ログイン小説の結末で飛び降り自殺する運命にあった、サヴァン症候群の天才画家――藤原裕人(ふじはら ひろと)。 彼を救うためだけに、私、藤原雪乃(ふじはら ゆきの)は自らこの世界へと身を投じた。 彼は極度の人間嫌いで、病的なまでの潔癖症だった。他人との関わりを拒絶し、アトリエという聖域には誰の立ち入りを許さなかった。ましてや、制作を妨げることなど論外どころの話ではなかった。 あれは、一度目のことだった。四時間、片時も火のそばを離れず、灰汁を掬い続けて仕上げた一番出汁を手にアトリエへ向かった私は、不注意にも彼の絵筆に触れてしまった。 たった、それだけのことだったのに。それなのに裕人は、あろうことか煮えくり返る鍋の中身を、躊躇いもなく私に浴びせかけたのだ。 二度目は、真夜中のこと。高熱にうなされ、這うようにしてアトリエの前まで辿り着き助けを求めたが、彼は嫌悪感を隠そうともせずに私を突き飛ばし、無情にも扉を閉ざした。 床に崩れ落ちた私は一晩中放置され、翌朝家政婦に発見されるまで、誰にも気づかれることはなかった。 それでも、私は彼の流儀を尊重してきたつもりだ。結婚して七年、彼が禁じた領域には決して足を踏み入れなかった。 けれどある日、一人の女が弾むような足取りでアトリエへ駆け込み、彼の下書きを無邪気にぐちゃぐちゃにする光景を目の当たりにしてしまった。 裕人は、そんな彼女の横顔を何枚も何枚も、慈しむように描き連ねていた。傍らには、丁寧な文字で【俺のミューズ】と添え書きをして。 ああ、そうか。ようやく、すべてを受け入れられた気がした。私は長い間封印していたシステムを呼び出した。 「帰りたい」 【了解しました。エンディングを設定します──藤原裕人の手による死亡です】
もっと見る会うたびに、まず俺の名を呼び、それから改まって自分の名前を名乗る。知っている。彼女の名前は、初めて会った時からなぜか脳裏に刻まれていた。彼女は俺の手を引いて、あちこち連れ回し、景色を見せて回った。俺が絵を描くのが好きだと知ると、その風景を全部描くようねだった。彼女は言った。もしこの世界が嫌になったら、自分が描いた風景を見て。それか、私のことを思い出して、と。彼女はこう続けた。「私があなたの、この世界を愛する理由になりたい」と。でも俺は、この世界を愛してはいなかった。むしろ深く嫌悪していた。けれど、雪乃のことは嫌いじゃなかった。人を好きになるとはどういう感覚なのか、分からなかった。ただあの日、彼女に連れられて山に登り、雪景色の中で舞う彼女の黒髪を目にした時、思考よりも先に言葉が口をついて出た。「結婚しよう、雪乃」この世界は好きじゃない。でも、彼女を通して見えるこの世界なら、悪くないと思った。結婚後、息子が生まれた。遊星が生まれた日、彼女は長い間泣いていた。子供に執着は持てなかった。むしろ、彼女の注意が突然小さな侵入者に向けられたことが、なんとなく気に入らなかった。俺は再び絵に全ての注意を注ぎ、心を閉ざし、雪乃への態度は、次第に冷淡さを極めていった。けれど彼女は決して怒らず、ますます献身的に俺を受け入れてくれた。愛という感情を初めて意識したのは、彼女からだった。その後、美亜と出会った。確かに彼女は、俺に多くのインスピレーションを与えてくれた。だから、一緒にいることを嫌だとは思わなかった。彼女が俺に近づくことも、遊星に近づくことも、止めなかった。彼女の目的などどうでもよかった。俺のそばに雪乃がいれば、それで十分だったから。けれど次第に、雪乃が沈黙していくことに気づいた。かつての俺のように。遊星と美亜を連れて再び出かけた後、その感覚はますます強くなった。でも彼女は俺を愛している。そう確信していた。雪乃は俺から離れるはずがないと、高を括っていた。美亜を先に助けた時も、そう思っていた。だから後に雪乃の遺体を見ても、信じられなかった。あの瞬間、ようやく理解したのだ。雪乃が抱えていた全ての悲しみ、孤独、苦しみを。そして、愛の意味を。悟ってしまった。雪乃を殺したのは、他ならぬこの俺だっ
