わたしは、もともと根っからの文化系。いや、元ひきこもり。
突っ込んでくるトラックを、横に跳んで避けるようなタマじゃない。だから、今も何が起きたのか分からないまま、反射的に身をこわばらせ、目をきつく閉じたまま、最期の時を待った。
……が、いつまで経っても衝撃も痛みも訪れない。 不思議に思い、恐る恐る目を開けると——そこは、見覚えのない石敷きの広間だった。
見回すと、天井は高く、壁際には松明がいくつか灯っている。ゆらめく橙色の光が、広々とした空間に陰影を落としている。 「……ここ、どこ?」 三茶のたばこ屋から、一体どうしてわたしは……こんな場所に?とにかく現状を把握しようとした、そのとき──
石敷きの間に、威厳のある声が響いた。
「——余はホーガン。この魔界を統べるもの」反射的に、声の主へと視線を向ける。
そこには——山羊頭の巨人が、半裸で玉座に腰をかけていた。
「またの名を、魔王。訳あってお前たちを召喚した」
魔王……?召喚……?
わたしは戸惑いながら、まず自分の手足を確認した。どこにも傷はない。痛みもない。──クルマに突っ込まれたのに、だ。
……でも、確実におかしい。
そうか、わたしは死んだんだ。 じゃあこの状況は。まさか地獄ってやつか。 広間を見回そうと左に向いた瞬間、わたしは、すぐ隣にある異様な物体と目が合った。——立ったままのミイラ。
干からびた肌、
萎びたまま半開きに固まっている口。 右手は少し前に差し出され、乾漆像のように固まっている。……眉毛を下げているせいで、どこか悲しげに見えるミイラは、
「……く、空也上人?」思わず口をついて出た。
でも、服装が違う。よれたスーツに革靴だ。
そして—— どこかで見た、半端にちゃらいロングヘア。わたしは、その顔の頬を両手で掴んだ。
「は…… ? ハルト!?」
わたしは思わず叫んだ。
——干からびて立っていたのは、元カレのハルトのミイラだった。
魔王の声が、広間に響く。
「つがいで召喚をしたのだが、お前の拒絶心も強すぎたようだな……。伴侶のほうが生きながらミイラになってしまったようだ」
「は!?」
わたしは魔王に言った。
「いや待って……! そこ、わたしのせい!?」魔王と煮干しみたいなハルトを交互に見る。
「──なんか、腑に落ちないんですけど、ともかく、こいつ死んじゃったってことですか」たしかに生きているのも面倒だけど、死んだとなると、いくらハルトとは言え婚約者さんの気持ちは考えてしまう。心の整理が追いつかない。
しかし、魔王は首を横に振った。「いや。魂はまだその体に宿っている。案ずるな。生き返してやる」
わたしは、ミイラになったハルトを見る。 中途半端な表情のまま、完全に乾燥している。 でも顔を見てるとなんか、またムカついてきた。 しかし、今はそれよりも大事なことがある。「まあ、なんだかよく分かりませんけどね、死んでいないならとりあえず、わたしたちを元の世界に帰してもらっていいですか」
連休明けには、担当する展示の案件が始まる。責任者がいないとかそんなの論外だ。
「それに、このミイラにも結婚の予定があったみたいなんで。」
魔王は、玉座に頬杖をついた。
「どうしてもか」
「はい。こっちはけっこう人生かけてきた仕事なんで」
絵をやめてから、わたしの人生はこれに賭けてきた。というか、そういうことにして、寝食そっちのけでがんばってきた。
「だから、なんとしても、今度の展示は形にしたいんです」
そう言ってから、一応、わたしはこの幼馴染のミイラの代弁をする。
「このミイラ、っていうかハルトには、婚約者がいるみたいで……」
わたしは魔王を見上げた。
「どんなご用件か分かりませんが、ともかく、わたしたちを生かして元の世界に帰してもらえませんか」
しかし、魔王は、ゆっくりと首を振った。「——気持ちはわかるが、相川るん。余の魔力も神も摂理には及ばん。そう簡単にはいかんのだ」
「……じゃあ、なんで勝手に召喚なんてしたんですか!?」
魔王は、縦に割れた瞳を細め、遠くを見るように語り始めた。
「……話しても良いが、長くなるぞ。よいのか、相川るん」
わたしは魔王の目を見据え、うなずいた。
「どうせただでは帰してくれないのでしょう?」
すると魔王は獣の脚を組み、微笑みを浮かべて玉座にもたれかかった。
「そうだな。契約は等価交換。死の宿命を迂回させてやるかわりに、余にもお前たちに期待していることがある」
