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……嫌だ。
嫌だ。
やめて。
痛い。
やめて。
放して――。
「いやああああああ!」
喉を引き裂くような悲鳴をあげて、私は突き飛ばされたような衝撃で目を覚ました。
遅れて、全身がびくりと跳ねる。
呼吸が乱れている。
夢だ。
でも、それを理解する前に、両手で自分の体を触っていた。
布の感触。
パジャマを着ている。
肌に触れるのは、柔らかな生地だけ。
周りを見る。
ベッドサイドの照明が、ナイトモードで部屋を淡く照らしていた。
胸の奥で膨らんでいた何かが縮む。
張り詰めていた感じがなくなると同時に、涙が出てきた。
止めようがなくて、流れるままにする。
夢だった。
押し寄せるのは、安心と、この現実から逃げきれないという絶望。
.
悪夢のような、でも現実にあった出来事。
あの夜から、二ヶ月。
忘れなければならない。
忘れてしまえ。
そう自分に言い聞かせ続けた日々は、いま思えば、少しだけ効果があった。
夜の暗さに対する恐怖は、ほんの僅かだけど薄れていた。
眠れる時間も、少しずつでも長くなっていた。
それなのに。
どうして今になって――。
「なんで……こんなことに……」
震える声が、静まり返った部屋に落ちる。
理由は分かっている。
分かってしまっているからこそ、それを否定したくて堪らない。
.
ずっと生理が来ていなかった。
忙しさやストレスのせいだと自分に言い聞かせていた。
でも。
頭の奥底で、ずっと警鐘が鳴っていた。
もしかして。
その思いがずっとあった。
そして、確かめてしまった。
ネットで妊娠検査薬を購入した。
念のために、二本。
妊娠検査薬は保険みたいに、ただ念のために確かめるつもりで用意しただけだった。
結果を見たとき、「やっぱり」と思ったから。
手が震えていた。
でも、一本目の妊娠検査薬には、朝の陽の光の中ではっきりと陽性反応が出ていた。
でも、「違う」って思った。
間違いだって。
祈るように。
こんなはずはない。
不良品に間違いないって。
だから夜寝る前に、もう一本を使った。
結果は変わらなかった。
妊娠している。
……ああ、嫌だ。
記憶の底に詰めこんでいたのに。
堰をきって、濁流のように押し寄せてくる。
◇◇◇
月のない夜だった。
小さな緑色の非常灯だけが光る部屋の中。
あの暗闇の中、私がはっきりと感じていたのは、他人の体温とその重さ。
むしり取るように乱暴に下着を奪われた。
聞こえるのは、獣の唸り声のような、理性を欠いた凶暴な呼吸。
逃げようとした。
逃げられなくて、叫んだ。
――煩い。
その一言のあと、大きな手で口を塞がれた。
怖かった。
恐怖に、喉が締めつけられた。
手が離れても、もう叫ぶなんてできなくて。
ただ願い事を呟くように、小さく「やめて」と繰り返すだけだった。
相手は男で。
自分は女で。
ホテルの部屋。
ベッドの上。
何をされているのか分からないほど幼くはなかった。
だからこそ、理解してしまって。
ただ、怖かった。
必死に足を閉じようとしたけれど、簡単に開かれた。
抗うほど押さえつけられ、自由は奪われていった。
そして、男は躊躇なく私の中に入ってきた。
押し込んでくるものに、体が引き裂かれるように感じた。
痛みと衝撃。
呼吸もまともにできないほどわけが分からなかったのに、体の中にあるものだけははっきりと認識していて。
あり得ない。
これは悪い夢だ。
そう思いたいのに、体の中が蹂躙される痛みが容赦なく現実を突きつけてきた。
.
