わたしは、十年ぶりに朝寝坊をした。 生家のベッドで起きると、スマホの画面には「10:00AM」の文字。 どうしてスマホが使えるのかはわからないけど、眠いわたしは、あくにをし、寝癖のついた頭を掻いた。 昨夜、魔王は言っていた。「子を産ませるためなら支援を惜しまない」……と。 見回しているこの生家の寝室も、電話も、そのうちの一つなのだろう。 とりあえず、わたしはこの魔界の〝国賓〟あるいは〝ふたりめのイブ〟らしい。「……フフん」 バックに世界の最高権力者である魔王がついているのだから、親方日の丸どころの話じゃない。 ……とはいえ、のんべんだらりとしてもいられないか。 わたしは魔王と、絵を描かない代わりに、婚活の契約を結んだ。 その期限は、三年。 ベッドを離れ、裏庭の縁側を兼ねた廊下に立つ。 サッシの向こうに、テラスの裏庭と広い湖が見えた。 この湖畔の生家は、魔王のちからで昨晩、地面から生えてきたものだ。 昨夜は馬車でこの地に着いて、降ろされて、呆然と夜の湖を眺めていたら、地面から音を立てて見慣れた実家が生えてきたんだから、シンプルにたまげた。 こうして朝の光のもとで眺めると、湖の浅瀬には、淡く睡蓮が広がっていて美しく、中ほどからは深いのか、ダークブルーの水面にさざなみが立っている。 対岸には、小さな森が見える。 さらに彼方には王都の尖塔が小さく霞んで見える。 湖のほとりに生えたおかげで、良い感じに借景を得たこの廊下からの景色が、何度見ても新鮮だ。 室内を振り返ると、祖母のいた床の間に、なぜだかわたしが三茶のマンションに置いてきたシングルベッドがある。 3LDKの平屋建は、二十年以上も前に火事で失
仰向けに、ベッドで横になる。 しかし、出社しなくて良いとなると…… シンプルに退屈だな。 十一時には来客の予定があるけれど、それまでこうしてベッドの上でゴロゴロしているのも、なんだかもったいない。 スマホを手にしても、地図以外のアプリがない。 仰向けになっていると、昨晩、魔王とした契約が思い浮かんでくる……。 『……よいか、相川るん。 余の魔力は、負のエネルギーを帯びながら死んだ魂を、他の世界からこの魔界へ引き込むことで召喚することができる。 そして逆もまた然り。〝正のエネルギー〟を蓄えれば、次に来る死の瞬間、お前たちを元の世界に押し上げてやることもできよう。 だが、〝正のエネルギー〟つまり、創造の喜びを貯めるのは容易ではない。 いずれ分かることだが、時間がかかるのだ。 その間も、お前の肉体は魔界で歳を重ねる。 だが心配は要らぬ。元の世界へ戻れば、見た目も年齢も、死ぬ前の姿へと戻っているはずだ。 よいか、相川るん。 お前は、お前の絵を描き、あるいは繁殖し、生み出し育むという創造の喜び、すなわち〝正のエネルギー〟を存分に集めよ。 そのこつは、楽しむことだ。 それが心臓に飽和した状態、すなわち、喜びに満たされた上で次の死を迎えた瞬間、お前たちの帰還は果たされる。 そして、その頃には、この魔界にも再び創造の力が満ち溢れるていることだろう……』 ──いつの間にか、眠っていた。 朝か。昼か。 ベッドサイドに身を起こし、明るい寝室で、ぼんやりとする。 手が、うっかり化粧ポーチを引き寄せていた。 いや違う。ここは三茶じゃない。 魔界だ。 もうしばらく出社する予定なんてないのに、手が勝手にポーチを探していたあたり、社畜の強い呪縛を感じる。 「やめた、やめたぁ」 放り出して、髪も二度寝の激しい寝癖のまま、台所で湯を沸かしはじめた。 ──にしても、うっかり明日のことを考えると、不安になるくらいヒマだ。 ほぼっていうか、状況的には完全無職のわたしは、この湖畔に蘇った生家で、いったい何をしたらいいのか。 腕を組んでわたしは考える。 なんでも出来るはずなのに、何をしたいのかが分からない。 じゃあまた横になるかって言うと、このまま寝たら、きっと夜通し起きてることになるんだろう
