「隊長、どうして田村先生の異動願をまた差し戻したんですか?」一方部屋の外で、ドアを開けようとしていた田村綾子(たむら あやこ)の手が、空中で止まった。部屋の中の会話が、ドア越しに耳に届いてきたからだ。「これまで、田村先生の異動申請はあなたによって三回も差し戻されています!そのせいで去年、田村先生はお母さんの死に目に会えなかったんですよ!」その言葉は、鋭い刃物のように綾子の鼓膜を貫き、一語一句が心に深く焼き付くようだった。「それに、田村先生の体はもう限界です。これ以上ここにいたら、死に行かせるようなものですよ!」「分かっている」夏川竜之介(なつかわ りゅうのすけ)の声が聞こえた。「綾子は俺の婚約者だ。俺は誰よりも、彼女の無事を願っている。だが、美咲は戦場記者だ。いつ戦場で怪我をするか分からない。それに美咲のお兄さんが死んだのは俺の責任だ。だからこそ、この3ヶ月、彼女の安全は絶対に確保しなければいけない。綾子は最高の腕を持っている、彼女がいてくれてこそ、美咲の万全も保障されるってわけだ」それを聞いて綾子は、全身の血が凍りつくのを感じた。安西美咲(あんざい みさき)。いつも竜之介を崇拝するような眼差しで見つめている、あの可憐でか弱い花のような、女性記者。そう思うと、綾子は胃の奥からこみ上げてくるような吐き気を感じた。すると、竜之介の声が再び、有無を言わせない口調で響いた。「それに、誰もが綾子を俺の婚約者だと知っている。もし俺が私情で綾子の異動を許可したら、部下に示しがつかないだろう?彼女が残ることで、規律と使命を重んじる証にもなるだろ」それを聞いて、ドアの外に立つ綾子は、まるで魂を抜かれた人形のように、その場に立ち尽くしていた。手から滑り落ちた診断書が、ひらりと床に落ちたことにも、気が付かないほどだった。その瞬間、竜之介の言葉一つ一つが、氷の刃のように、綾子が抱いていた淡い幻想を打ち砕いていたのだった。そう、自分が残された命をかけて、夢見ていた将来は竜之介にとってただの道具で、彼はそれを盾に他の女を守り、彼自身が公正公平であると証明するための見せかけにしていたのだった。さらに竜之介はそのために、何度も自分をこの戦火の中に留めて置き、自分が母の最期に立ち会うことさえ、「特別対応をしない」、「公正公平を期すため」
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