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癒えない傷痕と、夜明けの約束
癒えない傷痕と、夜明けの約束
Penulis: 緋色の追憶

第1話

Penulis: 緋色の追憶
「隊長、どうして田村先生の異動願をまた差し戻したんですか?」

一方部屋の外で、ドアを開けようとしていた田村綾子(たむら あやこ)の手が、空中で止まった。部屋の中の会話が、ドア越しに耳に届いてきたからだ。

「これまで、田村先生の異動申請はあなたによって三回も差し戻されています!そのせいで去年、田村先生はお母さんの死に目に会えなかったんですよ!」

その言葉は、鋭い刃物のように綾子の鼓膜を貫き、一語一句が心に深く焼き付くようだった。

「それに、田村先生の体はもう限界です。これ以上ここにいたら、死に行かせるようなものですよ!」

「分かっている」夏川竜之介(なつかわ りゅうのすけ)の声が聞こえた。「綾子は俺の婚約者だ。俺は誰よりも、彼女の無事を願っている。

だが、美咲は戦場記者だ。いつ戦場で怪我をするか分からない。それに美咲のお兄さんが死んだのは俺の責任だ。だからこそ、この3ヶ月、彼女の安全は絶対に確保しなければいけない。綾子は最高の腕を持っている、彼女がいてくれてこそ、美咲の万全も保障されるってわけだ」

それを聞いて綾子は、全身の血が凍りつくのを感じた。

安西美咲(あんざい みさき)。いつも竜之介を崇拝するような眼差しで見つめている、あの可憐でか弱い花のような、女性記者。

そう思うと、綾子は胃の奥からこみ上げてくるような吐き気を感じた。

すると、竜之介の声が再び、有無を言わせない口調で響いた。

「それに、誰もが綾子を俺の婚約者だと知っている。もし俺が私情で綾子の異動を許可したら、部下に示しがつかないだろう?彼女が残ることで、規律と使命を重んじる証にもなるだろ」

それを聞いて、ドアの外に立つ綾子は、まるで魂を抜かれた人形のように、その場に立ち尽くしていた。

手から滑り落ちた診断書が、ひらりと床に落ちたことにも、気が付かないほどだった。

その瞬間、竜之介の言葉一つ一つが、氷の刃のように、綾子が抱いていた淡い幻想を打ち砕いていたのだった。

そう、自分が残された命をかけて、夢見ていた将来は竜之介にとってただの道具で、彼はそれを盾に他の女を守り、彼自身が公正公平であると証明するための見せかけにしていたのだった。

さらに竜之介はそのために、何度も自分をこの戦火の中に留めて置き、自分が母の最期に立ち会うことさえ、「特別対応をしない」、「公正公平を期すため」という彼の建前によって阻まれた。

その瞬間、彼女の心臓に張り裂けるような激痛が、津波のように押し寄せた。同時に、キーンという鋭い耳鳴りが響き渡ったのだった。

綾子は、思わず胸元を押さえた。

竜之介は、特殊派遣部隊で最年少の指揮官であるだけあって、冷酷なまでの戦術と、その大胆な決断力で有名だった。

かつて、綾子も竜之介に少しでも近づきたくて、国内の一流病院からの誘いを断った。そして、いつ命を落とすかわからないこのPKO部隊での任務に、自ら飛び込んだのだ。

この4年間、綾子が死神の手から救った命は数え切れない。そして、綾子自身が死と隣り合わせになった回数も、同じくらい多かった。

1年目は塹壕で爆弾が爆発する寸前、身を盾にして竜之介を庇ったせいで、全身に傷跡が残った。

2年目。美咲が警告を無視して「生の情報」を撮るんだと戦闘範囲に深入りした時は、竜之介が救出部隊を率いて救出に向かった。

その時、綾子も医療班として同行したが、パニックに陥った美咲のせいで隠れていた爆破装置を起爆してしまい、その衝撃で綾子は左耳の聴力を永遠に失ってしまったのだった。

3年目。交戦地帯に勝手に入って「特ダネ」を狙う美咲を守るため、竜之介は綾子のいる医療拠点から警護部隊を引き抜いた。

そのせいで拠点は手薄になったところを襲われ、彼女は負傷者二人と共に二日一夜、孤立無援の状態に陥った。そして、目の前で仲間が息を引き取るのを見て以来、綾子は心の傷に苦しむようになったのだ。

さらに今、……ポケットの中、あのくしゃくしゃになってまで握りしめた診断書。【重度の心臓損傷、及び継続的な狭心症の発作】

すぐにでも療養と治療を始めなければ、予測される余命は、5年未満と言われている。

5年。

綾子はうつむいた。その冷たい宣告を指でなぞりながら、口元には、どこか惨めな笑みが浮かんでいた。

ついさっきまで考えていたのに。5年もあれば帰国して、体を治すのには十分だろ。それで、いつか竜之介が笑って言ってた、自分のために作ってくれるというオーダーメイドの真っ白なウェディングドレスを着て、彼の一番きれいな花嫁になるんだ。

それだけが、この地獄のような場所で、何度も立ち上がることができた、唯一の支えだった。

なのに今、自分が夢を託しているその相手こそ、自分を地獄へと突き落とそうとしているのだ。

そう思って綾子は下唇を強く噛みしめた。そして、口の中に広がった血の味を噛み締めて、かろうじてその場に崩れ落ちるのをこらえた。

彼女はヒステリックに騒ぐことも、中に飛び込んで竜之介を問い詰めることもしなかった。

ただ、骨の髄まで凍るような冷たさだけが、足元から頭のてっぺんまで一瞬で駆け上がるのを感じ、心に残された最後の温もりさえも、凍り付いてしまうほどだった。

綾子は、ゆっくりと体を起こした。

制服の袖で、乱暴に顔の涙を拭うと、くるりと踵を返し、そのドアに背を向けて、一歩、また一歩と、自分の部屋へと戻っていった。

そして、彼女が部屋に戻ってまずしたことは、退職願を書くことだった。

言葉遣いは事務的で、冷たかった。理由は体調不良と簡潔に述べた。【健康上の理由により、現在の職務を遂行することが困難です】とだけ書いて、他のことは、一言も触れなかった。

特に署名した時は、ペン先が紙を突き破りそうになるほど、力を込めていたのだった。

退職願が承認されるには、異動辞令より時間がかかる。少なくとも、一週間の手続きが必要だ。

この一週間さえ過ぎれば、すぐにでもこの場所を離れられるようになる。
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