スマホを手に取る。 鳴動は、着信ではなく、アラームだった。 画面表示の時刻は「10:28」。「──そっか。お客さん、来るんだっけ」 ふと、そこで思い立って、わたしは賭けをする気持ちで、目を閉じた。 これでつぎに目を開けた時、三茶のマンションの天井が見えたらこれは、いわゆる夢オチだなと。 また急いで身支度をして、駅で並んで、身体が持ち上がるような田園都市線に身を押し込むんだ。 それで渋谷駅まで行く。 そして道玄坂を登って…… 忙しすぎて毎日走っていた元の世界と、 暇すぎて不安になる魔界という異世界。 元の世界と、あの魔界。 どっちに、わたしは居たいんだろう。 ──閉じていた目を、わたしは開けた。 けれど場所は変わらず、湖畔の裏庭。 と、言うことは、異世界転生は現実だったんだ。 スマホの時計も、「10:31」のまま。 わたしは、仕方なしに鼻をこする。「ハラ、くくるしかないか……」 気乗りしないけれど、生き返るための婚活を──。 そうなると……まもなく魔王が手配した〝マッチング業者〟とやらが来る、十一時じゃないか。「うわ、ヤッバ!」 急に、お仕事感がぶり返してきた。「マジか! なんもしてない……」 わたしは洗面所に走った。 鏡の前で髪をとめ、水道の蛇口をひねると、そこに前、鏡に映る自分の姿に…… わたしは、驚愕した。 ──若返っていた。 魔王は「いろいろと支度はしておく」と言っていた。 でも、それは化粧水だけじゃなかったようだ。 わたしの容姿というか、身体そのものが、女子高生のころに戻っている。 たしかに昨夜は「腰が痛い」だの「老眼」だの「高血圧」だの言ったけれど、だからと言って、ティーンに戻すのは、ちょっと年齢差別がひどくないかと、ちょっと魔王にムカついた。 すると気になって、わたしは、前髪の生え際にある傷を確かめた。 傷跡は、まだ新しい縫い跡として、残っていた。 水を止めるのも忘れて、わたしは視線を落とした。 もしかして、昨日、ふたりして事故に遭う直前、ハルトが言いかけたのは、この傷のことだったのかなと。 ──午前十一時。 玄関のチャイムが鳴った。 ひとり暮らしの心得で、チェーン錠をしたまま応対する。 ……が、訪問者の姿を見て、わたしはあまりのファンタジーさ加減に力が抜けた。 ─
いや、ちょっと待って、三年で三千人とマッチングって…… 「そ、そうなんだ」 わたしは胸を撫で下ろした。 「よかった…… さすがに日に八人とデートは多すぎるよね……」 なんか、もうすでに、どっと疲れが来て、苦笑するしかなかった。 ウィスカーも、白ウサギそのものな口元を上げて笑む。 「ただし。こちらも魔王さまからのお仕事ということで、どんどんマッチングを組まさせていただきますから、そのおつもりで」 なんか、スマホで読んでた異世界スローライフとなんか違うな…… もっとラクそうと言うか、苦が少ないと言うかご都合主義というか…… まぁ。どこにいっても、お仕事はそれなりに大変だってことだろう。 「しょうちしました……。どうか、お手柔らかに……」 こちらとしてもハルトとの強制復縁は避けたい。だからお見合いっていうか、この異世界マッチングを、数でこなしていくしかない。 だったら、どうせなら幸せに添い遂げられそうな、それこそ魔王が言ったように〝幸福感に包まれながら最期を迎えられるような〟良いパートナーがほしい。 よし、前向きに考えよう。マッチング希望者が三千人あれば、なかには一発くらい大当たりもあるだろうさと。 「よーし」わたしは顔をこすりあげて言った。 「じゃ、まず今日は面談から、ってわけですね。よろしくお願いします、ウィスカーさん」 ウィスカーはうなずいた。 「承知しました。では早速。相川さま側のマッチング相手に対するご希望は?」 わたしは腕を組んだ。王宮に置いてきたミイラのことを考えながら。 「……うーん。保護者きどりとか、束縛してこないひとかな」 「はい。自由にさせてほしい、と。あと他には……?」 「遠距離はむりかな。なるだけ徒歩圏内で」 あと将来像の押し付けとか、仕事への口出しとか、そのくせ野球の日には連絡が取れなくなるとか…… って、ぜんぶハルトの逆だな。うっかり笑っちゃった。 でもこうなったら、ほんとうに心から好きになれる人がいいもんな。本音でいこう。 そのほうがきっと、日々の中で〝正のエネルギー〟を集められそうだし。 すると、つられたようにウサギも、わたしの見ている空を見上げて言った。 「──では、」 そしてファイルをめくりながら、やはり最初ですし、魔王さまのご推薦のこの方がよろし