「この泥棒猫!他人の家庭を壊して!」貴婦人が美亜の頬を激しく張り飛ばし、蔑むような視線を投げて傲然と立ち去った。美亜は地面に落ちたバッグを拾い上げ、ふと私と、ついてきている二人の姿に気づく。「……藤原雪乃、生きてたの!」彼女は憎しみに満ちた形相で私を睨みつけた。「全部あんたの罠だったのね。偽装死だったなんて……せいせいしてるんでしょ!もう私、何もかも失ったわ!」私は冷ややかに見返す。「すべてはあなたの自業自得よ。私には関係ない」その言葉に、美亜が冷笑を浮かべる。その瞳が氷のように冷たく濁り、バッグから小さなナイフを取り出すと、突如として私へ突進してきた。「私が何も手に入らないなら、あんたも幸せになんかさせない!」咄嗟のことで避けられない――システムを呼ぼうとした、その瞬間。裕人が私の前に立ちはだかった。鈍い音がして、彼は私を強く抱きしめる。まるで、二度と失いたくないとでも言うように。「……今度こそ、絶対に離さない」その声が次第に力を失い、大きな体が崩れ落ちる。悲鳴が上がり、通りすがりの人々が美亜を取り押さえ、警察に通報してくれた。複雑な気持ちで裕人を見つめ、それでも見捨てるわけにはいかず、彼を病院へ運んだ。不幸中の幸いか、ナイフは脇腹を掠めただけで、命に別状はなかった。数日で裕人は意識を取り戻し、回復へと向かった。目を覚ました彼は、ベッドサイドにいる私の姿を認め、勢いよく身を起こそうとする。「雪乃!」私は淡々と告げた。「助けてくれてありがとう。でも、私はもう行くわ」システムが脳内で告げる。ミッションは完了した、いつでも現実世界へ戻れると。遊星が泣きじゃくりながら私の手を掴む。「ママ、どうして行っちゃうの!僕、いい子にするから!お願い、行かないで!」私はそっと、けれど強く彼の手を振りほどく。「遊星。人の心はね、一朝一夕で凍りつくものじゃないの。長い時間をかけて壊れていくの。もう母親として、あなたを愛することはできない。これからは、パパと二人で強く生きなさい」裕人の瞳から、最後の希望が消えていく。彼は自嘲気味に笑った。「……つまり、もう俺を許せないんだな?」私はきっぱりと振り返り、最後の言葉を残した。「許さない。永遠に」ゲートが完全に開いた。裕人が
裕人は自らに罰を与えるかのように、自らに過酷なノルマを課し、過労で何度も倒れては助手に付き添われて病院へ運ばれた。仕事という逃げ場に没頭し、遊星の面倒すらほとんど見なくなった。放置された遊星は精神的に荒れ、学校で次々と問題を起こすようになった。何度も保護者が呼び出されたが、裕人は「時間がない」と一度も顔を出さなかった。やがて親子の関係は、赤の他人同然にまで冷え切った。【彼らの感情の波動が負の方向に増幅し、世界線に深刻な影響を及ぼしています。このままでは、物語の結末を迎える前に世界そのものが崩壊します】システムがすがるような声で告げた。【しばらくの間で構いません。戻って彼らの感情を安定させてください。その間に世界のバグを完全修復します。ご安心を、長くはかかりません。今回のミッションには豊富な報酬をご用意しています】【彼らの脳には、あなたが「転生者」であるという情報をインプットします。