そう前置きし、魔王は遠い目をした。 「ことは十万年前にさかのぼる。この魔界から、まだ若かった余がお前たち人間を滅ぼしてしまったところに始まる」──外は夕暮れだった。 台所のシンクには、大小の皿が水に浸されている。 和室では、塗り絵の上でアオがすうすうと寝息を立てていて、お腹に、タオルをかけてやる。 わたしは縁側に出た。 ヒコさんがいた。夕焼けを見ている。 その横に腰をおろすと、少し心強い気がした。 わたしはマグカップを手にした彼に言う。「おかわりはどう」 ヒコは首を横に振った。「ありがとう、もう大丈夫」 しばしの沈黙。 風が、湖と頬をなでる。 ヒコがぽつりとつぶやいた。「そうか……。るんちゃんのこの家には、そんな悲しい思い出があったんだ」 わたしは頷いた。 だから魔界に来たとき、魔王の馬車で、この湖のほとりに着いた時、びっくりした。 ほんとうに息が止まった。 うれしいのか、嬉しくないのか、正直、混乱して分からなかった。 この家が建っているのを見て、心底びっくりしたのだ。 焼けて、焦げた柱だけになった家が。むかしの姿で、そこにあったから。 わたしはおもわず、いそいで家に駆け込んだ。 そして父を呼び、家中をさがして回った。 和室にも寝室にもいなくて、意を決して、手を触れた洋間のドアノブにも、父の姿は無かった。 アトリエの天窓から光がさしこんでいて、イーゼルの上でキャンバスが、背中を向けていた。 大雨が降り、深夜に火が出た、あの夜のまま。 父を驚かせたくて、わたしが水差しを描いたキャンバス。 つまり、魔王は、この家が出火するほんの少し前に時計を巻き戻して、そっくりそのまま、この湖のほとりに再現したのだ。 わたしは唇を噛んだ。 この家を復活させるのと、父を復
わたしも頭にタオルを巻いて、天袋の隙間に入っていく。 ヒコさんが手を引いてくれた。 屋根裏は、ランタンモードに切り替えた彼の懐中電灯が、ぽうっと全体的に照らしている。 埃っぽいかと思っていたが、それほどでもない。 むしろ空気が冷たい。 時間が止まっていた空間の匂いだ。 アトリエとも違う、人がそもそも入らない空間の、眠っていたようなにおいだ。 アオを肩に乗せ、懐中電灯を手に、わたしはヒコの指さす先に光を向けた。 梁の上を、電気の配線が走っている。「……危険な箇所って、あの配線のこと?」「うん。黒い配線の真ん中あたりを見てみて」 私は目を凝らした。「カバーが破れてるだろ」 ヒコの声が、いつになく低く、真剣だ。 言われてよく見ると、太めの配線の黒いビニール外装《カバー》が、ほつれたようにあちこちで剥がれている。 中から赤色っぽい金属の反射が覗いている。「あそこで銅線が剥き出しになっているんだ」「──どうして…… 勝手に、電気コードが破れることなんてある?」 なんか怖い。それこそ誰かが屋根裏に忍びこんで、配線のカバーを剥いていったなんて思ったら、寒気がしてきた。「……まさか、コウモリが?」 つぶやくと、ヒコさんが言った。「いや。ネズミが齧《かじ》ったんだと思う」 わたしは思わず反芻する。「ネズミ!?」「そう。ネズミが前歯でかじったんだよ。あいつら歯が伸びるだろ。だから伸びすぎると、柱だって壁だって、なんでも齧るんだ。ムズムズしてさ」「だからって……配線までかじるものなの?」 普通にビリッてしないのかな……「するかもねぇ。でもアイツらには木も枝も電線も関係ないからなぁ……。──あとほら、こんどは上を
点呼をとる声が、和室に響く。「番号、イチ!」「にっ!」 ヒコさんとアオだ。(ふたりしか居ないのに、点呼、いる?)「持ち物確認! 懐中電灯、ヨシッ!「お菓子、ヨシ!」 おやつ持ってくんかい…… ついつい平たい目で突っ込んでいるけれど、男の子って楽しそうよね……。 と言うのも、このふたり、これから天井裏に大冒険なのだが、いい大人と子供が目を輝かせながら押入れの天袋へとよじ登っていくその背中を、わたしはお尻のポケットに気になる手紙を入れたまま見送った。(……やっと読める) そう内心で思っているものの、彼らは別に遊びにだけ行くわけじゃない。 屋根に穴が開いているかもしれず、チェックに行ってくれるのだ。「いってらっしゃい、ご安全に〜!」 いちおう、それっぽく、笑顔で手を振る。 ずらした板の中へと、ふたりは屋根裏に消えていった。 ──さて。 ……わたしは息を吐き、いそいそと、さっきお尻のポケットにねじ込んだ封筒を取り出す。子供が寝た後に、って感じだ。(ああ、もう、ドキドキする!) 縁側テラスに小走りする。 湖の上では、空が晴れ渡り、わたしは封筒を鼻先をあてる。 ヒコさんじゃないけれど、森の匂いに、マヌルの背中が思い浮かぶ。 ほのかな心音のぬくもりに、浸っていたかった。 だが、そこに、あのヒコの顔が重なる。「──!」 うっかりまた心臓が跳ね上がった。 淡い封筒からの波長を、犬の濡れた鼻先が上書きしてしまったようだ。 廊下の壁に手をついて、うなだれる。 動悸が止まらない。 ──くそう、あの無自覚イケメン犬め……! 距離感バグってるヒコの、目を閉じたあの顔が