婚活業者のウィスカーが紹介したのは、青スライムのオス。 資料によれば、年齢は人間でいうところの成人。 まあ、三十二のわたしの精神年齢とは、釣り合うかもしれない。「──でもね、ウィスカーさん、スライムと人間って、その……」 交配、つまり子供ができるのかどうかの問題もある。 すると、ウィスカーは、ウサギ顔の口で、はっきりと断言した。「はい。融合と分裂で、交配は可能ですね」 ゆ、融合?! それって、むしろ、わたしが食べられちゃうってことでは……?! ウィスカーは、じっ、とわたしの顔を見た。「そうとも言いますね」 だめじゃん! いや、しかも、わたし自身もそうだけど、人間って、スライムに恋愛感情を抱けるものなの?「ううーん、どうなんでしょうかウィスカーさん!」 頭を抱えて、そう考えこんでいたら、ウィスカーは横で、そそくさと帰り支度を始めていた。 「──え、この状況で帰る?」「大丈夫です。愛はすべてを超えますので」 赤い目が、笑っていない。 ……もしかして、こいつ、客はあくまで魔王、か? そんなわたしの目にも構わず、ウサギ執事のウィスカーは鞄を抱きあげた。「では私はこれで。──あ。そちらの世界のお茶、草っぽくて美味しかったです」「いや、そうじゃなく……」 引き留めるわたしの手を背にウサギの執事は、玄関と駐車スペースのある家の表に向けて跳ねて行った。 ……とは言え、そのアオさんとのマッチングは、もう決まってしまったわけだしな。 待ち合わせ時間も13:00と迫っているしで、とにかくわたしは縁側から立ち上がる。「──よし、きょうはまずチュートリアルということで!」 そうなると、次の問題はデートに着ていく服がないことだ。 いや、洋服が無いわけではない。 現にこうして、わたしはベッドの上いっぱいに服を広げ、あぐらをかいて頭を悩ませている。 「いろいろと支度しておく」と豪語した魔王だけあって、湖畔に蘇ったこの生家には、むしろ多すぎるほどの衣装が用意されていた。 ただし、それらの全ては十七の頃、わたしが欲しかった服ばかり。 なんというか…… 当時の物欲と願望がそのまま反映されている。 つまるとこと、どれを広げてみても、三十二の今には、心理的なキツさがある。 いやサイズ的にはキツくないんだけど……! ──で
スマホのマップアプリはなぜか、Wi-Fiなしに機能している。 わだちの残る土の道を三本杉まで駆けて、辻の地蔵を右に走ると、待ち合わせの小さな公園がツツジの垣根もむこうに見えてきた。 わたしは公園の塀に背もたれして、息を整えた。 なにしろデートなんて十四年ぶりだ。 しかもスライムがその相手と言うのも、初めてだし。 すべてがシュミレーション不可だ。 …… こんな困難な状況、新人研修のときの飛び込み営業でもなかったよ? てか、人間じゃないものに、なんて声かけたらいいんだ。 スライムにお天気か? 公園だし遊具か? 花壇の植生か? ていうか、そもそも、スライムと会話はできるのか!? スマホを見ると、待ち合わせ時間までは、まだ三分ある。 わたしは公園の塀に身をかがめたまま、中の様子を覗き込んでいく。 すると砂場の向こうに、ふたつ並びのブランコが見えた。その片方で水風船ほどの青い物体が見えた。 それが、楽しそうにブランコを漕いでいる。「……か、」 わたしは、顔を、垣根の後ろに引っ込める。「か、かわいすぎるかよ……」 なぜ赤面しているんだ、わたしは。 我に帰れと、自分の頬にビンタをする。「──グッ……!」 ……いや、あれで、成人、だと!? わたしはスマホを取り出し、あの婚活業者の名刺をもとにウサギ男に電話をかける。 たしかあのウィスカー、マッチング相手のスライムは人間換算で成人の年齢だと言っていた。 でもブランコをこいでいるアレは。どう見たって五歳児だ。『──はいもし! あなたの素敵な婚活、全面サポート、ウ