そうすれば、死んだはずのあなたが戻ってきた理由も、すぐに受け入れられるでしょう】しばらく考えた後、私は渋々承諾した。私の命日。彼らが墓前に静かに立っているのが見えた。少し離れた場所に立つ私。彼らが振り返った瞬間、私の姿を認め、時間が止まった。裕人が固まる。亡霊でも見るようにその場に立ち尽くし、長い間我に返らない。遊星は弾かれたように私の名を叫び、駆け寄って腰に抱きついてきた。「ママ!ママ、やっぱり僕を捨てないって信じてた!帰ってきてくれたんだね。攻略者だとか転生者だとか、そんなのどうでもいい。ママは絶対僕を見捨てないって分かってたよ!」私は遊星をそっと、しかし拒絶の意思を露わに、突き放した。「遊星、私はもうあなたの母親じゃないの」遊星が信じられないものを見る目で私を見つめる。「ママ……まだ怒ってる?ごめんなさい、僕が悪かったって分かってるよ」裕人がふらふらと夢遊病者のように歩み寄り、目に涙を溜めて私を見つめた。「雪乃……帰ってきたんだな。帰ろう、俺たちの家に。家はまだそこにある。前と同じだ。美亜はもういない。もう誰もいないんだ」「ママ、帰ってきたならもう行かないでよ。学校のみんな、ママがいないって笑うんだ。ママの作ったご飯が食べたいよ」この二人を冷ややかに見つめる。私自身を恋しがっているというより、ただ
気持ちを整理し、数日自宅でのんびりと過ごした後、私は新しい仕事を見つけた。藤原家での時間、家庭に縛られ仕事はしていなかったが、自己研鑽だけは欠かさなかったからだ。現実世界で忙しく過ごすうちに、次第に遊星や裕人のことは記憶の彼方へと追いやられていった。きっと今頃、美亜と三人で望み通りの幸せな生活を送っているのだろう。仕事は順調で、あっという間に一年が過ぎた。そんなある日突然、久しぶりにシステムの無機質な声が脳内に響いた。【宿主様、緊急事態が発生しました。あの世界が崩壊の危機に瀕しています】理解できない。私が死んだことで、裕人と遊星の願い通り、美亜と結ばれたはずだ。なぜ崩壊などするのか。システムは仕方なく、私の死後にあの家で何が起きたのかを映像で見せてくれた。画面の中で、遊星はかつて私が手縫いで作ったクマのぬいぐるみを抱きしめ、ベッドで小さく震えていた。その目は虚ろで、生気が感じられない。そこへ美亜がドアをノックし、遊星に話しかけようと近づく。「遊星くん、もう三日も何も食べてないわよ。ママを失って辛いのは分かるけど、ちゃんと食べなきゃ」美亜の顔には、隠そうともしない、勝ち誇ったような笑みが張り付いていた。私の死を心底満足そうに眺めている。遠からず私の後釜に座り、正式な藤原夫人になれると信じて疑わないのだろう。その時、遊星が勢いよく顔を上げ、ベッドサイドにあったランプを美亜へ投げつけた。「ママは死んでない!嘘つき魔女!誰が入っていいって言った!出てけ!ママに会いたい!」泣き叫ぶ遊星。錯乱した子供の力加減などあるはずもない。美亜は額が割れ、血が吹き出した。彼女は憎々しげに遊星を一瞥し、忌々しげに部屋を出て行った。一人になった遊星は机の前に座り、古い日記帳をめくる。五歳になる前、彼がまだ私に懐いていた頃。私と一緒に過ごした毎日の記録が、拙い文字で丁寧に綴られていた。その歪んだ文字を見つめ、遊星は声を上げて泣きじゃくる。「……ママ、どこにいるの?僕のこと、もういらないの?」その姿を見ても、私はただ冷ややかに黙っていた。遊星。先に私を見捨てたのは、あなたじゃないか。美亜が額を押さえながら階下へ降りると、帰宅したばかりの裕人の姿があった。彼女は慌てて媚びるような声を出す。「裕人、おか