揺さぶられ続けながら、何度も意識が遠のいた。
それでも気を失わなかった。
逃げたいという本能が、意識を繋ぎ止めていたに違いない。
いっそのこと、気を失ったほうが楽だったかもしれない。
憶えていることは断片的で、それも霞がかったように曖昧だ。
それなのに、痛みと感触は体に刻み込まれて、鮮明に分かっている。
何度も繰り返された侵入。
体の中に感じる異物感。
気色の悪い熱。
満足するような、生ぬるい息。
他人の身体の重み。
終わりは突然だった。
何度やめてと言っても止まらなかった男の動きが止まった。
次の瞬間、男の体が伸し掛かってきた。
押し潰される恐怖に反射的に男の体を押しのけた。
意識がなかったのか、驚くほど簡単に離れていった。
ただ逃げたくて。
這いずって。
ベッドから転げ落ちて、硬い床に体を打ちつけた。
それで少し冷静になれた。
まだ部屋は暗いまま。
何もない中で響くのは自分の呼吸音。
それともう一つ、これまでの暴力が嘘のような穏やかな寝息。
男は眠っていた。
そう理解した瞬間、感じたのは恐怖ではなく、今まで感じたことのない激しい憎悪。
殺してやる。
いま思えば信じられないけれど。
あのとき確かにそう思った。
自分を踏みにじった男を、このまま生かしておきたくないと思った。
けれど、やっていない。
私には男を殺す方法がなかった。
その覚悟を持っていなかった。
先の想像ができるっていいことだと思う。
私があのとき考えたのは、人を殺して捕まることではない。
殺せなかったときのこと。
殺しそこなったとき、この男はどうするか。
また同じことが繰り返されるかもしれない。
今度は殺されるかもしれない。
死にたくない。
その気持ちが殺意を押し潰した。
そのあとは、ただ悔しかった。
逃げることを選ぶ自分が歯がゆく、歯を食いしばりながら、床の上を手探りで靴を探した。
服は乱れていたものの、下着以外はほとんど身に着けたままだった。
剥ぎ取ったあと男がどうしたのか分からない下着を暗闇の中で探すのは諦めた。
乱れた服を整えた。
冷えた汗で湿った感触に吐き気がした。
全てを覆い隠すようにコートのボタンを留めた。
そこで初めて、コートすらも脱がされていなかったことに気づいた。
非常灯のおかげで出口は分かった。
扉に手を伸ばす直前、何かを蹴飛ばした。
自分の鞄だった。
それに気づいた瞬間、安心した。
スマートフォン。
財布。
逃げられる。
もうこの男に捕まることはない。
私は部屋を飛び出した。
◇◇◇
そして、いま。
あの朧気な夜は確かにあったのだと。
それが、私の中に存在している。
逃げたはずなのに。
現実だったのだと。
二ヶ月の時を経て、あの夜が追いついてきた。
【桔梗視点】「いいのか、あれ?」華乃の言葉に、視線をそちらに向けると、蓮司さんが大勢に囲まれていた。作戦通りだけれど、予想の倍以上の人の数が集まっている気はする。まあ、いいわ。「今はそれどころじゃないもの。カメラの準備はできた?」「……そろそろビデオカメラの操作くらい覚えたらどうだ?」「マニュアルは読んだのだけど、なぜか電源が入らないんだもの。せっかく蓮司さんが新しいのを買ってくれたのに」「まあ、そういうこともあるね……」含みがあるわ。でも問い詰めている余裕はない。「ターシャ!」これから愛息子の晴れ舞台。.誠司が紫色を基調にした大きな花束を持ってこちらに歩いてくる。蓮司さんによく似た張りのある声で会場中の視線が集まっているのに、その歩く姿は堂々としている。「さすが『結婚したくない男性ナンバーワン』だな、キラキラしてるよ」結婚したくない男性ナンバーワン。本来ならそれは悪い評価だが、誠司の場合は「高嶺の花過ぎて」という言葉がくっつく。.高校三年生の春。ターシャが一歩前に踏み出したとき、誠司も自分のやるべきことを決めたのか、変わった。真面目な子だから、それまでも習い事や部活に真剣に取り組んでいたけれど、鬼気迫っていた。大学に合格すると同時に、武司さんの補佐という形で蓮司さんにくっついて回り、桐谷の後継者として表舞台に立った。そして、「まだ10代の子ども」を理由に婚約話を断れるうちに、母親の私でも驚くくらい、理想的すぎる『桐谷誠司』になった。誠司が20歳になるのを待って、娘や孫を婚約者に推そうとしていた家はたくさんあったけれど、その娘や孫が誠司との婚約を嫌がった。あんな完璧な人の隣に立つ自信はない、と。誠司が完璧だと家族の誰も思っていないけれど、誠司は外で完璧に振る舞っている。壊滅的な料理の腕前でさえ、なぜかプロ級の料理が作れると思わせるほどの虚像。母親としては睡眠時間を削って努力する姿に心配もしたが、目標もあって、目標達成すれば気が抜けるのだからと、誠司に協力してきた。機は熟した。完璧な誠司は、花嫁選びも間違えないと言われている。誠司が選ぶ花嫁も完璧に違いない、と。.「おめでとう!」「ありがとう」誠司は嬉しそうに笑うと、持っていた大きな花束をターシャに渡す。周囲がざわめく。なぜなら、誠司は誰にも