砂場とブランコだけの公園。 花壇には水仙やチューリップが咲いている。 なんだかんだでスライムの隣のブランコに、わたしも腰掛けているが、「ええっ、やっぱり、きみ子供だったの!?」 あらためて本人から五歳だと聞くと、さすがに……うろたえるしかない。 周囲の目が気になって、辺りを思わず見まわしてしまった。 すると、そんなわたしに青いスライムは、申し訳なさそうにブランコを止めながら表情を曇らせた。「ごめんね、ぼく、さびしくって、つい……」 アオと言う名前は事実らしいが、このスライム、ウィスカーには偽りの姿を見せていたらしい。「偽りの……すがた?」わたしが言うと、アオと名乗る五歳のスライムは誇らしげな笑顔を見せた。「うん。ぼく、変身ができるんだ」 真相は、スライム年齢でいう五歳。 つまり人間でいうところでも同じ、五歳だというが、たしかに精神的にも肉体的に大人は大人。 ウィスカーの言っていたことは、一周まわって事実だったわけか。 「……んー。でも、この婚活マッチングは、ナシってことか」 母性っていうか、保護欲は刺激されるけど、幸か不幸か恋愛感情は湧きそうにない。 わたしはホッとした。 でも同時に、相手にも申し訳ないような気持ちになった。 「……でもアオさんにも、こうやって、お時間もらっちゃって。」 そんなことないよとアオは、ぷるぷると顔しかない全身を振った。「ううん。こうやって久しぶりに誰かとお話しできたし、ぼくは大満足かな」 なんていうか、可愛い。 しかも言動がどこか、やはり五歳にしては大人びている。
聞けば、アオは半年前、森で魔獣に襲われて母親のスライムとはぐれてしまったらしい。 わたしは小さな彼を見た。「じゃあ、ママとはぐれて……それから、ずっとアオさん、一人ぼっちなの?」 彼は、うつむいたまま、小さな体でブランコを漕いでいる。「──うん」「親戚とかは?」 いるといえば、たくさんいるらしい。 でも、この世界のスライムの間では、親とはぐれた時点でそれは独り立ちを意味する。「そうなんだ……。なんか、生まれた時点で一人前っていうのも大変っていうか、さみしいものなんだね……」 同じく子供の頃、父親とはぐれた者として、わたしの胸が痛んだ。 けれど、わたしには一緒に火事を生き延びた祖母がいた。 それすらもいないアオの気持ちが、分かるとは、とても言えないけど…… けれど一人になった時、こうして公園に足がむいてしまう気持ちは、なんか分かる気がした。 ハルトとはじめて会ったのも、こんな公園だったから。 わたしは、アオに言った。「ごはん、ちゃんと食べてる?」 すると青いスライムの子供は、うん、と言った。「水と草とか、葉っぱ」「──あ、ごめん」おばちゃん、なんか泣けてきた……。 アオは慌てているのか、青い体の表面をぶるぶる振るった。「あ。泣かないで。ぼくたちって、それで充分な身体だから」「……そうなの?」「うん。おやつは花の蜜とかね」 アオは、にっかりと笑って見せる。「でもそれ以上をしようとすると、それなりにカロリーはいるかなぁ」「……そ、それ以上って、どういうこと?」 脱皮とか?「そうか、さっき言って
発信者の通知には、[魔王]とある。 わたしは小さく息を吐いて、着信画面をスライドした。「もしもし……」 すると、ウィスカーの軽薄な声から転じて、やたらと荘厳な声がちっぽけな公園に響く。『どうだ、相川るん。スライムとはうまくいっているか』「ええ、おかげさまで」 びっくりさせられた怒り半分、そして皮肉半分でそう返すと、魔王は重々しく言葉を続けた。『いま送ったアプリは〝正のエネルギー〟の貯まり具合を数値で確認するアプリだ』「そうなんだ。」 なんかもう、あきらかにおかしなことを聞き慣れちゃってる自分の耳がこわい。「それでアイコンが魔王のツノなんだ。なんかびっくりして損しちゃった」 そう言うと、魔王はフフフと笑った。