玄関側に回ると、オークの姉さんが笑顔で手を振っていた。 「こんちは、調子はどう?」 わたしも自然と笑顔になれた。 「おかげさまで、なんかスッキリです」 オーク姉さんは、おなじみの荷車から小包をひとつ取り出しながら、「まずはいつものね」と言った。 「伯爵も懲りない人よねえ」 まとめて送り返したのに、また吸血鬼からのプレゼントだ。 「すみません、今日から受け取り拒否で……」と、わたしはサインしながら、申し訳なくて口をへの字にした。 「でも持ってきてもらってこれだと、お姉さんもストレスになるでしょ……」 オーク姉さんは笑ってくれる 「そんなことないよ、ちゃんと料金は向こうから発生しているからね。そこはご心配なく」 そして彼女は、「で、今日はもう一つあるのね」と、一通の封筒を取り出した。 受け取った封筒の裏面に、わたしの目は思わず輝いた。 差出人に、〝フクロウの森のマヌル〟とある。 やっぱり、マヌルの返事だ!…… 姉さんは、「よかったわね!」と、満面の笑みを残して荷車を引き、去っていった。 * * * 裏庭の湖が、きらきらと揺れている。 縁側のテラスで、わたしは左右を見回し、背後まで確認し、念のため見上げて軒先をチェックする。コウモリもいない。 ──よし。 そして、封筒を手に、ハサミを握る。 マヌルさんが書いたのであろう文字で、〝睡蓮の湖の相川〟と宛先がしてある。字を見つめているだけで、なんだが胸が波立つ。
──翌日、昼過ぎ。 ぽかぽかとした春の光の中で、ヒコさんが訪ねてきた。 彼は、わたしがテラスでチラシの裏に落書きをしていることに驚いた。 「……絵、描けるようになったの?!」 わたしは、はにかんだ。絵というほどのものではないけれど…… 「えへへ、そうなんですよ」 描いていたのは、昨夜のアオがコウモリに食いつこうとした顛末の四コマ漫画だ。 線もヨレヨレだし、下書きも無しの一発描きで、楽しいから描いただけのものだ。 「──ははは! たしかにあいつ、コウモリとか食べそうだ」 でも、ヒコさんには、このとおり好評で良かった。 チャリン……、と、懐のポケットでアプリの通知音がした。 そう。わたしは発見したのだ。こんなラクガキでも正のエネルギーが貯まるのだと言うことを……! 「面白かったよ、また描いたら見せてね」 すると、チャリン……と、またスマホが鳴った。 「なんの音?」と、ヒコさんは興味深そうだった。 「ええと…… なんていうか、仕事、みたいなものかな?」 わたしは誤魔化した。 それにしても、四コマでも人に絵を見せたからポイントが加算になったのだろうか。わたしは少し考え込んだ。……いや、反応が返ってきたことに、わたしの心が嬉しかったからだろうか。 わたしの横で、ちょっと離れてヒコさんがあくびをしながら、「おれも座っていい?」と、縁側に腰掛けた。 「朝から王都に仕事行ってきた帰りなんだ」 「大工さんのお仕事?」 「んにゃ。きょうは魔王さまの王宮で、庭師さ」 ……とっさにピンと来なくて、私
今夜は、サラダと煮っ転がし。 ヒコさんにも食べていけばと誘ったが、なんだか明日は早いらしい。 ものすごく残念そうに、肩と尻尾を落として帰って行った。 だから今夜は簡単に、タコをサトイモと煮た。 魔界にも醤油があるのが微妙に嬉しい。 わたしはエプロンをかけ、トマトを切っている。 こうして、夕暮れどきに夕飯を作る生活にも、だいぶ慣れてきた。 時計を見るとまだ十八時。 社畜だった頃は、この時間だと、追加の残業が降ってくることにイライラしていたはずだ。 背後では、アオが塗り絵をしている。 クレパスがテーブルの上でカツカツと踊る音がしている。 「それで、絵葉書にはなんて書いたのさ?」 「んー、なんてことは書いてないよ。今度はうちに遊びにきてください。一緒に湖を見ましょう、って」 それでダメなら、何を言ってももうダメってことだろう。 レタスを洗いながら、わたしは答える。 アオが手を止めて、ちょっとためるように言った。 「……一緒に、って、ぼくもいっしょにってことだよね?」 かわいいけど、めんどくさいスライムだな…… わたしはレタスの葉をちぎりながら言った。 「まぁ、そういうことになるね。でもお利口さんにするんだよ」 アオは勝ち誇ったような顔をしてるんだろうな。 言わなくても分かる。クレパスの音が楽しそうに変化している。