【蓮司視点】「皆様、本日は私たち桐谷グループが主催の共同展にお集まりいただき、誠にありがとうございます」マイクを通しても凛とした桔梗の声が会場に響く。傾聴せよと言ったわけでもないのに、会場中の人たちが、スタッフさえも、ピタリと止まり桔梗を見る。桔梗は石川先生とターシャ、そして技術スタッフを順に紹介していく。この場にいる者たちが求めている言葉は、人間国宝というネームバリューがある石川先生の言葉。それを分かっている桔梗は、普段よりは畏まっているものの、石川先生との仲の良さが伝わってくるやりとりをする。茉白が花嶺家を継ぎたいと言ってから、その正当性を疑われないように、二人は話し合ってDNA鑑定を行った。それに加えて、石川先生と桔梗の母親である明美さんがかつて恋仲であったこと、先生の代表作である『四連花』のモデルが明美さんであることも公表している。ただ鑑定結果だけを公表すればいいと思ったが、次はとても親しい男女の仲だという邪推されると石川先生に言われた。マスコミは煽るだけ煽られればいいというスタンスで、相変わらずいい加減だ。.「私はこのナターシャを幼いときから知っていて、この子なら私のやりたいことを理解し、私も考えなかったものを見せてくれると思った」石川先生が頷く。「コネというならその通り。チャンスは平等ではない、世の中は不公平が溢れている。その点、こういう場でよく使われる『知る権利』は面白いね。今ここで私が言っていることは、マスコミの方々を通して、知りたがっている人たちに公平に届けられる」石川先生が苦笑する。「しかし、受け取った人が正しく、公平な目で情報を判断するかは分からない。そこまで責任は取れないと言いたいだろうが、私がこのプロジェクトを発表した当初は、老いらくの恋とか、色ボケした巨匠とか、散々叩かれたからね……女子高生とタッグを組むのだからそう言われても仕方がないと思いはするが、私がこの子を孫のように可愛がっていたことは、簡単に調べれば分かるのになぜか報道されなかったね」プロジェクトの始まりを石川先生は皮肉げに語る……巨匠だから許されるような発言だな。「私が最も誇りに思うのは、私たちの作品が認められたからではない。周りから何を言われても自分を信じ、色を、自分の表現を変えなかったナターシャ。そして芸術と科学という水と油のような関係
【武美視点】「自分の価値を下げずに、婚約の打診をなくすとはね」すごくやりにくい部下に悩む武司に笑っていると反対側、武司の向かいから大きなため息が聞こえる。「お兄ちゃんのせいで、私まで完璧超人に思われてんだけど」そうやって憤るのは、誠司の妹の茉白、大学2年生。桔梗さんに瓜二つの美少女だが、中身は雅美小母さんゆずりのアマゾネス。蓮司の妹の朋美に言わせると、桔梗さんも中身はアマゾネスだから、桔梗さんに中身も外見もそっくりということになる。茉白は大学で経済学を学び、長期休みは雅美小母様にくっついて世界中を巡っている。桔梗さんの生家である花嶺家を継ぎ、いまは桐谷グループ預かりの花嶺家の事業を管理することを目標としている。「お婿さんがもらえなかったら、お兄ちゃんのせいなんだから〜」「茉白の場合、蓮司の反対がうるさそうだけどね」「大丈夫」茉白はニヤリと笑った。「料理上手を選ぶから」「良い手ね」桐谷家にどうしても足りないもの。それを補う完璧な人選だ。いや、人ではないから職かしら。.「今日、莉乃はどうしたの?」茉白の三歳下の莉乃。「莉乃はカノンさんのところでバイト」「こんなときに?」「こんなときだからだよ」◇◇◇【乃蒼/華乃視点】ホテルの重厚な絨毯の上に、今回の展示のために特設された真っ白なホワイトキューブが整然と並んでいる。この異空間をミリ単位の狂いもなく立ち上げることが、会場責任者である私の仕事だ。これまでやってきた仕事、築いてきた人脈はこのためだったに違いない。「莉乃、空調、もう一度確認して」「室温22度、湿度50%で、ホテルの担当部署に連絡済みですぅ」莉乃のおっとりした口調と、私の先を見て行動してくれる頼もしさに体からこわばりが抜ける。莉乃は桔梗の下の娘で、父親似のきりっとした美人系の顔立ちに、ふわふわっとした癒し系女子。あの体育会系メンタルの桔梗から、よくこんな妖精みたいな娘が生まれたと思う。何かが振り切ってこうなったとしか思えないふわふわ感だかど、仕事にはストイックなほどひたむきで、さすが桔梗の娘だと思う。この会社を欲しいので継がせてくださいと言う図々しさも桔梗の子ね。.「ありがとう、莉乃」「美術品のコンディションは、空間の空気が大事だもん。ターシャ姉様の作品群に、万が一の結露や乾燥も許されない