『お前が生を終えるまでに貯めておかねばならぬ正のエネルギーの量……そして、現時点での残高を確認できるようにしておいた』「……そうなんだ。待って、開いてみる」 わたしは通話をつなぎながら、そのアプリをタップした。 出てきた画面には、やたらと立派な金文字で、こう書かれていた。【 残高:‑500,000 】「……え」 目を疑った。二度見してから、袖でこすって三度見した。「いや、ちょっと魔王!? マイナスってどういうこと!? しかも五十万て……え、ケタ四つくらい間違ってない!?」 しかし、魔王の声は、まったく動じない。『当然であろう。忘れたか。お前がいかに元の世界で負のエネルギーを帯びていたのかを』「……!」 貯金もないが、欲しいものは貯めて買う。そえだけは祖母の言いつけを守って生きてきたつもりだ。 でも、言われてみれば、ネガティブ思考はダダ漏れにしてきたかもしれない。 なぜ
ひきつった笑顔のまま、冷や汗を浮かべ、空を見上げる。 どうかしてるよね、わたしったら、無一文でデートにきてた。 ふとハルトのことが頭にうかぶ。 そういえば、デート代、だしたことなかった。 アオがブランコを左右に揺らしながら、自作っぽい歌を歌い始めた。いよいよこれは……後にひけなくなってきた…… ふと、空にウィスカーの詐欺づらが浮かんで見えた。 不本意ながら、今は彼しか頼るすべがない……「……ごめん、まってて、ちょっと電話する」 わたしはアオに断って、パーカーの前ポケからスマホを出した。 『──はいもし! あなたの婚活、全面サポート、ウィスカー商会でございます!』 その声のデカさもあるが、わたしはウィスカーが居る場所の騒がしさに、通話口から耳を遠ざけた。『おお。相川さまですねー? アオさまはいかかですかー? こちらは順調ですよー、明日にもまた新しいお相手をご紹介できそうでございますーー』 お昼中だった様子だ。なんか申し訳ないけど、しかたない。「あのね、ちょっとだけいいかな……!」 アオが飽きたのか気を利かせたのか、ブランコから降りて、ぴょんぴょん跳ねて行き、砂場で遊び始める様子を目に、わたしは声をひそめて言った。「……まずは報告なんだけど、ウィスカーさん、ご紹介のスライム、ホントに五歳でした。本人が自供しました」 ウィスカーは、やや沈黙を置いた。『──申し訳ない』「……いいけどさ」 でも成人っていう点では、ウィスカーも間違っていない。「……でもね、今後わたしのマッチングではね、わたしの元いた世界の倫理観で候補者を
聞けば、アオは半年前、森で魔獣に襲われて母親のスライムとはぐれてしまったらしい。 わたしは小さな彼を見た。「じゃあ、ママとはぐれて……それから、ずっとアオさん、一人ぼっちなの?」 彼は、うつむいたまま、小さな体でブランコを漕いでいる。「──うん」「親戚とかは?」 いるといえば、たくさんいるらしい。 でも、この世界のスライムの間では、親とはぐれた時点でそれは独り立ちを意味する。「そうなんだ……。なんか、生まれた時点で一人前っていうのも大変っていうか、さみしいものなんだね……」 同じく子供の頃、父親とはぐれた者として、わたしの胸が痛んだ。 けれど、わたしには一緒に火事を生き延びた祖母がいた。 それすらもいないアオの気持ちが、分かるとは、とても言えないけど…… けれど一人になった時、こうして公園に足がむいてしまう気持ちは、なんか分かる気がした。 ハルトとはじめて会ったのも、こんな公園だったから。 わたしは、アオに言った。「ごはん、ちゃんと食べてる?」 すると青いスライムの子供は、うん、と言った。「水と草とか、葉っぱ」「──あ、ごめん」おばちゃん、なんか泣けてきた……。 アオは慌てているのか、青い体の表面をぶるぶる振るった。「あ。泣かないで。ぼくたちって、それで充分な身体だから」「……そうなの?」「うん。おやつは花の蜜とかね」 アオは、にっかりと笑って見せる。「でもそれ以上をしようとすると、それなりにカロリーはいるかなぁ」「……そ、それ以上って、どういうこと?」 脱皮とか?「そうか、さっき言って
砂場とブランコだけの公園。 花壇には水仙やチューリップが咲いている。 なんだかんだでスライムの隣のブランコに、わたしも腰掛けているが、「ええっ、やっぱり、きみ子供だったの!?」 あらためて本人から五歳だと聞くと、さすがに……うろたえるしかない。 周囲の目が気になって、辺りを思わず見まわしてしまった。 すると、そんなわたしに青いスライムは、申し訳なさそうにブランコを止めながら表情を曇らせた。「ごめんね、ぼく、さびしくって、つい……」 アオと言う名前は事実らしいが、このスライム、ウィスカーには偽りの姿を見せていたらしい。「偽りの……すがた?」わたしが言うと、アオと名乗る五歳のスライムは誇らしげな笑顔を見せた。「うん。ぼく、変身ができるんだ」 真相は、スライム年齢でいう五歳。 つまり人間でいうところでも同じ、五歳だというが、たしかに精神的にも肉体的に大人は大人。 ウィスカーの言っていたことは、一周まわって事実だったわけか。 「……んー。でも、この婚活マッチングは、ナシってことか」 母性っていうか、保護欲は刺激されるけど、幸か不幸か恋愛感情は湧きそうにない。 わたしはホッとした。 でも同時に、相手にも申し訳ないような気持ちになった。 「……でもアオさんにも、こうやって、お時間もらっちゃって。」 そんなことないよとアオは、ぷるぷると顔しかない全身を振った。「ううん。こうやって久しぶりに誰かとお話しできたし、ぼくは大満足かな」 なんていうか、可愛い。 しかも言動がどこか、やはり五歳にしては大人びている。
スマホのマップアプリはなぜか、Wi-Fiなしに機能している。 わだちの残る土の道を三本杉まで駆けて、辻の地蔵を右に走ると、待ち合わせの小さな公園がツツジの垣根もむこうに見えてきた。 わたしは公園の塀に背もたれして、息を整えた。 なにしろデートなんて十四年ぶりだ。 しかもスライムがその相手と言うのも、初めてだし。 すべてがシュミレーション不可だ。 …… こんな困難な状況、新人研修のときの飛び込み営業でもなかったよ? てか、人間じゃないものに、なんて声かけたらいいんだ。 スライムにお天気か? 公園だし遊具か? 花壇の植生か? ていうか、そもそも、スライムと会話はできるのか!? スマホを見ると、待ち合わせ時間までは、まだ三分ある。 わたしは公園の塀に身をかがめたまま、中の様子を覗き込んでいく。 すると砂場の向こうに、ふたつ並びのブランコが見えた。その片方で水風船ほどの青い物体が見えた。 それが、楽しそうにブランコを漕いでいる。「……か、」 わたしは、顔を、垣根の後ろに引っ込める。「か、かわいすぎるかよ……」 なぜ赤面しているんだ、わたしは。 我に帰れと、自分の頬にビンタをする。「──グッ……!」 ……いや、あれで、成人、だと!? わたしはスマホを取り出し、あの婚活業者の名刺をもとにウサギ男に電話をかける。 たしかあのウィスカー、マッチング相手のスライムは人間換算で成人の年齢だと言っていた。 でもブランコをこいでいるアレは。どう見たって五歳児だ。『──はいもし! あなたの素敵な婚活、全面サポート、ウ
婚活業者のウィスカーが紹介したのは、青スライムのオス。 資料によれば、年齢は人間でいうところの成人。 まあ、三十二のわたしの精神年齢とは、釣り合うかもしれない。「──でもね、ウィスカーさん、スライムと人間って、その……」 交配、つまり子供ができるのかどうかの問題もある。 すると、ウィスカーは、ウサギ顔の口で、はっきりと断言した。「はい。融合と分裂で、交配は可能ですね」 ゆ、融合?! それって、むしろ、わたしが食べられちゃうってことでは……?! ウィスカーは、じっ、とわたしの顔を見た。「そうとも言いますね」 だめじゃん! いや、しかも、わたし自身もそうだけど、人間って、スライムに恋愛感情を抱けるものなの?「ううーん、どうなんでしょうかウィスカーさん!」 頭を抱えて、そう考えこんでいたら、ウィスカーは横で、そそくさと帰り支度を始めていた。 「──え、この状況で帰る?」「大丈夫です。