【武司視点】「改めて、桐谷誠司です。よろしくお願いします」頭を上げて、室内を見渡すのは、全くフレッシュさのない新人。蓮司の息子の誠司。「それでは、仕事を始めますね」大学受験が終わって早々、高校卒業前から見習いで働いていた秘書室だから、勝手知ったる態度。指示するはずだった仕事もちゃんと見つけ、パラパラと内容を確認しながら自分の席に着く。秘書室の今年の新人は誠司だけ。未来の当主夫人を夢見る女が配属されて、誠司に粉などかけることなどないように、桔梗さんがぶっとい釘を差していった。会長の和司小父さんも、社長の蓮司も、桔梗さんにがっちり胃を掴まれているから逆らわない。そういう俺もだけれど、うちの場合は妻が桔梗さん至上主義だから、そっちからの圧力で逆らえない。「桔梗さんがどんどん和美祖母さん化してるんだが……」「それでみんな喜んでいるからいいではありませんか。あ、おじさん。この手紙の返事、俺が書きますね」当たり前だ。書の人間国宝に直筆で返事を書きたいなんて誰も思わない。俺から見て綺麗だと思っていた蓮司に返ってきた、彼の79歳の誕生日パーティーへの出席の返信のそのまた返信。【夫婦で出席させていただきます】このたった14文字が、びっしりと隙間なく赤で修整されていた。あの手紙はまだ忘れられない。その彼から誠司は書を習った。弟子にと請われるほどではなかったが、「筋がいい」と褒められ、誠司は幼い頃から字が上手く、学校の書道展では何度か入賞している。こんな感じで、文化界の方々が適度に手ほどきし、なんとか道を誠司ないろいろ齧った。その結果、誠司は天が二物どころか色々な才能を与えてしまったかのような22歳になった。まず目を引くのは、若々しさと大人の色気が危ういバランスで同居する、蓮司ゆずりの端正な容姿。だが、彼の真の「完璧さ」は、桔梗さんゆずりのその内実にある。名門大学を卒業し、在学中から父親の傍で次期後継者として注目され、社会にその名を知らしめている。祖母である雅美小母さんや俺の姉の武美が面白半分に教えた、英語、中国語、フランス語をネイティブレベルで操り、日常会話ならあと数カ国いけると言っている。そうして、海外の投資家とも対等に渡り合う彼の知性は、周囲の同世代がまだ進路に迷う中で、圧倒的な隔絶を感じさせるに十分だった。さらに恐ろしいの
ナターシャが遠くなる。そんな予感と、なんとなくの確信。俺が、自分でも、かなり驚くくらい自然に出た。ああ、これは、当たる。ナターシャは、遠い存在になる。距離の話、ではない。物理的な話、でもない。手の届く範囲から、手が触れられるところから、離れていく、外れていく。そして、一年後は?今はまだ、同じ学校に通って、同じ時間を過ごしている。でも、いずれ、別々になる。違う世界の中で、生きるようになる。そのとき、自分は——隣に、いられるか?胸の奥が、鈍く痛む。情けない、と思った。俺のほうが、一歳上というだけ。先に大学生になるだけ。痛感させられた。ナターシャは、俺の隣に立つために前に出たのかもしれない。でも、その結果は、恐らく……もしかしたら、ナターシャは俺では足りなくなるかもしれない。俺は、その結果を怖がっている。「……ほんと、ダサいな」苦笑が漏れる。苦笑が反響して、俺の自嘲的な笑いが、世間が俺を嘲笑う声に聞こえる。「ダッサいし……小さい!」ダサいことは、本当に思っていること。これが俺の本音だ。俺の、今の、限界なのだろう。でも、できるだろう?俺は、ナターシャを手放したくない。ナターシャを、誰にも渡したくない。ナターシャの隣は、自分のものだと、俺が、そう思わないでどうする。思っていたんだ、なんてあとから言っても意味はない。それこそ、ダッサい。いまさらって、取り返しのつかない事態になってから、「実は」なんて言っても遅い。ナターシャは俺のものだと、言い続けなければ意味がない。身の程知らずだと言われようと、言ってやる。それに、いま、身の程知らずとどれだけ嘲笑われようと、それを黙らせられるだけの力をこれからつければいい。親の七光り?それなら、それ以上に光って見せればいい。父さんと母さんを目標にして、その一歩先にいけばいい。目標が明確ならば、それだけやりやすいってものだ。いま、いまの俺では届かなくなるから手を引っ込めるなんて、自分が傷つきたくないだけ。それじゃ、ダメだ。小さくなるな。ナターシャは、自分の人生を生きるために、出た。そこに、ナターシャの行く先に、俺がいけばいい。遅れたなら、走ればいい。そのとき、そこに、自分がいるために。順番を間違えるな。「ふう……」スマホの画面は、もう違う動画を映
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