愛はすべてを超えますので」 赤い目が、笑っていない。 ……もしかして、こいつ、客はあくまで魔王、か? そんなわたしの目にも構わず、ウサギ執事のウィスカーは鞄を抱きあげた。「では私はこれで。──あ。そちらの世界のお茶、草っぽくて美味しかったです」「いや、そうじゃなく……」 引き留めるわたしの手を背にウサギの執事は、玄関と駐車スペースのある家の表に向けて跳ねて行った。 ……とは言え、そのアオさんとのマッチングは、もう決まってしまったわけだしな。 待ち合わせ時間も13:00と迫っているしで、とにかくわたしは縁側から立ち上がる。「──よし、きょうはまずチュートリアルということで!」 そうなると、次の問題はデートに着ていく服がないことだ。 いや、洋服が無いわけではない。 現にこうして、わたしはベッドの上いっぱいに服を広げ、あぐらをかいて頭を悩ませている。 「いろいろと支度しておく」と豪語した魔王だけあって、湖畔に蘇ったこの生家には、むしろ多すぎるほどの衣装が用意されていた。 ただし、それらの全ては十七の頃、わたしが欲しかった服ばかり。 なんというか…… 当時の物欲と願望がそのまま反映されている。 つまるとこと、どれを広げてみても、三十二の今には、心理的なキツさがある。 いやサイズ的にはキツくないんだけど……! ──で
いや、ちょっと待って、三年で三千人とマッチングって…… 「そ、そうなんだ」 わたしは胸を撫で下ろした。 「よかった…… さすがに日に八人とデートは多すぎるよね……」 なんか、もうすでに、どっと疲れが来て、苦笑するしかなかった。 ウィスカーも、白ウサギそのものな口元を上げて笑む。 「ただし。こちらも魔王さまからのお仕事ということで、どんどんマッチングを組まさせていただきますから、そのおつもりで」 なんか、スマホで読んでた異世界スローライフとなんか違うな…… もっとラクそうと言うか、苦が少ないと言うかご都合主義というか…… まぁ。どこにいっても、お仕事はそれなりに大変だってことだろう。 「しょうちしました……。どうか、お手柔らかに……」 こちらとしてもハルトとの強制復縁は避けたい。だからお見合いっていうか、この異世界マッチングを、数でこなしていくしかない。 だったら、どうせなら幸せに添い遂げられそうな、それこそ魔王が言ったように〝幸福感に包まれながら最期を迎えられるような〟良いパートナーがほしい。 よし、前向きに考えよう。マッチング希望者が三千人あれば、なかには一発くらい大当たりもあるだろうさと。 「よーし」わたしは顔をこすりあげて言った。 「じゃ、まず今日は面談から、ってわけですね。よろしくお願いします、ウィスカーさん」 ウィスカーはうなずいた。 「承知しました。では早速。相川さま側のマッチング相手に対するご希望は?」 わたしは腕を組んだ。王宮に置いてきたミイラのことを考えながら。 「……うーん。保護者きどりとか、束縛してこないひとかな」 「はい。自由にさせてほしい、と。あと他には……?」 「遠距離はむりかな。なるだけ徒歩圏内で」 あと将来像の押し付けとか、仕事への口出しとか、そのくせ野球の日には連絡が取れなくなるとか…… って、ぜんぶハルトの逆だな。うっかり笑っちゃった。 でもこうなったら、ほんとうに心から好きになれる人がいいもんな。本音でいこう。 そのほうがきっと、日々の中で〝正のエネルギー〟を集められそうだし。 すると、つられたようにウサギも、わたしの見ている空を見上げて言った。 「──では、」 そしてファイルをめくりながら、やはり最初ですし、魔王さまのご推薦のこの方がよろし
スマホを手に取る。 鳴動は、着信ではなく、アラームだった。 画面表示の時刻は「10:28」。「──そっか。お客さん、来るんだっけ」 ふと、そこで思い立って、わたしは賭けをする気持ちで、目を閉じた。 これでつぎに目を開けた時、三茶のマンションの天井が見えたらこれは、いわゆる夢オチだなと。 また急いで身支度をして、駅で並んで、身体が持ち上がるような田園都市線に身を押し込むんだ。 それで渋谷駅まで行く。 そして道玄坂を登って…… 忙しすぎて毎日走っていた元の世界と、 暇すぎて不安になる魔界という異世界。 元の世界と、あの魔界。 どっちに、わたしは居たいんだろう。 ──閉じていた目を、わたしは開けた。 けれど場所は変わらず、湖畔の裏庭。 と、言うことは、異世界転生は現実だったんだ。 スマホの時計も、「10:31」のまま。 わたしは、仕方なしに鼻をこする。「ハラ、くくるしかないか……」 気乗りしないけれど、生き返るための婚活を──。 そうなると……まもなく魔王が手配した〝マッチング業者〟とやらが来る、十一時じゃないか。「うわ、ヤッバ!」 急に、お仕事感がぶり返してきた。「マジか! なんもしてない……」 わたしは洗面所に走った。 鏡の前で髪をとめ、水道の蛇口をひねると、そこに前、鏡に映る自分の姿に…… わたしは、驚愕した。 ──若返っていた。 魔王は「いろいろと支度はしておく」と言っていた。 でも、それは化粧水だけじゃなかったようだ。 わたしの容姿というか、身体そのものが、女子高生のころに戻っている。 たしかに昨夜は「腰が痛い」だの「老眼」だの「高血圧」だの言ったけれど、だからと言って、ティーンに戻すのは、ちょっと年齢差別がひどくないかと、ちょっと魔王にムカついた。 すると気になって、わたしは、前髪の生え際にある傷を確かめた。 傷跡は、まだ新しい縫い跡として、残っていた。 水を止めるのも忘れて、わたしは視線を落とした。 もしかして、昨日、ふたりして事故に遭う直前、ハルトが言いかけたのは、この傷のことだったのかなと。 ──午前十一時。 玄関のチャイムが鳴った。 ひとり暮らしの心得で、チェーン錠をしたまま応対する。 ……が、訪問者の姿を見て、わたしはあまりのファンタジーさ加減に力が抜けた。 ─
仰向けに、ベッドで横になる。 しかし、出社しなくて良いとなると…… シンプルに退屈だな。 十一時には来客の予定があるけれど、それまでこうしてベッドの上でゴロゴロしているのも、なんだかもったいない。 スマホを手にしても、地図以外のアプリがない。 仰向けになっていると、昨晩、魔王とした契約が思い浮かんでくる……。 『……よいか、相川るん。 余の魔力は、負のエネルギーを帯びながら死んだ魂を、他の世界からこの魔界へ引き込むことで召喚することができる。 そして逆もまた然り。〝正のエネルギー〟を蓄えれば、次に来る死の瞬間、お前たちを元の世界に押し上げてやることもできよう。 だが、〝正のエネルギー〟つまり、創造の喜びを貯めるのは容易ではない。 いずれ分かることだが、時間がかかるのだ。 その間も、お前の肉体は魔界で歳を重ねる。 だが心配は要らぬ。元の世界へ戻れば、見た目も年齢も、死ぬ前の姿へと戻っているはずだ。 よいか、相川るん。 お前は、お前の絵を描き、あるいは繁殖し、生み出し育むという創造の喜び、すなわち〝正のエネルギー〟を存分に集めよ。 そのこつは、楽しむことだ。 それが心臓に飽和した状態、すなわち、喜びに満たされた上で次の死を迎えた瞬間、お前たちの帰還は果たされる。 そして、その頃には、この魔界にも再び創造の力が満ち溢れるていることだろう……』 ──いつの間にか、眠っていた。 朝か。昼か。 ベッドサイドに身を起こし、明るい寝室で、ぼんやりとする。 手が、うっかり化粧ポーチを引き寄せていた。 いや違う。ここは三茶じゃない。 魔界だ。 もうしばらく出社する予定なんてないのに、手が勝手にポーチを探していたあたり、社畜の強い呪縛を感じる。 「やめた、やめたぁ」 放り出して、髪も二度寝の激しい寝癖のまま、台所で湯を沸かしはじめた。 ──にしても、うっかり明日のことを考えると、不安になるくらいヒマだ。 ほぼっていうか、状況的には完全無職のわたしは、この湖畔に蘇った生家で、いったい何をしたらいいのか。 腕を組んでわたしは考える。 なんでも出来るはずなのに、何をしたいのかが分からない。 じゃあまた横になるかって言うと、このまま寝たら、きっと夜通し起きてることになるんだろう